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同船者鈴木章子さんのサンパウロ新聞による紹介記事
同船者のコロニア随一の陶芸家として高く評価されており、平成29年度の外務大臣表彰を受章した鈴木章子さん(88、東京)がサンパウロ新聞で3回に分けて紹介されており貴重な記録としてホームページに残して置くことにしました。鈴木さんは、夫君の画家の鈴木幸男さん(故人)とお二人であるぜんちな丸第12次航で62年5月11日にサントスに上陸され早い段階からコチア市に住み着かれ同船者の若い青年たちが同船者として色々面倒を見て頂きました。また着伯50周年の記念式典開催時には、貴重な作品2点を式典の経費の一部になればと寄贈して呉れております。同船者の中では、芸術面に置ける一番の成功者でありブラジル陶芸界の最高峰として現在も活躍されています。ご自宅にブラジルで初めての登り窯を作られ手廻しのろくろで作品を作り続けておられます。
写真もサンパウロ新聞に掲載されていたものの一つをお借りして使用させて頂きました。


風土から生まれる物 焼物師・鈴木章子さん 「命のあるものができるかどうか」

「陶芸家ではなく、焼物師です」と話すのは、平成29年度の外務大臣表彰を受章した鈴木章子さん(88、東京)。鈴木さんは1953年に唐杉涛光氏に弟子入りし、同氏の推薦で東陶会に入会した。転機が訪れたのは61年、NHKの番組で見た遷都直後のブラジリアの光景に魅せられ、「未来の国だと思った。ここで焼物を作りたい」と渡伯を決意。62年に渡伯して以来、サンパウロ(聖)州コチア市に、ブラジルで初となる登り窯を築いて、手ろくろのみで50年以上焼物を作り続けた。「永遠に何千年も生きる焼物・命のあるものができるかどうか」と語る自身のテーマには、焼物に生涯を捧げる焼物師としての信念が感じられる。また、ブラジルでは芸術性の認知が乏しかった陶器を、芸術品として広く認知・普及させ、ブラジル焼物界の第一人者として一線を走り続けてきた。

◆未来の国に魅せられ
 鈴木さんは、東京在住時に戦争を体験したことで、人間の価値観に疑問を抱き始めた。その後、「焼物に触れ合う機会に恵まれ、(それに)生命や、永遠にもなる神秘的な力を感じたことで、焼物に魅了された」と焼物師を志したきっかけを語る。
 53年に唐杉氏に女性で唯一の弟子入り後、東京都調布市武蔵野に甲州路窯と名付けたアトリエと窯を築き、焼物の修行に励んだ。また、唐杉氏の推薦で入った東陶会は、昭和の名匠・板谷波山氏が会長を務めており、多くの巨匠から学ぶことができたという。
 鈴木さんは日本で焼物に没頭する中で、自分の仕事場は日本から離れたどこかにあるのではないかという思いが募っていた。その最中、61年にNHKで放送されたブラジルのドキュメンタリー番組を見て、アマゾンやサンパウロの日本人街、そしてブラジリアの光景が映し出された。中でも荒野に佇(たたず)むオスカー・ニーマイヤーの建築物を見た時に、「未来の国だと思った。まさに私が出会いたかった世界。ここで焼物を作りたい」と渡伯を決意した。夫で画家の鈴木幸男さんの同意も得て、ブラジル関係の仕事をしている知人へ懇願。翌62年に「あるぜんちな丸」に乗船した。
 同年、着伯した鈴木さんの最初の仕事となったのは、土と釉薬(ゆうやく)の原料探しだった。鈴木さんは「ブラジルの原料だけで、風土から生まれる物を作りたかった」と新天地で抱いた思いを振り返る。数種類の土と、灰の性質を考慮した釉薬の選定も終わり、コチア市のアトリエの建設に取り掛かった。同市を選んだ理由は、窯(かま)を焚き、煙を出すには最適な田舎だったからだそうだ。
 アトリエや住居の整備が落ち着いてきた矢先、予想外の出来事で資金を失ってしまった。しかし、日本の友人が困った時のためにと用意してくれた電気窯を使い、焼物のアクセサリーを作って販売したところ、思わぬ好評を博して窮地を乗り越えたという。本来の焼物作りに戻った鈴木さんは仕事に没頭していった。(戸)(つづく)
2017年12月19日付

風土から生まれる物 伯国初の登り窯を完成
 
◆自身初の窯開き、個展を開催
 焼物師・鈴木章子さん(88、東京)が仕事に行き詰っていた頃、華道池坊南米支部長の赤毛日出子氏、茶道裏千家の浅井八重子氏がアトリエを訪れ、古レンガや燃料用の建築の古材、窯の小屋に使うユーカリの柱などを提供してくれたという。お礼として鈴木さんは、ろくろの使い方などをレクチャーして体験をしてもらったとし、「これがブラジルで最初の焼物教室です」と回顧する。
 1965年の末頃、土地の傾斜を利用したブラジル初の登り窯「彩窯」を完成させ、それから日々早朝から深夜まで、ろくろを回して焼物を作り続けた。
 67年に焼物界の慣例である窯開きを行った。制作した作品をファンや友人を呼んで展示し、販売する風習だという。赤毛氏や浅井氏の呼びかけもあり、コチアのアトリエには約800人が集まったそうだ。
 その後も継続して窯開きを行い、2世や3世、ブラジル人も含めて多くの人に焼物文化を広める場になっていった。この頃に制作した作品の中で、初めてできた水滴や壺、茶碗など自身の節目となった作品は、今も大切に残してある。鈴木さんは「作品の時期などは、自分の子どもと同じように全部覚えています」と微笑む。
 「土地の砂をバケツで集めて、自然のものを作る」と、こだわりを貫いて制作を続けた鈴木さんは71年、リオ市のイパネマ画廊で自身初の個展を開催した。その際、リオへの道中で交通事故で車が横転し、出展する作品が何点か割れたり、背骨を傷めて座って作業することが難しくなるほどのアクシデントに見舞われた。
 75年には、サンパウロ美術館(MASP)の館長、ピエトロ・バルジ氏の招待によってMASPでの個展も実現し、立て続けにリオやベロ・オリゾンテなどで個展を開催していった。(戸)(つづく)
2017年12月20日付

風土から生まれる物 念願のブラジリアへ

◆脳梗塞を克服
 1983年、焼物師・鈴木章子さん(88、東京)は、焼物を志す同志たちの協力も得て、憧れのブラジリアで個展を開催した。鈴木さんは「自分の人生を180度変えてくれた、ブラジリア市の光景に感動した。御礼ができて嬉しかった」と振り返り、「ブラジルが私の人生を支配してしまいました」と笑う。
 その後も各地で個展を開き、2003年には焼物師としての50年記念展をサンパウロ(聖)市カーザ・ブラジレイラ美術館で、06年にはシティグループ(投資銀行)文化スペースで自身の回顧展も開催した。直近では、今年1月SESCイピランガで「鈴木章子の『宇宙展』」を開催している。
 また、12年には聖州コチア市に2番目のアトリエ・登り窯「あけぼの窯」を築き、同アトリエは自身の作品約50点を展示する美術館の役割も兼ねている。現在では弟子たちの制作場としても使用されており、弟子たちが主催してアトリエ展を開催するなど、次世代の焼物師を育成する場にもなっている。
 鈴木さんが自身の成熟を感じていたという15年頃、脳梗塞を患った。後遺症で左手が思うように動かなくなり、手ろくろを扱うことが難しくなってしまった。鈴木さんは「やっと理想だった焼物ができると思い始めた頃だった」と語り、自身のテーマとして言い聞かせてきた「永遠に、何千年も生きる・命のある物」に近づいた矢先だったという。
 それでも、手ろくろを回して焼物を作り続ける鈴木さんは「新しい焼物が、できるようになりました」と病後の自身の作品を見つめる。11月にはSESCビリグイの開館式で、鈴木さんの焼物が壁面に飾られたという。鈴木さんは「飾ってもらえるのは、素直に嬉しいです」と笑顔を見せる。
 また、日本で修業を始めてから焼物師として60年以上にわたって焼物を作り続けた鈴木さんは、「『これが本当の焼物です』とは言ったことがない。これが現在の私です」と常に言い続けてきた。(戸)(おわり)
2017年12月21日付



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