≪身の上話≫ ポルトアレグレ近郊にお住いの藤沢晴巳さんのお便りです。
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ヤフーのメーリングリストは、廃止と共にデーターを失ってしまいましたが、2014年2月17日に開設した『私たちの50年‼』のメーリングリストは、3年5ヵ月で31102件の書き込みがあり平均1日25件のメールが飛び交っています。現在332名のメンバーが登録されており13人に一人は、毎日何かの発信をしている計算になります。話題は、多種に渡り退屈しませんが、そんな中で管理運営者として一番嬉しいのは、今回の藤沢さんのような身近な話題をすんなりと開陳される話題です。奥様のエステルさんのご家族を愛情を持って語っておられる話は、機会があったのにわが父、義母との対話を逃してしまった私の取り返しが付かない怠慢さを知らせて呉れました。
460万回のアクセスを控えた『私たちの40年‼』あるぜんちな丸同船者寄稿集に残して置きたいと思います。
写真は、藤沢さんのお宝とも云える貴重な写真の一枚を使わせて頂きました。
真ん中で立っているのが3歳の頃の奥さんエステールさんです。
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和田さん 藤沢です
前後の脈絡を保つため言わずもがなのことも書きますが、ご了承下さい。
身の上話といっても、何の変哲もない私のではなく、家内のEstherとその周辺のものです。先祖までさかのぼれば実に波乱に富んでいます。エステルは、弾劾裁判で罷免されたDilma前大統領ともほんの少しですが接触がありました。教師(国語、仏語)だったせいで、大勢の仲間たちと、教育内容や待遇改善のための活動をしていた頃の話です。Brizolaが立ち上げ率いていたPDTの指導者の一人として、南部RS州を活動拠点にしていたDilmaは,いろいろ手助けしてくれたそうです。Brizolaは反共でLulaのPTともはっきり一線を画していました。Dilmaはその後、己の政策実現のためにとPDTを離れPTに鞍替えしましたが、腐りきったPTに逆に取り込まれ、操り人形になってしまいました。
閑話休題。家内の父方は軍人の家系で、いままでに将官を5人出しているそうです。内2人は陸軍士官学校だけの学歴でしたが、陸軍大学設立(1948)以前は、陸士卒で成績優秀者が将軍になりました。佐官ならもっといます。義父も一族にならいポルトアレグレの陸軍幼年学校に進みました。しかし、持ち前の熱しやすい気性のせいで衝突が多く、ついには当時使われていた筆記用インキ壺を校長に投げつけてしまいます。いったんは放校処分になりましたが、履歴にキズをつけないようにと周囲の者がとりなしてくれて、自主退学となりました。おとなしくとにかく陸士まで進んでいれば大佐にはなっていたはずです。
退学後は、これもやはり周囲の斡旋で電力公社に就職しましたが、ここでも持ち前の反逆精神からやがて左翼思想に傾き、ブラジル共産党に入党しました。そして1964年以降の軍政時代の激しい左翼狩りで、2度拘束されました。ベトナム戦争が激化し、冷戦たけなわだったころで、アメリカの影響力が格段に強く、政権に逆らう者はすべて弾圧の対象だった時代です。当時拘束された者は、数日後には川面に浮いているのも珍しくありませんでしたので、2度目の拘束時、家族は最悪の結果も覚悟していたそうです。しかしこの時も軍事政権につながりの深い親戚、友人の尽力で無罪放免になりました。反抗した国家権力の影響力から最後まで逃れられませんでした。
義父は頑固で己の信念に忠実な人間でした。それだけに、ブラジルをめちゃくちゃにした、元大統領Lulaの率いる党PTのいかがわしさを早くから見抜いていたらしく、1980年代PTが党勢を急速に拡大していたころ、何度も入党を誘われましたが全く相手にしなかったそうです。こんな絵に描いたように不器用な義父を私は大いに尊敬しています。自身が正しいと信じた道をドン・キホーテのように愚直に突き進んだ人生で、誇り高いわが舅殿は立派でした。
政治については、世間知らずにならない程度の知識や情報を私とて持っていたとはいえ、政治に首を突っこむのが嫌いで昔も今もノンポリの私は、義父とは政治の話はあまりしませんでした。私のみるところ、彼は共産党員とはいえ、実際には共産主義者ではなかったようです。口では革命をいっても、本当のところは多分ゆるやかな改革であり、18、19世紀的な教養や習慣につよい郷愁を持っていました。所属政党とは異質の夢を追いつずけたロマンチストです。ワリを食ったのは公務員だった子供たちで、たとえば、政治にかかわらなかったのに共産主義者の娘というだけで、エステルは昇進や配属でいろいろ不公平な扱いを受けたと言います。
70年代には、ソ連の社会主義が立ち行きそうもないのはすでに広く知れわたっていました。アメリカは建国以来ひどいことを国内外でやり戦争太りしましたが、帝政ロシアの膨張主義を引き継いだソ連も、負けず劣らず国内外でひどいことをしました。これを言っても義父は受けいれず、さいごまでソ連を正義の国と考えていたようです。思い違いだったのですが、そのように信じていたソ連の崩壊をみることなく亡くなった義父は、ある意味幸せでした。
補)主題から外れますが、台頭中の中国も国内で深刻な問題をかかえているようで、かつて似たような状況下にあったときのソ連やアメリカと同じような道を歩み、横車をこれからも押して来そうです。どう付き合っていくか指導者たちにはチエを絞ってもらわなくてはなりません。
『50年』にはそぐわない話ではないのか、こんな疑問を抱きつついつの間にか、和田さんの懐の深さを良いことに、長々と書いてしまいました。義父の先祖は、ハプスブルク・スペイン帝国とフランス王国が30年戦争で勢力争いをしていたころのネーデルラント出身です。これにオランダ独立の80年戦争まで加わった混乱に巻き込まれ、フランスに移り住んだ後、一族の一部は新天地をもとめ南米に移住しました。ヨーロッパは政争、戦争つずきの歴史で、家内の母方のほうもかなりの波乱がありました。良ければいつかまた書いてみます。
写真を添付します。一枚は両親と子供たち3人で、両親の間にいるのがエステル(3)です。他は、まだ知り合うまえの20歳ころのものです。何人かと一緒の写真の下手なトリミングと拡大や複写のせいで、ボケたり色褪せたりしています。そのせいでもないでしょうが、とりわけ気に入っている一枚です。
(コメント集)
藤沢さん 『身の上話』大変嬉しい50年‼の管理運営者としての最良の書き込みとして感謝すると共にメンバー総ての共有物としてBLOG掲載と40年‼寄稿集にも残して置くことをお許し下さい。藤沢さんの奥様と奥様の家族、祖先に対する深い尊敬と愛情を感じさせる真摯な文に感動しています。私は、残念ながら我が家族、また伴侶恵子の家族にも藤沢さんのような深い愛情と考察を抱いたことがなく長く一緒に生活していた恵子の母、娘たちのおばーちゃんに付いても女学校まで出ているおばーちゃんがどのような青春、学生時代を過ごしたのか知りません。機会を見つけて聞いて置けば良かったと思っていますが果たせぬままでした。100歳まで生きた親父が70歳の時にブラジルに来て彼方此方、飛行機、車やバスで旅をしましたが、親父と一緒に車で旅をした時に良い機会だし今聞いて置かないと聞くことが出来ない知らない親父の若い頃の話をする機会だと思ったのですが、何も語れず、聞かず機会を失ってしまったことが悔やまれます。母は、私が2度目に来泊した1965年に若くして亡くなっておりこれと云った母の事も知りません。ましては両親の出自、祖先に付いても何も知りません。私の40年‼寄稿集、BLOG等が娘たち、孫たちのおじちゃんの生き様を辿る縁になって呉れればと思いますが、余り役に立ちそうもありません。従い藤沢さんの身の上話には、羨ましさを感じています。ステラさんの3歳の時の写真、若い頃の写真素敵ですね。藤沢さんの宝物ですね。見せて頂き有難う。
メンバーの皆さん一人一人の身の上話を聞きたいものですね。
和田さん 藤沢です
過分なお褒めの言葉を有難うございます。エステルにも読んで聞かせたところ、たいへん喜んでいました。躊躇していましたが、やはり書いてよかったです。
それから、あんな文章で良ければどうぞご自由にお使いください。
藤沢さん、広橋です。
シンプルな文章、心打つ文章、妻の家族を歌った文章、素晴らしい「身の上ばなし」です。
私は、小説を書きますが、こんな淡々とした素晴らしい文章は書けません。
全てが文章以上に伝わりました。不思議な投稿でした。
広橋さん 藤沢です
お褒めいただき望外の喜びです。有難うございました。
読み返してみると気になる表現も散見されるので、次はなお気をひきしめて筆をとるつもりです。
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