California Dreamin (夢のカリフォルニア) 川越 祝子 さんのお便りより
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私達の40年!!関連BLOG、メーリングリストメンバーには、本を出版して居られる作家が多数おられますが、その内の御一人川越祝子さんが村松さん、常澤さんのお二人が書かれた著作の読後感を纏められ、若い頃に同じカリフォルニアで過ごされたしゅくこさんの夢のカリフォルニアと共に送って呉れています。普通ならBLOGに掲載したものの中から40年!!に残すのが通常ですが、今回は、先ずホームページに掲載する事にします。しゅくこさんの書かれたものは、既にホームページに沢山掲載させて頂いていますが、又一つ残して置きます。写真は、沢山あるのですが、1枚しか掲載出来ないので最初の1枚を使用しました。 |
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「島から大陸をめざして」(2002年、村松善夫作)と「専業農家の経営戦略」(2010年、常澤健壽作)を読んだ。
1963年、4月。お2人がともに20才代だった頃、当時の社団法人国際農友会が主催していた第12回の派米農業実習生に選ばれてカリフォルニアで1年間の農業体験談と帰国後の実践を綴った(つづった)熱い記録である。各都道府県から2名ずつ選ばれた約100名のなかには農大生や一般の農家の人などが混ざっていた。お二人の行かれた先は世界一の農業国であるアメリカのカリフォルニアであった。
村松さんは生涯の師となった東京農大の愛すべき恩師、杉野教授の熱血漢ぶりにかなりのページを割いている。そのユニークなキャラクターのことを書きはじめたらキリがないくらい読んでいてワクワクする。が、ここでは残念ながらかれの魅力を紹介する十分なスペースはない。
「日本の優秀な農業技術でもこの地球から飢餓と争いを無くすことができるような活動をしなさい。なにをさておいてもまず清潔な水と十分な食料があれば、人間争わなくて生きていける」そんな風に説いた師の言葉を胸に狭い日本を飛び出した。船は横浜からサンフランシスコにむかって出航した「さくら丸」であった。村松青年は行きの船の中で、われらがブログの主宰者、和田さんが「あるぜんちな丸」でされたように船内ニュースを発行している。この頃からお二人のリーダー的な力がうかがえる。
1963年は分かりやすくいえば、11月22日、ケネディ大統領の暗殺された年であった。日本の農業については、急斜面と山あいの小さく仕切られた山間の農業が多く、封建的な色合いの濃いものであった。食生活はどうだったろうか。欧米化が幕を開け、米の消費量が減って米余りが問題になっていく、そんな時代でもあった。政府も対策に苦労する。農家は減反などの政策に翻弄され、くわえて自由貿易の輸入の波を大きくかぶることになる。2人はそんな課題を抱きつつ、それでも未来の可能性を信じてカリフォルニアにむかった。
15日後にサンフランシスコの港に着いた。
かれらの目に最初に飛び込んできたのはなんだっただろう。澄み切った青い空と気の遠くなるほど続く農地、湿気のないさわやかな風であった。実習の内容は農家でホームステイをし、その農業を学び、ヒスパニック系の労働者たちと汗を流し、ときには大学で用意された講義に出て、帰国の前には観光旅行も楽しめた。
その空の下に展開される6-800kmにわたる建設中の運河を目の辺りにする。連邦政府や州政府が莫大な費用を使ってカリフォルニアの乾いた土地に、シェラネバダ山脈から水を運んでくる。空には飛行機が飛び、畑に種を播いていた。アメリカの農業は開放的で分かりやすかった。その機能的でダイナミックな農政は、流通機構のなかで安定した一大企業である。日米の土地の広さの違いは仕方がないとしても、そこに携わっているのは同じ人間である。農政の在り方、組織の在り方を痛感する。それは日本の議員の多さにまで問題がつながっていき、分かりやすい仕事を複雑化していることを提起する。
アメリカ農業の民主的な良いところを日本流に直すだけで、簡単に改革に結びつくのに…と。かなりのスペースを割いて訴えている。
1964年、一年間あまりの実習を終えて2人は船で帰国する。日本に着いたとき、経験と感動のエネルギーの詰まった蕾が花開こうとしていた。青年の実行力が爆発する。
300年続く専業農家の9代目の跡継ぎである常澤さんも、当時の海外実習生に対する世間の好奇の目と期待の中で、さまざまな問題に取り組んでいく。帰国して20歳代にしてまもなく取り組んだことは、自宅の離れ座敷を農村地域の人づくりと対話を目的に「青年の家」として神戸市に貸与したり、新聞、雑誌への投稿、取材、講演などにエネルギーを注ぎ込んでいった。
農業に見切りをつけて若者が去り、空き農地が増え、それが農業破壊につながり、美しい日本の自然が消えていくのを嘆いている。そして、1963年頃には7-80%であった日本の食糧の自給率が年々下っていき、現在30%前後まで落ちている。スーパーにあふれる輸入品を見て、ここはどこの国? とおもわず首をかしげることがある。政府もいろいろ模索しているということだが。
「これほど食料の自給率が低いまま、海外からの輸入に頼って日本の農業をおろそかにしていていいのか、突然の国際的な有事に直面することだってありうる。無関心とのんきで農業をおろそかにしている日本という国はどうなるのか」と問い続ける。
「人口過密な日本での農業は、アメリカの見よう見まねでやっていけない。アイディアが農業の時代」と自らの主張を実践していく。
そのためには日本のいいところも見直すことを忘れてはならないと。日本の農業は無駄遣いせず、手作業にもっとも適した農具を使い、軽量の機械を使った農業技術は世界一と言っていいほど高い。一面積あたりの収穫も世界一であるという。
話しはそれるが、かれの蔵書は5-6000冊もあり、読むこと、書くことの底知れない力を駆使している。その文字力はもと校長の父上が小学校などの校歌の作詞をされていたことからもうなずける。こうして稲作中心の「栽培する農家」から「呼び寄せて触れたがる農業」への方向転換を模索していく日々がはじまる。
帰国以来、約55年がすぎようとしている。
常(つね)澤(ざわ)さんは,広い農園の一角をスイスやドイツのやり方を参考にして貸し農園「八(は)多(た)グリーンヴィレッジ」を近所の幼馴染みと共同で経営している。アグリ・ツーリズム(休暇は農村で過ごそう)について県の奨励もあり、講師の役もひきうける。貸し農園の各畑の前にはそれぞれのログハウスもあり、神戸市から定年退職をした夫妻たちが通っている。しかし、これもそのうち高齢者たちの体力の問題が関わってくる。うまくいった時代も、計画が挫折して途方にくれたこともあっただろう。模索は時代の流れとともにいまでも進行形である。
この半世紀、日本の農業改革を進めてきた陰の立役者たちは、孤軍奮闘ではなく、当時の内外の仲間といまでも交流し、酒を愉しみ、未来の夢を語りあい、毎年のように海外の視察も続け、新しいアイディアを取り入れている。専業農家の悠々たる歴史のなかで育まれたそのDNAは、どっしり構えたある種のゆとりと自信をベースにして、時代の流れに挑戦していく力も備えているのだ。日に焼けた逞しい80代は、いまだにカリフォルニアの青い空をたたえた青年の目の輝きをしている。「良い思い出」というものはだれの人生にも力になってくれるものだと思う。
ネット時代を迎え、農業の在り方はさらに大きく速く変わっていく。
村松さんは海外との農業交流のかけ橋となって、活躍される。そのうちの1つが、故郷の静岡県掛川市の当時の榛村市長とスクラムを組んで、海外の農業実習の世話役であった。
外国からの貿易自由化を防ぐことができないが、それを現地で自分の目でしっかりみることによって敵の弱みもみえてくると論を張り、日本農業のすぐれている面も多いに語る。外国の農業と真剣に勝負する時代がきたことを認識しなければだめになってしまうとの働きかけに、榛村市長は熱心に応えてくれた。村松さんはその後、アメリカの国籍をとり日米の農業関係者の橋渡しをしてこられたが、2001年のNYの同時多発テロ事件を境に4憶円の仕事が一瞬にして0になり、35年間の仕事が終わった。
こんなときにも、初めて目にしたカリフォルニアの青い空が彼の心にもふとよみがえっては、元気をもらったのではなかろうか? 思い出はだれの人生にも励みになってくれるものである。いまはリタイア―されたが、新しく創った個人会社で日本からの視察団をあちこちの農家などに紹介し、労力はおしまない。定年後のゴルフもたのしまれている。彼はこう記している。「多くの農業者及びその関係者に米国農業を視察してもらい、弱点を見出し競争できる物を見つければ、この自由化に勝てると信じている」
他の実習生たちも、帰国後、北米、南米、中米、はじめ発展途上国への農業指導に携わっている人たちが多い。
しゅくこのCalifornia Dreamin (夢のカリフォルニア)
緑の田園と青い空。フロントガラスいっぱいに沸き立つ入道雲。
開け放った窓から乾いた涼風が髪を煽る。カーステレオに流れるのは、ママス & パパスのヒット曲、「夢のカリフォルニア」。おもわずリズムにのって口ずさむ。車は六甲山麓の裏、神戸市北区八(は)多(た)の田園地帯を走っていた。八(は)多(た)の空がカリフォルニアの空に重なった。懐かしい青春時代にふとタイムスリップしたようで、粟粒(あわつぶ)の弾けるような震えがわたしの体を包む。56年前のその空を仰ぎ見たときの感動が昨日のようによみがえる。
車の助手席には3か月前、常澤農園を訪問した際にお借りした2冊の本が神妙な顔をして座っている。もうどこでも手に入らなくなった2作品を汚れたり破れたりしないように私にしては珍しく取り扱いに気を使って読ませていただいた。読み終えたいま、わたしはカリフォルニアの夢がいっぱい詰まった本たちと今日でお別れするのがちょっと寂しい気もしている。
1962年8月、わたしの乗船した「あるぜんちな丸」は神戸のメリケン波止場を出港し、2週間後、ロスアンゼルスの港に着いた。入国の手続きを済ませ、はじめて建物の外に出て目を疑った。「え? まだ海なの?」それは視界に収めきれないほど遠くまで広がる駐車場であった。
わたしはサンフランシスコの郊外の豊かな文教地区のコミュニティの一角で、お父さんが大学の先生をしている家族と一緒に住んでいた。毎朝、お父さんの車の助手席に座ってDiablo Valley Collegeに通っていた。親切な先生たちばかりであった。その思いやりの裏にはまだ終戦から20年もたっていない、敗戦国日本の若い女性に対する過保護なほどの気遣いがあったのかもしれない。タイプライターの実習のビジネスクラスでは、先生の言う文字を打つ練習をしていた。ある日クラスが始まるといきなり先生がみんなに打たせはじめた字がHではじまった。その後はA・ P・P・Y。叩き終わったあとの言葉はHappy Birthday Shukyであった。個人的に親しい先生であったわけでも、親友がいたわけでもなかった。ステイ先のお父さんが気を使ってサプライズを仕組んでいたのだろう。
スーパーでペット用の缶詰まであることに驚き、ドライブイン・シアターや、ダンス・パーティに誘われたり、初めて友人の馬にも乗せてもらった。濃いオレンジジュース、ミルクやチーズ、ハンバーグにコカ・コーラ、でかいケーキ。戦後の空腹な時代を生きてきた20才の胃袋はそれをとりもどすように貪欲だった。
大学でもコミューニティでも、日本人ははじめてという時代、過保護といえるほど大事にされた留学生活を過ごしている間、すぐ近くに日本の農業の未来を背負って、夢と目的意識を持った青年たちは、激しくも密度の濃い、汗にまみれた一年を過ごしていた。そんなことなど、この二冊を読むまで知らなかった。あれから57年が過ぎた今頃になるまでは。このご著書を読んでみて、わたしははじめて日本の農業のことについて目を覚まされた。
思えばいつ頃からだろうか? 「なにかが変わってきた」と感じ始めたのは・・・。畑を借りて自家栽培を始めた近所の方たち。スーパーのコーナーにはお百姓さんの顔写真。東京の高層ビルの前に並ぶ有機野菜のこぎれいな屋台。身近なところでは私たちの仲間の娘さん夫婦も千葉県で「さおとめファーム」という名の有機農業を展開している。昨年は台風でかなりの打撃を受けた。わたしたち仲間の送ったわずかな寄付金に対して、この若夫婦はお礼に採りたての白菜を使ってキムチを送ってきて、将来の夢を熱く語った。こういう若者たちの新しい波はネットを通して地道に浸透している。有機栽培の農作物をレストランや市場に紹介する組織だった新しい仲介ビジネスも注目されている。農業離れから農地がかなり空いているということは前述した通りだが、実は空いた農地を探しているアイディアを持った若者たちは40年も前から乗馬しているわたしには何人も接していて珍しいことではない。まず農家を訪れ土地探しに多くの労力を費やし、それが確保できると自分で厩舎を建て、馬場に砂を敷き、ラチをつくり、ボロ(馬糞のこと)を片づける塵取りやフォークは手作り、馬具や頭絡をかけたりする棚をつけ、ひいては使わなくなった古い蹄鉄をつなぎあわせ、おしゃれな椅子まで造ってしまう。馬関係の仕事人は男女の関係なく驚くほど大工仕事が上手いのである。わたしがはじめて乗馬をはじめたのも立派なクラブではなかった。いや馬場さえなかった。馬場用の貸し農地が見つかるまで馬喰さんにクラブの馬をあずかってもらい、河原に馬を曳いていき、小石を拾って馬場を作る作業をみんなで手伝った。若者がリーダーであった。
彼らの選んだ仕事はそれなりに苦労があるし収入もほとんどない。試行錯誤で働き口を転々としながらも最終目的を目指している。
昨年、知人の牧場に行った。馬場も厩舎もすべて自分たちで造った。かれらは都会育ちだが、やはり空き農地と交渉し、土地を耕し、有機栽培をやりながら馬や羊を飼って地元民の自然学校を開いている。野菜だけでなく果樹を育て、ジャムをつくって販売もする。山羊の搾乳用の木製ケージなどもその一つでプロ顔まけである。わたしは人生はじめて自分で搾乳した山羊の乳を飲んだ。これほどおいしいものは後にも先にもない。
祭日には馬車を都内で運転し、新婚夫婦を乗せて結婚式の華やかな一役も果たし、わたしと馬友達はそんな若者たちが楽しそうに牧場関係の仕事をしているのに接したくて、毎年秋に訪れるのである。そこで馬に乗ったり、乗ったあとは放馬させるために別の場所まで引いていく。ブラシをかけたり、蹄の裏の泥をかきおとしたり手入れをしたり遊んだり。時間はあっという間に過ぎていく。
その日は近くの林の中を馬上で散策し、ひとしきり遊んで、お昼は人気のレストランに行こうと誘われた。有機栽培だけの食材を使ったサラダが美味しいとうきうきしている。数分の所で車は停まった。だだっ広い河川敷のようなところで辺りは草むらだけ。目の前にみえるのはボロボロの小屋。どうみても、牛小屋か農機具入れのような納屋は腐りかかった板を錆びた釘で打ち付けたような出入り口。 その前まで雑草がはびこっている。「レストランはどこ?」青年たちは笑顔を満面にさっさと小屋に向かっていく。ドアを開けたとたん、人々の笑い声があふれ出た。明るい店内に4人がけのテーブルが30台ほど奥まで並んでいる。予約なしでは入れないらしく満杯であった。皿、ナイフ、フォークの触れる音、ウエイターが忙しくテーブルの間を行き来する。グレービーのかかった艶のいいハンバーグの皿が目の前を通り過ぎると美味しい匂いだけが残り、お腹が鳴った。そしてなによりも目玉商品である採りたて野菜のサラダ、特別めずらしいメニューでなくても、ネットのこの時代、たちまち評判が呼んで、お手頃な値段のこのレストランは大はやりであった。これは単純なアイディアだが見事な演出である。お見事! というほかなかった。こんなアイディアの農業もある。わたしたちは食事をしながら、空き農地の活用についておしゃべりをした。たとえば空き農地を借りて、花や動物、野菜を楽しみつつ、そこにカラオケとか、ロックグループの演奏活動の練習場所などを提供するとか、シニアたちのデイサービスの施設などともっとリンクできないものだろうか。手伝える元気なシニアーもたくさんいるのに。
出来れば学校の課外授業に組み込めないものだろうか? トライアルウィークのもっとしっかりしたカリキュラムで子供の生活のなかに取り込んだものを。校庭の一角で柿やトマトなど生徒に育てさせている学校もあるではないか。現代風農業をしたい青年たちを政府ももう少し強くサポートできないものか。れらは空いた農地を探している。土地を使わせてあげればいい仕事のできる能力ある若者がわんさといる。それを信じたい。
最後に、毎年の秋に泊まる山梨県の森の中のホテルのことを話そう。そこでは40年あまり付き合いのある友人がピアノとヴァイオリンのコンサートを毎年開く。同窓会の意味もあるが乗馬旅行の計画の一部にもなっている。ホテルの周りは飼料用のトウモロコシ畑だけで他の行楽施設はなにもない。駅からタクシーでいかなければならない。それでも行きたくなるホテルである。音楽家たちの愛する緑に囲まれた木造ホテルは、古くて格式が高い。よくコンサートが開かれ、なじみの泊り客を集める引力をもっている。エレベーターも自動ロックもないこのホテルは、上品な痩せた老婦人がオーナーである。重厚な調度品に囲まれて、グランドピアノのある緑に囲まれたホールを、才能ある音楽家たちに提供し、こまやかなサポートしをしている。無駄口はたたかない。厨房は地元のお嬢さんたちが誇らしげに働き、セロリーが採れた時はそのままお盆にのせて席をまわり、一本ずつ取ってもらってバリバリと頬張ってもらう。彼女たちは客と笑顔で共有できる小さな価値ある演出を理解しているし、わたしたちも洒落が分かる客のように喜んで参加する。こんな小さな仕掛けが口から口に伝わって意外にホテルの人気にもつながつていく。
そんな想いを馳せていると、窓いっぱいにひろがる入道雲が車の中まで迫るように近づいた。
思えば、1965年、3年近くの学生生活を後にして数年間、わたしは湿気の多い日本で、あの乾いた涼風が懐かしかった。一瞬ふっと鼻先をかすめ、姿を消していくのが切なくて、無意識に手をのばしてそのかけらをつかもうとしたものだ。しかしその肌の記憶が遠い過去のものになって50年以上が過ぎようとしている。
カリフォルニア・ブルー・スカイに染まった思い出がわたしの人生で一番大切な宝物になっている。わたしは若者たちの未来を信じたい。信じるに値すると思っている。かつて農業実習生がカリフォルニアの空をみながら日本の農業の未来の夢を信じたように。いつの時代も・・そうでありたい。
目の前の入道雲が私を見下ろしている。「わたしはいま、シアワセなのかな? 」と問うてみる。
首を傾げているのだろうか、それとも、こっくり頷いたのだろうか?
「California Dreamin’」は流れ続ける。
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