HOME  HOME ExpoBrazil - Agaricus, herbs, propolis for health and beauty.  Nikkeybrasil  編集委員会  寄稿集目次  寄稿集目次  通信欄  通信欄  写真集  リンク集  準会員申込  em portugues




桜井悌司さんの『ブラジルを理解するために』(その1-その4)
桜井悌司さんは、2003年11月から2006年3月まで2年5ヵ月JETROのサンパウロ・センター所長として勤務されており、ブラジル駐在時は、直接色々お世話になりこの40年‼のホームページにも色々投稿頂いている。帰国、退職後は、関西外語大学の教授を勤められ、関西に単身赴任されていましたが、現在は、日本ブラジル中央協会常務理事として東京で活躍されている。今年4月、訪日時に東京OFF会でお会いした時に特にお願いして機関紙に書いておられる原稿を50年‼メンバーの皆さん宛に使わせて頂けないか相談した所、快く提供して下さることになり現在週一で紹介させて頂いています。その1−その4を今回纏めて40年‼ホームページに残して置くことにしました。写真は、桜井さんの近影です。


連載エッセイ1
ブラジルを理解するのは何故難しいのか?−距離感と面積
執筆者:桜井悌司(日本ブラジル中央協会常務理事)

ブラジルやブラジル人を理解するのは容易なことではない。ブラジルは大国である。人口は2億人で世界第5位、面積も同じく世界5位である。一人あたりのGDPは12,000ドルに満たずまだまだであるが、国単位では世界で堂々第7位の経済大国でもある。さらにブラジルは、世界一の日本人移住者受入国であり、150万人の日系人が住んでいる。日本にも19万人にも及ぶ出稼ぎの人々がいる。これだけの条件がそろっていれば、ブラジルの知名度、理解度がもっと上がってもしかるべきだと考えるが現実にはそうなっていない。何故なのであろうか?様々な理由が考えられよう。誰もが考えるのは、日本と地理的に大きく離れているからという理由である。日本と同様ブラジル政府が自国の広報に力を入れないという理由もあろう。ブラジルは、多人種・多民族によって成り立っているので、ほぼ単一民族の日本人にとって理解が難しいということも考えられる。またブラジルの既成のイメージが強すぎて、その先に進まない。所謂コーヒー、サッカー、カーニバルの域からなかなか抜け出せないのである。私のサンパウロ駐在時代に、この既成のイメージといかに戦ったかについては、次回以降に紹介したい。
ブラジルは実際に見ないとわからない国とよく言われる。私もその通りだと思っている。私は距離感と面積についていつも考えている。2年以上駐在した国は、スペイン、イタリア、メキシコ、チリの5か国であるが、距離感と面積について体験したことを紹介したい。私の独断と偏見に基づくものである。日本で「遠い」という感覚を持つのは、30キロから50キロだと思う。例えば、東京から横浜に行くとなるとやや遠いという感覚を持つ。これが、スペインやイタリアだと50キロから100キロ、チリやメキシコとなると、100キロから300キロ、これがブラジルとなると、500キロから1,000キロだと「遠い」という感じであろう。
駐在中の大きなビジネス案件の一つは、エタノールの対日輸出であった。ご承知の通り、ブラジルのエタノールの生産性は世界一である。車もほぼフレックスカ―で、ガソリンとエタノールの両方が自由自在の配合で使用できる。エタノールは環境に優しい燃料なので、日本でもガソリンの中に一部混入するという計画があり、日本から多数のミッションが訪伯した。その都度、UNICAと呼ばれるサンパウロ州のサトウキビ・エタノールの生産団体を訪れ、カルヴァーリョ総裁に何度も面談した。総裁とは、ジェトロが招待したこともあり、親しくさせていただいたが、彼は、私に「どうして日本から沢山の異なるミッションがやって来て、同じことを質問するのか」と尋ねたものであった。日本の関心事は、ブラジル側が、日本に対しエタノールを安定的に供給してくれるかという点に尽きた。ブラジル側から言うと、「注文もしないのに質問ばかりする」と思ったに違いない。彼は、「もし注文してくれれば、何とでもできる。ブラジルには、まだ耕地面積が多く残っており、何の心配もいらない」と言う。確かに米国や中国には耕地面積は残っていないが、ブラジルにはまだ20数パーセント以上も残っているのである。私もブラジル側の言うことを半信半疑であったが、一度はサトウキビ畑を見るべきと考え、サンパウロ州ヒベロン・プレット市に出かけた。驚いたことに、車で1時間くらい走ってもまだ道路の両側には、延々とサトウキビ畑が続くのである。ブラジルは見ないとわからないということを本当に実感した瞬間だった。ミッションのメンバーには、サンパウロ市ばかりではなく、サンパウロ州やパラナ州等の産地を見るべきだと思ったものであった。
話は変わるが、ブラジリアに行かれた方も多数おられると思う。1956年にクビチェック大統領により建設が開始され、60年に遷都したものだが、ブラジルのほぼ中心にある。ベネズエラ、コロンビア、ペルーなど国境の接するブラジルの州には、ブラジリアを経由して出かけることになるが、都市によっては、サンパウロから7時間もかかるところもある。私も当初、ブラジリア遷都の重要性を十分に理解していなかったが、ブラジリアを経由して多くの州に出張している内に、何故クビチェック大統領が何もなかったブラジリアに遷都したのかが明確に理解できるようになった。距離を克服しようとするブラジル人の執念がわかるようになったのである。
狭い日本に住んでいると広大な面積を持つ国の人々の発想を理解することは至難の業である。一般的には、大国の民は小国の民より大きな発想ができるものと思われる。日本人がブラジルのような圀や国民に対処するには、現地に足を運び、距離感をつかむことが必要である。
2015年9月上旬
写真 セラードの大豆畑
写真 サトウキビ畑とエタノール工場


連載エッセイ2
ブラジル水滴論
執筆者:桜井悌司(日本ブラジル中央協会常務理事)

最初にブラジルを訪問したのは、1973年3月であった。サンパウロ日本産業見本市組織のための出張である。その当時から、ブラジルとは何か、ブラジルを一言で表現するとどのようになるのかということを考えてきた。結論を先に言えば、ブラジルは、「水滴」ようなものであるという「ブラジル水滴論」である。ブラジルは、今や2億人に達しようとする世界第5位の人口大国である。1973年当時の人口は、もっと少なかったがそれでも大変な大国であった。ブラジルは移民の国である。1500年にポルトガル人のペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルに到達し、ポルトガル人が植民した。その後、労働力不足を解消するために、アフリカから奴隷を連れてきた。その後は、さらなる労働力を獲得するために、欧州から、イタリア人、ドイツ人、スペイン人、フランス人、ユダヤ人、レバノン・シリア人等々がブラジルに移住した。不思議なことだが、ブラジルはすべてのことを「ブラジル化」してしまうのである。最初の植民者であるポルトガル人を「ブラジル化」したのを皮きりに、イタリア人、ドイツ人、フランス人、レバノン・シリア人、日本人等を次々と「ブラジル化」したのである。具体例には食事や料理で説明すると分かりやすい。ブラジルのイタリア料理とアルゼンチンのイタリア料理を比較するとアルゼンチンに軍配を上げる人が大多数であろう。アルゼンチンはイタリア系の移住者が大多数を占める国であるためイタリアの影響が強い。名前を見てもイタリア系だとわかる苗字が多い。サッカーのワールドカップ出場の選手のリストをみても、苗字が「i」で終わる選手が多い。彼らの出身国であるイタリアに敬意を表するせいか、イタリア料理のエッセンスを大いに尊重している。イタリア料理の本来の味が守られているのである。これに反して、ブラジルのイタリア料理はとても褒められたものではない。値段が高い割に、味が今一というより悪いと言った方が良い。スパゲッテイ等のパスタを注文してもアルデンチンの味には遠く及ばない。ブラジルの日本料理も同様である。私が駐在していた2006年初めには、サンパウロにおける日本レストラン数は600軒(今は1000軒か?)と言われていた。有名な日本レストランである「ランゲツ」の日本人シェフは、日本料理のエッセンスを守っているレストランは、600軒の内せいぜい10軒でしょうと言っていた。そう言えば、すしを大量のしょうゆ(それもブラジル製の甘いしょうゆ)にどっぷりつけたり、ブラジル風やきそばを開発したり、サケピリーニャと呼ばれる日本酒カクテルをつくったり、全く自由自在である。イタリア料理のエッセンスも日本料理のエッセンスも気にせずブラジル流で通すのである。人間もすべてブラジル化する。イタリア系もドイツ系も日本系もすべてブラジル化するのである。ドイツ移民にしてもイタリア移民にしても日本移民にしても当初は、それぞれのコミュニテイで自国の言語を守って行くが、3世、4世、5世になると出身国の言語が話せなくなり、ポルトガル語だけというケースが多い。この大らかさ、天真爛漫さが、駐在員の中でブラジルに永住を決意する理由と思われる。               2015年9月下旬
写真 サンパウロ移住博物館
写真 サンパウロ移住博物館内の各国人形の展示

連載エッセイ3
ブラジルとブラジル人を日本人に理解させるには
執筆者:桜井悌司(日本ブラジル中央協会常務理事)

2003年11月から2006年3月まで、ジェトロ・サンパウロ・センター所長としてブラジルに駐在した。本稿は、コミュニケーションにまつわる小さなストーリーである。
2005年、中国の胡錦濤主席がブラジルを、2006年にはルーラ大統領が中国を相互に訪問した。多くのプロジェクトが花火のごとく打ち上げられた。その時、筆者は、ブラジル人と中国人は非常に似通った国民性を持っているという印象を持った。@両国民とも経済的というよりむしろ政治的にものを考える。A戦略的発想を大切にする。B万事大きいことが大好きな国民。C小さいことは後回しにし、大きいことで合意する。D万事決断が速い、E考え方、行動様式が法治主義というより人冶主義等々である。たぶん両国の国民にとってお互いに理解することはそれほど困難ではないのだろう。
ブラジル・シンパの日本人、ブラジル人を理解する日本人にとって最大の頭痛の種は、どうすれば東京本社や大阪本社にいる日本人にブラジルのこと、ブラジル人のことをうまく伝え、わかってもらえるかであろう。ブラジルは、日本の面積の23倍と広大である。そのダイナミズムも日本人にはなかなか理解できない。その1で、エタノールの対日輸出にまつわる日本人とブラジル人の意見の食い違いを紹介し、ブラジルは実際に見ないとわからないということを書いた。
もう一つの私の身近な経験から、この問題を考えてみよう。駐在中に時々、ブラジルの個人からプロジェクトの合弁相手を探して欲しいという相談を受けた。その個人は通常、超大金持ちで、案件の内容を聞くと、これまたものすごく壮大なプロジェクトなのである。私自身、ある程度、ブラジルのこと、ブラジル人のことをわかっているので理解はできるが、問題は、東京本部と合弁事業に関心のありそうな企業にいかに説明し、納得してもらうかである。一見簡単そうに見えるが、これが至難の業なのである。まず、日本のような企業社会では、個人が相手というのはありえない。いくらその個人が立派な人で財力や信用力があると言っても信じない。なまじ、ジェトロ本部を説得しても、合弁候補企業を説得できないのである。ここで理解できることは、日本は企業という組織万能であり、個人という言葉は日本人や日本企業の辞書に存在しないのである。中国であれば、華僑ビジネス等の伝統があり、個人の力量が重視されるし、ブラジルもしかりである。プロジェクトの内容をみれば、日本人の想像もつかない壮大かつ奇想天外とも言えるもので、日本人の想像力をはるかに超えている。しかも計画や資金計画の詳細はなく、これから一緒に考えようというような案件が多い。このような場合、中国人であれば、プロジェクトの内容が興味あるものであるかどうか、案件を持ってきた人が信用おけるかどうかという2点を最初に考えるものと思われる。日本人は、そういった考え方ができない。個人、壮大すぎる案件、詰まっていない案件というだけで検討案件にならないのである。仮に企業の担当者が乗り気になったとしてもできの悪い上司が案件潰しにかかり、重箱の角をほじくるように詰めまくることになり、案件は最終的にボツになる。
両国首脳の相互訪問の際に、中伯間で打ち上げられたプロジェクトの進捗状況をみるとほとんど実現されていないようである。それに反して小泉首相とルーラ大統領の相互訪問では、目立ちはしないが、堅実なプロジェクトが合意され、着々と実現している。どちらがいいかは一概には言えないが、グローバル・スタンダードの観点からみると、ブラジルや中国のやり方により普遍性が見いだせる。今後日本人がブラジル、中南米や世界とのビジネスで勝ち残っていくには、クリアーすべきことが多い。
 まず最初に、組織ビジネスも重要だが個人ビジネスもそれに劣らず重要な場合があることを理解すること。第2に戦略的に考える習慣をつけること、第3に、プロジェクトの重要性をまず考え、細目は後で徐々に解決するようにすること、第4にチャンスを逃がさず迅速に決断できるようにすること、最後に私の持論であるが、「ブラキチ・アンチ―ゴ」から「ブラスキ・ノーヴォ」に脱皮することである。ブラジルは魅力あふれる国なので多くの日本人が魅了され、あばたも笑窪的に熱愛することになる。人間だれでも熱愛すると何も見えなくなり、他人を説得できない。昔風のブラキチから「ブラジル好き」、より正確に言うと「ブラジルを嫌いでない」という新しいタイプの日本人ビジネスマンが生まれ、日本人にブラジル人の真髄をうまく理解させ得るような人材の出現を期待したい。
(2010年2月執筆したニッケイ新聞用原稿を加筆訂正したものである)
                     2015年10月上旬
写真 パウリスタ通りのFIESP(サンパウロ産業連盟)ビル

連載エッセイ4
イタリアを知ればブラジルもわかる
執筆者:桜井悌司(日本ブラジル中央協会常務理事)
 ジェトロ・サンパウロ所長として、2003年11月に赴任した。ブラジルには、それまで10回以上出張していたが、駐在は初めての経験であった。当初の予想に反して、極めてスムースにサンパウロ生活に融け込むことができた。その理由を自分なりに考えてみたが、イタリアのミラノ駐在経験が役立ったというのが結論である。ブラジルは2億人を超える人口を持つ世界第5位の人口大国であるが、移民によって成り立っている国である。数多くの移民の中で、一番多いのがイタリア系移民なのである。友人のイタリア貿易振興会のサンパウロ事務所長に言わせれば、8分の1の血の交わりまで入れると4,000〜5,000万人くらいになると言う。日系人も150万人くらいと言われているが、同じ計算で行くと4〜500万人になろう。サンパウロの名物建築を見てもイタリア系の建築家の設計によるものが多く、ブラジルのショッピングセンターに行くと、店舗のデザインや色使いは極めてイタリア的である。ファッション、ライフスタイル、あげくは、人々の明るさ、楽観主義、モノの考え方までイタリア人によく似ている。容易に融け込めたのはそのためである。
イタリア移民が本格的に始まったのは、1820年で、その後1837年にも移住の大きな波があった。1887年から1920年にかけて外国人移住者のラッシュを迎えるが、その半分以上がイタリアからの移民であった。サンパウロにはイタリア系がたくさん住んでいる居住区がある。例えば、ブラス、ベシーガ、ボン・レチロ等界隈である。イタリア人設計による建築も傑作が多い、例えば、トマソ・ベッツィによるイピランガ博物館、セントロにあるマルティネッリ・ビルやエジフィシオ・イタリア(イタリア・ビル)はパウリスタの誇りである。市立劇場(テアトロ・ムニシパル)、市立市場(メルカード・ムニシパル)やサンパウロ州立美術館(ピナコテカ)を設計したラモス・アゼヴェドの設計事務所には多くの優秀なイタリア系建築家・デザイナーがいた。絵画の分野でもイタリア系の活躍はめざましい。ピナコテカに行くとカヴァルカンティ、ポルチナッリ、アニータ・マルファッティなどの作品が所狭しと展示されている。経済分野でも一世を風靡したマタラッゾ財閥もイタリア系であるし、政治家、経営者、スポーツ選手も輩出している。食文化の面でも、ワイン、さまざまなチーズ、ルッコラやズッキーニなどの野菜、オリーブなどイタリアがブラジルの食生活の充実に与えた影響は計り知れない。イタリア・レストランもサンパウロにはたくさんあり、値段も高級である。
一方アルゼンチンやウルグアイをみると、イタリアン系がスペイン系を押しのけ、乗っ取った感があるし、チリでもイタリア系は活躍している。私はブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、チリ、ペルーの5カ国を「チャオ圏」と呼んでいる。イタリア語の挨拶言葉の「CIAO」が日常的に使われるからである。北米のメキシコでも「チャオ」が使われている。
 2006年1月に家内とブラジル南部のベント・ゴンサルヴェスというイタリア系が多
い町に旅行する機会があった。そこには、イタリア移民の歴史を映像とジオラマと案内者の語りで再現する「エポペイア・イタリアーナ」(イタリア叙事詩)という小さなテーマ・パークがあった。ヴェネト州出身のラザロという架空の人物がブラジル移住を決意し、出資者を募り、勇躍ブラジルへの移住を決意する。ポルトアレグレに上陸、悪戦苦闘して、最後は大邸宅を建てるというあっけらかんとしたサクセス・ストーリーである。それを見てガルボン・ブエノの日本移民史料館を思い出した。日本人移住者は総じて成功しているのになぜ史料館のプレゼンテーションはかくも暗いのであろうかという疑問である。国民性の違いを認識した旅であった。
ブラジルは移住者によって成り立つ国であり、宗主国ポルトガルは当然のこと、イタリア、ドイツ、スペイン、アラブ、アフリカ系等も頑張って国作りを行ってきた。当然日本人移住者のブラジル社会に対する貢献も絶大である。ブラジルを理解する上で、イタリア人や第2の移住国ドイツ人の発想法を学ぶことが有益と考える。
(日本ブラジル中央協会発行、「ブラジル特報 2010年1月号」を加筆修正したものである)                         2015年10月下旬

写真 Edificio Italiaから見たサンパウロ市内
写真 サンパウロのショッピングセンターはまるでイタリアのよう



アクセス数 7925015 Copyright 2002-2004 私たちの40年!! All rights reserved
Desenvolvido e mantido por AbraOn.
pagina gerada em 0.0140 segundos.