第40回バーチャル座談会『新春放談、行く年来る年2019ー2020』その5
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丸木さんから始まったその5は、日本空軍?の話から後半6000字は、日産とゴーンさんの関連問題を中心に経営者の指針が如何に企業の管理運営に影響するか?カネボウ、山一証券、古谷さんの兼松江商社長迄飛び出し商談議が賑わいました。例年と違った雰囲気のバーチャル座談会が展開していますが、これも良いでしょう。新年の5日まで継続しますのでまだご発言の無い方は、そろそろ声を出して下さい。お待ちしています。写真は、当たり年だったトロントの斎藤さんの5回目ホールインワン、81歳のエイージシュート、クラブチャンピオンの3冠を収め爺の会ホームページ30万回をクリアーされた得意顔の斎藤さんの写真を残して置く事にしました。 |
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丸木で~す ブラジルの現政権は汚職禁止と言う前任未踏の成果をあげてるのは立派ですが、地球の裏の祖国日本では内閣府の副大臣が中国の博打屋から賄賂を貰ってたそうです。気をつけないと、裏ではブラジルにも中国の触手が既に入り込んでるかも。いよいよ、アメリカのCIAがイラン政府の転覆に動き出した様で、大統領も休暇先のフロリダの別荘から叩き起こされホワイトハウスにUターンするでしょうね。激動の世界に明け暮れる年末年始はホロ酔い気分が覚める令和2年になりそうです。
和田:丸木さんまたまたその5のトップバッターになりましたね。年内にリリーズされると思いますので暫くお待ちください。国際社会は、暗雲漂う令和2年になりそうですが元旦が誕生日の丸木さんに2日が誕生日の私も80歳になります。もう少しは、生かされているのでしょうかね。生かされている間は、ホームページとBLOGでも更改してALLSERVERで皆さんに流すことにします。先ずは、バーチャル座談会ですね。良きお年をお迎え下さい。
丸木で~す 韓国人のやってる和食レストランの個室に下記のレコードが壁に飾ってありました。日本には陸軍航空隊と海軍航空隊がありましたが、空軍はなかったと思います。それにしても、朝鮮人に日本の軍歌の好きな人が居るとは驚きです。
木村: 丸木さま、 韓国人の和食レストランはトロントにあるのですね。本国の韓国 で日本軍の写真など店に掲げようものなら袋たたきにあうでしょう。韓国人で軍歌が好きな人がいるんですね。驚きです。
丸木さんの言われる様に大日本帝国空軍はありませんでした。
チョット調べてみました。陸軍と海軍で「空軍は?」と思った人がいるだろう。戦闘機はあったけど、当時は空軍は存在せず、飛行機は陸軍か海軍に所属していた。
戦前の日本に軍種としての独立空軍は存在しなかったが、陸海軍が保有する航空戦力を指して日本空軍ということはあった。
大日本帝国陸軍飛行戦隊(ひこうせんたい、飛行戰隊)は、陸軍航空部隊こと大日本帝国陸軍の航空部隊における部隊編制単位の一つ。通称は戦隊。陸軍航空部隊(ほかに陸軍航空隊・陸空軍・空軍・陸鷲とも呼称)において中核となる実戦部隊編制単位であった。
「飛行戦隊」はあくまで「陸軍航空部隊」において基本となった「編制単位」であり、「陸軍航空部隊」自体にはほかにも独立飛行中隊といった
各「飛行部隊」が多数存在している。そのため、「帝国陸軍の航空戦力自体」を指し示す場合は「陸軍航空部隊」と呼称することが適当となる。
丸木で~す 日本空軍の解説有難く拝読しました。トロントでの第1回の懐かしのメロディーに際し「空の神兵」の裏話を僕か書き、アツコさんが朗読され昇ちゃんが唄ってくれました。後で昇ちゃんがカナダ人に怒られたと言ってました。そう言えばここは旧敵国なのだから、反日思想の人が居るのですね。昭和17年1月に帝国海軍落下傘部隊がセレベス島に降下し、同年2月には帝国陸軍落下傘部隊がスマトラ島パレンバンに降下し、シェル石油施設占領に成功しました。日本のおかげでインドネシアはオランダの圧制から解放され独立を果たしたので、国旗は白地に赤く日本に謝意を表し年号も皇紀を採用してます。年が明ければ皇紀2680年になります。古代インドネシアには空から神様が降臨し民を救う神話があるそうで、日本の落下傘部隊がその正夢です。独立五十周年にはセレベスに落下傘部隊長の記念碑が建立されてます。
広橋です 今日、日本の常識ある方達のYouTubeを見ていますが、日本の現状は酷いですね。
こんな偉い方達も大きな観点がなく、天皇制反対、反日、安倍落ちろ!、Etc's、Etc's・・・、等の案件に、細かく文句を長々と発言していますが、底に流れる、中国マネー、裏工作、が日本を侵食していると確信的な事を言わない(知らない?)のが残念です。これで、10年後、20年後、50年後、100年後日本は大丈夫なのでしょうか?2020年(令和2年)から、在日(中華も)の工作に占領されたメディア界、弁護士界、教育界、政界、防衛(隊員に中国系の可愛い嫁が猛スピードで増えている)を何とか取り戻してもらいたいと願います。鈍感(無頓着)な日本人達に心配しています。 遠いブラジルからだと、良く見えるのかな・・・・。
松栄:広橋さん 皆さん 広橋さん、言われる通りですね。
今、考えることが・・・ 我々以上の世代で、思うことですね。
思うのですが、自分では感じていないのですが、我々が昨日のように思っていることが、もう30年前だったり、50年も前のことだったりして、・・・自分の思いが、時代が、時間の前後全てが完全に混ざってしまって・・・
それが年を取る、ということなのかな、と最近 思います。
自分は若いつもりでも、もう60だったり、70を超えていたり80をすぎてしまったり、砂古さんでは90歳ですか。凄い!
しかしそれぞれのそんな 今 を思う感情は、みな同じようなものかな、ということですね。
自分の気持ちは、若い者と変わらない、と思っているのがこの我々世代かもしれません。これは古今東西、みな同じ、のような気がします。今頃の若い者は・・・、というのが共通語、みたいになっている。それで構わない、と思うわけですね・・・これが年とった証拠かもしれませんが。
しかし、確実に言えることは、戦争を経験された先輩方と、その経験がない世代(我々)では、まったく思いが違う、ように思います。そういう意味では、私のここ10年の思いは、日本にも徴兵を復活させた方が良いかもしれない、という思いです。
ここ10年で3回、複数犯の拳銃強盗に遭遇して、私自身の人生観が変ったんです。目の前(頭)に拳銃を突き付けられて、撃たれたらこれで人生終わる、という思いの、理屈を超えた恐怖心を味わうことがどれほどのものか、・・・それでも何とか助かっていますが。
軍隊と警察の違いは、ここにあるのかもしれません、軍隊に入る、ということは自分の命を投げ出す教育を受けるわけですから、戦前の軍隊と警察の違い、はそこにあって、軍人は別格だった、と思います。
戦時中、東南アジアでは、捕虜にした日本人を、軍人と一般人に完全に分けていた、軍人というのは命を捨てているので、本当の危険な存在で、アメリカ人も捕虜になった日本軍人に、恐怖心まで抱いていたという話があります。そういう環境に置かれる(安全という前提で)ことで、今の青年の考える深さが違ってくる、と思います。
今後10年、20年…50年後は日本はどうなっているのか、を考えたら今、気が付けば、今対処して、何とか良い方向に日本が進めるようにしなけれなならない、と思います。
そんなことを、早く日本に住んでいる日本人が気付いてほしいと思うのですが・・・
サンパウロを走っているイルミネーションバスの映像がこんな文章になってしまいました。皆様、ご容赦ください。
広橋さん、この問題、なかなか難しそうですね。
松栄:ネットの皆様 私たちの50年の皆様
年末の忙しい折、先日23日から休養にはいったところ逆に疲れが出たのか、何もする気力が減退してしまいかなり厳しい状況になりました。
それで、グダグダしながら、以前に記録していたニュース、評論が溜まっているので、少しづつ みていたら・・・
また日産を押し出されたカルロスゴーンさんの記事が目に入って読んでみたら、今の日産さんの状況が、20年前と酷似している
という事に気が付いたのです。
惜しくてならないのは、ゴーンさんが去ってなくて、現在も指揮をとっていたら、20年前と同じことをやったのではないか、と思います。
この短い文章ですが、これをやれるのはゴーンさん以外では、今の日本でも難しいと思います。
あれだけ短期間で世界中を飛び回っていた、と同じことをカリスマをもってやり切れる日本人がいるのか、と思いました。
ゴーンさんという貴重な人材を、押し出してしまった、という事が残念です。そんな20年前の回顧ニュースを下に添付させていただきます。
ゴーンさん、日産を立て直してから10年もしたら、会社を去ればよかったと思いますが、タラ はダメですね。
そして、人間の欲望など、足るを知らなければ、際限がなくなってしまうという仏教用語の証明かもしれませんね。
そんな事件だった、と思って読んでいました。
カルロス・ゴーンが日産を復活させた7つの方策まとめ
日産は、我が国第2の自動車メーカーであり、1970年代初期には市場シェア33%を握っていた。トヨタに肉薄していたが、官僚主義的な企業風土と社内派閥の対立により経営は混乱し、次第に市場シェアを失っていた。
バブル崩壊後の不況で日産の売上は1992年をピークに下がり始め、収益は悪化した。日産は、カルロス・ゴーンを斬った日産自動車「3人の侍」
・1992年、560億円の損失
・1993年、870億円の損失
・1994年、1660億円の損失
・1995年、880億円の損失
を計上することになった。1996年には、一旦770億円の利益を計上したが、1997年から140億円、1998年には280億円の損失を計上し、再建の手がかりが見えない状況に陥っていた。
メインバンクの富士、興銀の2行も、不良債権問題のため日産を支援する余裕はなく、海外の提携先との交渉を始めた。フォード、ダイムラー・クライスラーとの交渉が不調に終わった後、ルノーが提携相手に浮上し合意に至ったのであった。
1999年3月、ルノーのCEOルイ・シュバイツァーは日産の再建を任せる人物として、当時45歳の上級副社長カルロス・ゴーンに白羽の矢を立てた。
ゴーンは着任すると、あらゆる階層の従業員100人と対話を行った。取締役は以前の43名から9名へと削減され、そのうち3名はルノーから派遣された者となった。
ゴーンは、事業の発展、購買、製造・物流、研究開発等の課題を検討するため、9つのクロスファンクショナル・チーム(CFT、部門をまたがるチームという意味)を組成した。メンバーは、異なる専門分野を持ち、十分な実績を兼ね備えたミドルマネジャーが選ばれた。
CFTは3か月の検討を経て、400を超える提言を行った。これをベースとして出来上がったのが、日産リバイバル・プラン(NRP)である。ゴーンは、10月18日、東京モーターショー会期の前日にNRPを発表した。
その内容は、2002年までに1兆円のコスト削減を行うとともに、負債を50%削減するという、きわめて大胆なものだった。ゴーンは、さらに2000年までに黒字を回復すること、2002年までに売上高営業利益率を4.5%にすることも約束した。
ゴーンは、NRPをすぐさま実行に移す。ここが旧来の日産の経営陣と決定的に違うところだった。NRPの中で世間を最も驚かせたのが、購買コストの20%削減、サプライヤー数の50%削減であった。
ゴーンは、購買コストの中で大きな比率を占める鉄鋼から進めるように指示を出した。これまで同じ芙蓉グループに属するということから、日産の鉄鋼のメインサプライヤーとなっていた日本鋼管(鉄鋼業界3位)は、購買量を大幅に削減されることになり、経営の屋台骨が揺らぐことになった。ついには、業界2位の川崎製鉄との合併を余儀なくされる。
それ以外の分野の1100社以上のサプライヤーも、1社ごとに厳格な査定を受けることになった。系列企業に割り当てられていた発注も競争入札で調達されるようになった。こうして系列も解体されていくことになる。1999年6月時点で日産の系列企業は、67社あったが、それを25社まで減らすこととなった。
メインバンクやサプライヤーとの株式持ち合いは1400社間で行われていたが、これも解消することとなった。2002年までに売却益として3000億円を計上した。ゴーンは、保有不動産も売却し2000億円の資金を得た。
次に行ったのが、工場の閉鎖である。NRPによれば、3年間で国内の生産能力の30%、コスト300億円を削減することになっており、そのためには4000名以上の従業員を抱える5つの工場を閉鎖する必要があった。
数年前の工場閉鎖で、日産では労組との大トラブルとなったことから、ゴーンは労働組合の幹部と面談し、閉鎖した工場の仕事は存続させる他の工場で引き継ぐ見込みであること、異動を希望する社員には仕事を保証するという条件で支援を要請した。
結果的に、2001年3月までに3工場を閉鎖し、それから1年後に2工場を閉鎖することができ、異動を希望しなかった社員の18%は会社を去っていった。
第3に行ったのが、販売組織の再編だ。全世界の販売組織が士気の低下に直面しており、その傾向は特に日本とアメリカで顕著であった。アメリカでは、日産車を売るためには、トヨタやホンダと比べて1000ドルの値引きが必要であると言われ、ディーラーの70%は赤字であったという。
ゴーンは、国内では小規模な店舗を大規模店舗に統合し、そこに大規模な改装投資を行った。また、地域単位でバックオフィスを統合し、コスト削減を図った。ゴーンは、各ディーラーに年間のコミットメントとターゲットを与え、ディーラーの業績を事細かに監視するようにした。
第4の施策は、グローバル組織の新設だった。6名のプログラム・ディレクターを任命し、各ディレクターはサイズや性質によって分類されたプラットフォームの一つ又は複数を担当した。彼らは自分の管理する車種について明確な利益責任を持たされた。
さらに、ゴーンはグローバル事業展開を強化するため、グローバル日産という統括組織を作り、あらゆる地域、ファンクションから適切な情報やアイデアを収集できる体制を作った。
第5に、商品開発力の強化を図り、2004年までに28の新モデルを市場投入すると発表した。グローバル化とともに、新製品開発にも、アメリカやヨーロッパからのインプットを重視するように変更した。また、国際的に有名なカーデザイナーの中村史郎をデザイン本部長として迎え、日産が特に劣っていたデザイン力の強化を図った。
第6に、ゴーンは人事制度の改革を行った。年功序列と終身雇用を廃し、成果主義を導入した。コミットメントという概念を導入し、報酬と昇進はこのコミットメントの成果に連動させることにした。
また、ターゲット目標を設定し、これを達成したマネジャーには年収の3分の1にも及ぶ報奨金を出すようにした。上位数百人のマネジャーにはストック・オプションも導入した。こうして年齢が若くても、能力と実績があれば、重要なポストへと昇進できるようにした。実際に任命された常務のうち何名かは40代だった。
最後に、ルノーとの提携強化を図った。両社の間でグローバル・アライアンス・コミッティを創設し、その下に11のクロスカンパニー・チームを作った。製品企画、パワートレイン、車両エンジニアリング、購買、生産、ロジスティックスといった分野でシナジー効果を追求した。
この成果は目覚ましく、2002年夏までに日産とルノーは部品の30%を共通のサプライヤーから調達するようになった。共同購買をさらに進めるために、両社は折半出資の購買組織を設立した。
こうして2000年には6840億円の損失を計上していた日産が、翌2001年には3310億円の利益を出し、2002年には3720億円の利益を出すところまで立ち直った。日産は、ルノーとカルロス・ゴーンの力を借りて、瀕死の状態から瞬く間に再生したのである。
以上、植田統氏の近刊『日米ビジネス30年史』(光文社)をもとに再構成しました。 この30年で日米のビジネスは完全に逆転してしまいました。その原因を明らかにします。
丸木で~す 終わり良ければすべて良し。終わりが悪過ぎます。
村さん: 松栄さん、丸木さん、真に正論です、確かに日産を復興させました、戦前生まれの年代の日本人の社長には2万人いやそれ以上の関連会社や下請けのリストラを決行できる薄情さのあるリーダーはいません、欧米企業では株主への還元ができない社長や役員は即クビとなり、平気でリストラが行われます、昔のように労組の強力な大手企業でも愛社精神を持っており経営陣との折衝では何とか乗り越えて来ています、日産もルノーに借りを作った為ゴーンがやって来てまさかあれ程のリストラや大改革をするとは思っていなかったでしょう、従業員も労組も愛社精神を失った事でしょう。
ゴーンは友人のヤンキーを連れて来て一人味を占め懐を肥しやりたい放題、そしてとうとうバレて犯罪行為にまで達した事で日産を追われることになる、今日本でも若い経営者は投資ファンドが強力になり、欧米並みの企業形態に変化した事で昔流の愛社精神を持った企業リーダーが少なくなりトップの交代が即行われるように変化して居る、良いことか悪い事なのか全ては”金”で計算されて居るようで寂しさを覚える。
丸木で~す ご指摘の通りです。東芝でも石坂さんは第一生命から、土光さんは石川島重工から来られた外部の人だから大改革出来たので、生え抜きの我々にはとても仲間の首切りは出来ないと東芝生え抜きの上司が言ってました。日本の社会の悪い面でもあり良い面でもあります。そうは言っても、世の中の進展について行けなくなれば生きていけない時代になって来てるのは間違い無い様ですね。
松栄: 丸木さーん 村松さーん ありがとうございます。
私の知らない日本の近代経営者の原点、というのか日本人本来の社会文化、というか経営者の思い、というのでしょうか・・・わかるような気がします。ありがとうございます。
企業が存続する、ということの大変さを感じさせられています。
企業は、誰かが創始した仕事を、その他の人が集まって、その仕事を拡大生産してゆき、永続していって、仕事に関わる人たちの生活を維持してゆく組織、、ではないでしょうか。
その組織の運営は、やはりその企業のトップになった(なれた)人が方向性を決めてゆく、のが基本ですね。
そんな仕事が、その方向性や、外部からの影響によって危うくなる、ことは常に考えっれることだろうと思います。
ですから、企業トップ、というのは絶対的に時代、社会、状況に適合していなければ、どこかに齟齬が発生して、おかしくなるものと思います。
上手くゆけば儲けが上がり、拡大成長してゆきますが、方向性が間違っていれば、縮小して破綻してしまう、ということだろうと思います。トップがどちらの道を選ぶか、で決まってゆくのだろうと思います。
日産の場合もバブルで膨張して、その後バブルが消えて経済が縮小してモノが売れなくなったが、バブル期の社員、施設、その他すべてが残ってしまって、人件費、運営費だけが残って、生産すればするほど赤字になる組織だけが残ってしまった。
ほっといたら破綻する、という予想がついて、赤字がかさんで日本文化的考え方を維持しても、会社が永続できない、ということが分かってきてゴーンさんの登場になったと思います。
当時同じような問題を抱えたのがカネボーさんだった、という記述を読んだ覚えがあります。カネボーさんには、ゴーンさん的人物が現れなかったようで、破綻したのだそうです。
成程、ゴーンさんは10万人社員の半分を切ったのかもしれませんが半分は日産の仕事を続けられて、10年たったらまた元の規模の企業に戻れた、という観点もある、と思います。
カネボーは社員全てが、失業したか新しい企業に移っていったのではないでしょうか。
これは企業を考えるうえで、仕方のない事ではないか、と思うのですが。私は、半分の社員になっても企業を何とか盛り上げてゆく、という考え方の方が合理的ではないか、と考える次第です。
山一証券のように、トップがテレビの映像で慟哭したり、あの時代いろいろの事件がありましたが、企業トップ、というのはそういうものだろうと思います。
自分が適任ではない、とか、手に負えないと思えばすぐに手を引く勇気も必要と思います。それは、毎日経営状況を見てれば、わかるはずだ、とも思います。
このことは、昔から現在でも変わっていない、と思うのですが・・・如何でしょうか。
生意気なことを先輩に言ってしまって申し訳ありません。
そんなことは、わかっている、と言われそうで・・・
ちょっと逡巡しています。
古谷:松栄さん 貴信を拝読して、私が勤めていた会社の社長の言葉を思い出しました。
社長曰く、「同じ経営方針を三十年も続けていると、会社は間違いなく、潰れる」と。「決算は、半期毎に締めるが、業績を半期毎に問うのは酷としても、02-03年の単位で業績を問えば、それが市況に依るものか、経営手法に依るものかは、判然とする。後者の場合、その時点で然るべき手を打てば、業績の悪化は防げる。待っては駄目だ。経営も攻めるのだ」と。社の経営がおかしくなったので、請われて社長を職を引き受けたのですが、見事03年で業容を改善し惜しまれて社を去りました。
その社長、某大手商社の将来を嘱望された逸材でしたが、戦後のレッド・パージで爪弾きされ、私の勤め先に派遣されました。中南米に出張で来られた時に道中をお供しましたが、五尺三寸の小兵ながら、取引先の六尺を超す毛唐に面しても、眼光鋭く相手を威圧していて、六尺が五尺三寸に辞を低くしていたのには驚きました。人にはそれなりの器があるものだと感じた次第でした。
お供道中の終わりに、社長、私に礼を述べて曰く、「フルタニ君、君は未だ若い、精々本を読み給え」と。余り、本を読んでいませんが、この言葉が未だ耳朶から離れません。
和田: 松栄さん、丸木さん、村さん、古谷さん 皆さん! 日産とゴーンさんの関係を中心としたカネボウ、山一証券、兼松江商まで飛び出す、年末の商談議尽きませんね。またまた9000字突破、その5を終了させて頂きます。皆さんの参加を感謝します。まだまだ続きそうですので宜しくお願いします。
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