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≪加賀友禅職人の赤地さん≫ サンパウロ新聞河鰭万里記者ポ市日本祭りで取材
8月19日、20日に行われた第6回日本祭りとそれに先立つ18日の午前10時に行われたポルトアレグレ市の姉妹都市金沢の兼六園のことじ灯篭の贈呈式を取材に来られたサンパウロ新聞の河鰭万里記者は、1泊2日の短期簡に精力的に取材活動を行い、ことじ灯篭の贈呈式、日本祭りの開会式始め今回紹介するかが職人の赤地さん関係記事、イヴォチ移住地の上村さん、ポルトアレグレ市の大和田さん等のインタビュウー記事をサンパウロ新聞に紹介して呉れています。何れも50年‼ブロッグで紹介していますが、赤地さんの記事は、40年‼寄稿集に残して置くことにしました。
写真も河鰭さんが撮られた新聞掲載分を使わせて貰いました。


加賀友禅職人の赤地さん 第6回ポ市日本祭りで展示実演

写真は、赤地さん自身の加賀友禅染の和服と

江戸時代からの伝統工芸を継承
 8月19、20日に開催された南大河(リオグランデ・ド・スル)州ポルト・アレグレ市(ポ市)の「第6回日本祭り」では、「金沢市ポ市姉妹都市提携50周年」がテーマに掲げられていた。金沢市から計15人の来伯があったが、中でも同市の加賀友禅(かがゆうぜん)の職人である赤地暁(あかじ・さとる)さん(57、石川)の作品展示、彩色実演などには少なからずの来場者が驚いたようだった。その道38年。江戸時代から脈々と受け継がれる伝統工芸を今なお継承しつつ、独自の境地の開拓を志す赤地さんに、その半生を語ってもらった。
 同祭で開かれた赤地さんの彩色実演をじっと見入り、展示された友禅染の着物も穴が空くほど見つめている来場者がいた。非日系で、ポ市在住の生物学の研究者であるこの来場者は、「色彩の調和が素晴らしい。(描かれる対象の)形といい、絹のとても柔らかな肌触りといい……。自然そのもの。これを着て歩く女性はもう芸術作品そのものでは」と舌を巻いていた。
 加賀友禅に用いられる色彩は「加賀五彩」と呼ばれ、臙脂(えんじ)、藍、黄土(おうど)、草、古代紫の5色。柄には草花や鳥などの自然が写実的に描かれ、「虫食い」や「ぼかし」といった特徴的な技巧も駆使して、独特の自然美が表現される。
 下絵、糊置き、彩色、中埋め、地染め、本蒸しといった工程を経て、一つの作品が仕上がるのには約10カ月を要するという説明には、質問した来場者も目を丸くしていた。
 38年前、金沢市で育った赤地さんは高校を卒業し、社会人として働き始めた。元々陶芸家が多い家柄の息子ではあり、小さい頃から油絵や水彩画に親しんだが、進んだ職業はインテリアや絨毯(じゅうたん)の問屋だった。
 入社後、すぐに長野県へ移り住んだが、友人知人もいない新たな地で、時間を余す時は油絵を描いていたという。ある時、絵画が好きな取引先の社長が赤地さんの油絵を気に入り、絵の世界を勧めたこともあったが、赤地さんはそんな気はなかった。
 「絵でメシは食えませんから」。
 丁度その時期に高校時代の恩師から「加賀友禅の所に人が足りない」と声がかかり、「絵とかそういうことが好きだったでしょう」と勧められた赤地さんは、東藤岳(とうどう・がく)氏に弟子入りをした。
 「親方は長持ちしないと思っていたらしいですが、高校の先生のお願いで多分断れなかったんですよ」と赤地さん。
 元々「髪はリーゼント、つなぎを着て、不良のような」見かけだったという赤地さんは、弟子入り初日、障子の向こうで働く兄弟子や姉弟子が「それを殺して、そこにさして」といったやりとりをしているのを聞きながら、色彩のこととは分からず、「不思議に思いましたよ」と笑う。
 「なめてかかりました」。1日中座って作業することが苦痛に感じるばかりか、簡単なことしかやらせてもらえない。「1週間で辞めようと思いました」と振り返る。
 それが1カ月だけ、3カ月だけ、半年、3年と月日は過ぎた。
 「だんだん加賀友禅の奥深さに魅せられました」と語る赤地さんは、色合いの深さ、ぼかし加減などの表現を学んでいった。
 しかし、3年では一人前に仕事を任せてもらえず、5年を経てやっと、少しずつ仕事を任されるようになった。親方からも色の意見を尋ねられるようになり、師弟の信頼が生まれ始めた。「人間のつながりの大切さを知りました」。
(つづく)2017年9月1日付

加賀友禅職人の赤地さん 独自の境地でさらなる開拓志し

ポルト・アレグレ市の日本祭りで彩色の実演をする赤地さん(写真左)

 弟子入りから5年余りが過ぎ、師匠の東藤岳氏から仕事を任されるようになった赤地暁(あかじ・さとる)さん(57、石川)。しかし、弟子入り8年目頃、当時27歳の赤地さんは、「自信を無くしてしまった」という。自分に刺激を与えようと、石川県と岐阜県にまたがる白山(はくさん)を登ろうと決意した。それまで3度天候に恵まれず、登れなかった標高2702メートルの登山だった。
 「登る途中、弥陀ヶ原(みたがはら)で体が冷えてしまって、ガタガタ震えて歩けなくなったんです。そこで休みながら室堂(むろどう)に立って景色を見た時、なにかやる気が自信につながったんです。『ああ、人間ってこうやって前に進むんだ。酷い時は一休みして、水を飲んで。人間ってそれがあるべき姿なんだ』と」。
 その後、結局10年間にわたった弟子修行と1年間の御礼奉公を終え、30歳で現在の赤地暁染色画工房を開き、独立。日本のバブル景気の機運にも恵まれ、独立時の図案に100枚の注文が入り、「爆発的に売れた」という。
 「ここで大丈夫だと思ってしまった」と振り返る赤地さんは、金沢市の片町という繁華街で、人生で初めて遊びにも手を染めた。
 バブル崩壊後に「これじゃダメだ。手を動かしてこそ職人」と気付いた赤地さんは、更なる独自性を求めて研究を重ねた。
 「絵の上手な人はいっぱいいる。人と同じことをしてはいけない」と語る赤地さんは、グラフィックや、西洋美術の印象派なども研究し、抽象的なものや、「光と風を感じて、どうやって色や形」に落とし込むかも追求したり、「離れて絵を見ることの大事さ」も学んだという。
 現在は問屋からの依頼で創る作品も多いが、日本工芸会の「日本伝統工芸展」の本展にも出したい、と意欲は衰える所を知らない。
 加賀友禅の組合から来伯の声が掛かった時も、「新しい力をもらうには何か刺激が欲しい」と感じていたという。「ブラジルには見たことのない植物も多くて、画材になるかもしれない」と語るなど、常に周りから学ぼうとする姿勢を見せていた。ポルト・アレグレ市のブラジル日本移民との交流の場では、「日系ブラジル人が、ブラジルの良い所も悪い所も受け入れて、移民としての誇りを持っている生き様には本当に感動しました」と話していた。
 「人間は日夜、変化しなければならない」と語る赤地さんの「道」は、来伯を経て、これからも続いていく。
(おわり)2017年9月2日付



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