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≪一羽の雀≫ 一技術者のブラジル生活48年 五十嵐司さんのブラジル奮闘記
現在93歳になられる東京農大旧制学部農化を卒業されておられる五十嵐さんと私たちの50年!!メーリングリストを通じてお付き合いさせて頂いていますが、4月20日(金)にサンパウロのニッケイパレスホテルの昼食会でご一緒した時に着伯1955年の大先輩であり我々がブラジルに着いて1962年より7年も前にブラジルに来ておられるのでこの7年間の空白次代を埋める意味で着伯後の7年間の間に起きた事を是非書き残して置いて欲しいとお願いした所、何と香料関係の仕事一筋、香料技術者としてスイスのジーポウダン香料会社勤務30年で1991年に定年退職されその後も伯国ハリマ化成等に技術顧問として勤務されたブラジル48年を綴った格好の原稿を送って呉れました。 写真は、お会いした時に撮らせて頂いたものですが、眼鏡が光り上手く撮れていませんでした。


       一羽の雀 一技術移住者のブラジル生活48年              
      サンパウロ市 五十嵐司(1950年旧制学部農化)
誰でも若いころは月日の経つのが大変長く感じるものです。特に辛い勉強やアルバイトに追われている学生時代は、みんな一日も早く社会に出て自分の好きなことをし、自由な生活を送りたいと思っているのに、1年に何度もやってくる不愉快な試験というものを何とかパスせねばならず、ことさらに長々と感ずるものです。かくいう私たちも旧制の中学5年、1年浪人して入った農大ではご丁寧に大学予科3年、学部(農芸化学科)3年、落第もしないのに合計6年もかかるという時代であったので、卒業の時にはみんな籠から放たれた小鳥たちのように歓声を上げてそれぞれ見つけてきた職場へと飛び立っていきました。しかし振り返ってみると戦中・戦後の困難な時代とはいえ、みんな若くて元気な頃ですから、家族的な雰囲気の小規模な単科大学のなかの部活動(私は映画研究会と自動車部)や先輩後輩との交流、気の合った仲間との小旅行など楽しい思い出が沢山あります。小岩井農場などで馬や牛と暮らした長期実習、肥桶を担いで小田急に乗り込み(新品の空桶であるが他の乗客には分らない)、渋谷の街に繰り出した収穫祭の宣伝デモンストレーションや夜のファイアーストームなど、それなりに青春を謳歌することもでき、幸せだったと思っています。入学時は戦争の最中で、徴兵猶予の恩典のある農大予科には全国から十数倍の志願者が押しかけただけに選ばれた仲間には考えの深い秀才が多く、語り合って得るところが非常に多くありました。卒業論文は「マーガリン用香料の製造」というテーマで鈴木隆雄助教授(後の教授・学長)へ提出しました。その当時、家業が油脂加工業をしており、マーガリンによい風味をつけるバター香料(フレーバー)を作るためその原料の有機合成や乳酸発酵、そしてそれらの調合の研究をしていました。そんなことから、香料という匂いの不思議な世界の魅力に取りつかれ、卒業後は学友(安井廉氏、後の三和油脂役員)に後を托し、私自身は曽田香料次いで昭和香料という香料製造会社に合わせて5年半働くことになりました。これらの会社の研究室や工場現場で天念物の抽出や有機合成の手法、外国文献の手早い読み方などを訓練されました。敗戦後の物資不足の時代に少量の材料や試薬を使い、貧しい分析機械、自製のガラス器具などを用いて行う研究や製造でもかなりの品質を得る技術を教わりましたが、あとでこれが戦時中に蓄えたお金を急速に使い果たし、やや経済的な困難に陥っていた、ブラジルでの仕事で随分と役立っています。なお、この頃のブラジルは工業化にまい進中で、戦争で荒廃したヨーロッパの各国からも結構自信のある技術者たちが工業化に参加するべく大勢集まって来て、技術のオリンピック競技場のような感じでした。
当時日本はいまだ戦後10年、のちに勃発した朝鮮戦争が発端となった日本経済の本格的な再建と復興は誰も予測するべくもなく、化粧品・石鹸業界の不況に直結する香料業は最低の状態にあり、家業の油脂加工も過当競争の渦に巻き込まれ、やむなく閉業することになりました。
一方、国外に目を向けると無限の香料原料資源と大きな消費市場を抱える新世界、巨大な南アメリカがあり、この鬱積した状況から飛び出して、未来の大きな夢の実現に向かえる場と目に映り、それを振り払おうとしても払えぬ日々を過ごすようになっていきました。「やる気のある若者が自分の可能性を追求することができるのは、新しき工業国アルゼンチンかブラジルだけだ。」と思い、かえってこれ幸いと両国への渡航を企てたのでした。アルゼンチンには父の満州時代の古い友人であり、且つ農大の大先輩でもある農場主伏見真治郎氏がおり、早速呼び寄せをお願いしましたが、受入れの返事が大変遅れ、手紙を受け取ったのはあきらめてサントス行きの船に乗る直前で、憧れていたタンゴ音楽の国へは行きそこなう事になりました。43年経って第1回パンアメリカ農大校友大会の際、ブエノスアイレス市で伏見先輩の娘さんとお会いし、先輩は大分前に亡くなったとお聞ききし残念に思ったことです。
1955年(昭和30年)大阪商船のアフリカ丸は大荒れの太平洋を無事乗り切って3月、サンパウロ市の外港であったサントスに着き、私のブラジル生活が始まりました。ブラジル兼松貿易会社の広川社長が呼び寄せ人になってくれ、南米銀行の鷲塚部長の紹介でとりあえず大河内薬化学研究所(ジアスターゼ・栄養飼料製造)へ就職が決まり、副産油脂の利用研究の仕事を与えられて1年間働きました。退職の数日前社長の大河内氏は母方の遠い親戚であることが分り驚いたことでした。ブラジル柔道界の大先達として知られる大河内氏は、北米で学び高峰譲吉博士の愛弟子で酵素の研究に打込まれており、その気になったら、いつでも戻って来るようにと言われましたが、その後二度とお会いすることなく亡くなられました。
少しポルトガル語を話せるようになり、念願の香料の仕事に就くべく、サンパウロ市の地図を買い、職業別電話帳で調べた香料会社の位置に赤い印をつけ、当時まだあったチンチン電車に乗って、毎日自分の売り込みに歩きました。目下工場建設中とか、社長の葬儀中とか、色々あって5軒目の会社で実際の技術テストを受けることになりました。フラッカローリというフルーツエッセンスなど食品香料ではパイオニアである古い会社ですが、当時メーカーの都合で輸入が大分遅れていたバレリアン酸エチルとアミルというリンゴの匂いの化合物の全合成を行えと命じられました。「知り合いのサンパウロ大学の先生に頼んだのだが、文献だけは送ってくれたのに、催促してもなかなか来て作ってくれない。原料や試薬はここに用意してある。君にできたら採用だ。」というのです。そのスペイン語の文献と日本語の合成書などを頼りに2日かかってドイツ品と同じ物ができ、OKということで、サンタセシリア区の街中にある工場に通うことになりました。給料は大河内薬化学のころの最低賃金1、5倍から一挙に6,5倍に増えることになってしまいました。そのころ最低賃金1,5でも独り者では余裕のある生活でしたから、これからは充分優雅な生活ができる、と助手を引き連れて毎日高級なレストランで昼食をしたりして舞い上がっていたのも3ヶ月、全く束の間の喜びということであったのです。創立者で老社長フラッカローリ氏の3人の息子たちがそれぞれ始めた趣味的な別の事業の放漫経営の親会社へのつけと、当時始まっていた悪性インフレの災いをうけて事業は悪化、ついには和議による会社更生法の適用をうける状態にまで転落、給料も遅配続きで大変難儀なこととなってしまいました。そんな中でもイタリア人の老社長には子供よりも信用され可愛がってもらっていたため、私も硫酸で穴のあいた実験着や、ぼろワイシャツをきて一緒に頑張り、借金を全部返済し和議解除、自由な経営になるまで5年間協力しました。外国に出て、人情・友情には人種・国境はないということを知ったのはこのころです。フラッカローリ社長はその後私が別の職場 ジボウダン社に移ったあとも、亡くなる少し前まで10年以上にわたって毎年私の小さな子供たちにクリスマス・プレゼントを携えて訪ねてくれました。それからもう40年、私もフィナードの日(カトリックのお盆)には市内コンソラソン墓地に眠る夫妻に花を供えに行きます。この会社にいる間にブラジルでの生き方、技術者のあり方、そしてポルトガル語を大分覚えたわけです。
1961年の10月、世界の香料業界のトップにあり、南米最大の工場規模を誇るスイス系のジボウダン香料会社から誘いがありました。私は家族的な雰囲気の会社から別れ難い気持ちだったのですが、「小さな会社では研究用器具や図書、新しい文献も不足勝ちだろうから世界の技術の進歩についていくのは困難だ。それでは君の力も伸ばせないではないか。」といわれ、移る決心をしました。そのためフラッカローリ社と話をつけてもらい、同社に対してはジボウダンが原料を優先的に供給するという条件つきで円満に転職しました。
ジボウダン香料会社での長い月日は毎日毎日、研究・開発と化学品製造の管理で、ジュネーブ本社およびアメリカ・ニュージャーシー支社から来る技術通信と文献(仏文・英文)を使い在来輸入していた合成香料の現地生産の試験をはじめ、当地独自の合成・天然香料の研究も多く、加えて日々の生産に伴う種々の技術上のトラブル解決の仕事も絶え間なくあるため、多数の部下を使って製造と研究に明け暮れる毎日でした。ブラジル国内をはじめスイス・アメリカ・フランス・スペイン・英国などへの出張・研修やサンパウロ・サンフランシスコ・京都で開かれた国際精油会議への参加、そして当地で行われた香料・精油学会シンポジウムでの講演は始めての体験でしたので大変緊張しましたが、今では懐かしい思い出になっています.この期間はブラジル政府が高い関税障壁を設けて、国産奨励につとめていたので、私の担当していた部に属する3つの研究室(石鹸・化粧品用、食品用、工業用製品)では500種類以上の合成・天然香料の開発が行われ、そのうちブラジル或いは南米では始めての約300種の芳香化学品である香料調合原料が生み出され市場に送られました。そのなかにはスイス本社や他の支社へ技術と製品の逆輸出をしたものもあります。この間に多くの若い化学技術者である弟子たちが育ち、他の部や別の同業会社、大学などへ移った者もいますが、真面目だった人はみなそれぞれの職場で幹部としての地位についています。
1991年6月規定による定年退職ということになり、役員会、部課長会そして自分の部である研究開発部の部下たちから3度続けて送別会をしてもらい、記念品や賞金も頂いて、30年間通い慣れたジャグアレーの工場を去ることになりました。思い起こせば、大雨のため泥濘と化した道に漬かった社員通勤バス、溢れ出て100メートル先の森の芝生で見つかった池の鯉たち、爆発火事で吹き飛び、隣の薬品工場に墜落した製造装置など色々な思い出がありますが、在職中部内では人身事故や大きな病害などなどに見まわれず、幸いな勤務であったと感謝しています。また渡航当初は南米で独立し事業を起こそうという人並みの夢も持ちましたが、それが香料の場合無数の原材料と装置・資本を用意せねばならないのに対して、自分で選んだ仕事に追われ、好きなことを自由にやらせてもらえた気楽さに負けて実現せずに終りました。
なお、ブラジル政府の精油部門の分析委員として公定分析法制定の会議にも参加し、公定書の作成に加わりました。
このジボウダン社在勤が長かったため、個人的にも会社とサンパウロ大学の間に土地を買って自分の家を建てたり、ついでに近くに別荘も購入したりすることができ、3人の子供たちはもとより、私自身も近くのサンパウロ大学化学部の講義に通い検定による卒業資格を得ることもできました。
この年の11月かねてから話のあった日系の松脂製造会社、ブラジルハリマ化成会社から誘いがあり、技術顧問として同社で生産するテレビン油を原料とする香料類の製造開発を研究することになりました。パラナ州ポンタグロッサ市郊外の工場はサンパウロから550キロ、緑したたる松林、野生の動物や色々に鳴く虫の声の中での研究の6年間は楽しいものでした。
ついで、翌92年6月、サンパウロ市郊外にあるフランス系のロベルテ香料会社の合成香料部の技術顧問を委嘱され95年10月まで勤め、同月純ブラジルの会社カプアニ社に転籍、2000年10月まで、州内のチエテ市にある工場で原料合成のほか食品用調合香料と各種飼料用酵素処理香料の製造に従事しました。2001年1月からはハーモニー香料会社、翌2月よりリオデジャネイロ市のイグアスー香料会社の顧問として香料分析の業務、2002年7月よりサンパウロのロイヤレ香料会社でも顧問として調合香料の分析と調合の指導に当たり現在に至っています。
このように大学を卒業してからでも53年、化粧品・石鹸・食品・飼料用と全域にわたる、天然・人造香料の製造・分析・調合・応用に絶え間なく携わってきましたが、これが天職というのでしょうか、正に雀百まで踊り続けるような思いです。農大学祖の榎本武揚先生は海外新天地の開発、産業の育成を唱導されていたので、私も南の国に飛んで行って開発の一翼をになっている一羽の雀弟子と思ってくださるでしょうか。

農大校友会との関係では1993年(平成5年)から2001年(平成13年)迄の8年間校友会ブラジル支部(政府登録 社団法人伯国東京農大会)支部長として支部の健全な運営、母校とのより密接な連携、地域社会への貢献に努め、始めて実施された生物企業情報学科への留学生の選考・送り出し、パンアメリカ校友大会の開催、伯国東京農大会20周年記念式典、日伯修交100年祭参加、農大とサンパウロ大学との学術提携(姉妹校)締結など母校の手厚いご助力を得て成功することができました。現在は相談役(渉外担当)となっています。
地域社会との関係では、日系最大の親睦・文化団体であるブラジル日本文化協会の評議員で監事を務めており、十数年来、図書館の運営に当たってきました。
 全く個人的なボランティア活動としては2000年9月より古典的な名作映画を観賞する「名画友の会」という組織を主宰し、毎月2回の上映会を催しており、会員は現在300名を超えています。
           2003年(平成5年)7月21日 記 



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