ブラジルの未来を切り開く日系人経営者(48)(上)(下) 和田 好司 会長
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上記は、サンパウロ新聞社とカンノエージェンシーの共同ワークで企画制作されている日系コロニアの著名な経営者を選びその生き様、業績を書き残す事を目的に110年に渡るブラジルにおける日系人の経営者(社長)を対象にしたそれなりの経営者本が、1冊も発行されていないことに気付いた菅野英明代表がサンパウロ新聞の鈴木雅夫社長と共同制作としてブラジル日系人経営者50人の素顔―上巻を2015年10月に発行しており今回その後編として取材しておられるとの事で光栄にも取り上げて下さったものです。正直言って『ブラジルの未来を切り開く日系人経営者』に選ばれる資格はないと思っていますが、1962年5月にあるぜんちな丸第12次航の同船者681名と共に着伯、54年をこの地に懸命に生きて来た戦後移住者の一人として取り上げて頂いた事を素直に感謝して菅野記者の目で見た和田の記述を残して置けるのを喜びたい。
2016年5月17日、18日 サンパウロ新聞掲載
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天命だった伯日間の懸け橋づくり
周囲を絆と同心円で取込む人間力
さわやか商会 和田 好司 会長
戦後移民の同船者仲間が立ち上げたホームページ『わたしたちの50年』、『わたしたちの40年』のアクセスヒット回数が累計で410万件を超えた人気サイトになっている。1962年の移民船「あるぜんちな丸」で船内新聞『さくら』を発行し、編集責任者だったのが和田で僅か22歳の時である。この船内新聞を発行していた8人の編集員が中心になり、40年後の特別号発行の企画から発展した『私たちの40年』のHPを02年に開設した。
これは資料や写真などを同船者816名全員の資産として共有し、後世に残して行く事を目的としたものだった。現在では50年を超えたことで『わたしたちの50年』というHPブログを新たに開設させており、同心円の絆が50年以上も続いていることは驚きでもある。
このブログの責任者である和田は62年に学生の身分でブラジルに移民した学生サムライで、移住生活は今年54年目を迎えた。その発想や手法には現実直視型の一貫した実践力と行動力がある。サンパウロから南に1000キロ、住んでいるブラジル最南端のリオグランデ・ド・スル州の州都であるポルトアレグレから、ブラジルと世界に向けた旺盛な情報発信力と社交術で、縁のあった人々を取り込む天性の力量を持っている。
同時に家庭重視の個人商店である『さわやか商会』の会長として熱烈な家族愛を持つ情熱パパでもある。神戸で少年時代から移民船に乗る日本人が行き来する移住坂と移住センターは日常の1部だった。それがブラジル移民になる原点だった。文明開化の明治時代以降、外国船が往来し進取の気風が旺盛だった開かれた港町・神戸の気質をいまに伝える数少ない1人といってもいいだろう。
その和田は40年に神戸で生まれ育った生粋の神戸っ子。多感な青春時代を過ごし、58年に神戸高校を卒業し、59年に早稲田大学第1政経学部政治学科に入学した。これが95年まで続いた変転著しいドラマチックな和田の人生劇場が始まった瞬間だった。
60年安保世代として安保反対の学生運動で活躍したが挫折、国会議員、つまり赤絨毯を目指した政治家への道を断念した。その直後に早稲田祭で出会ったサークル『海外移住研究会』に所属し一転して海外雄飛に奔走する。同期生であり盟友だった谷広海(ブラジルに移住し日本語センター理事長を務めたが逝去)らとともに、「移住思想啓蒙遊説」の名のもとに九州各地の農業高校・工業高校・水産高校の生徒たちを相手に、海外移住の意義と目的を3週間かけて説き続けるなど、情熱と若いエネルギーが迸っていた。
この真っ只中の62年に2年間休学して『あるぜんちな丸』第12次航で東京都の農業移住者としてブラジルに居住した。64年には大学卒業の為に一時帰国し、復学、65年3月に卒業。その直後の4月にはブラジルに再渡航したという慌ただしい型破りの学生だった。
ブラジルではサンパウロから1750キロ離れたゴイアス州(現トカンチンス州)の日系人も全くいない山奥で毎日バナナとピラルクーを食べながら日本人移住地を作る目的で牛飼いの生活を始める。3年後の1967年には30頭まで増やした。しかし移住地つくりは失敗し牛飼いを断念、リオのイシブラス(石川島播磨造船所)に勤務しながら夜学の予備校に通う。68年にはポルトアレグレの日本国総領事館に政治、経済、移住担当の現地補助員として勤務。70年ポルトアレグレカトリック大学法学部に入学し74年卒業、75年にリオグランデ・ド・スル州で弁護士資格を取得した。和田の人生を支える「諦めない根性」が見事に証明された時だった。
74年には丸紅ブラジル社のポルトアレグレ出張所開設に合わせて最初の現地社員に採用されたが、その直後から連日、朝昼晩が商売で日が明け暮れる猛烈商社マンに変貌し、猛者揃いの並みいる日本からの駐在員の度肝を抜いている。「1番面白い時代だった」と輝きのある目が語る。
4年後には35歳で本社社員と同格の待遇で出張所長に昇進した。「繊維、物資、食料、化学品、鉄鋼、機械、開発の7営業部門の仕事を1つの机の上で取り組め退屈する暇がないほど仕事漬けの毎日だった」という。食料では大豆のFOB売買で大儲けもしている。そして1991年からは同社の現地役員まで上り詰めた。(文責 カンノエージェンシー代表 菅野英明)(つづく)
家庭回帰のための依願退職
強靭な意思の強さが原動力
さわやか商会 和田 好司 会長
しかし21年間にわたり身も心も捧げ続けた会社だったが、55歳になった1995年9月に依願退職した。理由は仕事尽くしの人生から家庭回帰の人生へという男の決断だった。そして95年10月に『さわやか商会』を家族と共に設立現在に至っている。ブラジルの大地で逞しく生きる和田の人生を振り返ると、本人の持って生まれた人間力に支えられた、抜きん出た突破力と開拓力、そして行動力は、戦後のブラジル移住者の中でも異質の光を放すものといってよいだろう。
その和田にとってブラジル移住の際にはこうした話もあった。父・枡三、母・久子との間の4人兄弟の次男として生まれたが、親、特に母親に反対された。その理由は「兄が大手総合商社に勤めていたのでせめてそこの入社試験だけでも受けてほしい」と死期が近づいた母に嘆願されことだった。「私は母の言葉を無視して渡航したがその年の12月に母が亡くなり、以後18年間敷居が高く帰国しなかった」という。ブラジル移住を親から反対されても「人生の選択は誰に止めることもできない」と毅然として語るそこには強靭な意志の強さが内在していた。
少年期の思い出として、父は「子供はほっといても育つのであり、私が家出し野宿した際には慌てる女中にお前が探しに行く方が心配だ。好司はほって置けばよい」と言い切ったという。母は「手広くサービス業を経営していた。酒が好きで飲み過ぎたため肝臓を患い早死にしたが豪傑肌の姉御気質だった」。「私は母の事業力、父の呑気さ(101歳で天寿全う)のDNAを受け継いだと思う」と自分の陽徳人生を語っている。
55歳から第2の人生を歩く求心力になっている「さわやか商会」は、社名のさは3女・小百合タチアネ、わは和田、やは長女・弥生エリーゼ、かは2女・茜クリスチアーノからそれぞれ1文字とってつけたもの。
大阪生まれの妻で準1世の恵子はリオグランデの連邦大学UFRGSでケミカルエンジニアリング担当教授を勤め、リオ連邦大学で博士号を取得(工学部系の博士号を持つ日系女性は極めて少数)した。07年から年金暮らしで、孫相手や、一軒家で170平方mの恵子の遊び場『アトリエ・和み』を持つ芸術家でもある。趣味の書道、水墨画、陶器などの創作で悠々自適な生活を過ごしている。
昨年の創業20周年を節目に社長は恵子の妹でもある西村リリアに譲った。商売は継続している日本製鋼所の代理店、EPCOS向けに日本の日本高度紙の絶縁紙販売、化学品関係の輸入などを行っており、全て目の届く範囲の経営に徹している。「社員がいるわけではなく、いつ諦めても誰にも迷惑をかけずに済むので、『お父さんの元気な遊び場所』と言ってくれた3女の小百合の言葉通り毎日せっせと歩いて会社に通っている」ことが日課になっている。
家族愛に支えられたブラジル和田家を創設し、来年1月2日に77歳の喜寿を迎える和田は自主独往の人生を貫き通している快男児で、いまもブラジル移住に悔いなしの心境だろう。地域とともに一体化して生きている和田は南日伯援護協会顧問弁護士、南伯日本商工会議所元会頭、ベレンノーボゴルフクラブ元専務理事、同審議会副会長など地域密着の公的役職も経験している。
和田は取材の最後に「80歳までに4000万歩歩くことが目標」(1日当たり2万歩)と結んだ。人生の半分以上をポルト・アレグレの赤土とともに48年間暮らしており、日系コロニアや在留邦人からは同地の生き字引として恵子夫人とともに頼りにされる稀有な存在になっている。官と民を体験しそれを活かしている本物の志ニア(シニア世代)の意気高しである。(文責 カンノエージェンシー代表 菅野英明)(おわり)
2016年5月18日付
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