麻生さんの49日の法事に当たり思い出す事々。
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令和元年10月4日に亡くなられた麻生さんを偲んで3回に分けて東京農大の後輩にあたる松栄さんから思い出す事々を綴って頂きました。藤沢さんがコメントしておられるように聞き上手な松栄さんだから聞かせて貰えた貴重な麻生さんの一面を語る秘話です。松栄さんがもう一度読みたいと云っておられる麻生さんの60回に渡る『麻生悌三のブラジル不思議発見』は、1回目から今年元旦の60回目迄すべての全文がこのHPに残されています。
写真は、松栄さんが2枚送って呉れたのですが、10年の歳月を通して初めて採れたカカオの実を供え物として使わせて貰う事にしました。
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麻生さんの49日
そろそろ厳しい暑さになるころですが、何故か涼しい感じの2019年11月24日、麻生さんとの本当の別れに行ってきました。
まず石川さん【拓殖一期)を社務所の向かいの待合室で見つけ話していたら、向かいの席に広橋さんがおられて、そこに原島さん(農大会会長で柘植6期)がこられ、・・・
下の法事の場所に移動したら、徳力さん、松村さん、がおられ、そこに榎原さんが入られ、そしたら古谷さんが奥さんと入ってこられ、その後砂古さんが見えた。そして大森君が入ってこられた。そんな感じで、読経が続きました。
麻生さんが亡くなられて、今日まで3回日ほどじっくり奥様と話すことができたのですが、いろいろお話が聞けて、知らないことばかりで、成程なー、と感じることもイッパイありました。
そんな中で一つ印象に残ったことがありました。
そのことは後程に。
生前、と言ってもまだ1年くらい前でしたが、ちょうど日産のゴーンさんが捕らわれた去年11月末頃から、このネットメールを通して急接近させてもらうことになってしまいました。
そして、以前は話してもらえなかったことを具体的に話してもらえた・・・と思うのですがそれでも時間が足らないで突然逝ってしまわれました。 もっともっと聞きたかった。
農大会の総会と慰霊祭でお会いした折、お話したのですが私の姉や叔父たちとのかかわりや、それを遡る、初めてお会いした1971年ころからの話でした。
私は、実際の農業方面に出たので、サンパウロ市内で商売、特に雑貨貿易方面から外れたので、共通項目がなく、ころ麻生さんのお話に出てくる環境は、ぜんぜん知らなかったのですが・・・
私の姉夫婦が独立起業始めた頃の、麻生さんとのかかわりなど具体的なこともあって、麻生さんから姉夫婦が、代理店の権利関係での争いや…そんな状況まで・・・本当のことをじっくりで話して頂けました。
既に私の姉は12年前に他界していますし、義兄も6年程前に亡くなっていて、実際の利害関係など、忘れたフリしていることがイッパイありましたが。、
その頃関わってられていた鶴賀さんとか、私の叔父の五男さんのことやいっぱい出てきて、初めて聞くことばかりでした。
麻生さんが長年言いたかったことを私に言われた、という感じになって・・・
というのは私は、そんな具体的利害関係に、一切話の中に出てこないわけで、利害関係がなかったから、話しやすかったのだろうかと思いました。
お前に聞いてもらって、長年のわだかまりが取れたよ、ということを言われました。当時の利害関係や、仕事を盗まれたこと、とか、あいつに一杯食わされた、という話がイッパイでした。
アマゾンからサンパウロに転入されて、いろいろの仕事に付かれながらだんだんと仕事のグレードが上がっていって、私の叔父の会社から日本の商事会社に移られて、その後私が移住してきたころには、住友商事から先輩の引っ張りで三菱商事にうつられたころの話でした。
具体的に三菱に入られて、何をされたか、ということをじっくりお聞きしようと思っていた先日、突然の御他界で、・・・・
私がアマゾンから持ってきた10kgくらいまで大きく成長するアバカシ(パイン)の話で、いろいろ細に渡って話していただけました。
以前(1970年代)三菱に入ってすぐに、パイナップルの生産を始めるプロジェクト
を麻生さんが引き受けて始めたけれど、3年以上試験栽培をした結果、軟腐病の発生が止められず、巨額を投資した結果、撤退を余儀なくされた、という経験談(具体的なもの)が最初でした。(試験栽培と言っても億の投資で、規模が違っていた)。
そんな話が最初で・・・
今年の慰霊祭だったですから、7月の28日ですね。その折に、話されたのが、多分専門にやられたブロイラー輸出話か?
「私は会社に300万ドルの利益をあげたことがある、この記録は会社の現地採用仕事の純利益として、会社歴代のベスト10に入ったんだよ」という、麻生さんには珍しい自慢話をされました・・・
やっぱりそれだけの実績をあげられての、現地採用からの食糧事業部長栄転だったのだ、と思いました。
そんな最近の話、と言ってももう15−20年前の話ですが・・・
レストラン始めて2年くらいたったころ、昔の熱帯魚採集が忘れられず、半年に一回くらいアマゾンに行っていました。
以前お邪魔して、気になっていたポールトベーリョ(ロンドニア州都)から10kmほどにある(現在は市内区域になった)ガポレ移住地の農大OB、戦後最初の農大卒移住者だった栗山信二先輩を訪ねました。
既に他界されており、ご本人にはお目にかかれなかったのですが。
現在、跡を継がれている四男だったかの平四郎さんがおられ、いろいろお話しが聞けました。
そのことは、以前農大ネットで書かせてもらったのですが。
昭和29年にアマゾン最奥地ガポレに着いた29家族で、栗山さん一家は家族7人?
当時の入植契約条件だったゴム栽培を、延々19年励まれ、20年目のようやく
ゴム液の採集(収穫)が始まる、という年に。
同時に入植したお隣さん移住者が、その畑(25ヘクタール)のゴム畑に放火して、
畑を全焼させられた、という話を聞いたのです。ゴム樹は乾燥時期にはよく燃えるそうです。
栗山さんはその折 燃えてしまった畑を見ながら「諦めるしか仕方がないなー」
その一言、言われただけだったそうです。
平四郎さんが言われました。「あの事件からもう何十年もたったけど あの時、燃えてしまってよかったかもしれない。 ゴムの生産は非常な重労働で、あのままやってたら
父も長生きできなかっただろう、と今では思うようになったよ」 と。
サンパウロに帰って、麻生さんに質問したのです。「そういうことがアマゾン・ガポレ移住地であったそうですが、日本人移住をどう思われますか」
「ブラジルに入植した日本人移住地では、しょっちゅうそういうことがあって、これは日本人に共通することだけど、へき地に入ったり、日本人だけが集団を作ると、そういうことが起きる 集団地で一度日本人同士でイガミあったら、どうしようもない状況になってしまう、これが日本人独特の欠点だね、農大生の中にもそういうイガミあい があったことも知っているから 仕方がないかもしれないね」
そんな論評をされて、私は、「奥地への移住者というのは、そういうものなのか」ということを実感しました。
アマゾンで起こった、いろいろのことを教えていただいた、という思いが今でもあります。
3回目(最終と思い) 麻生さんの思い出に、今年初めて私のファームで(収穫)採れたカカオの実の写真と、49日の法要の写真を墓前に捧げる意味で添付させていただきます。
もっともっと書かせていただきたいのですが・・・(´;ω;`)ウゥゥ
このカカオは10年ほど前に自分の手で種から植えて、今年初めて収穫した物です。
2回にわたりなにか暗い話をしてしまいました、皆様にお詫びいたします。
生前は、何しろ韓国が嫌いで、原発にも反対されていて経験的にいろいろ実際に経験されたことを話していただきました。
自然現象、とくにブラジル奥地で見られる珍しい物、生物、天然現象に詳しく、本当によく知ってられました。
これから、我々の去った時代、どのように展開してゆくのかという質問をいつか麻生さんにしてみたい、と思っていましたが。
それも・・・麻生さんには直接何回か、以前に書かれたレポートを本にしてほしい、とお願いしたのですが、考えてられたようですが、結局実現できませんでした。
こんな御願いをしてよいものか、分かりませんが、50年メールを主宰されている和田さんに、もう一度 麻生さんのブラジル・ふしぎ発見 を連載いただけないでしょうか。
以前に連載されたものが、受信箱を探せば出てきそうなので、御手数であれば、けっこうです。
もう一度、じっくり振り返って麻生さんの文章を読み直してみたい、と感じています。
それでは、この辺で・・・
サンパウロ マツエ
(コメント集)
古谷:本日11月24日(日)午後二時より、当地SP西本願寺で故麻生氏の49日法要が営まれ、私も女房を連れて出席しました。
本葬が行われた寺院と違い、西本願寺は敷地が狭く、三家族の法要が同時に行われた事もあって、車の殆どが路上駐車を余儀なくされる不便さがありました。
法要に参加したお陰で、平素はメールのやり取りだけで顔を合わさぬメル友と再会出来たのは、故人の人徳の賜物でしょう。絵描きの砂古さんとは、一度「見たことあるおっさん」と思いつつすれ違い、後で「やっぱり古谷さんだった」ではないかと叱られる始末。何拾年ぶりかの再会で、顔付きが変っていた(?)ので、見間違いましや。スイマセン。ご挨拶を約した松村さんにもお会い出来ました。
他に、徳力さん、駒形さん、広橋さん、榎原さんにもお会いできました。平素は、滅多に顔を合わさぬ人達で、これも仏さんの功徳でしょう。
唯一残念な事は、法要の開始時刻が14時と言う事で、昼食を済ませて出かけた処、式の後で昼食がでた事でした。「Take-Out」はアカンか?と聞いたらアカンと言うので、余計に腹がたちました。
顔見知りの次女のお嬢さんが、又目に涙を受けべて私に礼を言うので、「私でお役に立つ事が有ったら遠慮なしに言って下さい」と答えると、例の馬鹿力で肩を抱きしめ、「オブリガーダ」と声を震わせていました。完。
和田:古谷さん 麻生さんの49日の法要の詳細報告有難う。写真が一枚でもありませんか?あればBLOGに掲載させて頂きます。コメントだけの場合49日前のBLOGにコメントして掲載して置きます。ご苦労さんでした。多くの方が集まったようで麻生さんの人徳ですね。
古谷:和田さん SP西本願寺は建物はソコソコの大きさですが、敷地はとても狭く、麻生家の式場は入り口の狭い奥まった地上階にあり、部屋もそれ程大きくはなかったのです。路上駐車に手間取った所為で、式場に入ったのは開始
寸前だったのと、式場は写真を撮る雰囲気ではなかったのです。
従い、私どもは写真を撮っておりません。同席されたメル友で写真を撮られた方が居ないか、お尋ね戴けませんか?
和田:古谷さん 状況、理解できました。写真はないとの事。既に10月4日付のBLOGのコメント欄に掲載して置きましたのでこれで我慢して頂くことにします。有難う。
広橋:麻生さんは松栄さんの聞く態度に反応して、昔話をされたと思います。
人に言えない悩み事、失敗話、積もり積もったうっ憤話、人に言いたかった自慢話、Etc's・・・、を注意して理解しながら聞いてくださる松栄さんだから麻生さんは話しされたと思います。私も、松栄さんと話すと、心が休(安定)まります。
砂古さんとの話で、松栄さんの事が出たおり、関西人の率直でオベッカを使わない特徴、を話した事がありました。
松村:11月24日、尊敬していた麻生悌三さんの四十九日法要に麻生さんを中心にした幾つかの円(ご遺族とご親類の方々、東農大同窓生、展望台仲間、学移連仲間、タボン郡の仲間)の皆様が集まりました。
麻生さんの引き合わせで私もメ−ルか電話でしか知らないたくさんの人に会えました(或いはお名前と顔が分かりました)。引き合わせて呉れた麻生さんに感謝です。
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