しゅくこさんとの対話を通じての古谷敬冶さんの『青春日記』(前編)
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しゅくこさんのメーリングリストへの書き込みに誘い込まれ何時もの硬い文面と話題と似つかわしくない赤裸々な人間味あふれる古谷さんの『青春日記』と題する書き込みが人気を得てしゅくこさん以外の読者仲間のコメントも寄せられ息の長い連載となり40年‼寄稿集には、2回位で収まるかと思って居たら2万5千語以上に達し前編、中編、後編の3回に分けて掲載することになりました。
青春時代の写真をお願いしたら度重なる引っ越しで見当たらないとの事であっと驚く為五郎的な昨年撮られた若い奥さんとの写真を送って呉れました。
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しゅくこさん 古谷です。 青春日記その1
私は昭和30年に大阪外大に入学しまいした。全国で一番小さい国立大学で、当時全学生を収容できる校舎などなく、後期の3−4年生は、市内上本町8丁目。前期の1−2年生は、高槻市の旧陸軍第八連隊の工兵隊の兵舎跡でした。木造の二階建て、廊下を歩けばギシギシ靴音が響く、スーパーオンボロ校舎で無論冷暖房具等あろう筈がありません。夏季は暖房、冬は冷房の良く効いた天然装備でした。夏は開襟シャツの胸を広げ、冬は厚いオーバー・マフラーの手袋の装備。月謝五百円だから、仕方ないか?と思い乍ら授業を受けていました。
唯、うれしい事に周りは田圃。都会の騒音など耳を澄ませても聞こえません。薫風漂う五月は、窓を開けるとそよ風と共に、蛙の大コーラス。授業そっちのけで聞き入ってました。ほんの数か月前まで、連日夜遅く、半泣きになり乍ら、受験勉強していたのがウソの様に思えた解放感に浸った優雅な時期でした。よく覚えて居ませんが、蛙の鳴き声は、グー・グーだったと思います。
古谷さ〜ん しゅくこです
大学一年生、入学したてのほやほやの古谷青年ですね。
古い教室から窓の外の田園風景をみながら、カエルの大合唱を聞いている。
受験から解放された古谷青年の心模様がカエルの合唱や窓外の田畑の風景と重なって、彷彿としました。きっと紅顔の美青年だったことでしょうね。
わたしは古谷さんの政治談議は不勉強でよく読んでいませんが、こういう文章はとても好きでなんてうまいんだろうと(ごめんなさい、生意気言って)なんども読み返してはたのしませていただいてます。硬軟の文章を使い分けていらっしゃるその才能に乾杯です
長い間、忘れていたカエルの歌。wikiをみながら子供の頃をおもいだしてくちずさんでみました。
『かえるの合唱』歌詞 🎶
かえるのうたが きこえてくるよ クヮ クヮ クヮ クヮケケケケ ケケケケ(注) クヮクヮクヮ 注:この部分は、「ケロケロケロケロ」、「ゲゲゲゲゲゲゲゲ」、「ゲロゲロゲロゲロ」などとも歌われる。
しゅくこさ〜ん 古谷です。 青春日記その2
ご返事ありがとうございました。
私は、厚顔の美青年でもなかったし、文才もありませんが、ご要望に応じて、時々、このような文章をお送りします。(と言っても余りネタは無いのですが・・・)
人間の記憶を時々不思議に思う事があります。総じて、苦しかった事、嫌な思い出は、年をとってもしっかり(?)覚えていますが、(忘れられない)嬉しかった事、楽しかった事は、幼・少年時の思い出しかありません。
私は、高校を卒業するまで神戸に住んでいましたので、楽しい思い出は、どうしても神戸時代に限られてしまうのです。お馬のウンチなど。
その中で、しゅくこさんがケタケタ笑いそうな私の失敗談。
幼稚園に通っていた時の事。私は「字」が下手だったので、近所の習字塾に通わされました。通っていた子供達は、中学生・小学生で私より随分と大きかった。先生に、私のか細い掌に余る大きな硯に墨を摺る様、言われ懸命に摺りましたが、力が無いのでなかなか濃くなりません。
後から来た中学生・小学生は字を書きあげて、どんどの帰っていくのに、残って居るのは未だ墨を摺っている私一人。漸く、墨が濃くなった時は、膝が痛く、腕はパンパン。字が書ける状態にないのに、こう言う時に限って、新入り幼稚園生に、先生は殊の他、親切。ブルブル震える手で、何度も書き直され、此処でも半泣き。
翌年は一年生。先生より「明日は絵画の授業があるので、色鉛筆と画用紙を持って来る事」と言われ、帰宅して母親に「あした、色鉛筆を半紙を持って行く」と言った処、母に「授業は、習字か絵描きのどちら?」と聞かれ、「絵描き」と言うと、「それなら画用紙」。「イヤ、半紙」と何回も突っぱねました。余ほど、前年の苦しかった習字の練習が頭にこびり付いていたのでしょう。絵画の授業で、半紙に絵を描いたのは無論私ヒトリ。
先生が「予備の画用紙を持っている人?」と問い合わせて呉れましたが、私は頑固に半紙をボロボロにしながら、絵を描きました。
麻生さんが呆れた「私の頑固さ」は持って生まれた性癖の様で、既に、幼児時分遺憾なく発揮されていました。
古谷さ〜ん しゅくこです
幼稚園の頃から記憶って少しずつありますよね。
古谷さんの性癖? 「頑固」につながる遠い幼年時代のエピソードがいま目の前にひろがって楽しい想いにさせてくれています。
わたしの幼稚園時代の記憶は、上履きの収納袋に空のお弁当箱を一緒にいれて、片手でぶんぶん振り回しながら帰宅している、雑な姿です。
これが大人になっても当時の幼稚園の先生の笑い話にされます。
そんな性格が一生続くようですね。
40代の時、遊びにきた従妹がわたしが整理しないでごちゃまぜに収納している絡み合った首かざりなどの装飾品を見て「味噌もくそも一緒やわ! 」と、軽蔑されました。
どうも長女である母もそうであったようで、家系のお宝はすべて従妹の母、つまりきちんとした性格の母の妹のところに保管されていたことを後に知った時は、「へえ、そうだったんだ・・・」と複雑な気分になったもんです。
幼年時代から青年時代のいまにつながるお話。つぎはその間の少年時代でしょうか?
しゅくこさん 古谷です。青春日記その3
私の少年時代は、戦時中・終戦直後の暗〜い話が多くて、「蛙がゲロ・ゲロ」と言った話は余りありません。その点をお断りした上で、一筆したためます。
記憶が定かでありませんが、昭和24-25年頃だったと思います。国鉄元町ー三宮の高架下に、闇市が並び、食品・雑貨など必需品を売っていました。
其処に突然、韓国人が二人現れ、罵声を挙げながら、店の商品を蹴り上げたり、外へ投げ捨てたり、乱暴狼藉を働きました。店の売り手は年取った男女、力で抵抗する術も無く、為される儘でした。
其処へ、屈強な日本人の若者が現れ、何と二人の韓国人を大外刈りで投げ倒し、思いきり足腰を蹴り上げました。驚愕と痛さで、韓国人、「アイゴー」と叫びながら、一目散に逃げて行きました。
助けられた店主たち、口々にお礼を言いながら頭を下げ、中には幾何の札を差し出す者もいました。若者はそれを遮り、逆に老人達に「怪我はなかったか?」優しく気遣ってました。老人が猶謝礼を出そうとするのを、再度断り、今度は顔を引き締めて曰く「僕は、特攻の生き残りです。生き恥を晒しています。」と言って踵を返し、去って行きました。私は、百貨店で本を買おうと、偶々現場を通りかかり、一部始終を見てました。
若者の言葉の意味が分からず、帰宅後父に尋ねました。父曰く「特攻隊は、爆弾を抱いて航空機諸共敵艦に当たり自爆するのが役目で、それでお国役立つと訓練を受けていた。その若者は、生き残り、お役に立てなかった自責の念に駆られていたのではないか、だから、せめてもの韓国人の狼藉から日本人を助けようとしたのだろう」
しゅくこさん、日韓併合をごぞんじでしょうか? 下記の添付資料をご参照下さい。
日韓併合で、日本は国を挙げて韓国の近代化に大きく貢献しました。しかし、一部の朝鮮人には、日本人に卑下したり、負い目を感じる者もいました。中には、朝鮮人に横柄に振舞った日本人が居たかも知れません。この上下の感覚が、日本の敗戦で爆発しました。彼らは上下の身分意識が逆転したと感じたのです。三宮の高架下での朝鮮人の狼藉は一例ですが、この様なトラブルは日本のアチコチで起こりました。
ずっと年代が下って、今日の慰安婦像問題。日韓両外相の手で、「日本が10億ドルの見舞金を支払う事で、慰安婦問題は不可逆的に解決した」にも拘らず、未だ像を撤去しないばかりか、新たに像を設置する動きすらあります。
不可逆的な合意が不可逆的にならないのは、上述しました日韓併合に絡む朝鮮人の深層心理とも言うべき、日本人に対する引け目、劣位意識が「慰安婦像」を誇示する事で潜在的な屈辱感を晴らそうとしているのではないかと言う気がします。依って、当事者にすれば、政府の合意など我関せず、民族が被った屈辱が晴らされるまでと際限なく補償を求め続ける気持ちなのではないかと思います。
では日本政府はどうすれば良いのか? 答えの無いこの難題。無理に答えを出す必要はないのではないか。一切対応しない事。のらりくらりと話に載らぬ事です。日本人は概して真面目ですから、直ぐ応じるのです。これはダメです。
以上、又、長話になりました。しゅくこさん、必ずしもお好みの内容でない点、申訳なかったと思いますが、この点はご容赦下さい。
古谷さ〜ん しゅくこです
幼年時代から青年時代のエピソードを読ませていただき、その中間の少年時代のも読みたくてリクエストしたところ、さっそく応えてくださり、ありがとうございました。
14-5才の多感な少年の心の中にしっかりやきついた戦後の混乱期。
丁寧に書いてくださり読みごたえがありました。
その頃、わたしは8才くらいで、まだ世の中のことがよくわからず、外で暗くなるまで遊んでいた記憶しかありません。
その時代、今思えば両親は大変だったとおもいます。
周りの人たちもみんなそうでした。
そんなことも理解できず、思春期と呼ばれる10-18才までは荒くれた反抗期を送りました。苦しい悲しい思い出が多いですね。
戦争はいけません。
ご丁寧な思い出を綴っていただき、しみじみと考えさせられました。
muito obrigada.
しゅくこさ〜ん 古谷です
ご無沙汰しました。 我が「青春日記」No.4をお送りします。
1)下宿の若後家
弊前信で、大学の1−2年生は、高槻分校で講義を受けたとお伝えしました。スペイン語教室は30名。出身地は、地元近畿と西日本で大凡半々の割合、従い半分は近くで下宿していました。
島根県出身のA君の話。講義の初日こそ、顔を出したが、二日目からずーっと欠席。風邪でも引いたか?と心配した級友がA君の下宿先を訪ねた処、玄関先に現れたのは、京マチ子風の色白で体格の良い若夫人。嫣然と笑う同女の後ろに頭を搔き搔き現れたのが、A君。風邪ひきなど微塵も伺えず、健康そのもの。「据え膳」か「蜘蛛の巣」か?
瞬時に全てを悟った級友は、憤然として「皆、心配している。明日から登校する様に」と言って退出。翌日、その話を聞いた級友の一人、自宅通学であり乍ら「オレも、下宿を斡旋して貰おうと」学生課へ。悪友が「やめとけ。おまえなど皺くちゃだらけのバーさんのトコしかあたらん!」。その級友頭を搔き乍ら、戻って来て「動機を認めず」と言われた、と。
2)女子学生不在
30年入学の一年生教室で、女子学生不在は、スペイン語教室だけ。隣の仏語教室など美女三人。馬と話す独語ですら、一人居ました。「お前など、何故、入試で落ちなかったのか」と互いに罵り合い乍ら、身の不運を嘆く始末。
薫風そよぐ五月、片側の窓を開けて蛙の鳴き声を聞き乍ら、廊下寄りの窓も開けて隣の仏語教室を眺める学生、五人〜六人。教授曰く「君たち、前を見なさい」と。
古谷さ〜ん しゅくこです
「青春日記」待ってました!
文中のA君か、彼を見舞いに行った友人。古谷さんはそのどちらかでいらっしゃったのでは、などと拝察しながらウフフでした。
古谷さんの愉快でパワフルな濃〜い書き込みからは、(ときにはwikiで知らない言葉を検索しつつ)「いまでも青春」の香りが溢れてくるようです。次回をたのしみにしています。
ところで、 ジョン君とうさぎのクレイトンは元気ですか?うちのシロはもう17才になりますが、ジョンもそろそろいいお年ですね。
すこしは落ち着いてきましたか? はなさんのように、「good boy ! 」を優しく甘〜い声で愛撫すれば、ジョンはどんな顔をし、戸惑いながらもそれを受け入れて変わっていくのか、ギョッとするのか、実験してみてください。
興味があります。
わたしの実家では犬を飼っていましたが、外出の多い私にはせいぜい散歩がてらに
出会ったワンちゃんを触らせてもらうことくらいで、満足しています。
昨日も、たくさんの土とか肥料を買ってきて、家の前でトランクから下していたら、
前を通った真っ白いゴールデン・レトリバーが横にぴったり座り込んで、私のやっていることの一部始終を見学していきました。飼い主が笑いながらなんどかリードで促すと、 腰を浮かせるのですが、また横にきてなにが面白いのかずっと観ているのです。
年齢が3才で女の子であることを言い当て、ついつい話し込んで触らせてもらいました。 無邪気で純真そのものの瞳に見つめられたのは久しぶりでした。
しゅくこさ〜ん 古谷でっす
「青春日記」第四号をお気に召した様で’有難いと思っています。
私は、堺市からの自宅通学でしたし、他人の事は「放って置け」のタイプですので、どちらでもありません。残念でした。
ジョンは、12歳になりました。大分、草臥れて来たのか、アパートに居る時は、殆ど寝ています。その分、散歩の際は野生剥き出し、喧嘩相手を求めて元気よく歩きます。散歩は一日二回のみ。
従い、自由に歩かせます。道順もジョンに選ばせます。色々好みがある様で、私一人で笑っています。今朝も、猫を見つけた時の騒ぎようは、道行く人がビックリ、目をむく程でした。頭を拳骨で殴り、脚を踏ん付けないと収まりません。野生剥き出しです。
しかし、人間様には至って従順で愛想良しです。すれ違う幼児に良くジョンの頭を撫でさせます。
兎は、誕生を迎えたばかりの一歳。やんちゃ盛りです。昨日もジョンの尻尾を弄び、ジョンに「ウーツ」と怒鳴られたばかりです。壁紙を破って仕方がないので、この間も私が大声を張り上げわざと足音を立てて、追いかけると、ビックリして半ば転げながら、女房のベッドの下にもぐり込み、震えていました。
兎に角、狭いアパートが、獣医室の様になってきました。
しゅくこさ〜ん 古谷です
「青春日記」第五話です。
今日は、少し心を痛めた話です。
昭和30年、未だ全学連が猛威を振るう時期ではなかったのですが、ボチボチ自治会活動が活発になりかけた時期でした。
「おてもやん」の里、熊本県出身のB君。頭が良くて素直で明るい性格、皆から好かれたのですが、唯、酷い熊本弁。口の悪い大阪ヤローは「西語・英語に次ぐ第三外国語」と言う程、解り難かったのです。
入学早々、上級生よりクラス代表の自治会員を選出する様圧力が掛かりました。柄の悪い大阪ヤローが鳩首会談の結果、ご託・屁理屈を並べて、嫌がる「おてもやん」を代表に選出しました。
自治会員の活動を、渡河水泳に例えますと、要領の良い独語・仏語の代表は、川に入っても途中で引き返し、元の場所に戻って来ましたが、我が「おてもやん」、根が真面目なだけに向こう岸まで泳ぎ切りました。つまり、組合活動にのめり込んだのです。活動に熱中する余り、授業も欠席が目立つ様になりました。
驚いた事に、翌年校庭の台上で、「日本政府は〜」と大声を張り上げていました。その拳を上げている姿も然ることながら、喋っている言葉が標準語だったのです。これにはビックリしました。物識り曰く自治会本部には、演説の訓練用に、良く使う用語の一片・一句を認めた型紙があって、新人会員は繰り返し大声で練習させられる。無論型紙には標準語で書いてあり、熊本弁などある筈がない、と。
更に、組合活動にのめり込んで行った所為か、上本町の後期に入ってからは、学内で彼の姿を殆ど見かけなくなりました。
昭和34年03月、晴れの卒業式で手渡された卒業生名簿に彼の名前が無かったのには、流石に胸が痛みました。彼はどうなったのか、誰も知らず、知りたいとも思わぬ雰囲気でした。
古谷さ〜ん & 皆さま しゅくこです
古谷さんの、少し心を痛めた「青春日記」。
拝読してからもう2日もたつのに、わたしは少しでなく、この青年が心の襞に
ず〜とひっかかったままでいます。いろんな意味で。
最後の一行で、古谷さんが描かれているように、お友達にするような魅力あるタイプではなく、その時代を象徴するような人物。そんな懐かしさですね。
私だけでなく、たぶん読まれた方の多くも「そうそう・・、そんなやつがいたな・・・」、と共感されているのではないでしょうか?
学生時代、社会科の授業で、なぜ会ったこともない過去の人の名前まで
覚えなくちゃならないの? と試験地獄の授業に反抗的で、あげくは中、高の写真を卒業式の日に焼いてしまいました。 なんの未練もありませんでした。いまでもそうですが。
古谷さんの「青春日記」を読ませていただくと、その背景にある時代が浮き彫りにされて、あらためて、いま目が覚めてきた感じです。
ジョンとクレイトン、漫画のようなご家族シリーズもよろしく。
こちらは灼熱の季節にまっしぐらです。
うちの高齢者、シロはごろごろと体を全開にしてしのいでいます。
この写真、送ったかどうか、? 重複していたらごめんなさい
しゅくこさ〜ん 古谷です
青春日記 第六話 「英語の授業」をお送りします。
今日の話は、面白くも、悲しくもない、極く真面目な話です。
二年生の時に、商業英語を学びました。講師は羽田三郎先生。外大の卒業生で商社に勤めて居たのを母校に呼び戻され、教壇に立ちました。40歳そこそこの若くてエネルギッシュな講師でした。
曰く、「英文の本を読む時、辞書に頼るな」と。私ら一様に目を剥きました。「ナンデ?」
曰く、「どんな文章でも、文意がある。いちいち、エッチラホチラ、辞書を引いていたら、字句に拘る余り、文意を摑み損ねる。意味の分からぬ単語はすっ飛ばして、先に進む事」
曰く、「10頁程度を読み終えたら、元に戻って読み直せ、それを五回ほど繰り返すと、朧気ながら、著者は何を言わんとしているか?思想が分かる様になる。」
曰く、「大凡、文意が摑めたら、そこで分からぬ単語を辞書で引きなさい。君らが想像していた解釈と一致する筈だ。著者の思想を掴む事、これが読書の要諦である。」
そこで、ある生徒が、恐る恐る手をあげ質問しました。「先生でも、分からない単語があるのですか?」一瞬、教室に緊張感が走りました。
が、講師は破顔一笑。「僕、日本人だぜ。未だに分からぬ単語は一杯ある。だから、これは僕自身に課している読書法でもあるんだよ」
教室の空気が、緊張感から尊敬の念に変わりました。講読だけでなく、語学に対する姿勢までも教わったのです。
しゅくこさ〜ん 古谷です
青春日記 第七話
中学時代は、英語が苦手で殆ど授業が理解出来ませんでした。「びーどうし(Bー動詞)」が有って、何故「えーどうし(A-動詞)が無いのか」と素直に疑問を感じる程度の理解力でした。こんな調子が、高校二年生まで続きました。英語では落第生でした。
処が,幸運にも三年生の時の英語の教師が良かったのです。担当クラスを持たぬ学科主任の大ベテラン。剣道の錬士の様に、背筋を伸ばしニコリともしない表情から、「コワイ先生」との印象でしたが、授業態度は大凡逆、非常に丁寧で実に解り易かった。この先生のお陰で、私の学習態度が変わりました。英語が好きになったのです。
三年生の三学期。受験校を決める時期になりました。私は理科が苦手だったので、受験科目は四科目。家庭の事情で自宅通学、月謝の安い国立大学となれば、大外大しかなく且つ他校で学べぬ西語科を選択。願書を出す前に「コワイ先生」に相談しました。私の思い詰めた顔と三年生の成績表を見ながら、先生は「全然無理とは思わない。頑張り給え」。
願書の受付数は定員の23倍。これには、足が震えました。
受験後、試験場の外で予備校の職員が配布している模範解答と私の答案を恩師に見せた処、「うーん」と唸った儘。「全く駄目とは思わぬ。兎に角発表を待って見よう」。
発表当日、「僕の番号が有った!!」飛ぶ様に再度母校へ。笑わぬ殿下が’初めてニッコリ。「フルタニ君。この感激を終生忘れぬ様に。私の君に贈る言葉だ」。
処が、5月蛙の鳴き声を聞きながら、隣の仏語教室を横目でみているうちに、段々二ヶ月前の感激が薄れて行きました。「先生、ご免なさい」。
教師次第で、生徒の学習態度が変わる。ある意味で、教職とは恐ろしい職業です。
この点を次号で触れたいと思います。
古谷さ〜ん & みなさま しゅくこです
「あっと驚く」素敵な写真。と和田さんが書かれていましたが I agree with him ですね!
これで「青春日記」を拝読する楽しみの幅が広がりました。
六話と七話の青春日記は英語教育に関した先生のエピソードがつづられていましたね。
B動詞があるなら、A動詞もあるのでは? なんともユニークな古谷青年の疑問。笑いました。
私はなぜか小3から英語を習いに行かされ、性にあっていたのか中2までは大好きな得意科目だったのですが、中3になって突然訳の分からない難易な文法用語ばかりになり、それが頭に入らず、それから高校を卒業するまでの4年間ですっかり嫌いになりました。
残念ながら古谷さんが出会ったようなイキな先生にも巡り合えず。
その後、縁があってアメリカに留学したのですが、ホームステイでの生活をベースに
好きだった英語がまた私の元に戻ってきました。
帰国してまもなく、自宅で子供相手の英語クラブをはじめました。
1クラスは5人以下。
みんな揃ったところで、あいさつも何も始める前に、わたしはピアノやときにはテープで子供たちに歌わせる音楽を流しはじめます。それがレッスン始まりのあいずです。
歌で始まるレッスンは格式張らず、子供たちの気にいってもらえたようです。
明るい弾けた歌声が私の気分までも高揚させてくれました。
子供といっても決してあなどれません。簡単な童謡から、年齢のわりには難しいかと思えるような
ルイ・アームストロングの「What a beautiful world} やビートルズの「Hey, Jude」、カーペンターズの「Top of the world」なんかもよろこんで歌っていました。
歌えるようになるから不思議ですね。
当時1990年頃から2010年頃には幸いにもまた留学中に流行っていた1960年代の反戦歌からビートルズまでがリバイバルになり、私にとっては懐かしい曲、こどもたちにとってはテレビなどで耳にする曲とうまい具合に一致して、英語の歌を教えやすい環境がありました。
ゲームや対話も沢山取り入れ、書くことも同時にいれました。
そしておやつの時間は当番にまかせて、英語で飲み物の希望などを訊いては互いに受け答えさせました。
人間て、食べ物が入るとじつに簡単に英語を覚えます。
気に入った絵本の和訳などもさせてクリスマスパーティには完成作を発表させました。
ずいぶん自画自賛になり、嫌みな内容になったかもしれません。お許しください。
これはすべてあの嫌なガチガチの4年間の英語授業で、なにが楽しくて何がダメ授業なのか身に染みて教えてくれた、その反面教師のおかげです。
いまはすべてから解放され、自由な気楽な英語とのかかわりを友人たちとたのしんでいます。
といっても難しいものを読むのはやはり苦手ですが。
次の「青春日記」たのしみにしています
下は近くの小学校に呼ばれて、6年生の英語のお手伝いに行った日の写真です。
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