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「おげんきですか、わたしのおひなさま」川越しゅくこ
作家としての川越しゅくこさんの原点とも云える貧しかった幼少期の赤裸々な思い出を綴った一文は、しゅくこさんを知る者にとっては、胸を打たれる文芸作品となって居ます。豪華な代々引き継がれて来た雛人形、お雛様への思いを綴る名文を40年‼のホームページにも残して置きたいと思います。
いつのまにか消えてしまった(生活費に代わってしまった?)しゅくこさんのお雛様にこの時期になるとお元気ですか?と思い出されるそうですが、写真は、そのしゅくこさんがお母さんに抱かれている頃の貴重な写真を使わせて貰いました。有難う。


「おげんきですか、わたしのおひなさま」
                  川越しゅくこ 018.3.1

ひな祭りから桜の咲く前のわずかな期間を啓蟄 (けいちつ)という。春の下に虫を2つ書いてうごめくと読むように、冬ごもりをしていたさまざまな虫が息を吹き返してとつぜん蠢(うごめ)きはじめる時期である。それを感じながらしんと静まりかえっている雑木林。地中から放たれるかれらの呼気があまりにも濃密で、わたしはふと息苦しくなる。自然のエネルギーがわたしの中にも満ち満ちて、まるで啓蟄を迎えた虫のように細胞もピチピチと跳ねる。
ひんやりした下り坂に入ると、まだかすかに冬の気配を残している。上り坂では視界が開けて春の香りをこめた暖かい空間が現れたりする。まるで人の人生のように影と光が同時に混在するつかのまの季節。
娘さんのいる若い友人から「ひな人形をやっと飾りました」というメールが届いた。3月がくると、いつもふと思い出す。
「おげんきですか? わたしのおひなさま」
わたしの母は高知県の名門、片岡家の長女として生まれ、何不自由なく育った。街を歩くと「片岡家のお嬢様」と振り向かれたという。父と結婚しても母がずっと身元から放さずにいたもの、それは実家からお嫁道具として持たされた江戸時代から代々伝わる豪華なひな人形の一式だった。
母の華麗な生い立ちに反して、わたしは1941年12月、日本がハワイの真珠湾を攻撃し戦争に突入する2週間前に生まれた。そんな時代でも、次の春は、祖父母にも囲まれて、盛大にそのひな人形でわたしの初節句を祝ってくれたという。戦争はもの心のついた3才の8月、アメリカによる広島と長崎への原爆投下で終結した。
富山県の先祖代々からの仏教の篤信家庭に生まれた父は、牧師という仕事を選び、そのため実家から勘当されていた。そして大阪の泉州地方で長屋住まいの伝道を始めた。
敗戦後の混乱期、国民はほとんど飢えに苦しんでいた。壁一つ隔てた隣家にはいつも目を泣きはらして女給をしていた戦争未亡人、その隣には、豚箱を出たりはいったりを繰り返している泥棒夫婦が住んでいた。母の持ってきた高価な着物や帯が盗まれたり、その日の食べ物に代わっていくのが子供にも分かった。育ち盛りのわたしは駅前のキャバレーの路地裏をさまよい、口にできるものを探してごみ箱を漁ったものだ。
小学校では給食費も払えないうえ、地元の土着的な風習とは合わないクリスチャン家庭であったことで集団暴行の標的になった。それを見て見ぬふりをしていた担任のことはいまでも忘れない。その男は町の有力者の寺の娘を膝にだいて授業をしていたのである。
学校は針のムシロであった。
暴力の待ち受けている学校よりもっと優しい世界があった。その世界にいざなう手は、ときには走る列車の開け放たれた窓の外へ吸い込もうとしたり、あるいは踏切のなかに飛び込んでくるのを手助けようとした。それは決して悲壮な決意というものではなくこの上なくやさしい音楽の流れるような救いの誘惑の手であった。
しかし、それ以上駆り立てられなかったのは一体なんだったのか。
わたしが登校拒否をしている間、母の目にこの一人娘はどう映ったのだろう。彼女は何を思ったか、一人で留守番をする娘に家宝のひな人形をおもちや代わりに与えて好きなように遊ばせたのである。どうにでもなれという土佐女の勝気な意思表示だったかもしれない。取り扱いにあれこれと注意などされたことがなかった。言われなくても丁寧に扱わなければならないことくらいは少女でも不思議に分かっていたのである。
そこに並ぶ7段の、それぞれの役割を心得ているかのような、品のいいおひなさまたち。そっと指を出し、お内裏(だいり)様のかんざしに触れると、はらはらと白い頬にこぼれてしまいそうな金細工。その口元はいまにも言葉がこぼれそうで、目元はいつも穏やかだった。手のひらに入りそうな小さな牛車の貝殻をはめ込んだ精緻な美しさ。それらは淡い春の光の中に浮かぶすり切れた畳とつぎはぎの障子に不思議に調和していた。静まり返った部屋は饒舌であった。少女は時を忘れて戯れのなかに浸っていた。想像と創造、孤独の喜び、その経験はのちになって、群がって行動する人たちの愚かさ、怖さと対照的であることを教えてくれた。
しかし、母の土佐弁はだんだん元気をなくしていき、やがて無口になった。それから何年たったかは思い出せない。家計はさらに困窮していた。はっきりしていることはあのひな人形たちが知らないうちどこかへ行ってしまったということだ。なぜかそれを母に訊ねることができなかった。
いまおもえば、あの子たちはわたしのお守りであったと同時に、母にとっても生まれる前から受け継がれた大切にしてきたお友達でもあったのだ。
敗戦から10年あまりたった。わたしは高校になっても相変わらず、キリスト教のキの字を耳にするだけで、緊張しておどおどして暮らしていた。そんなある日、社会科の授業中、歴史の嫌いなわたしがめったに開かなかった教科書のなかに、とつぜん母の実家の片岡健吉の名が目に飛び込んできた。自由民権運動家として、板垣退助などと名前が並んでいたのだ。小さい頃毎夏過ごした母の実家、高知にいくと、屏風になぜか板垣退助などの自筆の手紙が貼り付けてあったことが思い出された。
危うく命を捨てるところであったあの誘惑からわたしをとどまらせたもの、その原点はいまになって思い当たる。
わたしは他の子供たちとは違うんだ、もっと価値のある高尚な体験をしているんだ、母より譲り受けたそんな根強いプライドが無意識に潜在していて、それがおひなさまの助けを借りて、少女期から中学くらいまでの時期を支えていたのだった。
何年も前の3月に西宮の門戸厄神、東光寺に厄除けに出された,庭のテントの中のおひなさまや人形を見に行ったことがある。おそらく1000体以上あっただうか。みんなが私を見ているような錯覚を覚えてちょっと不気味であった。この子たちは供養に出されて焚き上げて処分される人形たちである。そんな運命の人形もいれば、かたや旧家や博物館で毎年展示されるため大切に保存されている人形たちもいる。お別れもしないまま出て行った、あれほど豪華な分身にはもう会うこともない。
けれども、この啓蟄の短い季節に、あの子たちはまるで生き物のように息をふきかえして必ずわたしの前に現れるのだ。少女に戻ったわたしはつぶやく。「おげんきですか。わたしのおひなさま」
影の小道から明るい池の横にでた。輝く水面に銀色の肌をした一匹の魚が飛び跳ねる。今年も桜に包まれた日本の季節がまためぐってきた。



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