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第38回バーチャル座談会『新春放談、行く年来る年2018ー2019』その5
第38回バーチャル座談会その5は、本来のバーチャル座談会らしくなってきました。4200字に及ぶしゅくこさんのクリスマスに寄せるご尊父との思い出を中心に皆さんのコメントが中心になりました。字数の関係で駒形さんのサンパウロ関係が次回に廻りましたが、何とか1万語ぎりぎりに収まって呉れるのではないかと思います。写真は、しゅくこさんが送って呉れた写真の1枚を使わせて貰いました。


松栄:年末のイルミネーションバス ネットの皆様  展望台の皆様
夕べ、店の帰りに、こんな20mもの長さの蛇腹バスが横を通過しました。
クリスマスが近づいて、神戸のルミナリエも素晴らしいですが、・・・
夜中にブラジル市内を走っていて、こんなバスに並ばれたら、感動しました。

和田:松栄さん 毎晩遅くまで頑張っておられますね。ご苦労さんです。この季節は、クリスマス、年末と仲間で一杯やりながら過ごす機会が多く店は、お忙しい事と思います。夜遅く迄、クリスマスの電飾で飾られたバスが走っているとの事、感激しますね。日本の皆さんからも年末のイルミネーションの綺麗な写真が届くと嬉しいですね。雪景色に映えるイルミネーション等も日本独特なものでしょうね。楽しみに待ちましょう。

出石:和田さん みなさん。12/8日に移住ミュージアムの5階で、潟tルッタ フルッタの長澤CEOさんの、CAMTA(トメアス農業協同組合)のアグロフォレスト農法に出会った時の講演会があって、ロンドリーナ友好の会にも案内があったので参加しました。
その後、元町・大丸で友好の会の忘年会がありました。その席で、中平マリコさんのCDの話をしましたら、9名の方が購入してくれました。(杉井さんにも買っていただきました。皆さん料金先払いで預かってます。私を入れて10枚になります)
大丸前はルミナリエの出発点ですので、希望者だけ見て帰ることになりました。ルミナリエは阪神大震災のあった年の暮れから、鎮魂の気持ちを込めて催されるようになったものです。(私も、母と実家を震災で同時に失いました)
始まった時に一度見に行ったのですが、あまりの人の多さに閉口して(まるで西宮の十日戎並でした)。それ以後、近くに行くことはあっても、横目で見るだけでしたが、今年は久しぶりに(今年は24回目なのに、私はたったの2回目です)見ることにしました。
見たと言っても、出発点の景色と、後は、ルートから一筋離れた通りを歩いて、終着点の東公園の景色だけですが・・・
杉井さんが熱心に写真を撮られていたので、そのうちw50に出していただけるかな?とずぼらをしておりましたら、和田さんから催促がありましたので、少ししか撮ってなかったんですが送ります。寒い日でしたのでピントが甘いのはすみません。杉井さん、きれいな写真があれば、w50に送ってください。

和田:出石さん やっとバーチャル座談会になって来た感じですね。鎮魂の神戸ルミナリエは、震災の歳1995年のクリスマスから始まったのすね。1月17日の神戸の大地震の報は、家族旅行でブエノスアイレスに行っている時に受けました。その年の9月に21年勤めていた丸紅を退職し10月にさわやか商会を立ち上げた我が人生の激動の年でした。もう24年も前になるのですね。私が55歳の年でした。
神戸ルミナリエの写真は、一緒に歩かれた杉井さんからも送って貰えそうとの事、楽しみです。

はな:出石さん、みなさん お久しぶりです。ここ久留米も寒い日が続いてます。先日は朝の最低気温が1度。ブルブルです。
「ルミナリエ」きれいですね!!こんなに美しいものが見れるなんて、出石さん幸せですね〜
マリコさんも美しい歌声を聴いてくださる仲間が増えて大喜びでしょうね。マリコさん、私もいつも聴いてますよ。素晴らしい声に聞き惚れてます。

昭子:出石さん 綺麗なルミナリエで目を楽しませて頂きありがとうございました。日本は何処へ行っても綺麗ですね。益々良い日本となりますように。全世界 外側だけでなく内側も綺麗でありますように! アマゾン昭子

しゅくこ:和田さ〜ん、皆様へ
和田さん、お忙しいなか、みなさんの書き込みを丁寧に対処をされていることに感謝します。こちらは師走のあわただしさに背中をあおられている感じの毎日です。そんななか、Xmasにちなんで、父のことを思い出し、少し綴ってみました。よかったらのぞいてみてくださると嬉しいです。

「The last Xmas song」
         川越 しゅくこ
「今井さん、よかったらクリスマスの歌をみなさんに歌ってくださいますか?」 
若い女性看護師は微笑みながらゆっくりした大きな声で言った。
参観にきていたわたしはあわててもたれていた壁から背中を起こし、向こう正面の父を見た。
その日は90才の父が通うデイ・サービスでのクリスマス・パーティだった。
看護師の口調はせかしているようでもなく、もしよかったら、といった軽い誘いであった。たぶん歌が途中で止まったら看護師がいつでも一緒にフォローする気配も感じられる。
クリスマスの歌をリクエストされたのは、父がもとプロテスタントの牧師をしていたことを施設側が知っていたからだろう。
しかしそれはもうずいぶん昔の話なのだ。母が亡くなった後、80代になっても雨の中、傘をさして自転車に乗り、自動車道の脇を走ったりしていた父も、そのうち三度転倒し、骨折と入院をくりかえした。90才近くになって例にもれず牧師にも認知症が訪れたのである。夜中の徘徊、おむつの着用。食べたことを忘れる。同居の弟夫婦にはずいぶん世話をかけていた。わたしが訪ねていくと、父は「遠いところをよく来てくれたね」ともつれるようにそれだけを繰り返す。「また来るね」と帰り際に手を握ると、幼児のように口の端が垂れてたくさんの涙をこぼした。そんなかれに独唱なんかもう無理というものだ。わたしは父の反応をハラハラしながら見守った。
父の返事を待つ間、看護師はそばのおじいちゃんと冗談をとばして笑っている。どうやら予定した規則どおりのスケジュールでないようだ。ゆるりとした時間が流れている。
 窓越しに見える和泉山脈を背に、姿勢よく静かに座っている父の銀髪が輝いている。耳が遠いせいもあるがなんの反応もない。なにも要望せず、なにも反発せず、半ば化石化して、ただ静かに冬の陽だまりの空気を吸っている。その横には黒髪を後ろでひきつめ、ほっそりした芯のある体に黒い セーター、黒いスパッツ姿のルリ子さんがいる。まっすぐ伸びた脚の先を自然に組んでいる姿は80才でも、元バレーレーナであったことを彷彿とさせる。2人はいつも一緒にいる「仲良しさん」であることは看護師から数年前に微笑ましいエピソードとして聞かされていた。母には悪いが、私は2人の有り様が嬉しかった。
 ルリ子さんの細く長い指がミカンの一袋の薄皮をていねいにはがし、そのオレンジ色の果肉を父の口元に差し出す。その一切れが生命の証のように艶よく輝いている。父は無表情で黙ってそれを口に含む。その動作は使い古したあやつり人形のように静かに最小限の動きをしていた。
顔なじみになったルリ子さんの息子さんは60才近いのかもしれない。何度か顔をあわせているうちに泉州人らしい気さくさで声をかけてきた。
「お父さんは聞こえてるんですかね?」
「さあ、歌はもう、ちょっと無理だとおもいますが・・」
「あの2人以外はみなさん、寝てはるみたいですよ」
ホールは、車いすの背をまるめた30人ばかりの老人たちを抱きこむようなぬくもりを孕んでいた。
「まるでコンビニのおでんの鍋の中みたいですな〜。ちょうどいい温度のなかの具みたいにほっこりとなじんではりますな」といたずらっぽく同調を誘うのだが、わたしは笑いながらも父の様子が気になっていた。
2人は他の老人たちと同じようにぬくもりのなかにいる。にもかかわらず、その場にそぐわない空気をまとっていた。
それは2人がこの土着性の強い地元の出身ではないことが一つの原因であるのかもしれない。東京生まれのルリ子さんはご主人が亡くなって、ただ一人の身寄りの息子さんの勤め先であるこの地に引き取られている。わたしの父は富山県の仏教の信心深い旧家の出身で、牧師になる決心をして青年時代に勘当された。この地に一生をささげる決心をして以来、一度も帰郷していない。
わたしたちは、なんどかこういう行事があるたびに、少しずつ互いの事情を話すようになっていた。「母は父を交通事故で亡くしましてな〜、その強いショックが原因で、記憶も言葉も失ったんですわ。ぼくのこともついでに忘れてしまったようで」息子さんの微笑みのなかに一瞬の寂しさとあきらめの色が流れた。「最近は軽い認知症で家でもほとんど声を出すことありません。でも音楽が鳴ると、夢遊病みたいに一人で踊っている時がありますわ」
「そうでしたか? わたしの父も話すことが少なくなりました」 
父は30代から50代までの間にドイツとアメリカの宣教師の協力を得て、教会堂、付属保育園、社会福祉会館、牧師館をつぎつぎと建設していった。敬愛する賀川豊彦氏を招いて講演会を開いたのも、わたしが中Tの頃である。100万部をこえるベストセラー「死線をこえて」の作者であり、社会運動家としても有名であった彼の講演会は、入りきれないほどの観衆で溢れた。駅前でビラ配りをして手伝ったことはよく覚えている。その日を記念してユーカリの木を植えた。それが園庭で巨木に育ち、私たちはその下で長いテーブルを出して、たくさんの人たちとランチを楽しんだ。子供たちも青年たちも若い父とともにワークキャンプやボーイスカウトの活動に積極的に参加した。いつも賑わっているそんな空気の中でわたしは育った。
当時、珍しかった保育園も入園児でいっぱいだった。迎えに来る母親が遅れると私も父も子供をお風呂へいれた後、家まで送届けたりしたものだ。そんな時代の父は故郷を追われた人であっても、悔いのない人生だったといっても過言ではない。
しかし、50歳を超えるころから、保育園が街の中心的働きをになうようになり、その反面、新しく建てた立派な教会の礼拝堂には空席が目立つようになってきた。
ときには来拝者が3-4人の時もあった。それでも父は壇上から群衆に語り掛けるように大きな声で説教をした。わたしには分かっていた。父の説教はもう古いタイプになっていたのだ。壇上から教えを垂れる式の説教は、参列する人々に寄り添うものではなく、堅苦しく、聖書の時代背景などを浪々と説く学者のような内容は、地方都市の工場に勤務する青年や戦争未亡人、年配の信者など、低所得者層には退屈で空疎な内容に聞こえた。それでも日曜礼拝の前日、父は礼拝堂を黙々と掃除をし、人の集まるのを待った。
一生懸命になればなるほど、それはなにかむなしい語り掛けのように思えて教壇と会員の座席のすき間はしらじらしいなじみのない空気があった。
かれの老年期は物理的な成功に反して、精神的には思わぬ坂をくだりはじめた。
そしていま・・・・。だからこそ、ルリ子さんとのおだやかなデイサービスの時間にわたしは拍手したい気持ちであった。人は言葉で語り合わなくても、心だけで交わることができるということをそのとき父が教えてくれた。
2人は看護師の呼びかけが聞こえているのかいないのか、あいかわらずただ一枚の牧歌的な絵のようにそこにいる。
互いのたどってきた履歴などから逸脱し、なにが今起こっているのか起こっていないのかすら関係なく、今日が明日につながることのない点と点であっても、それでも無言のやりとりは交わされているのだった。
「今井さ〜ん、お願いできますか? お得意のクリスマスの歌を」看護師はにこにこしながら2人の前までやってきて笑顔で同じ言葉をゆっくり繰り返した。
そのとき、父は思いがけず、背中をシャンと伸ばして、杖を支えにしてすっくとたち上がったのだ。突然、高らかな歌声がその唇からあふれ出た。「き〜よしこの夜、ほ〜しは ひ〜かり♪」音程のしっかりした若い頃のそのままの声が朗々と流れ、ホールの空気を圧倒した。重みのなかにちょっとほがらかさも混ざった聴く人を包み込むような声質、それは大勢の人に賛美歌を捧げるために特別に授かった類まれな声であった。歌詞も一言も迷うことなく歌えた。首を垂れた老人たちの目玉だけが動いて父を見上げている。
父の歌声を聴くのは半世紀以上かもしれない。少女の頃のクリスマスがふとよぎる。クリスマスの賑わいは背の高いツリーの飾り付けから始まった。細い銀のモールをてっぺんの大きな星から流して飾る。オルガンを弾く若い母。それに合わせて歌う聖歌隊の「きよしこのよる」その中にはおかっぱのわたしもいる。たくさんの歌を覚えた。一年でクリスマスだけにしか歌わない、「きよしこの夜」もそのひとつ。
舞台衣装を着てキリスト生誕の聖劇を演じた。プレゼント交換もあった。なんだか弾けていたあの少女時代。
「演歌もええけど、讃美歌もよろしおますな〜」
ルリ子さんの息子さんが目を輝かせた。
ふと気が付くと、歌い終わった父はその足でわたしの所に杖をつきながらゆっくりやってきて小声で言った。
「しゅくちゃん、帰りたい」「え?」「帰りたい」肺活量の少ない声で繰り返す。ここは自分の属する居場所ではないとでも言いたいのだろうか。
「疲れたの?」「帰りたい」数瞬前にかれに乗り移ったあの力と輝きはいったい何だったのだろう?
ルリ子さんのことはすっかり忘れているようだ。互いの電話番号も住所も交換することなく、さらに明日も会えるかどうかわからない2人は、挨拶もなしに帰るというの? それはなんでも寂しすぎるじゃない?と思った。わたしは振り返ってルリ子さんを見た。彼女も父のことなどなにも関係ない世界のようにぼんやりとむきかけのミカンを手にしたまま、みつめている。父の姿を追うわけでもなく、寂し気でもなく、窓のそばの暖かい陽だまりの中にそっと一休みしているバレーリーナのように。
看護師の明るい声で何かのゲームがはじまった。
わたしはルリ子さんの息子さんと目で挨拶をかわし、父の手をとって外に出た。とりあえず家に連れ帰り、彼の自室のベットに寝かせた。
仰向けになって横たわる父の眉根が、かすかな苦痛の色を浮かべた。父の魂はいまどこをさまよっているのであろう。ふと、帰りたいその場所は生まれ育った富山なのかもしれない、と思う。
唇が少し動いた。 
「おとうちゃん、今日のきよしこの夜、とてもよかったよ」
その言葉に父の瞼がビクッと動いた。
寝顔はなにかを語っているようだった。頬にほんのりと赤みがさしている。「きよしこの夜」を独唱したことで、かつての人生の全盛期がよみがえり、90才の体を再燃し、同時にある種のふるさとへのノスタルジーを吹き込んだのかもしれない。
「きよしこのよる、星はひかり・・・」
これが、かれの最後のクリスマス・ソングになった。               

和田:しゅくこさん ご尊父との思い出を綴った『最後のクリスマスの歌』読ませて頂きました。何時もながらの人の琴線に触れる良い話でした。何時もの様に40年!!ホームページに残して置きたいと思いますが、バーチャル座談会の番外編として皆さんの書き込み、感想等を含めて残して置くか、短編としてそのまま残して置くは、暫く様子を見たいと思いますが、先ずBLOGに全文を掲載して皆さんに読んで貰うことにしました。有難う。

しゅくこ:はなさ〜ん & みなさまへ はなさん、いつもDMで楽しい花がらみの話題をありがとうございます。
今朝 DMをあけたら、はなさんからの 拙作「The last Xmas song」のコメント第一報が届いていました。
うれしくてつい自慢したくなり、ブログの方たちにも見てもらいたくなって転送のお許しをいただきました。ありがとうございました。
父と娘とは、文句なくどなたも、つながりが強いように思いこんでいたわたしですが最近、親しい女友達数人から、父が嫌いだった。死んでも何の感慨もなかった、という話しを聞いて驚きました。いかにわたしの思い込みが偏っていたか・・・。
はなさんのコメントに励まされ、また書きたくなっています。
でもとりあえずは明日の拙宅での英語グループで出す、おでんとトン汁の用意。みんなに持って帰っていただく手作りのブーケを作りました。 これは時間がかかるのでと思い、早めに仕上げてしまったら、すこししおれぎみになってしまっています。ドジなしゅくこです。 明日は岡山からの泊り客があり、翌日はまた出石さんごひいきのロシア料理を食べにバラライカに連れていきます。出石さん Como vai voce? muito obrigada

はな:おはようございます。朝一番にPCを立ち上げてしゅくこさんの「ラストクリスマスソング」を読みました。
読み進んで行くうちに文字がタブって来て..目がウルウルしてきました。
随分前に亡くなった父に思いが重なりました。 胸を打つお話しでした。
いつかこれらが本になって私が手にすることが出来ますよう、願ってます。
雨の日のナンテン。残念ながら我が家はまだ小さくて、これはお隣の。


古谷:しゅくこさ〜ん 「ご尊父に纏わる」貴信を拝読しました。足腰が衰えても、猶職責を全うしようと努力されたお姿に胸を打たれました。
私事で恐縮ながら、カラカス(ヴェネズエラ)駐在時に、父が亡くなりました。1974年の事です。
兄の要請に基づき、人事部長より「即刻帰国せよ」との命を受け、取るものも取り敢えず, NY経由で羽田に直行。羽田では、係官に訳を話してフリーパス。出掛かった伊丹行きに飛び乗り、伊丹からトランクを抱えた儘、タクシーで堺の病院へ直行。
午後の七時か八時頃だったと思います。病室に駆け込むと、「オトーサン」と一声。
私の声が聞こえたのか、母が父に「敬冶が帰って来たヨ」と耳元で囁くと、父は目を閉じた儘、微かに頷くのを見て、母は「間に合ってよかった」と一言。
母の勧めで、実家で一風呂を浴びて、寝入る間もなく、母より電話があり「お父さんは, 今、息を引き取りました。医者はとっくの昔に諦めていたのを、お父さんは、お前が帰るのを待っていたんだよね」と言われ、涙が滂沱の如く溢れたのを今も覚えています。海外で仕事をする変わり者は、家族で私一人。況して、私は末っ子。父は、余程私の事が気になっていたのでしょう。

広橋です 私も父を1974年に亡くしました。
大呑み助の父は1900年生まれでしたので、74歳で亡くなりました。
訪日する旅費がなく、それから20年後に訪日し、皆をお墓から追い払って、一人になって、思う存分に泣きました。

しゅくこ:古谷さん、広橋さん お父様との別れを読んでうるうるしました。涙もろくなりました。
涙にも いままでのように悲しい、嬉しい、怒りなどの単純な仕分けではくくれない、いまはもっと入り組んだ種々の感情がそのなかに入っているんだな、と感じる昨今です。父のことを書いている最中に眼頭が熱くなってきましたが、それは悲しさというより、温かさ、懐かしさ、感謝とかそんなものがmixされている感じでした。
よく戦場の兵士が「おかあさぁーん」と叫びながら戦死していった映画のシーンや書物の記事にも登場しますが、社会人になっても息子さんたちが父親の死に大声で泣いてくれるなんて、そういうこともあったんですね。(すみません、意外でした) それだけでも、古谷さんや広橋さんのお父様は、わたしの父より幸せな方だったとおもいます。

五十嵐:古谷兄、しゅくこさん 同じような悲しい思い出はみんな何か持っているのでしょうね。小生の父も一ツ橋を卒業して入った大連の満鉄本社から満州産大豆の保存法について、アメリカへの研修出張を命じられ、ニューヨークのコロンビア大学で聴講、高名な教授のゼミで研究に励んでいました。2年過ぎた時、義兄から「母、子宮癌の末期、すぐ帰れ」と云う電報を受け取りました。ニューヨーク 東京 大連 ひと月以上かかる船旅です。往復は二か月、研究は目鼻がついた頃だったので、あと1年の出張予定を諦めて退学、帰社しました。直ちに村の医者による自宅治療から高崎市の大病院へ搬送入院、手を尽くしましたが、永眠。それでも、孝行はできたのでした。「3年間の研修の帰りにはヨーロッパを見て帰る予定にしていた。」と云う希望は果たせなかったので、ブラジルへの渡航の途次はヨーロッパ周りを選んであちこち見てきたようです。学校好きで村から高崎までの二里半(10キロ)を歩いて通った父が散歩中、倒れて亡くなったのもサンパウロ大学の建設構内で、半年間も発見が遅れ、これも小生がスイスへ出張中で義兄からの電報を受けて飛び帰った時は白骨が荼毘に付せられた後でした。

麻生:五十嵐大兄 横から口出し失礼します。満州大豆の件ですが、大豆を満州の主要産品に育成したのは日本人(満鉄)です。現在の世界一の生産国アメリカは、満州からノウハウを取り寄せ育成しました。小生も事情を知るまでは、アメリカから満州に入った農産物だと逆に解釈していました。参考まで。

丸木で~す 日系移民として尊敬する大先輩の五十嵐さんとはサンパウロでもトロントでも一献傾ける機会が度々あり、来年も楽しみにしております。まさか父親までが似た様な死にざまであったとは何となく因縁を感じます。父は早稲田を出て入省した鉄道省から派遣され最古の経営大学院ペンシルバニア大学ワートンスクール留学準備中に、親一人子一人の家庭の事情で親族会議により外遊を諦めさせられたとか。酒を飲むと都の西北を唄い、この愚痴話ばかり聴かされて育ちました。公認会計士の父は欧米だけでなくアジア各国、あげくの果てはイランくんだりまで旅行してたのは留学を断念した腹いせではなかったかと思います。僕は1990年に父危篤のテレックスを出張先のリヤドで受け取り、ニューデリー行きの航空券を大阪行きに変更し病院に駆けつけたら、容態を持ち直したと医者の診断。やり残しの商談で上海経由で帰ったら、父死すの知らせ。
ブラジル人の家内は日本入国査証が要るので家内の上司のブラジル総領事から日本総領事に依頼し、夜中に領事館を開けてもらいビザの発給を受けました。総領事が日本航空の支店長にトロントから大阪までの座席を融通させてくださり成田経由伊丹まで、ところがあいにく成田から伊丹の便が出発済みで羽田までヘリコプターで行かないと葬式には間に合わないことがわかり、怖がる家内を説き伏せ、伊丹空港内の国際ホテルで礼服に着替えギリギリ間に合ったのでした。享年88歳でしたから三年経てば僕も米寿。今年は先月に79歳で亡くなった弟の葬式には間に合わず、行けなかったのが悔やまれ心残りです、合掌。

和田:海外に住む者に取って肉親の死(特に父母)に接する事が出来ないのは、宿命的なものがあるようですね。私も再移住してきた1965年の暮れに母が若くして亡くなりブラジルに行きたいなら行ってもよいが私が死んでから行って欲しいと云っていたのを見送りにも来れなかった病床の母を振り切って日本を発った年の暮れで敷居が高くなり17年間、日本には帰国していませんでした。母とは反対に日本に行く度にこれが最後と覚悟して戻るのですが、何度言っても元気で101歳まで長生きし正月の餅を喉に詰め病院に運ばれる途中、肉親の誰にも知られず亡くなりました。従い両親の死に目会えず仕舞いでした。これを親不孝と云うのでしょうか?私も1月2日に79歳になりますが、娘たちには、墓を残さずに灰になり骨壺と共にブラジルの海に溶けて行きたいと願っています。人生は、生きている間だけのものと思っています。生かされている間は、精一杯生きて行くより他、方法がないでしょうね。余り長生きしたくないです。

しゅくこ:丸木さ〜ん 和田さ〜ん & みなさまへ  書くことで思いもよらないことに気付かされます。
スポーツクラブのサウナで わたしのFM ラジオの冊子に載った 『The last Xmas song』を、「読んだよ〜」と声をかけてくださる方が多くて内心驚いています。ご自分の父母のことをひさしぶりに思い出して話したくなられたのでしょうか・・・・・。
満州、シベリアなどでの戦争体験がある父、母の話が多いです。
そして、わたしは飢えの記憶がほとんどで戦争の生々しさを知らないで、育ちました。
わたしたちの子供も4-50代を迎えますが、 その子供たち、つまり孫たちも、さらに戦争が遠い出来事のように捉えています。
でも、いまのまわりの小学生は発言もしっかりしていること、たいていのの小学校には在日外国人の子女が普通にいるので慣れていて、さらにネット世代で育つているので、一様に私たちの世代と同じように考えるわけにはいきませんが、このブログでのいろんな書き込みに教えられることが多いです。
丸木さんも和田さんも、まだまだ後輩をひっぱっていっていただきたいので、どうぞ、よろしくお願いいたします。(余り長生きしたくない、とおっしゃる方にかぎって、しっかり長生きしてらっしゃのをよくみますので、安心していますが)



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