しゅくこさんとの対話を通じての古谷敬冶さんの『青春日記』(後編)
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古谷さんの『青春日記』は、当初前、後編の2回程度を想定していましたが、ご本人の努力としゅくこさんの聞き上手、周りの人の声援に答え3部作に編成し直しましたが、未だに継続して行く気配がありますが、一応3部作の最終『後編』としてまとめました。今回は、番外編、13話―15話を収録しました。青春から商社駐在員としての実体験に基づいたお話は、多くのメンバーの注目を浴び五十嵐さんからは出版まで進められています。今後も続くようであれば番外編として収録も検討する必要が出て来たようです。
しゅくこさんから素敵な写真を沢山送って頂いているのですが、やはりご本人から送られて来た奥様とのツショットの1枚を使うことにしました。
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しゅくこさ〜ん 古谷です これは「青春日記」番外編です。
実は、「青春日記」第九話が長くなったので、一部をカットしました。
それで、この「番外編」でカットした分を記述します。
Chichicastenango の教会を見学した後、その傍でインデイオの女性達が織物を売っている露店を見た際、教授はその織物を娘さんへの土産に買いたいので、値段を聞いて欲しいと私に求めました。
当時、私が勤めていたのは、日本四社による合弁会社、つまりアクリル繊維の紡績・染色会社で、Guatemala City にありました。其処で、スエーター用の染糸を中米全体に売っており、その一部をインデイオ部落に売っていました。これは、スエーター用ではなく、写真の織物に使われていました。
ACRICASA (合弁会社)が糸を売っていたのは、所謂糸商で、其処から織物を織っている家庭に少量ずつ糸を売っていました。糸商が糸を大凡幾らくらいで売っているか、分かっていましたので、織物の目付からコスト全体はこんなものだろうとの見当は付けていました。
半値・八掛け・伍割引き。大阪商人らしく、腰を据えて交渉にかかりました。欧米の観光客は値切らず、インデイオの言い値で買います。それを良い事に彼らは随分と暴利を貪っていました。虐げられた歴史を背負った悲しそうな顔をしてです。其処へ、おかしな日本人が現れ、「半値・八掛け・伍割引き」を言うもんで、売り子はビックリ仰天。其処へ「あんた達、糸を幾ら幾らで買っておろうが・・」と追い打ちを掛けたら、目を剥き、口がひきつった。もう一息と思っている処に、教授が「値段を聞くのに、何故ヒマが掛かるのか?」と水が入ったので、形勢逆転。今度は、売り子は梃子でも動きません。目標値には届かぬが、半値以下になったので、マ―いいか。教授は三枚飼い、私も二枚買って、教授に進呈しました。
五枚も売れたので、売り子の女性、急に愛想が良くなり、「ムーチャス・グラシアス、セニョール」。
処が、帰宅してツラツラ考えて気が付いた事は、インデイオの連中にコスト計算など出来る筈がないと言う事でした。では、彼らはどうして売値を決めているのか?コスト計算からではなく、欧米人が買って呉れる値段。おそるおそるでした値段で欧米人が買って呉れたら、次回は値上げする、売れなくなったら、少し値下げする。彼女等こそ、市場原理で生きている商売人。コスト計算を振りかざした此方がバカでした。よく、教授が水を入れて呉れた事でした。
古谷さん しゅくこでーす
最後の番外編の Chichicastenango の市場での話。これもまたお恥ずかしい話、そのチチカステナンゴって? どこどこ? ホホ〜、グァテマラのマヤ文明の観光地だったのかァ! で、グァテマラ? ってどこだ?
こんなレベルの読者です。desclupa ごめんなさい。
wikiで見るとなんとカラフルな織物の市場の写真がいっぱい。たちまち行ってみたくなりました。 ,
わたしはほとんど値切らずに、値段を聞いて高ければかわない、売り手から安くするというなら考えるタイプです。
一生懸命の手作業で作ったレースの編み物などは、その編み目、編み目に愛情も汗も編み込まれているようで、値切る気持になれません。それに日本人にしてみればお安いものなんです。
このお話を読んでいて、イグアスの滝を中心に友人2人とちょっと贅沢な旅行したときのことをおもいだしました。
ブラジルからパラグアィ、アルゼンチンをキャッキャッいいながら、ある小高い丘のような誰も観光客のいないところにきたとき、どこの国だったか今思い出せませんが、1人の6才くらいの男の子が、バスケットを首に吊るしてパンを売りにきました。
お昼を済ませたぱかりの私達はお腹がいっぱいだったのですが、友人の一人が可哀想だと言って、一個だけ買ってあげました。ところがその少年はまるで私達のグループの一員のようにぴったりくっついてきたのです。
「そのパンはね、ママが今朝焼いたものなんだよ」 少年は2-3度 同じことを誇らしげにいいました。
( おいしいんだよ。おばさん、いつそのパンを食べるの? と大きな悲し気な瞳で 問いかけるように、・・・。)
私達は、なんだか落ち着かず、かといって「もう帰んなさい」とも言えず、30分くらいでやっと人混みまできて、煙にまいたのですが、お腹のいっぱいな友人は、どうしても口に入らず、悪事を働くようにこっそりと灌木の下に棄てました。
パラグァイに入った国境周辺では車の窓を清掃する少年たちに囲まれて動きが取れず、またオウロブレットの教会前では裸足の少女がキャンディを売り歩いていました。
もちろん多くの世界中のこどもたちがこうして働いています。
日本の子供たちが塾さえ行っていれば親が安心している、そんな社会も問題ですね・・・。
今回のメキシコ、グァテマラの話。不思議な異次元の世界でした。
そんな体験からにじみ出た古谷サン独自の味を楽しませていただきました。 これで行きたい外国はますますでてきました。でも人生はあまりにも短いですね。
丸木で〜す しゅくこさんの機転の効いた見事な相方タイミング、大阪漫才さながら古谷さんの青春日記が生き生きと臨場感にあふれてきました。どこの国だったか忘れた国での子供の母親の焼いたパンを捨てた話なんかはほろ苦さも感じました。僕もミネソタの住宅街で小さな女の子が家の前でジュースを一杯1セントで売ってたので買って飲みかけ吐き出した覚えがあります。アメリカでは裕福な家庭では子供に働かなければ金は儲からない事を身を以て体験させてます。僕がホームステイした家でも3歳の幼女が台所の流しにハシゴをかけて洗い物をしてからおやつにアイスクリームを貰ってました。しゅくこさん、今からでも遅くはありませんよ、行きたい国があればはエイヤーと飛び出す事です。落語で蕎麦通が死に際に蕎麦つゆをいっぱいつけて食べてみたかったと悔やむ落ちをご参考まで。大阪の遊び人さんが定年退職後にここトロントで語学留学され、百ヶ国に旅行されたのも他山の石とされるようお勧めします。ハタチの頃に日本を飛び出したご自分の心境で頑張れ、しゅくこさん!
丸木さ〜ん & みなさま しゅくこです
「青春日記」を書かれた古谷さん。感想を書かせていただいた私。
2人は猿回しの太鼓叩きと踊る猿のよう(笑)らしいです。
どちらがどちらなんでしょうかよくわかりませんが・・・。
とすると、観客の輪の中に見え隠れするお顔は、和田さん、藤沢さん、山下さん、石田さんたち。
50年の他のメンバーも通りかかって足をとめ、猿の芸をおもしろがり、座は一層盛り上がりました。
そのうち、その中から野球帽に水着姿、サンダルの丸木さんがゆっくり前に進み出たかとおもうや、ポケットからコインをとりだし、猿の前の小さな缶に入れました。
カランコロンと音がすると、好意的な拍手がまわりから起こった。
な〜んて、そんなシーンがよぎりました。 (ちょっと調子に乗って空想しすぎ?)
でも、・・・少しお休みさせてあげてください。帰ったらジョンとクレイトンに相談させますから。
ところで、アメリカの子供たちの話ですが、私のホームステイ先は大学の先生のお宅でした。
1962年、車が2台、裏庭はプール付き。通りに面した芝生の庭に巨大なクルミの樹が茂っていました。
やんちゃ坊主の小学生の息子たちがその樹にのぼってよく遊んだものですが、クルミがなるとそれを拾い集めて蜜柑箱の上に並べ、家の前の通りに座り込み、兄弟で声をはりあげて、売っていました。近所のお母さまたちもよく心得たもので、この兄弟の軍資金の足しになるように協力していました。
軍資金とは、やがてくるクリスマスまでに父母に贈るプレゼント、つまり手作りのリースを作るために必要な、カラー・スプレイやオーナメントを買うためなのですね。 白黒写真ですが、ご想像ください。
古谷さん 山下@リオです
お返事は、まじめな古谷さんからのものですね。別人(失礼!)古谷さんに、ひとつ提案があります。
財布の隅に、まだなにか残っていませんか。
古谷さんの、中米、南米、ブラジルでの、長年の貴重な経験は、今仕事している人にとって、大変な価値があると思います。
何でも、思い付かれたときに、140文字以内で、w-50に上げておくことをお薦めします。
討論目的ではなく、つぶやきです。数回分まとめれば立派なブログ投稿になります。
山下さん 古谷です
承知しました。思い付いた時で良ければ、書き留めて置きます。尤も、大した量にはならないと思いますが。
親愛なる古谷様、石田です。
多くの古谷ファンを、ガッカリ、させないで下さい。
世界を股に活躍された、エリート商社マンの財布の中、何が詰まってるか(私を含め)皆が知りたがってます。猿回しをしろと言われたら、するのが商社マンです。
私に比べ、多くの貴重な体験をされていると思います。ここ(w50)は、素敵な仲間しかいません。討論など堅苦しい話を抜きに、体験談(特に失敗談)は、重要、是非、開帳して下さい。お願いします。
追伸:最近の古谷節、素晴らしい出来です。別人と言われてます。嬉しいです。益々、磨きをかけて下さい。
しゅくこさ〜ん 古谷です
「青春日記」 第13話
山下さんに「それ見た事か!」と笑われそうですが、一つ思い出しましたので
忘れぬうちに認めておきます。題して「英語勉学の勧め」です。
私は、1972-76年 Caracas に、1976-79年 Guatemala City に続けて駐在しました。
両地とも、赴任時には日本人学校は無く、カラカスでは長男をAmerican Schoolに、Guatemala City では、長男・次男共に American School に通わせました。
長男は、TOEICで高得点をマークした結果、大学のESS部の先輩より、引きがあって某大手銀行に就職できました。
次男は工学部の院を経て、某製鉄会社に在職中に、プラント建設の国際入札に
必要な米国の技術者資格を取り、東南アジア各地の入札に設計技師として応札しています。
ご主人の海外勤務に帯同して、外地で数年生活すれば、内地の水準に比して子供さんの学習が遅れはしないかと懸念するお母さん達がいます。今は、昔と違って海外の日本人学校の授業レベルは内地に引けを取らぬ程充実していますので、差は無いと思いますが、それでも気になるお母さん方に言いたいのは、外地生活を逆手に取って、日本では学べぬ学習を子供さんたちに授けてはどうかと言う事です。私が、私事ながら、敢えて息子たちのケースをご紹介したのは、「外地生活を逆手に取るケース」の一例としてです。
お若い時に(今もお若いですが)、米国に留学されたシュクコさんには、釈迦に説法ですが、私が住むアパートに、日本人駐在員家族が数世帯おり、中には上述しましたお子さんの教育を心配するお母さんが居ます。同じ事を心配するお母さん達は、サンパウロに、否、世界各地に居ると居ると思いますが、等しく申し上げたいのは、置かれた環境を逆手に取れと言う事です。外地に居ればこそ、Ortho-dox English が学べます。これは、日本では得難いメリットです。英語を勉強すれば、勉学に就職に可能性が広がる事は確実です。
古谷さ〜ん & みなさま しゅくこです
青春日記シリーズ No.13 「英語勉学の勧め」 拝読いたしました。
「外地生活を逆手に取って、日本では学べぬ学習を子供さんたちに授けてはどうか」と言うご意見、まったく同感です。 わたしならそうしたいと思います。
知人のイギリス駐在員の奥様のお話をします。
彼女はロンドンに赴任した大手企業に勤める夫に、一人息子をつれて帯同しました。
懸命な彼女は、自宅から通学範囲にある公立小学校を徹底的に調べあげ、そこには日本以上のとんでもないいじめがあることを知り、小学生の息子に肉体的な危害まで及ぶような、不要な心配する生き方よりも、どうせ三年くらいで帰国し、籍を残してきた日本の私立小学校におさまり、なによりも責任ある仕事をしている夫が順調に駐在期間をこなせることだけに焦点を絞ったようです。
同じ駐在員の家族どおしで助け合い、順繰りで、次に赴任してくる同じ会社の家族が難なく帰国できるまでみんなで補いあう。
なにせ、日本は安全な国。得体のしれないリスクをとり、対応もできない荒れ地に無抵抗の我が子を放つことは保守的だけど、仕方のないことなのかもしれません。
その息子さんはイギリスに3年いたにもかかわらず、結局は英語はものにならず、帰国後も英語塾に通っていました。
それではその子がイギリスをすっかり嫌いになったかと言えば反対で、 イギリスを起点に家族でヨーロッパ中をめぐり、沢山の国を訪問し、それぞれの国の空気を吸い、ときには東欧のどこかの街角でチェスに興じるおじさんたちと混じって何時間も過ごしたりエチオピアでは顔に唾を吐かれたり、そんないろんな少年時代の体験を経て、ある意味、日本人としてのidentityを養っていくことになったのかもしれません。
いまはイギリスが第二の故郷のように思っているとのことです。
子供はそれぞれ置かれた家庭環境で生きていくしかありません。
とくに日本人の場合は父親が仕事で忙しく、おおむね母親が主導権を握って子育てをしていく形が見受けられます。
母親の方が子供を守る本能にかけては、神経を尖らせているから仕方ないかもしれませんね。
でも、どんな環境であろうといつかはどんな体験でもなんかの役にはたつだろうと私は思いたいです。
だらだらと長くなりすみません。
古谷さん、しゅくこはもともと馬の調教師(笑)でして、しばらく北海道の大雪山の見える牧場に一仕事(?)しに行ってきます。太鼓叩き (それとも踊る猿?)はそういうわけでお休みになりますが、どうぞますます芸を磨かれて、観客のみなさまを楽しませてあげてくださいますよう。
しばらくはごきげんよう、
写真は、左から2枚は人を乗せる前の準備運動を兼ねた調教。
右はしは、どちらも遊園地で働く、仲良しの人気もので大事にされています。
「青春日記」 第14話をお送りします。
もうお送りするネタは尽きましたが、皆さんがお待ちになっておられてはいけないと思い、乾いた雑巾を絞った結果、辛うじて、ハナシを一つ思い出しました。
私が、カラカスに駐在したのは、1972-76年の四年間でした。1972年も景気は悪く無かったのですが、翌73年に第四次中東戦争が起こり、OPECが油価が四倍以上も引き上げた結果、ベネズエラも国中が非常な好景気に沸きました。
カラカスの繁華街で、道の両側に20軒ずつ並ぶレストラン通り、どの店も連日連夜超満員。
不夜城を思わせる賑わいでした。料理の種類も、仏・西・伊・独・アラブ・支那と選り取り見取りと豊富。日本からの訪問客接待に事欠くことはありませんでした。
女房が、四年間物価が変わらなかったと感心した程で、両手に抱えきれぬほど買い物をしても、タクシーの運転手が、荷物をおろすのを手伝って呉れたと喜ぶほど、周りも親切でした。第一、街に乞食が居なかったのです。乞食も家で食える程豊かだったのです。
夜の蝶が屯するバーで、蝶一人ヒトリに国籍を尋ねたら、一番多かったのは隣のコロンビア。次いで、パナマ、ペルー、エクアドールと言った按配。蜜に群がる蜂とはこの事を指すのでしょう。兎に角、バーに収まり切れぬ程多かった。シュクコさん、変な事を連想したら、あきまへんで。私は、どの国が不景気か社会探訪してたのです。
それと、石油輸出が盛んだった所為でしょう、街で英語が良く聞かれました。当時、南米でこれほど英語が聞かれた国は無かったのです。米国人が多かったのです。カラカス市とLa Guaira (Sea Port), Maiquetia (Air Port) を結ぶ片道三車線のハイウエーが素晴らしかった。
あれ程の高速道路は他の国には無かったのです。これも米国が作りました。
日本の為替レートが壱米弗vs360円の時代でしたから、商売も良くできました。秀逸は、中古のTug Boat を3隻運河庁に売った事です。当時、ベネズエラの最大の油田はマラカイボ湖にありました。上流から流れ込む砂が湖底に溜るので、浚渫船で泥を浚渫していました。その浚渫船を引っ張るタグボートを必要としたのです。
タグボートが到着する前に、Guatemala へ転勤しましたので、ボートを見ていません。後で聞いた処、二百トンソコソコの小舟が自力で太平洋を渡ったと知り、腰が抜ける程びっくりしました。航海は一月以上掛かった筈です。毎日何をして暇を潰していた事やら。
何故に、カラカス駐在時代の事を斯くもクドクドと書いたのかは、私の17年に及ぶ海外駐在時代で、公私共に一番充実した生活を送れたからです。
翻って、今日のベネズエラは、ご承知の通り、国家財政が破綻の危機に瀕していますが、私が駐在した時期のベネズエラの感覚からではとても想像出来ない事です。先年、亡くなったChavez 大統領が自国の利益を追求する余り、メジャーとの摩擦・軋轢が生じ、PDVSA(国営石油会社)の経営を棄損する事になりました。これが、油価の下落と相まって、国家財政を危機に陥れる大きな要因になったのです。
https://en.wikipedia.org/wiki/PDVSA#cite_note-5
シェール・オイルの出現で、原油の価格は元へ戻らないと言われています。ベネズエラの難民が、国境を越えてブラジルに逃避していると新聞が報じています。
嘗てのベネズエラの繁栄を享受した者が、今日の窮状・惨状に胸を痛める余り、いたたまれず、筆を執りました。
丸木で〜す 思い出します。Avila亭なんかでも羽振りのいい日本の商社マンが奇声をあげオダをあげてました。古谷さんの外大スペイン語科先輩に当たる僕の高校同級の小林一雄が、60年代にカラカス駐在員として業績を上げ、大阪本社で退職時には専務でした。
古谷さん 藤沢です
遠い土地の珍しい話、いいですね。
まして友人の実体験なら感慨も一入です。
思い出した時にはまたお願いします。
丸木で〜す そうですよ、種切れどころか話は段々おもろなって来ましたぜ、続々披露しとくなはれ古谷はん。
しゅくこさ〜ん 古谷です
「青春日記」 第15話をお送りします
1978年02月、Guatemala City に大地震が起こりました。私が、同地に赴任したのは09月でしたので、私は幸い地震に遭わなかったのですが、それでも未だ街のあちこちに地震の爪痕が残っていました。
勤務先の合弁会社 ACRICASA はニット用のアクリル繊維の紡績・染色工場で、染め糸を中米全域に売っていました。日本人職員は社長を含め、総勢十名。地震発生直後は、電気・水道は途絶え、皆蝋燭を買い求め、あちこちへ貰い水歩きしていました。
幸い、工場は、自家発電設備を持ち、且つ水は地下水なので、操業に影響は無し。地元 Guatemala 以外向けの注文をこなす為、四割程度は操業していました。
日本人は清潔好き、特に女性陣2日も風呂に入らぬ生活に恐慌状態。そこで、工場の染色部隊、止まっている染色機を風呂釜に利用する事を発案。中の備品を取り外し、五右衛門風呂に仕立てました。熱源は地下槽の重油。
問題は、染色機の周りは何もない空間。脱衣スペースも無ければ、仕切りカーテンを設置する器具も無い処。僅かに、木製の踏み台を置くのが精一杯の状態。全てすっぽんぽんの場所柄、当初女性陣躊躇したものの、風呂無しの生活に耐え切れぬことから急造五右衛門風呂を受け入れました。
社長命令で、釜の温度管理をする染色の技術者以外は立ち入り禁止。他人の嫁さんの裸体を拝める栄に浴した染色の技術者、いつまでも、他人から羨まれ、根掘り葉掘り聞かれてました。
よくぞ、我が家は電気・水道が復旧してから現地入りしたものです。(了)
「備考」しゅくこさん、これで到頭ネタ切れになりました。何ぞヒントを下さい。
古谷兄 五十嵐司です。 「青春日記」出版のお勧め
「青春日記」 毎回楽しく読ませて頂きました。 生き生きした筆の運びで、貴兄の青春時代各地で出合った出来事が鮮明に蘇って紹介され、読む人それぞれの若き日の思い出とも重なって、興味深い読後感であったことでしょう。 人間相手(主として異人種のバイヤーたち)の心を動かす国際セールスの仕事は多彩で奥が深く、その反対の、例えば私のように物(製品)相手の研究・開発・製造などにたずさわるものとは違って、随分と人間的でダイナミックな生活であったことか、と思い知らされました。 それにしても、貴兄の豊かな文才による筆力(ユーモアもあり、きめ細かな描写と説得)には毎回驚かされるばかりでした。 それで考えるに至ったことは出版です。 僅か2−300名のメル友「私達の50年」宛てだけではもったいないと思い、もっと多くの20万ー30万の人たちに読んでもらいたい。 稿をあらためて「海外出張商社マンの青春」とか「海外セールス泣き笑い人生」とかの題名で単行本を出されたら、多くの人が興味を持って読むだろうし、ご子孫や友人・縁者に残す「自分史」を兼ねるようなものになるのではないか。 それが駄目なら、W−50の多士済々の商社マンOBたち、麻生・駒形・和田・丸木等々の諸兄と計っての共著も考えられます。 ご一考下さい。
五十嵐様 古谷です
貴信を有難く拝誦しました。愚作に対し、大変暖かいお心遣いを賜り、唯々恐縮しております。
和田さんの「私達の50年会」は五百名に垂んとする大規模な Blog である事は承知しておりましたが、同郷の誼でシュクコさんに「三の宮での、特攻帰りの朝鮮人狩り」を呟いたのが切欠で、ハナシは次々と続いたものの、元々「二人だけの会話」の積りでおりましたし、今もこのスタンスは変わっておりません。
話を重ねるに連れて、あちこちから、励ましの言葉を頂戴し、励みになりましたし、和田さんよりも、「そこそこボリュームが纏まれば、「W50年会」に掲載しても良い」との申し出を頂戴したのは、望外の喜びですが、元々「青春日記」は極々気心の知れた仲間内の「つぶやき」であり、その域を超える品位を持たぬものと心得ております。
事は上述次第にて、お申し出に厚く御礼申し上げます、と同時に折角の貴意に添えざる事を誠に遺憾に存じ、ご容赦を伏して懇願いたす次第です。
古谷さん 和田です。
五十嵐さんからのお勧めであり機会があれば是非考えて下さい。40年‼の寄稿集としては3部作で残して置く積りにしており既に前、中編は掲載済みで最後の後編も現在9087字になっておりしゅくこさんの締めの言葉を頂いた上で掲載終了とさせて頂きます。
五十嵐さんが提唱しておられるようにまた新しい形で仲間の皆さんと語り合う企画は、古谷さんの器量で展開して頂ければ賛同、呼応して呉れる仲間が出て来るかも知れませんね。固い話題より皆が参加、好きな時に好きな発言が出来る場として育って行けば管理運営者としてこれ程嬉しいことはありません。
しゅくこさん北海道から戻ったら締めの一文を500字前後でお願いします。
古谷さ〜ん & みなさま しゅくこです
14話、べネゼラは カラカス、1970年代の好景気に沸いた遠い国の不夜城がまざまざと目に浮かびました。
たばこの煙の中に舞う美しい夜の蝶。1人1人に国籍を尋ねてまわり、勉強?にいそしむ若き古谷さん。
「シュクコさん、変な事を連想したら、あきまへんで」の一文でとつぜん妄想をかきたてられてしまったしゅくこですが(笑) それは書けません。
15話、グァテマラの大地震とにわか作りのお風呂。
地獄図の中の、「あったか〜い ♨ 」 エピソード。
駐在員の奥様たちが、男性たちの創意工夫でにわかづくりのお風呂に入る様子。
きっと日本人らしく前を隠しつつ、窯のお風呂におそるおそる足を入れる・・・
そのうち、湯けむりの中に嬉し気な小さな笑い声がさんざめきます。
それにしても男性たちは優しいですね。 彼女たちと交代して入った男性陣たちの満足げな笑顔と豪快な笑い声も、遠くグァテマラから聞こえてきます。
1995年1月17日早朝日。阪神大震災が起きました。死者数、約6500人、その7年前まで住んでいた東灘区では、親しくしていた裏の八百屋のお兄さんが地面にぺしゃんこになった屋根の下敷になり亡くなり、まもなくガス漏れのうわさなど広がり、群衆は疲れ切って水をさがしまわる、死臭と焦げ臭い匂いがしみついた神戸の街でした。
三田に引っ越した時に、「イノシシしかいない田舎になんでまた引っ越すの?」と半分嗤われながら見送ってくれた隣人たち。
そのかれらが、震災後の憔悴した顔で入れ替わり立ち代わりお風呂に入りに来たことを思い出します。
子供さんたちのキャッキャとはしゃぐ声に混ざって「あー生き返ったわ〜」と心底から発した友人の声が浴室から聞こえてきたときは、お風呂というのが、日本人にとっていかに傷をいやしてくれるものか・・・しみじみと感じたことを、このお話でおもいだしました。
つたない感想でしたが、参加させていただき、光栄でした。
muito obrigada
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