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新連載 桜井悌司さんの『ブラジルを理解するために』(その23−その25)
毎回BLOGで紹介し4回前後を1万語以内に納め40年‼寄稿集に掲載していますが、今回は、23‐25回までの3回しか掲載が出来ませんでした。
23回の【サンパウロ主要通りの由来から歴史を学ぶ】は、いかにも勉強家の桜井さんらしい話題で日常接する商用通りの名前から歴史を学ぶという接触の仕方は、大いに参考になります。またチリとブラジルに勤務経験のある桜井さん独特の【ブラジル人とチリ人】の比較論(第24回)も面白いです。サンパウロ勤務中に実現させた【サンパウロ日本産業見本市の思い出】(第25回)は、勤務中の忘れ難い出来事となったようです。写真は、第25回の日本産業見本市に清子親王を迎えて館内を巡覧するカルドーゾ大統領と清子内親王の写真を使わせて貰いました。すぐ横の御付きの方が若かりし頃の現クリチーバ総領事館の木村総領事のようです。


連載エッセイ23 サンパウロの主要通り等の由来から歴史を学ぶ
執筆者:桜井悌司(日本ブラジル中央協会常務理事)
サンパウロに駐在時には、パライソ地区のCarlosSteinnenという通りに住んでいた。また事務所は、日本総領事館と同じビルにあり、パウリスタ大通りとJoaquimEugenio de Lima通りの角にあった。ブラジル人に、彼らは何者と聞いても、ほとんどの人は、的確に答えてくれなかった。そこで、自分で調べてやろうと思い立った。文献を探したところ、近所の本屋さんで、SILVA COSTA ROSA著の「1001 RUAS DE SÃO PAULO」(2003年発行)という手軽な本が見つかった。その本を元に、インターネットも駆使し、少しずつ調べてみた。日本人の駐在員が多く住んでいる通りや比較的有名な通り等を中心に取り上げ、2005年5月に「サンパウロの主要通りの由来―駐在員のための手引き」をまとめ、ブラジル日本商工会議所のホームページに掲載してもらった。
 ブラジルで通り等住所を調べると、「rua」(通り)、「avenida」(大通り)、「alameda」(並木道)、「viaduto」(陸橋・高架橋)、「largo」(小広場)、「praça」(広場)、「parque」(公園)等が出てくる。これらをひっくるめて通り等と称することにする。
通り等の名前の命名は、ラテンの国らしく、自由自在であり、ありとあらゆるものから取っている。それゆえ、私も独断で、下記の通り分類してみた。
1)人名、2)歴史上重要な出来事がおこった日、3)宗教関係、4)先住民の言葉、5)国名、6)その他である。以下説明しよう。
1)人名 これが一番多いようである。人名も様々で、@歴史上の英雄・人物、A実業家、B芸術家、C学者・医者、D宗教関係者、Eポルトガル王室関係者、F軍人・政治家、Gジャーナリスト、H現代の英雄、I外国人等とである。比較的よく知られている通りと人物を紹介する。
@ 歴史上の英雄・人物 
Libertador SimónBolívar(解放者シモン・ボリーバル、言わずと知れた南米の北部諸国の独立の英雄である)
Trajano(トラヤヌス帝、ローマ帝国の5賢帝の一人)
Tome de Souza (最初のブラジル総督、サルヴァドール市を建設)
Pedroso de Morais (16世紀末から17世紀の初めにブラジル南部を探検し、多くのインジオを捕虜にし、「インジオの恐怖」とあだ名を持つパウリスタのバンディランテス
A 実業家
FranciscoMatarazzo (イタリア生まれ、ブラジルの工業化の推進者、マタラッゾ財閥の創始者)
Alvares Penteado(農業で成功し、産業家として紡績・織物工場を建設、その後教育面で貢献した。その名をとった財団や大学で有名)
B 芸術家
Maestro Villa Lobos (世界的に有名なブラジルのクラシック音楽の作曲家)
Tarsila do Amaral (ブラジルを代表する画家)
Antonio Carlos Gomes(歌曲「グアラニ―」の作曲者)
Vitor Brecheret(イビラプエラ公園のバンディランテス像で有名な彫刻家)
Ramos de Azevedo (サンパウロの主要建築の多くが彼により設計・建設された)
    RuiBarbosa (作家、政治家、共和国大蔵大臣、1891年の共和国憲法の起草、ブラジル文学アカデミーの創始者)
C 学者・医者
Galvão Bueno(日本人街・東洋人街を代表する通り。法学者・哲学者)
Josue de Castro(世界的に知られた「飢餓の地理学」の著者。社会・経済学者)
Oscar Freire(医者、法学・犯罪医学協会、教育・指導協会を創設)
Oswaldo Cruz(医者。ペストや黄熱病との闘いに貢献。同名の病院で有名)
    ProfessorArthur Ramos (ブラジル人類学・民俗学学会の創始者。教育・健康省の精神衛生部門の創設者)
D 宗教者
Manuel de Nóbrega (イエズス会使徒。最初の総督であるTomede Souzaに同行して、ブラジルに渡る。彼の請願により、最初の司教管区が設立される)
Padre José de Anchieta(スペイン生まれのイエズス会使徒。サンパウロ市創設者)
E ポルトガル王室関係者
Imperatriz Leopoldina(1797年ウイーン生まれ。ドンペドロ1世の奥方、ブラジル最初の皇后)
Teresa Cristina(イタリア生まれ。ブラジルの皇后、慈善の仕事に没頭し、ブラジル人の母と呼ばれた)
F 軍人・政治家
Presidente Castelo Branco(軍人。将軍、元帥、後に大統領)
BrigadeiroLuis Antonio(ポルトガルからブラジルに移住。軍隊に入り、准将に昇格。後承認として成功し、多額の資金を寄付)
Brigadeiro Faria Lima(空軍省の創設に参画。5月23日通りや地下鉄が建設された当時のサンパウロ市長)
    MarechalBittencourt (モライス大統領時代の陸軍大臣。ジェツーリオ・ヴァルガス大統領により、陸軍サービスの守護者に任命される)
G ジャーナリスト
Gaspar Líbero(ブラジルで最初の通信社を設立、AGazetaの編集長)
José Maria Lisboa (ポルトガル生まれ、ジャーナリスト、DiárioPopularの発刊責任者)
H 現代の英雄
AyrtonSenna(F1を何度も制覇した英雄。グアルーリョス空港へ行く高速通りで有名)
I 外国人等
外国の有名人から命名された通りであるが、日系人の名前も見受けられる。・
Comendador Tadashi Nishi(ブラジルに帰化。サンパウロ等で商業連盟、スポーツ連盟に協力・貢献した)
Shuhei Uetsuka(ブラジル移民の父と呼ばれている。植民者と農場主の間に立って、双方のメリットになるよう努力した)
2)歴史上重要な出来事がおこった日にちからとったもの
これが結構数が多い。サンパウロを運転して比較的頻繁に通るのは、
Vinte e Tres de Maio (5月23日通り) サンパウロの民衆が、1932年5月23日に、広場に集まり、連邦政府に憲法の制定を要求した日
Nove de Julho (7月9日通り) 1932年7月9日に起こった「立憲革命」として知られる軍の運動蜂起の日
その他奴隷廃止にちなんだ日が5月13日通りと11月7日通りがある。ブラジル人は、歴史的に早い時点で奴隷解放をしたのを誇りに思っているようだ。
Doze de Outubro(10月12日)は言わずと知れたコロンブスのアメリカ大陸到達日で米州大陸のすべてで祝日となっている
3)宗教関係・聖人等 聖人・聖女の名前や宗教でよく使われる言葉からとったもの 例えば、SãoJoão、São Luis、SantaCecília、 Santa Ifigênia、SantaRosa、Conceição(受胎)、Consolação(慰め),Misercórdia(慈悲),等がある
4)先住民族(インジオ)の言葉(トウピー語が多い)からとったもの 例えば、Butantã(固い土地)、Ibirapuera (くさった木)、Ipiranga (赤い水、粘土質の水)、Jabaquara(岩石、穴) 、Pacaembu (天竺ネズミの小川)、Morumbi (小山、高い丘)、Moema (夜明け)、Jaú (暴飲暴食する魚、反抗的な子供の体)、Anhangabau(有毒の水)等がある。頻繁に訪れるところにインジオ語起源の場所が多いことがわかる
5)国名 サンパウロ市内の一角に、ブラジル、アルゼンチン、スイス、スウエーデン等外国の名前をとったところがある
6)その他
Bandeira広場(国旗の広場)
Liberdade広場(絞首刑が行われた広場。住民の要望により絞首台が移され、自由の広場になった。東洋人街の中心)
Viaduto de Chá(昔、このあたりでお茶の栽培がなされた)
最初に出したCarlos Steinenn,は、それほど有名ではないので、誰も知らない。しかし、Joaquim Eugenio de Lima,は、極めて重要だ。同氏は、1845年ウルグアイで生まれ、パウリスタ通りを建設し、命名した人物である。1891年12月8日に厳粛に完成セレモニーが催された。サンパウロでアスファルト化され、並木のある初めての公道で、イルミネーションもされていたという。
その後、日本企業が集まるパウリスタ通り界隈を徹底的に調べることを思いついた。毎日昼休みに散歩しながら、何があるかをチェックすることにした。調べた対象は、映画館、文化施設、ショッピングセンター、名所・旧跡・古い建築物、博物館、大通りに面する18の彫刻の解説である。これらを2005年「パウリスタ界隈ガイド」として発表した。2つの資料は、知的好奇心旺盛な駐在員が、サンパウロ市を知る上で、少しは役立ったものと思われる。
ブラジル人に通りの由来を説明すると、態度が変わり、尊敬の眼で見られるようになった。また、由来を知ることによって、ブラジルの歴史やブラジル人の考え方が少しずつ分かってくるし、サンパウロでの生活が楽しく、豊かになってくる感じがした。まさに一石二鳥であった。             2016年7月下旬


連載エッセイ24 ブラジル人とチリ人
執筆者:桜井悌司(日本ブラジル中央協会常務理事)
チリには、1980年代半ばから後半にかけて4年半駐在した。ピノチェット大統領時代であった。ブラジルには、2004年から2006年まで2年5か月、サンパウロに駐在した。駐在以前、ブラジルには10回ばかり出張や旅行をした経験があった。2つの国に駐在した経験から両国の国情や国民性につき比較したい。
私のサンテイアゴ駐在時代の日本国大使はK大使であった。K大使は、チリを大いに気に入っておられ、日本人駐在員の中では大変人望のある立派な大使であった。その後、チリから直接ブラジル大使になられた。ブラジルでは、チリやチリ人の良いところを評価する発言をされていたと聞いた。しかし、それが必ずしもブラジル人にとっては面白くなかったようであった。ブラジル人からみると、チリのような小国と大国ブラジルを比較するのは怪しからんということであったのかも知れない。チリを話題にすることは、日系コロニアの人々の間でも良い評判を生まなかった。チリに一度でも住んでみると、日本人のほとんどすべてが魅了される。気候は良いし、チリ人は美男美女が多く、優しく勤勉である。東京に戻ってから、「チリ・カマラOB会」というチリ駐在員経験者を対象に年に2回の会合を組織していたが、一言声をかけると、毎回、在日チリ大使、在チリ日本大使経験者等40名から60名の参加者が簡単に集まり、チリを懐かしんだものだった。ブラジルも「ブラキチ」と言われるほどブラジル大好き人間が多いが、チリ大好き人間とはかなりニュアンスが異なる。チリ大好き人間は、熱狂的ではなく、静かにチリが好きなのである。
 私もK大使の経験から、サンパウロでは,赴任当初、あまりチリのことを話さないようにしていたが、確か2005年頃、有力週刊誌のVEJA誌が「チリに学ぶ」という特集記事を発行したことがあった。全く信じられないことで、あのブラジル人が小国チリを学べと言っている。一体何が起こっているのか大変驚いたものだった。あれから10年たつが、ブラジルがVEJA誌の提言通り、実践していれば、今頃は、こんな酷い状況に陥っていなかったのにと思ってしまう。
物事を冷静に見つめてみると、南米10か国中、国民性、国民の考え方、政府の運営の仕方という観点から判断し、ブラジルと最も対照的・対極的国を1つあげるとすれば、明らかにチリであろう。両国の大まかな比較表は下記の通りであるが、一つずつ見てみよう。
人口、面積ともにチリはブラジルの10分の1に満たず、小国と大国である。民族の構成は、チリはスペイン人を中心とする白人国であるのに対し、ブラジルは、欧州系と混血が圧倒的で、そのあとにアフリカ系が続く。この点ブラジルの方が多様性に富むと言えよう。両国ともに軍事政権を経験している。資源の品目は異なるが、両国ともに資源大国である。国民性を見ると、チリ人も陽気だが、ラテン系の中では明らかに陽気度が低い。ブラジル人は底抜けに陽気である。ブラジル人も良く働くがチリ人はもっと勤勉である。大国、小国とも関連するが、チリ人は、小国の立場をわきまえており、自分で良いと判断すれば、人の言うことをよく聞くが、ブラジル人は大国意識いっぱいで、まず他人の意見は聞かない。チリはピノチェット大統領時代から、市場経済主義を重視しており、競争を促進する政策を採っている。そのため政府は、常にスモール・ガバメントで効率的である。意思決定も迅速である。これに対し、ブラジルは、国内産業がフル装備であることから、どちらかというと国内産業保護的で、労働者党(PT)にみられるように、ビッグ・ガバメント志向で公務員数も多く、官僚的色彩が強い。国の通商政策を見ると、チリは諸外国とFTAやEPAを積極的に締結しTPPでも提唱4か国の1つである。すでに23の国・地域とFTAやEPAを締結している。これに対し、ブラジルは、メルコスル・ルールの制約もこれあり、FTAやEPAにそれほど熱心ではないように思える。ビジネス環境ランキングや贈収賄等の腐敗度ランキングをみると、チリは常に南米の中ではトップクラスの好成績であり、クリーンで贈収賄も少ない。それに反して、ブラジルは低位に甘んじている。ブラジル・コストで知られたビジネス環境の悪さやペトロブラス事件に見られるごとく腐敗度も高い。
 結論的に言うと、ブラジル人のプライドが許さないかも知れないが、最も近くて、参考になることを多数実践している小国チリのやり方を学び、それを実践すれば、その将来は明るいものになること請け合いである。しかし、ブラジル人がチリ人を学ぶということになると、もはや我々が考えるブラジル人でなくなってしまうかも知れない。

両国の大まかな比較は下記の表のとおりである。
「出所」外務省及びジェトロ等のデータに基づき、桜井が加工。
項目 ブ ラ ジ ル チ   リ
人口 約2億人 1776万人
面積 851.2万平米(日本の22.5倍) 75.6万平米(日本の約2倍)
民族 欧州系、45%、アフリカ系8%、東洋系、1.1%、混血、43% スペイン系、75% その他欧州系、20% 先住民系、5%
宗教 カトリック、65%、プロテスタント、22%、無宗教、8% カトリック、88%、
言語 ポルトガル語 スペイン語
軍事政権 1964年〜1985年 1974年〜1989年
資源 鉄鉱石、大豆、サトウキビ、肉類 銅、モリブデン、リチウム、水産物、果実類、林産物等
最近の経済成長 停滞気味、とりわけ2015年、16年はマイナス成長 まず順調
1人当たりの名目GDP 11,573ドル(2014年) 14,477ドル(2014年)
国民性 陽気、超開放的、大国の通例として人の言うことをほとんど聞かない ラテン系にしては陽気度低い、勤勉、小国の立場を良くわきまえている。人の言うことをよく聞く
政府の規模 Big Government方式 Small Government方式
通商政策 どちらかと言うと保護主義的、メルコスルの関係もあり、FTA,EPAに積極的ではない。 市場経済主義重視、FTA,EPAに積極的、23か国・地域と締結
腐敗ランキング 168か国中76位(Transparency International 2015)中南米で7位 168か国中23位
(左と同じ)ウルグアイに次ぎ中南米で2位
ビジネス環境ランキング 189か国中116位
(世界銀行、2015)中南米で13位 189か国48位
(/左に同じ)メキシコに次いで中南米では2位
輸出相手国
ビッグ5
2014年 @ 中国(18.0%)、A米国(1
2.0%)、Bアルゼンチン(6.3%)Cオランダ(5.8%)D日本(3.0%) @中国(24.6%)、A米国(12.1%)、B日本(10.0%)、C韓国(6.2%)、Dブラジル(5.4%)

2016年8月上旬


連載エッセイ25 サンパウロ日本産業見本市の思い出
執筆者:桜井悌司(日本ブラジル中央協会常務理事)
 1973年に初めてサンパウロに出張した。サンパウロ日本産業見本市の組織・運営のためである。その当時、ブラジルの経済は絶好調で、「ブラジルの奇跡」と呼ばれていた。
スーパー・ミニスターのデルフィン・ネット大蔵大臣が大活躍していた。まさにブラジル・ブームの真っ盛りで、日本企業のブラジル進出ラッシュは目を見張るものであった。この見本市は、サンパウロ最大の展示会場であるアニェンビー展示会場で開催され、屋内・屋外合わせ20、000平米を使用したジェトロ史上最大の見本市であった。我々は大規模な見本市と思っていたが、直前に開催されたドイツ産業見本市やフランス産業見本市は、6万平米のアニェンビー会場をフルに使った大規模見本市で、フランスからは当時のジスカールデスタン大蔵大臣(後に大統領)がコンコルドでやって来たものであった。ブラジルの規模の大きさやフランスやドイツのブラジル進出の積極性には驚かされた。
私は、PR・広報、セミナー、催事の担当として、73年2月半ばから5月まで3ヶ月間、サンパウロに滞在した。PR・広報と言っても、すべて自分でやるしかなく、アシスタントの日系ブラジル人と一緒に、ニューズ・リリースを作り、ポルトガル語に翻訳したり、広告・宣伝計画を立案したりした。一番効果があったのは、新聞社めぐりで、ニューズ・リリースと小さなお土産をもって、サンパウロの有力紙やテレビ局を次から次とまわり、日本産業見本市を周知させるというやり方であった。訪問すると小さい記事にしてくれたり、新聞記者発表の時には、旧知の記者が出席し、後で記事を書いてくれたりした。見本市直前や会期中には、テレビ局からの出演依頼が結構舞い込み、タレント性豊かな私の上司である石沢正氏に出演してもらった。日本産業見本市の地方への広報を目的として、VARIGブラジル航空(その後破算した)とタイアップして、サンパウロ州及び近郊の州の16都市で巡回プロモーションを行った。それら一連の活動が効を奏してか、見本市が始まると地方の日系の方々が、連日十数台のバスを連ねて見学に馳せ参じてくれた。その光景は感動的なものであった。この見本市では、300円くらいの入場料を現地のブラジル日本商工会議所やブラジル日本文化協会(文協)を中心とした受け入れ委員会が徴収したが、2週間の会期中、合計で35万人の来場者があった。収益も相当額になり、後にブラジル日本商工会議所や日系最大の組織である文協(現ブラジル文化福祉協会)に寄付した。2003年にサンパウロ駐在になったが、その時の寄付金について商工会議所や文協に問い合わせたところ誰もそのことについては知らなかった。記録は残しておかないと消えてしまうことがよくわかった。当時見本市に出展したお土産屋さんや飲食店は、「あの時は、大いに儲けさせてもらった」と私に大いに感謝してくれた。特に、ブラジル製のハッピ・コートは飛ぶように売れたことを覚えている。
セミナーについては、日本からの講師派遣による2つの経済セミナーと出展企業による10の技術セミナーを行った。経済セミナーは、上智大学の水野一教授の講演で、2回開催し、企業による技術セミナーは、合計10回組織した。必ずしも参加者は多くなかったが、後にサンパウロでセミナーを組織することになったが、そのノウハウ習得には役立った。サンパウロ州政府の招待で、日本企業のために「投資環境視察ミッション」も組織された。水野一教授が団長、私が副団長で参加した。スケジュールを終了し、サンパウロに戻る途中で、航空機が故障し、ミナスジェライス州のウベラバ市に不時着し、1泊を余儀なくされたのも思い出である。
催事は、展示会場に隣接した大劇場と展示場内の特設ステージの2か所で会期中の2週間、毎日、途切れなく実施した。1日の催事スケジュールをみると、大劇場では、映画3回、日本舞踊・日本音楽2回、助六太鼓、ファッション・ショウ、沖縄民俗舞踊が休みなく上演され、特設ステージでは、エレクトーン3回、パンの芸術、活花実演2回、友禅染実演2回、日本舞踊・音楽2回、沖縄民俗舞踊2回、空手、剣道、助六太鼓、茶道実演と合計16回の多彩なイベントを展開した。
このような多彩な催事が可能となったのは、偏にブラジルの日系の方々の絶大な協力のおかげであった。その当時、ブラジル全土で、120万人の日系人がいると言われていた。当初予算不足のため、出演料は無料ということでお願いしたが、なかなか思うようにはボランテイア出演者が集まらなかった。そこで、サンパウロ日本産業見本市が、日伯の歴史上最も大がかりなイベントであること、出演することによって、自分たちの踊り、音楽等につきPRできることを強く説得して回ったところ続々とエントリーがあった。例えば、踊りや茶道、華道の一つの流派がエントリーすると他のライバルの流派が出演の名乗りを次々とあげるというように、好循環が続いた。結果的には、多額の入場料収入が入ったので、謝金も支払うことができ、すべてハッピーに終わった。福島県人会が、500人の県人を集めるのでやぐらを作って欲しいという要望もあり、実現に移した。500人の福島県人を中心に、ブラジル人と輪になって仲良く踊っている姿は壮観であった。当時、日系コロニアの方々は、日本から来た企業の出張者に対し、敵意に近い感じを持っていた。日本企業からの出張者が群れをなして、ボアッチに出かける姿がペンギンのように見えたせいか、「ペンギン族」と呼ばれていた。コロニアの方々にしてみれば、長い間の苦労が実り、ようやくブラジル社会で評価されるようになったのに、新しく来た日本人は金にものを言わせ、大きな態度をしていると感じておられたのだと思う。しかし、見本市をきっかけに、日系コロニアと日本の進出企業のわだかまりも徐々になくなり、絆が強まった感じがした。私は、この見本市には末端の助っ人として出張したのであるが、見本市の実務責任者は私の先輩で宇野滋夫氏であった。同氏は、進出企業はもちろん、日系コロ二アの方々にも絶大な信頼があった。当時の文協の事務局長は、足達仙一さんでブラジル日本商工会議所の専務理事は鈴木与蔵さんや本田事務局長で大変お世話になった。 
サンパウロ日本産業見本市の記録映画の作成も私の担当であった。シナリオ作りから撮影場面の指示等初めての仕事であったが、エクサイテイングであった。見本市用の展示品を積載したさくら丸のサントス港到着から始まる記録映画であった。記録映画を見ると当時の苦労が思い出される。
苦労と言えば、当時の電話事情を紹介するだけで十分である。今日では全く考えられないが。1970年代の初めのサンパウロの電話事情は、信じられないほど劣悪なものだった。関係機関・企業や新聞社にアポイントを取ったり、事業の進捗状況を知らせるために電話をかけても、まず10回の内8回は繋がらない。ダイヤルを回している途中でぷっつり切れるのだ。また仮に繋がっても、会話の途中で切れることも多々あった。そういう状況なので、パウリスタは、うまく繋がるとこの機会を逃すまいと長時間話すことになる。となると、話し中のことが多く、さらに繋がらないことになる。何回も何回も電話をかけるが、午前中に2〜3本の電話に成功すると、その日1日しっかり仕事をした気分になったものだ。
 1973サンパウロ日本産業見本市から20数年たった1995年に日伯修交100周年記念の一環として、「日本産業技術見本市」を再び開催して欲しいという要請が、日伯修交100周年委員会から出された。そこで事前調査のために私と部下の2名でブラジルに出張した。リオ滞在中に、神戸・淡路大震災が起こった。ホテルのCNNテレビを見ていると大震災の深刻さが直ちに判断できた。関係者を訪問したが、あちこちで大震災についてお悔やみの言葉をいただいた。日系コロニアの方々は、1973年の「サンパウロ日本産業見本市」をよく覚えておられ、それと同様の規模の見本市を期待されていた。しかし当時の日本及びブラジルの経済状況は決して良好ではなく、日本はバブル崩壊後で最悪、ブラジル政府も自動車の輸入関税を突然上げたりしたこともあり、目論んでいた自動車企業の出品勧誘も思うようには進まなかった。また会場のビエナールの館長が気まぐれで会場がなかなか決まらなかったのでハラハラする場面もあった。それでも「第2回日本産業技術見本市」は1995年11月、ビエナール会場で無事開催にこぎつけた。前回の4分の1の規模の展示会だったが、開会式には、日本からは清子内親王が参列されたほか、カルド―ゾ大統領他要人が出席した。私は、本番実施時には、ブラジルに出張できなかったが、無事開催され、ホットしたものだ。見本市は、規模が小さいと、経済的成果が十分には出ないのが通例であるため、経済的には成功したとは言えないが、政治的には、カルドーゾ大統領を引っ張り出したこともあり、大成功と言えよう。73年と96年の両見本市に関与できたことは、私にとって幸運なことであった。
               2016年8月下旬



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