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新連載 桜井悌司さんの『ブラジルを理解するために』(その9−その13)
週1度の間隔で桜井悌司さんの『ブラジルを理解するために』を50年‼のBLOGに掲載させて頂いていますが、今回は、その9からその13までを纏めて40年‼ホームページの寄稿集に掲載し残して置くことにしました。今回は、ブラジルでうまく取材するには、サンパウロでサッカー見学の際に心得るべきこと、文化協会に置けるセミナーとかノウハウ物から万国博とブラジル、ロータリクラブで学んだこと等ご自分の実体験に基付いた貴重な話満載です。ブラジルに長く住む者にはうんうんと頷くことが多くこれからブラジルで生活する者にとっては直ぐに役に立つブラジル入門書になるでしょう。参考にして生かして頂けると筆者の望外の喜びでしょう。
写真は、どれにしようかと迷ったのですが、ブラジルと云えばサッカー、桜井さんが観戦時に撮られたモルビーサッカー場の写真を使わせて貰いました。


連載エッセイ9
ブラジルでうまく取材するには
執筆者:桜井悌司(日本ブラジル中央協会常務理事)

私も海外生活15年半とかなりの長きにわたったが、その間、多数の外国人と面談・取材した。その経験から、面談相手の外国人から必要な情報をいかにうまく引き出すかを真剣に悩み考えたものであった。
 日本から多数のミッションや政府関係者、団体、企業の方々を受け入れた。同行して相手国の役所、団体、企業を訪問する機会が数多くあったが、必要な情報を手に入れることができないケースが多々あった。その原因を分析すると次の4点となる。
1)時間の配分を事前に考えない。
2)わかりきった質問、ポイントのはずれた質問をする。
3)質問の優先順序を考えない。
4)アポイントの相手が適材ではなかった。
 以下説明しよう。
1)時間配分については、相手が重要な人物であればあるほど、事前に考えておかなくてはならない。何故なら要人は、当然多忙であるから多くの時間が割けないからである。したがって、30分なら30分、1時間なら1時間の中で取材しなければならない。
2)わかりきった質問をするミッションが多い。一般的な質問、公表されている情報や統計についての質問は絶対に避けなければならない、何故なら、ラテンの要人は、総じて話が好きなので、延々としゃべりだすからである。その結果、時間切れになり、最も重要な質問ができなくなることになる。
3)質問の優先順序を考えないケースも多々ある。優先順序をしっかり押さえておけば、とりこぼしがなくなるので良い取材ができることになる。
4)アポイントの相手が適当でない場合も時々発生する。この場合はどうしようもないが、アポイントを取る場合は、適材適所の人材でかつできるだけ高い地位の人物を選ぶことが必要である。
 私は数多くの失敗を経験した結果、次のようなやり方がベストだという結論に達した。すなわち、最初に、@たくさん質問したいことがある、A時間も限られているので、優先順位をつけた質問リストを用意していること、Bそのリストに従い質問したいが、その方法で問題ないかということを相手に尋ね、その後質問に入るというやり方である。この方法は、概して好意的に受け止められた。何故なら、真剣に取材しようという姿勢が相手方に伝わるからである。
 相手がこちらの必要とする資料を用意してくれれば、ベストであるが、そこまでは望めない。ミッション側が資料やデータを要望した場合、相手側は、ミッションメンバーを喜ばせるために、追って資料を届けるという発言をすることがある。しかし、この発言は要注意である。後で送ってもらったケースは極めて少ない、ほぼ皆無と考えた方が精神衛生上良い。ミッションが帰国後、要望した資料はどうなったかという問い合わせが入るが、その場で入手しない情報は無かったものと考えるべきである。
                   2016年1月上旬
写真1 記者会見風景


連載エッセイ10
万国博覧会とブラジル
執筆者:桜井悌司(日本ブラジル中央協会常務理事)

これは、筆者の独断かもしれないが、ブラジル人は、ブラジルの対外発信にそれほど熱心でないように思える。この点、日本人とよく似ているが、日本人の場合、言語能力とあいまって対外発信は、一般的に不得手である。ブラジル人は、普段から話好きで、個人の対外発信は大得意ではあるが、国としてのブラジル全体の情報発信には熱心ではないようだし、決して卓越しているとは言い難い。その理由は、大国意識から来るものと思われるが、外国人がブラジルを知りたければ、ブラジルにやって来て、勝手に情報発信をすればいいと考えているからだ。不思議にイタリア人も同様の発想をする。ローマ帝国とルネッサンスで世界を2度も制覇したイタリア人は、イタリアのことを世界に知らせるのは外国人の仕事と考えているふしがある。
このことは、ブラジルの万国博覧会への取り組みをみると一目瞭然である。博覧会は直接ビジネスに結び付かないが、観光振興には大いに効果を発揮する。筆者は、1992年のスペインのセビリャ万国博覧会以降すべての国際博覧会を視察し、ブラジルや中南米諸国のパビリョンを見てきた。ちなみにブラジルの参加状況をみると右表のとおりである。
開催年 国 名 名称 博覧会の種類 参加形態
1992 スペイン セビリャ万国博覧会 登録(一般)博 合同館
1993 韓国 太田世界博覧会 認定(特別)博 不参加
1998 ポルトガル リスボン国際博覧会 認定(特別)博 合同館
2000 ドイツ ハノーバー万国博覧会 登録(一般)博 合同館
2005 日本 愛地球博 登録(一般)博 不参加
2008 スペイン サラゴサ国際博覧会 認定(特別)博 合同館
2010 中国 上海万国博覧会 登録(一般)博 単独館
2012 韓国 麗水国際博覧会 認定(特別)博 不参加
2015 イタリア ミラノ万国博覧会 登録(一般)博 単独館

少し説明が必要であろう。博覧会は2種類に大別できる。大型の博覧会は、登録博覧会(昔の一般博覧会)といい、比較的小さな博覧会は認定博覧会(昔の特別博覧会)と呼ばれる。登録博覧会では、5年に1回開催される。原則、主催国は、参加国にスペースを与え、与えられたスペースに自国のパビリョンを建設することになっている。認定博覧会の場合は、主催者が展示スペースを与え、そこに参加国が展示するという方法である。
 ブラジルは、92年のセビリャ万博以来9回の博覧会のうち。6回参加し、3回不参加であった。不参加の博覧会は、韓国の大田博、麗水博と日本の愛地球博であり、韓国と日本で開催されたアジアでの博覧会には関心を示さなかったと言えよう。大型の登録博覧会は、5回あったが、主催者が用意するラテンアメリカ合同・集合館内で展示したのは、セビリャとハノーバーの2博覧会、2005年の愛地球博は、愛知県に多数の日系ブラジル人が労働者働いているにもかかわらず、ブラジルの名はなかった。不参加の理由は、ハノーバー万博で汚職事件があり、その影響で参加しなかったと噂されていた。しかし、上海とミラノには独自のパビリョンを建設した。ようやく、世界第7位の経済大国の意識が芽生えてきたのかものかもしれない。
 ブラジル館の展示の内容は、決して褒められたものではない。セビリャ万博以来、ほとんどの場合、アマゾンのジャングルの風景を表現したものとかコーヒー、サッカー、カーニバルの類であった。ブラジル人自体、「アマゾン、コーヒー、サッカー、カーニバル」といった「古いイメージ」に捉われているように思える。ブラジル人の持つ表現力、創造性、技術力はどこに行ったのかと残念に思ったものだ。上海万博の時には、ブラジルもBRICSの1国として、建物も展示内容も堂々としたものであった。(写真1参照)ミラノでは、建物の面積はまずまずであったが、展示の内容は、戸外の遊園地の遊具などが中心で、ブラジルらしさがなかった。(写真2参照)ラテンアメリカの国々では、メキシコは常に立派な展示を展開している。古代マヤ、アステカ文明の紹介やメキシコ及びメキシコ人のアイデンテイテイを強力に打ち出している。アルゼンチンは総じて熱心で、ここでもタンゴを前面に出すプレゼンテーションで、なかなか素晴らしい展示をしている。
 2013年秋に、BIE(国際博覧会連盟)の総会がパリで開催された。ドバイ、エカテリンブルグ(ロシア)、イズミール(トルコ)と並んで、サンパウロも2020年万博に立候補した。筆者もサンパウロが勝利するにはどうすればいいかというレポートを執筆したりして応援していたが、サンパウロは第1回投票で惨敗した。約170か国のBIE加盟の投票国のうち、わずか13票しか獲得できなかったのである。ブラジルが頑張れば、ラテンアメリカ・カリブ海諸国の加盟国31、ブラジルと比較的親密な関係にあるアフリカ諸国40か国の支援を得られる可能性があったにも関わらず、見事に負けてしまったのである。理由はいろいろ考えられるが、基本的には、ブラジル中央政府、サンパウロ州・市のやる気の無さ、サッカー・ワールドカップ開催反対の相次ぐデモ、政治家と建設業者の癒着・汚職、すでにワールドカップとリオ・オリンピック誘致に成功していた等で熱意が急速に失われたのであろう。オリンピックと万博の2つを開催すれば、名実ともに一流国の仲間入りとよく言われるが、ラテンアメリカの中で最初に万国博覧会を開催する国は、ブラジルであろうか、それともメキシコ(1970年メキシコオリンピック開催)であろうか?ラテンフアンにとっては、興味あるテーマである。
               2016年1月下旬 
写真1 2010年上海万国博覧会でのブラジル館
写真2 2015年ミラノ万国博覧会でのブラジル館


連載エッセイ11
ブラジル文化福祉協会(文協)での人材育成セミナー
執筆者:桜井悌司(日本ブラジル中央協会常務理事)

 ブラジルでは、「ジャポネス・ガランチード」(信頼できる日本人)という言葉を頻繁に耳にする。1908年の「笠戸丸」から始まった日本人によるブラジル移住も2008年には、100年を迎えた。日本人移住者の血のにじむような努力の結果、現在の評価に繋がった。私もサンパウロ着任以来、日系コロニアの方々とは可能な限り、コミュニケーションをとるようにしていた。そのため各種式典・イベントには、招待があれば、都合のつく限り必ず出席するようにしていた。数多くの面白いイベントがあった。紅白歌合戦、全国民謡大会、全国太鼓大会、よさこいソーラン大会、日本祭り、アルージャの花祭り,アチバイヤの花とイチゴ祭り、桜祭り等々である。各地の花祭りやいちご祭りもその規模に驚かされる。大阪の枚方公園の菊人形もびっくりの豪華さである。種々のイベントに熱心に参加・出席しているうちに、あることに気が付いた。式典やセレモニーの進め方が相当大雑把で、ちょっとした手違いが頻繁に起こるのである。最初から最後までスムースに進んだ式典は少ない。いくつか例をあげてみると、式典が予定通りに始まらない、式次第の順番の間違い、挨拶や式典の時間が長すぎる、どの県人会のセレモニーに出席しても同じパターン、マイクの調子が悪い・機能しない、日本国歌吹奏のテープが中断することも数回あった。出席予定の要人が急遽欠席のため、あるいは、出欠の確認をしなかったため、ひな壇に空き席が多数生じる、要人名を読み上げても本人がいないことが多々ある等々である。ブラジル人からみると、それほど気にすることはないのかもしれないが、日本から来た日本人からするとかなり気になり、何とかならないものかと他人事ながら心配になる。私は、日本で展示会・博覧会、各種セミナー等を多数組織した経験を持っていたので、善意で(おせっかいで?)ブラジル日本文化福祉協会(文協)に「イベント組織講座」の開催を提案したところ、是非ともやって欲しいということになった。講座は、2006年1月17日(水)、20日(金)、23日(月)の3日間にわたって行った。文協の上原幸敬会長以下幹部の方々、県連の方々、ブラジル日本移民100周年記念委員会の役職員対象とし毎回30人ばかりの参加を得た。途中で、2世、3世の中には日本語を読めないので講義のテキストを日本語・ポルトガル語の2か国語にして欲しいという要望もあったので、ポルトガル語にも翻訳して、テキストとして使用した。
この講座の内容は、下記のとおりであった。
第1日目 
「何故、講座を行おうという気になったのか」
「何故事務局が必要なのか」
「式典、イベントをよりうまくやるためのポイント」
  ケース1 文協、県連主催セレモニーを改善する上での問題点
  ケース2 国士舘サクラ祭りのケース
  ケース3 Festival do Japaoのケース
  ケース4 移民史料館、イビラプエラ公園内日本館のケース
  ケース5 ブラジル日本商工会議所のケース
第2日目
「ブラジル投資ビジネスミッション受け入れのケース・スタディ」
第3日目
「工程管理とチェックリストの作り方」
 この講座については、ニッケイ新聞の2006年2月7日と8日の2回に渡って大きく紹介された。またサンパウロ新聞にも、2月7日付けで「県人会等記念式典を成功に導くには」、2月14日付けで「日本祭りをより楽しいものにするには」、2月21日付けで「サクラ祭りをさらに楽しくするには」の3本の記事が掲載された。今から思うとお節介かつ冷や汗ものだったが、2008年の移住100周年式典に向けて成功してもらいたいという一心であった。今は、文協での各種式典もスムースになっていると思うが、今度サンパウロに出かけた時には、少し覗いてみたい気がする。
               2016年2月上旬
図1 日本祭りの風景
図2 文協ビルでのイベントを告知する垂れ幕 


連載エッセイ12
サンパウロでサッカー見学の際に心得るべきこと
執筆者:桜井悌司(日本ブラジル中央協会常務理事)

 サンパウロに赴任した最初の日曜日に、一人で地下鉄に乗って、中心部のセー広場に出かけた。有名なセー大聖堂があるところで、地下鉄を降りた時点で、治安が悪そうという印象を受けた。ざっと見学した後、日本人街のあるリベルダ―ジ地区を歩いた。翌日、秘書のマリアさんに日曜日に中心部に出かけたことを話すと、「所長、危険なところに一人で出かけてはいけません」と強く警告された。彼女のアドバイスにほとんど従わず、あちこち出かけたが、幸いなことに一度も危ない目には会わなかった。もちろん、危険なところに行く場合は、それなりに用心はしていた。
 ブラジルというとサッカーが有名だが、2年5カ月の間に8回サッカーを見に行った。本当はもっと行きたかったが、ミラノのようにはいかなかった。日本やイタリアのように前売り券を売っているところが無いか見当たらず、当日スタジアムの売り場で並んで買わなければならなかったからである。最初は、友人の日本人とモルンビー・スタジアムにタクシーで出かけた。その後、子供たちと一緒にパカエンブ―・スタジアムに出かけた。一度、これまた一人でアパートから人気チームのコリンチャンスの試合を見にパカエンブ―・スタジアムに出かけた。アパートから地下鉄のパライソ駅まで歩き、そこから地下鉄クリニカ駅まで乗り、15分くらい歩くことになる。スタジアムでチケットを購入し、試合を見学した。終了後は、同様のルートで帰宅した。翌日、マリアさんに話すとまたまた叱られた。サンパウロでサッカーの試合を見に行くことは、危険が伴うとよく言われる。何故かと問い合わせると、いろいろな意見が出されるが、多くの人が、@サッカーを見に行く往路・帰路でピストル強盗などに会う危険とAサッカーのフアンどうしの争いに巻き込まれる危険をごっちゃにしていることがわかった。この2つは、解決が十分に可能である。往路・帰路の危険は、襲われる可能性を想定して、行動すればいいのである。私は、サッカーに行く場合は、常に短パンとTシャツで出かけ、クレデイット・カードや大金は持参せず、小銭を数か所のポケットと靴下の中に入れていた。仮にポケットの小銭を盗まれた場合でも、靴下の中に入れていた小銭でアパートまでタクシーで戻れる用意をしていた。
フアン間の争いも回避できる。フアン間の争いはどのような場合に起こるのかを考えればいいだけである。0対0、1対1、2対2等の引き分け試合は、お互いが健闘したことを双方が認識しているので、まず争い事は起こる可能性は低い。また2対1とか3対2などの接戦の際にも同様である。問題は、5対1とか4対1とか3対0とかの一方的な試合になった場合である。その場合は、勝ったチームのフアンが相手チームのフアンを挑発し、フアンどうしの争いが始まるのである。それを避けるには、試合の展開を判断し、険悪になりそうな展開になれば、試合終了の5〜10分前くらいにスタジアムを出て、列をなして待っているタクシーに乗ってさっさと家に戻ればいいのである。もう一つ留意すべき点は、コリンチャンスは白色、パルメイラスは緑色等チームのユニフォームの色が決まっていることである。特定のチームを応援する場合は、ファン心理としては、応援するチームのユニフォームやシャツを着て行くことになるが、ファン間の争いに巻き込まれたくない場合は、双方のチームのカラーと異なる色のシャツを着て行くようにすべきである。
                 2016年2月下旬
写真1 モルンビー・スタジアム
写真2 パカエンブ―・スタジアム サッカー


連載エッセイ13
ロータリークラブで学んだこと
執筆者:桜井悌司(日本ブラジル中央協会常務理事)

ロータリークラブはアメリカで発足し、全世界規模で活動するクラブである。その目的は、創始者ポール・ハリスの考えに基づいており、「奉仕」と「友情」である。筆者は、2008年3月まで41年の長きにわたり、日本貿易振興機構(ジェトロ)で、貿易振興や投資促進等の活動を通じて、日本と世界との経済関係の緊密化を図るという仕事に従事してきた。その目的を達成するためには、何と言っても、駐在国の人々とのコミュニケーションを深め、人脈を形成する必要があった。第2回目の駐在地のチリ(1985年〜89年)では、駐在員1人の小事務所であったため、すべて自分で何事も決定できる立場にあった。そこで月に12回チリ人と食事をしようと決定した。何とかノルマを達成するために毎週定期的に食事ができるうまいメカニズムはないかと考えていたところ、たまたま前任者がロータリークラブに入会していたので、私も入会することにした。私が入会したのはサンテイアゴ・セントロのクラブで会員数300名を越える大クラブであった。会員には、後に大統領になる人物や誰もが知っているテレビのキャスター、弁護士、医者、多国籍企業の代表、外国大使・参事官等々多彩な顔ぶれであった。毎年1回は、大統領も出席した。毎週1回の昼食会のおかげで食事回数が増え、チリ駐在の4年半は、見事12回の食事ノルマは達成でき、多くの友人をつくることができた。
第3回目の駐在地は、イタリアのミラノ(1996年〜1999年)であった。コレステロールの関係もこれあり、さすがに食事のノルマは課さなかったが、ミラノでもロータリークラブに加入した。このクラブもミラノ最大で、300人以上の会員数を抱えていた。サンテイアゴのロータリークラブと比較すると、さすが世界のファッションの中心地であるだけにやや敷居が高い感じであったが、ここでも有力企業、銀行や有力ビジネスマン、弁護士等々が名を連ねていた。入会時にはカリプロ銀行会長のベルトラミ氏にパドリーノ(後見人)になってもらった。
第4回目の駐在地は、ブラジルのサンパウロ(2003年〜2006年)であった。過去2回、ロータリークラブの会員であったので、サンパウロでも入会することにし、適当なクラブを探したところ、「パウリスタ通りクラブ」という会員数40名くらいの比較的小さなクラブが見つかった。日本のロータリークラブは入会金も会費も高く、なかなか入りにくいが、このクラブの場合、入会金なし、会費のみであった。その会費も毎週水曜日に行われる定例会の昼食代をやや上回る程度の金額であった。3つのクラブの中では最もざっくばらんですぐに友人にしてくれるという雰囲気であった。メンバーには、多国籍企業の役員、コンサルタント、弁護士等で定例会は常に和気藹々でエンジョイすることができた。会員の家庭に招待されることもあった。昨今、ブラジルからのニュースは、汚職、賄賂等ネガテイブなニュースが多いこともあり、ブラジル人に対してネガテイブなイメージを持ちがちであるが、このロータリークラブの会員は、地域社会の発展、教育、衛生等の問題について大きな関心を払っており、献身的に各種プログラムを実践していた。素晴らしい人格の持ち主が多く、会合に出席することが楽しみであった。私の持つブラジル人の持つ良いイメージを深化させてくれた。時折、リベルダージのロータリークラブにも出かけた。ここでは、会員がほとんど日系人であり、日本にいるような感じがした。
このようにしてスペイン・ラテン、イタリア・ラテン、ポルトガル・ラテンという3つのラテン圏のロータリークラブに延べ10年間在籍した。いずれのクラブでも日本人は私1人であったため、どこでも大切にしてもらった。ロータリークラブで学んだことは、多々あるがここでは4つのことにつき紹介する。
第1は、英語が相当通用したことである。私が現地語で説明にとまどっているとチリでは英語にしようか、イタリアとブラジルでは英語にしようかそれともスペイン語にしようかと助け船を出してくれた。彼ら会員は知的な人が多数を占めていたので、英語がもはや米国人や英国人が話す言葉というだけではなく、国際共通語として、またコンピュータの言葉として決定的である認識するに至ったのであろう。
第2は、食事を一緒するということがコミュニケーションを良くし、信頼関係を深める上で、最善の方法だということが確認できたことである。私は、短いインタビューや取材などはさほど難しくはないと考えている。なぜならこちらから一方的に質問すればいいからである。しかし、食事となれば、話は全く別で、2人であれば、半分、3人であれば3分の1は自分が話さなければならないことになる。まさに全人格、総合力の勝負となる。その意味で、今まで76カ国・地域を旅した経験、多くの国籍の人々と話した経験、常に好奇心を出して、何でも関心を持ったおかげで歴史、文学、芸術、音楽、映画、スポーツにもある程度通じるようにことになったこと等がすべて良い方に左右した。
第3は、楽しんで寄付集めをする方法を学んだことである。パーテイを開催し、ビンゴやオークションを行う。パーテイ代の一部は寄付に回すことができる。ビンゴやオークションの景品はすべて寄贈品のため経費ゼロ、参加者は喜んでゲームに参加し、お金を供出することを厭わない。そして多額のお金が集まる。まさにWIN-WINのファンド・レイジングである。第4は、友人を通じて、人生というものは楽しむためにあり、楽しみながら長生きするのが理想なのであるということを学ぶことができたことである。
企業の駐在員は、何故かロータリ―クラブやライオンズクラブやキワニスクラブ等に入会することに消極的である。しかし、人脈形成や駐在地の国民性の理解に役立つほか何よりも駐在生活が豊かになること請け合いである。
                    2016年3月上旬



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