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「癒(いや)しの旅」川越 しゅくこ 
しゅくこさんの北海道の旭川近郊の大雪山自然公園内にある牧場でホースセラピーを遣っている馬友達を訪ねての3日間の旅とその間に思い出したこれまで人にも話せなかったチトセとの悲しい思い出、馬と人間の強い繋がりを独特の語りで読む人を引き付ける短編に仕上げる筆力は、是非40年‼のホームページに残して置きたいと思わせる力作です。3日間のホースセラピーですっかり腰の痛みがすっ飛び飛行場の搭乗口への階段を二段飛びでもできそうな弾みをつけて上がって行ったとの最後の一節が元気を取り戻したしゅくこさんの姿が目に浮かぶ浮き浮きした情景を描き出しています。
さりげなく添えた写真が、また素敵ですが、1枚しか掲載出来ないことから旧友の馬友達純太くんの財産とも云える道産子のアサヒとマキバが木陰で仲良くクローバーを食んでいる写真を使わせて貰うことにしました。


ほっておいても治るはず、と思っていた足腰の痛み。それが思いがけず長びいていた。病院から出ると、足元から炎がくすぶり、昆虫や雑草、生きとし生けるものをすべてを焦がしてしまいそうな、そんな8月の午後。みじめな老人と化したわたしは何度目かの弱々しいため息をつく。それにしても空気が薄い。駐車場の車にたどりついたとき、旧友の馬友達である純太くんからメールがきた。
「8月の予定はどうですか?」それは何度目かのメールであった。
北海道旭川空港から15分くらいのところに馬との触れ合いを目的にした新しい牧場ができた。何もないところを純太くんが初めて任された。その写真が4月の報告にあった。6月には「ぼくの財産ともいえる道産子が着きました。アサヒとマキバです。嬉しくて仕方ありません。しゅくこさんが来られるころには、ちゃんと調教して乗れるようにしておきます。遊びにきてください」 「ぜひ行きます」と返信してあったものの、寝床から起き上がることさえできない苦痛に悶々として旅行のことなど忘れていた。「しゅくこさん、今月の予定はどうなってますか?」私はもう一度そのメールに目をとおした。そうだった。過去のすべての病気は馬の所に行けば治っていたのだ。
それから数日後、(なんとかなるさ…)とわたしはうめき声をあげながら寝床から立ち上がった。リュックとウェストポーチ。その中に長年の旅のおともである使い古した乗馬ズボンを放り込む。気持は一気に「Go !」のモードに変わった。

空港ロビーの出迎えの中に、自信に満ちた陽灼けした青年の笑顔があった。車は広い道路を一直線に走る。高い空はそのまま吸い込まれていくような広さだ。日本のサイズではない。昔何かのコマーシャルにあったように「北海道はでっかいどう! 」と思わずはしゃぎ声をあげる。道路脇には等身大の馬のオブジェがあちこちで歓迎してくれる。「さすが馬産地ね、こうこなくちゃ北海道まできたかいがないわ」
15分くらいすると前方に大雪山自然公園が迫ってきた。その近くの見はるかす草原に純太くんの牧場がある。
さっそく荷物を置き、胸を大きく開いてバンザイをした。     
果てしなく広い空と牧場。独身のかれが「ぼくの彼女たち」と呼ぶ女の子たち、栗毛のアサヒと青毛のマキバが木陰で仲良くクローバーを食んでいる。わたしは声をかけながら2頭に近づき首を優しく抱いて初対面の挨拶をした。田舎娘たちはされるままだが、そんなことより目の下のクローバーに気もそぞろなのだ。人ずれしていない自然の風情がいい。
「馬にとって一番のストレスは空腹ですよ。だからいつでも自由に食べさせてるんです」
「そうね、朝、昼,晩と時間を決めて食べさせるのは人間が勝手にきめたことだものね」
純太くんはすぐそばのこんもりした林の中に建つ2頭用の厩舎に案内してくれた。もとはだれかの古い納屋であったらしい。2つの馬房と洗い場をつくり、森から集めてきた幹や枝で造ったフックなど、おしゃれなクラフト・アートがそれとなく使いやすい位置にとりつけられて、わたしが寄付した引き手綱や鞍などもきちんと整頓されていた。
その裏のすぐ小高いところにも行ってみた。高い木々に囲まれたこじんまりした丸馬場があった。アサヒとマキバはそこで人を乗せる調教を受ける。木漏れ陽が丸い馬場に降り注ぎ、それは金色の酒でみたされたさかずきに見え、馬と人との幸せを祝福する象徴のように輝いていた。そのなかにかれの静かな声が流れる。
「これから、ぼくはホースセラピーの仕事を専門に展開していきたいんですよ。正確にはホース・アシスティッド・セラピー(horse assisted therapy)というんですよね」すでに休みの日はあちこちに研修に行っているという。
かれは結婚式用の馬車や馬の移動に使う馬運車の運転、さらには馬事業の運営業務をこつこつと習得していたことは知っていた。
それから一歩先の、ホースセラピー事業まで夢が広がっていたのだ。
わたしはかがんでホカホカの砂を指にすくう。酒のしずくが指の間からこぼれた。
「よくぞここまでこぎつけたわね」日焼けした仕事人を見上げた。   

翌朝。人っ子一人いない森林の中を私はアサヒに乗って、純太くんはマキバで遠くまで散策に出ることになった。いざアサヒの背中に乗るとき、鐙にかけたわたしの膝に痛みが走った。足を鐙(あぶみ)の高さまであげられないのを純太くんが手をかしてくれた。昨日の朝、起き上がれないほどの膝と腰の痛みをふりきってJALに乗ったことが一瞬頭をかすめた。足を引っかけて背中にはいあがった。しかし、アサヒが動き出してからわたしは膝のことなどすつかり忘れ、自然に背筋、腹筋を中心にバランスをとりもどしてきた。その頃には腰痛のよの字も頭の中をかすめなかった。
馬の背中は柔らかいクッションのようで、私の両脚はだらんと垂れて温かい馬の脇腹に着かず離れずに沿っている。用もないのに締め付ける必要はない。ほんわかした体温は、カチカチだった膝関節に伝わり解きほぐしていった。アサヒはわたしの最小限の指示、つまり「まっすぐ歩くこと、テンポを同じに歩くこと」に驚くほど素直に反応する。馬の背で吸う冷涼な大気は、細胞のすみずみまで新鮮な命を注ぎ込んでいく。それが蓄えられた力に変わっていく。もともと穏やかな純太くんのこと、調教のために大声をあげたりする人ではない。いつも静かにゆったりと寄り添っている空気が馬たちの性格に見事に反映する。ススキの林や、枝が張り出したでこぼこの坂道を、ときには倒木やごろ石をまたいだりして、川を渡り、小鳥の声を木漏れ日のなかに聞きながら、わたしたちはいろいろ話すことがあった。
「セラピーと言えば、身近に犬や猫がいてたしかに精神的に癒してはくれますけど、馬はそれだけではなくて、肉体も癒してくれるんですよね」「そうね。そこが猫とか犬とかと違うところよね。だって。古代ギリシャの時代から馬はセラピーに使われていたという記述があるじゃない、紀元前1000年頃から500年位前からよ」
「身も心も傷ついた兵士達のリハビリのために、その頃から
セラピーに用いられているから、人はもっと馬を大事にしなければいけませんよね」
「それだけの歴史があるからドイツでは健康保険が適用されているほど乗馬療法として普及しているのね」
「そうなんですよ。日本ではまだそこまで認識されていないけれど、最近ぼくたちの仲間ではどんどんその普及は進んでいます」
セラピーの馬はあの美しいサラブレッドやオランダのフリージアン種でなくてもいい。日本の道産子は小型で賢く、これ以上ないほど立派な仕事をする。
こんなことも話した。
わたしは時代劇が嫌いである。刀や槍を振り回して絶叫しながら人殺しに行くためのシーンに駆り出された馬たちの、恐怖で飛び出しそうなその眼玉を見てほしい。役者の下手な手綱さばきで、苦し気に開けた馬の口からその悲鳴が聞こえないというのだろうか。こんな美しい背中のくぼみを神はそんな者のために創られたわけでない。背中にゆられながら話しは尽きなかった。

わたしにはずっと人に話せない辛い記憶があった。そんなこともいまポツポツと口を開いて語れるのは、馬のもつ心の癒し力かもしれない。
その俳優はNHKの大河ドラマにもよく出てくるいまでも活躍している有名な俳優である。競馬の馬を持っていた。その馬の名は鹿毛のチトセといった。競馬ではあまり金儲けができなかったので俳優はその馬を手放した。よくあることだ。肉として即処分されなかったことはよしとしょう。しかし、手放したあと、その子がどんなに苦しい生活を転々と不安のうちに強いられたか考えたことがあるだろうか。馬だって生きている。わたしたちと同じ感情だってあるのに。

チトセは乗馬施設をあちこち転々とたらいまわしにされ、人との信頼関係が信じられなくなるほどいじめられてきた形跡があった。男性にはとくに目を吊り上げて襲う真似をした。蹴ったり噛んだりの危険な馬というレッテルが狭い乗馬界に知れ渡っていった。そのたびに馬運車に乗せられて次の知らないところへ回されていった。
わたしがS乗馬クラブでチトセと出会ったのはそんなときである。かれは競馬の騎手を乗せることは教えられても、乗馬の初心者をどうして乗せていいか分からないまま転々と流浪していたのである。いったん駈足をはじめたら騎乗者が初心者であっても競馬で教えられたように全速力で駈足をして止まらない。騎乗者は叫び声をあげて手綱を引っ張って止めようとする。鉄のハミが口を痛めてその苦痛から逃れようとしてチトセは口から血を垂らしながらますます狂走する。騎乗者が落馬、骨折。ある時は会員の指を噛みちぎった。かれはますます危険な馬としてレッテルを貼られ、だれもがその鹿毛に当てられると騎乗拒否した。当然のことである。
そんな時、わたしにチトセの騎乗が回ってきた。
わたしはなぜかこの子と気が合った。怖くも危険とも思わなかった。

そのうちクラブはわたしが行くたびに「好きなように乗ってください」と専用馬のように任されたかたちになった。だれも乗りたがらなかったからだ。

数年が過ぎた。わたしの言葉や指示がなくとも駈足や停止を心で思うだけでその意志が通じるようになった。馬はこのようにして愛情があれば変わるのである。そしてわたしも、チトセに関わって以来、人生で一番多忙な4-50代を乗り切れた。突っ張って生きていくことの疲れを、馬の持つ力に頼ることによって緩和され、安堵、満足などが達成感につながっていった。馬といるときの写真がいちばん明るく見えるわよと友人は言う。たしかに、あの背中の凹みは人が幸せになるために創られたものなのだ。

ある冬の午後。チトセはわたしの手のひらをぺろぺろ舐め続けた。その行為は何かの意思表示のはじめての表現で意外だった。それがチトセの最後の挨拶であるなどと思ってもみなかった。つまりかれは出されたのである。出されたあとにクラブから電話でそれを知った。客数を十分こなせない人気のない馬は置いておけない。一頭置いておくのにもかなりの費用がかかることぐらい私だって知っていた。クラブは出すだけであとは仲介業者しか行き先はしらない。チトセの担当者は「まだ14才だからきっとどこかまた活躍できるところにもらわれて行けるとおもいますよ」、とおきまりの無難な慰め言葉を言った。チトセを自馬として買い取り、終生面倒をみてやれる経済的な自信がないままずっともやもやした気持ちで接していた結果がこんな形で終わったのだ。

それから半年くらい、わたしは半狂乱になってチトセの所在を探し回った。生きているなら引き取る覚悟だった。しかし、すべてが丁寧な不毛の報告であった。もう屠殺されたことは頭の中で分かっていたし、馬たちがその場面でどれほどの恐怖を露わにするか、どんな叫び声をあげるか現場で働いた人たちから聞かされている。チトセがそんな風な終わり方をするなんて認めたくはなかった。この時、私は初めてチトセの最後は、その肉を私が食べて自分の体の一部としたいと思った。それは食欲とはまたどこか違った種類のものであった。

そしてあれからもう数年たつ。ようやく事態を受け入れる頃になっても、友人からチトセに似た馬を見た、という知らせがあれば、すぐに連絡をとった。いくつかの落胆をかさねた結果、40年近い乗馬クラブでの会員生活の終止符を打った。持っていた鞍、手綱、競技用ハット、馬着、肢巻、などすべて、馬を大切に扱う信頼できる友人たちに寄付をした。その中の一人が純太くんである。私の手元に古びた乗馬ズボンとチトセの写真だけが残った。
     
こんな話をしたのは、今回の乗馬旅行ではじめてのことであった。
わたしたちは、陽だまりのなかで馬の好きな笹のおやつをたっぷり食べさせ、途中駈歩をいれ、汗をかいて2時間の散策から帰ってきた。2頭に水を飲ませた。水道からほとばしる大雪山からの水は冷たい。アサヒは腰と背中の中間辺りにツボがあるらしい。そこをいつものようにマッサージしてもらう。すると、とつぜん首を伸ばし唇を垂れ「そうそう、そこがツボなのよ。効くわ〜」と、うっとり。わたしが代わって同じところを押してみる。しかし、「チョットちがうな」かのじょはチラッとわたしを見ては首をかしげる。それを繰り返すたびにわたしたちは笑いころげた。
ブラシをかけ、タオルで体を拭いてやり、2頭はまたクローバーの草原に放された。

たった3日間の旅は終わった。
おだやかに、ユーモアを添えて、かれは心身障碍者、知的障碍者、そしてわたしのように健常者でありながら膝や腰を痛めている者、老若男女にかかわらず馬とのかかわりを介在させてホース・セラピーにとりかかり始めている。そんな若者たちの将来の成功を祈りたい。
「セラピーの仕事、がんばってね。またくるから」。空港で手を振り一人になった。ふと足が止まった。いま背筋をシャンと伸ばし大股で闊歩(かっぽ)している人。まさか? 自分だと納得するまで数瞬かかった。こみあげる笑みを抑えることができない。わたしは搭乗口への階段を二段飛びでもできそうな弾みをつけて上って行った。



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