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カリフォルニアに55年住んでおられる東京農大拓殖学科5期生の村松義夫さんの手記です。
東京農大のOBの皆さんが農大ネットと云うメーリングリストで色々意見の交換をしておられサンパウロの麻生さん、松栄さん等を通じて読ませて頂く機会があり喜んでいますが、今回カリフォルニアに住んでおられる村松さんの手記に触れこれは、戦後移住者の移住者の目線で管理運営されている『私たちの40年!!あるぜんちな丸第12次航同船者寄稿集』(現在505万回のアクセスを記録)に是非とも残して置きたいと村松さんにお願いして2-3の貴重な原稿を快く掲載許可を頂きました。今回はその第1回に当たります。写真は、村松さんに送って頂いたものの1枚で「デズニーでのクリスマス記念写真(ミッキーと我々夫婦と娘夫婦と)」との説明が着いていました。


派米農業実習生・生涯の友「常澤健壽氏」の友人、石堂重本 様
 拝啓、お便り頂戴し拝読させて頂きました、また小生の長年の友人である常澤健壽氏との交流投稿を読んで頂いているとの事、お恥ずかしく恐縮に存じます。1963年当時東農大在学中の身でしたが、農水省の全国農業青年海外派遣事業で常澤氏達と一緒に、1ヵ年の米国農業実習に参加し厳しい農作業を経験した “戦友仲間” であります。
 1965年卒業し、東京都郊外の農家に作男として2年間畑作業に従事していましたが、「米国派遣事業の現地世話役」にとの依頼を受け1968年再渡米をし現在に至って居ります、この間日本全国からの実習生を受け入れ実習先の確保と実習生のお世話に全米を走り回りました、又韓国政府からの依頼を受けて韓国の農村青年の受け入れ、更にブラジル、アルゼンチンの日系農業団体からの依頼で日系の二世三世の受け入れにも携わり、10年後1969年に事業を後輩に委譲し引退した次第です。
 1974年の「オイルショック」を契機に日米貿易摩擦が勃発し、日本の燃費の良い小型車が米国消費者の人気を呼び、セカンドカーとして各家庭に導入され更に電化製品や繊維製品の輸出が増大を続け日米の貿易格差が問題視された時代でした。此のとき農業国であった米国は貿易不均衡是正の為に日本へ強力に農畜産物の自由化を求めてきていました。
 農産物の自由化交渉が妥結したならば、大型機械化農業経営による米国農業と日本農業との間には格段の違いがあるので、日本農業にとっては大打撃が生じてしまう現状を推察し、国内農業の衰退は日本国、日本人そのもの生命を危険にさらすことであり容認できない、然し工業立国を目指して経済発展を成し遂げた日本は貿易立国として世界を相手に工業製品の輸出で外貨を稼がねばならなかった、特に米国は最大の相手国であり、大きな利益を得てきた、これがこの時代農業国米国からの農畜産物自由化の波に立ち向かうことになったのである。
 この巨大な米国農業に対抗する為に何が出来るかを考え1979年「日米農業コンサルタント事業」をサンフランシスコの地で創業し日本へ飛んだ、北海道を皮切りに全国の主要な農業地区のJA組織を廻り講演を試みた、「日本の敗戦は米国の総合的国力事情に対し無知で情報不足であった事が最大の敗因」そして「この米国との貿易摩擦はまさに戦争である、特に農業に於ける食糧戦争である、日本人の食を守るためには米国農業を視察することで、必ずその欠点が見えるはずである、それを見つければこの戦争には勝てる」と説いて廻った。
 全国から大勢の農業視察団が米国・カナダ方面への農業視察にやってこられ、我が社はその手配と案内に数名の日米農業に精通した後輩諸君が小姓と共に全米、カナダを走り回って案内してくれた、一旦視察を終えて帰国した参加者は、地域で日米農業の違いを話し、そのことが更なる農業視察団を北米に送ってくれることで我が社は大忙しの事業展開をさせられた。
 また実習生経験者の後輩から日本での米生産調整、自主販売の政府規制等で米作りに嫌気がさしたので、米国で米生産から販売までの事業をしたいとの協力要請があり、いずれは日本へこの国の米の輸出自由化が叫ばれることを前提に、米国人にこの限られた面積での米の生産量を如何に消費させ日本への輸出を思いとどませられるかが勝負だと感じ、我が社も水田を購入し協同で精米所を建設し国内の販売事業にも乗り出した。
 この事は米が如何に日本農業にとって大切かを知る上で、日本と変わらない米がこの米国で生産でき、しかも日本米の1/10の生産費で生産される事実を見ていただくきっかけとなった、同時に米国人に米の消費を促す為に日本食の宣伝効果を計った、この米が日本に自由化によって輸出された暁には日本の水稲生産は大打撃を受けることを、日本からの視察団に理解させるきっかけとなった。
 2000年に入ると日本の農業も更に厳しい状況を呈し、後継者不足、農地の休耕、農村の高齢化が進み海外からの輸入農畜産物の依存度が更に増加していった、そしてハイテク産業が若い世代を都市に吸収し大きな日本の産業構造、社会変化をもたらせていった時代の変化が進んだ。米国への農業視察も減少をたどり、国内のJA組織も営農事業から金融事業、保険事業に大きく変化していった、そんな折2001年9月11日、米国のニューヨーク、ワシントンDCで「9-11同時多発テロ事件」が勃発した。
 この壮絶なテロ事件によって日本からの米国への視察関係者、旅行者の渡航も中止する事になり、我が社も事業の縮小を余儀なくされ支店の閉鎖に追い込まれた。1ヵ年後の回復を試みて全ての資産を宛てて社員を継続雇用し続けたが一考に事業の先行きが見えず、2003年春に社員の再就職先を確認した後会社を閉じた。
 然し長年の関係から個人的に農業視察案内を依頼される者だけは断れず5年間継続した後2009年完全定年を宣言し、娘家族の住む南カリフォルニアの高齢者住居地域に最終地場として移転した。
その後日本の農業における自給率の低下、後継者減少、休耕農地の拡大、農村地域の過疎化等が続いていった、反面輸入農産物・食品は増加の一途をたどり日本人の食は海外からの輸入に依存しなければなら
ない状況となってしまった。
 然しながら地方では農業の近代化をめざすべく若い世代による “儲かる農業” が芽生えてきたり、農地法の緩和によって「企業の農業参入」する事態が生まれていった、また産地特有の独特ある農畜産物の生産から流通までをグループ化する動き、更に輸出を目指す農業集団等が活発に動き始め、先端技術を駆使して各種情報をすばやく収集することで、新たな生産から加工そして流通にまでに及んでおり一部はグローバルな事業展開にまでに発展している、頼もしい動きが日本農業に見られる。
 以上、小生の東農大卒業後歩んできた道の紹介と、日米農業との関わりについて記してみました。

            *島国の外から島国をみつめる。
 小生は海外に在住し外から日本国を常に見つめて参りました、やはり日本人の心身は捨てる事はで来ません、その心境の中で日本に向けて常にアンテナを張り、世界の中で日本国は如何動いているのか、何処に向かおうとしているのかをみつめて来ました、そんな所見を交換し合う我々東農大の海外在住組が「NODAI-NET」と言うSNSを通じて繫がっています。
 農大は大東亜戦争後初めて「農業拓殖学科」が設立された学校です、戦前「殖民科」が存在し多くの卒業生が満州に渡り農業の開拓に従事したが、ポツダム宣言受諾後の卑劣なソ連邦の侵略によって多くの犠牲者をだした、戦後暫くこの「拓殖」はご法度となっていたが、戦後の海外移住熱が盛んになるにつれ農大に高学歴者の海外移住熱を促すための「農業拓殖学科」が国によって許認可された。
 1956年この学科1期卒業生の半数がブラジル、アルゼンチン、パラグアイに移住していった、その後は続々と先輩の後に続いて南米各地、中米各地更に北米への移住が続いていった。大学での教えは「日本の小農技術を持って世界の未開発地域へ渡り、その地域の人々と共存し食糧生産に励むことによって世界から飢餓と貧困をなくし、民族が互いに助け合い平和な世界を築くことができる、その平和の使者となれ」であった。
 小生はこの学科を1965年卒業し前記した如く米国へ渡ることになりました。学生時代はブラジル移住希望組みでしたが1ヵ年の派米実習生事業でカリフォルニア州で実習した影響で、開発途上国への移住は「米国の大型機械経営農業」を学び、「日本の小農技術」を組み合わせれば更なる強力な農業を促進できると卒論を提出した、この事で教えを受けた教授から米国へ残り事業を継続することを約束させられた、そのため現役学生達の米国への農業実習事業のお世話を継続し、この米国で学んだ技術と日本農業技術を併合して卒業後各地への移住が継続されていった。
 日本の経済成長が進むにつれ1970年に入ると移住熱は冷め、国際協力での途上国への農業支援活動に農大卒業生は参加し、アフリカ諸国、東南アジア地域、中南米へ出かけていった。私はこの事業で米国に滞在を続け、農大生の実習事業、そして全国からの農業関係者の農業視察事業に専念し、待望のブラジルへの移住の機会を失ってしまい、いつの間にか定年そして隠居生活に入った負け犬を感じざるをえない。
 南米には多くの先輩・同期・後輩が移住していった、特に学生時代そして米国実習時代親しく語り合った同期の親友でアマゾンに入植した二人は数回尋ねてた、彼等のすさまじい生き様に感動し、なお農大での教えと祖国への思いを熱く語る姿に涙した。
 一人は愛知県出身で大型貨物船の船長後商船大学教授の息子、幼い頃から海外事情にふれており農大に入学、1965年アマゾンのベレン郊外に移住、大型農業成功者その後二世に経営を譲り、年二回訪日し「アマゾンの講演」を各地で開催、特に中高校生や若者世代への講演が多かった、またアマゾンの植林再生プロジェクトを立ち上げ、地球上のオゾンの2/3を放出するアマゾンの森林を守る活動に貢献した、昨年広島での講演後心筋梗塞で75歳で他界。
 もう一人の同期はアマゾン奥地モンテアレグレ地区への移住者で東京都三鷹の出身、生まれは満州で満蒙開拓の息子、両親はソ連軍からの避送中死亡、友人の助けで本人は5歳で日本へ生還、農大卒業後1966年横浜港からブラジルへ渡航、移住先の先輩の死去したあとの農場を受け継ぎ、胡椒栽培で成功し地域の入植者と日系農業組合結成し組合長も兼務、食道癌で3年前73歳で他界。
 農大の教授で農業拓殖学科の創設者、杉野忠夫先生の教えを受けた学生達は今も南米各地、そして北米各地に定着し農業、そして各種事業、政府関係等で活躍している、我々の先輩や同期はもはや老齢化し他界した者も多い、皆その地に骨を埋めている、そして彼・彼女達の二世、三世が現在現地で市民として各方面で日本人の心を持ち活躍している、そして日系人の評価は高い。
 現在日本の海外移住は歴史の中に埋もれている、然し海外の日系社会は変わらず祖国日本を忘れてはいない、二世・三世そして四世になろうともDNAは受け継がれている。日系人の評価は他の外国からの移住者に比較して大きな違いである事がその活躍の度合いで判明している、それは同時に日本人が本国で受け継がれている正しいそして真面目なDNAの継承にある、日本の正しい行動そして発展こそが我々海外在住者にとって不可欠な評価が下される条件である。
 我々の「NODAI-NET」交流サイトは常に行われ、各地の情報が伝えられてくる、然し日本からの現役学生や教育者からの発信が少ない事は寂しい、海外から日本への発信を如何受け止めているのか、受け止められているのかの不信感を抱いている、そんな中で小姓と常澤氏との交信は確かな物となっており、互いに得る情報に満足をしています、書籍、新聞記事(産経)の抜粋は有り難い情報源となっています。
 高齢化しても米国農業を体験した全国の仲間達の多くは現役で農業経営に頑張ってる姿には頭が下がります、やはり海外での生活経験は視野を広め多くの知識や情報の吸収に役立ちます。少子高齢化の日本がこれから独立国として独自に発展し又世界と相対する最低の条件を満たすことが大切です、戦後73年が過ぎ米国の傘によって安全を保持し続けて来ました、そろそろではなく早期に独立国として立ち上がってほしいと念願するのは海外在住の同胞の願いであります。
 貴殿のお便りに感謝申し上げ、小生のつたない投稿記録に目を通して頂けること嬉しく、あり難く存じます、いろいろな意見がある事は承知していますが、日本が常に正しい方向に進んでいただけることだけを願って居ります、今後とも宜しくお願い申し上げます、お元気で。  押忍
  
            2018年4月29日 California, U.S.A在住、 村松義夫 拝 



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