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知っておきたい『日本の歴史』徳力啓三 連載その2
連載その2は、縄文こそ「和の文明」から始まり、03の文明の発生、04宗教の起こり、05稲作の広まりと弥生文化、06弥生時代の日本までを収録しました。続いて第2節古代国家の形成に入り07神話が語る国の始まり、08大和朝廷と古墳の広がり、09大和朝廷とアジアの国々まで続きます。
『三国志』に出て来る「魏志倭人伝」に語られる邪馬台国と女王卑弥呼が治めていた国は何処にあったのか?北九州?大和?徳力さんの御意見を聞きたい所ですね。週一を少し速度を上げた方がよいのでしょうか?ホームページに掲載するとすれば丁度良いいスピードではないかとおもうのですが。。。
使用する写真を探して見たのですが徳力さんお勧めの「2017年度版中学向けネット公開版」を探して見たのですが、見つかりませんでした。参考に買って読んで見たい中学生向け歴史書の表紙をアマゾンからお借りしました。



《補講》 縄文こそ「和の文明」

 全てにおいて大規模な縄文の集落・三内丸山遺跡発掘の衝撃・広い遺跡、整然と並んだ大きな建物、膨大な遺物と縄文の豊かな生活を営んでいた縄文人の生活が見えてきます。この集落は今から 5500 年前から 4000 年前頃まで 1500 年間も存在したのです。広さは約 40 ヘクタールもあり、集落には 1000 以上の住居跡があり、同時期に約 100 軒程度は使われていたと推定されています。また高床式倉庫跡と 10 軒の大型建物跡が確認されています。墓、盛り土、道路、貯蔵穴、ゴミ捨て場なども計画的に整然と配置されています。直径 1.5 メートルのクリの木を使った建物跡もみつかりました。再現してみると15 メートルもの巨大高床式建造物となりました。その建物は夏至の太陽が真正面から昇るように設計されており、神殿として使われていたようです。縄文の人々が、太陽を崇拝(太陽信仰)した証と考えられています。
 また 1 万点以上の土器や千五百点もの土偶、高い技術で作られた木製品や彩漆土器、衣類や裁縫針なども出土しました。硬いヒスイを使ったイヤリングやネックレス、かんざし、腰のかざり、ペンダントなども発掘されました。現代の私たちと変わらないほどのおしゃれな人間模様が見えてきます。この地に長い期間定住できた大きな原因は、季節を通じて安定した食料が得られたことです。人々はクリを大量に栽培して主食とし、他にイモ、エゴマ、ヒエ、ヒョウタンといった食糧を栽培しました。農耕のためには鋤や鍬など木製の農具や動物の骨で作った釣針を使って海の恵みである魚介類を獲りました。このように縄文の人々は自然に恵まれた豊かな生活を営んでいました。
一万年以上にわたる縄文時代の大きな特徴は、遺跡から戦争の道具が出てこないことです。三内丸山遺跡では、動物を狩るための弓矢や槍はありましたが、人と人が戦う武器は見つかりませんでした。お互いに助け合う「和の社会」が維持され、精神的な豊かさを持ち合わせた社会であったようです。私達日本人の祖先である縄文人は、「和の文化」とも呼べるおだやかな社会を築いていたのです。

03 文明の発生
 日本で縄文時代に当たるおよそ 1 万 2000 年前、世界各地で農耕や牧畜が行われるようになった。石の表面を磨いた磨製石器や土器などを使う新石器時代で、この時代にはまだ金属器は使われていなかった。やがてアフリカやアジアの大河の周辺では、灌漑が行われ、農業が発達した。それによって多くの人口が養われ、商工業も発達し、都市が生まれた。一方、青銅器や鉄器が使われるようになり、鉄器が普及すると農耕の生産性が高まった。
 多数の人々を動かす灌漑工事などを指揮する人が必要となり、指導者は人々から租税を徴収し、共同の事務を管理する人を置き、文字を使って記録した。また、暦を制定し、神を祭り、戦いを指揮し、人々の尊敬を集め、広い地域を統合していった。このように金属器、都市、文字などを備えた社会を文明社会と呼び、広い地域にわたる人々を統合し共同生活を行う仕組みをつくった。これを国家という。
 紀元前 3500 年、シュメール人によって建設されたメソポタミア文明は、階段状のピラミッドを持ち、くさび形文字や60 進法を使用した都市国家をつくった。その文明が滅んだ後、バビロニア人があらたに王国を築いた。
紀元前 3000 年にはナイル河流域にエジプト文明が発生し、高度な幾何学の知識を使ってピラミッドを建設、象形文字を使ってパピルス紙に記録を残した。
 紀元前 2300 年ごろ、インドのインダス河流域にインダス文明が発生し、計画的な都市を建設したが、やがてほろびた。北方からアーリア人が進出して、バラモン(神官)を最上位とするカースト(身分制度)を取り入れた社会をつくった。
 紀元前 6000 年ごろ、中国には古代文明があった。黄河流域では農耕(麦作) や牧畜が行われ、長江流域では稲作を中心とした文明が始まっていた。やがて黄河流域で殷(いん)という王朝(紀元前 2000 年の中ごろ)が起こり、青銅器を祭器として使い、甲骨文字を使っていた。紀元前 11 世紀ごろ、殷が滅び、周の時代となると、鉄製の農具や兵器が使われるようになった。周の時代がおとろえると、国内は分裂し、その後、戦国時代が長くつづいた。戦乱の時代には、多くの思想家があらわれ、理想の政治や王のあり方を説いた。孔子(前551 - 前 479・ 哲学 ・ 思想家)はその一人で、その教えは儒教とよばれた。紀元前3 世紀ごろ、秦の始皇帝が始めて中国を統一し、皇帝を名のった。始皇帝は文字や貨幣を統一した。

04宗教のおこり
 古代の人々は、山、森、海などあらゆるものに神(精霊)が宿っていると考えた(アミニズム)。彼らは、雷鳴や暴風を畏れ敬い、草木に注ぐ日光や、農耕期に降る雨に感謝を捧げた。これらの自然現象を神の業と思い、季節ごとの祭りには、感謝の心で祈った(自然崇拝)。また祖先の霊や村の長老が、日々の暮らしを見守ってくれ、平和で健康が続くように祈った(祖先崇拝)。このような自然への畏敬と祖先への感謝が、日本人が持つ宗教の始まりである。
 宗教は、日常の生活を超越した世界、とりわけ死後の世界についての理解や信仰から成りたっている。日本の神話、エジプト神話、ギリシャ神話、ゲルマン神話などには多くの神々が登場し、全ての民族が、多神教を信じていたと考えられる。多神教とは複数の神々を同時に崇拝の対象としている宗教のことである。
 一神教の神を民族神とする遊牧民であるヘブライ人は、地中海東岸のパレスチナに定住するようになった。しかしバビロニア王国に滅ぼされてしまい、多くの民は首都バビロンに強制移住させられた。紀元前 6 世紀頃に解放され、エルサレムに神殿を建設し、そこに唯一神を信仰するユダヤ教ができた。『旧約聖書』にはその教えが記録された。
 世界の 3 大宗教としては、紀元 1 世紀初頭、パレスチナの青年イエスが神の愛と許しを説いて、ユダヤ教の一部からキリスト(救世主)と崇められた。当時パレスチナを統治していたローマ帝国の総督はイエスを十字架刑に処した。イエスを救世主として信じる人々によって、キリスト教団が生まれた。迫害された信徒はパレスチナから離散し、熱心に布教したため、キリスト教はローマ帝国の国教となり、ヨーロッパ全土に広がっていった。そして民族の枠を超えた世界宗教となっていった。
 一方、仏教はインドの地で紀元前 6 世紀ごろ、仏教の開祖である釈迦により創建された宗教である。釈迦は、人々がこの世の苦しみから解放される教えを説き、その教えは、インドから東南アジア、中国、日本などアジア諸国に広がっていった。
 アラビア半島で 7 世紀初頭に始まった、ムハンマドを開祖とするイスラム教は、たちまち西アジア地域を帝国にまとめあげ、イスラム文化は隆盛をきわめ、世界に広がった。イスラム教は、ユダヤ教やキリスト教と同様に、唯一神(アラー)を信じ、その言葉をまとめた『コーラン』を経典としている。世界宗教となったキリスト教、仏教、イスラム教を世界の 3 大宗教という。世界宗教に対して、特定の民族や文化と結びついた宗教を民族宗教という。日本の神道やユダヤ教などがある。インドのヒンズー教は、信者の数では仏教を上回るが、民族宗教である。

《資料》 世界の宗教とは
 釈迦は紀元前 560 年ごろ、ヒマラヤ南麓の小国の王子として生まれた。城には 4 つの門があり、夫々の門のところで、病人、老人、死人、修業者を見て王子は衝撃を受ける。29 歳の時、王子の身分を捨て、妻や子をすて、城を出て、どうしたら現世の苦しみから逃れられるかを求めて、修行の旅に出た。最初は断食など厳しい苦行を続けたが、何も得られないことに気づき菩提樹の木の下に座り、瞑想を続けた。そして人の苦しみを救うための悟りを開き、仏陀(悟りを開いた人)と呼ばれた。釈迦の教えは、極端を排する中道と、起きたことには必ず原因があるとする因果と言う考えを基本として、人生の苦しみから解放されるためには、煩悩の心(心を乱す悩み)を断ち切らねばならないとした。
 ユダヤ教の経典『旧約聖書』は唯一神エホバと古代ユダヤ人との契約で、キリスト教の経典『新約聖書』は、イエスが使徒と交わした言葉とイエスの行動が記された、神と人類との新しい契約の書とされる。またイスラム教は、『旧約・ 新約聖書』に『コーラン』を経典として加え、ムハンマドを「最後にして最高の預言者」としている。

05 稲作の広まりと弥生文化
 日本列島には、すでに縄文時代に大陸からイネがもたらされ、九州の菜畑(なばたけ)遺跡では紀元前 500 年ごろには灌漑用水をともなう水田稲作が行われていた跡が見つかっている。その後、稲作は西日本一帯にも広がり、海沿いに東北地方にまで達した。稲作が始まると、これまで小高い丘に住んでいた人々は、稲作に適した平地に移り、人々が集まりムラ(村)ができた。人々は共同で作業し、大規模な水田をつくった。もみは直播で稲穂の摘み取りは、石包丁が用いられた。収穫された穂を乾燥させて納める高床式倉庫が建てられた。ムラでは、豊かな実りを祈り、収穫に感謝する祭りが行われた。
 弥生時代は、紀元前 400 年から紀元後 300 年の約 700 年を指すが、この時代には、青銅器や鉄器などの金属器も大陸から伝わり、国内でも生産が始まった。銅剣や銅矛は武器としてつくられたが、銅鏡や銅鐸などとともに祭りのための宝物として扱われるようになった。一方、鉄器は農具や武器として実用的に用いられた。原料の鉄は、中国地方でとれる砂鉄からとり、たたら製鉄の技術が発達した。
 この頃、弥生土器という茶褐色の新しい土器がつくられるようになった。黒褐色の縄文土器よりうすい土器で、つぼ、かめ、食器など様々な用途に使われ、稲作と共に全国に広がった。稲作水田栽培を中心とするこの当時の文化を弥生文化と呼ぶ。
 稲作によって食糧が豊かになると、ムラの人口はふえた。ムラどうしの交流が盛んになるとともに、水田や用水、収穫物をめぐる争いがおこり、ムラをまもるために周囲に濠をつくった。これを環濠集落という。ムラには共同作業を指揮し、祭りをとりしきる指導者があらわれ、争いの時にも大きな役割をはたした。やがていくつものムラが集まって、小さなクニ(国)が生まれた。これら小国の指導者(首長)は世襲の王となっていった。

06 弥生時代の日本
 弥生文化は紀元前 4 世紀頃から紀元 3 世紀頃の日本の姿をあらわしている。長い長い縄文文化のあと、金属器(青銅器や鉄器)の発達により、本州や九州方面で農耕社会が徐々にできていった。水稲耕作が広がり、経済生活が安定していった。農具の発展によって、石包丁で穂首刈りしていたのが、竪杵・木臼で脱穀できるようになり、鋤鍬が鉄製にかわり能率が良くなった。集団で生活する場として、ムラの周りを濠でめぐらす環濠集落をつくっていたことが、佐賀県の吉野ケ里遺跡や静岡県の登呂遺跡の発掘で分かっている。
 この時代の歴史的な資料は、古事記や日本書紀に記載されているもののほかは大陸文化の文献に僅かながら残っている資料から推察するしかない。弥生時代の初期、中国は秦朝の始皇帝により統一された。その時代の歴史書『漢書』には、紀元前後の日本について「倭人(日本人)が 100 あまりの小国をつくっている」 と書かれている。『後漢書』の東夷伝(歴史書)には、1 世紀中頃の弥生時代の様子が記録され、倭の奴国(なこく)の王が漢に使いを送り、皇帝が金印を与えたと記されている。3 世紀になると魏 ・ 蜀・呉の 3 国の争いの時代となった。有名な歴史書『三国志』の一部には「魏志倭人伝」と呼ばれる部分があり、「倭の国には邪馬台国(やまたいこく)という大国があり、30 ほどの小国を従え、女王の卑弥呼がこれを治めていた」とある。卑弥呼は神に仕え、祭りや占いによって政治を行い、不思議な力で民をよく治めていたという。倭人伝は、漢字 2000 文字ほどの記述であるが、3 世紀前半の日本には、邪馬台国に関する記録があり、日本人の性格について、1 −その風俗淫ならず、2 − 盗みをしない、3−争訟少なし、と書かれている。


第 2 節 古代国家の形成

07 神話が語る国の始まり
 日本でもっとも古い歴史書である『古事記』『日本書紀』に、神話の形で、日本の国の成り立ちが書かれている。『古事記』は 712 年、『日本書紀』は 720 年に完成した。神話や古い伝承は超自然的な物語をふくみ、ただちに歴史的事実として扱うことはできない。しかし、これらに記された神話・伝承は、古代の人々が、自分たちの住む国土や自然、社会の成り立ちを、山や海への自然崇拝や稲作祭祀など、縄文 ・ 弥生以来の信仰なども取り入れながらまとめたものと考えられる。神々が織りなす物語は一貫したストーリーに構成され、大和朝廷の始まりにつながっている。
 [国生み神話]天地が分かれた時、天上(高天原たかあまはら)には神々があらわれた。男神のイザナキの命(みこと)と女神のイザナミの命は夫婦となって、日本列島の 8 つの島々を生んだ。
 [日本の神々の誕生]イザナキとイザナミは、更に山の神、海の神、風の神など次々に生むが、イザナミは火の神を出産した時のやけどがもとで、亡くなってしまう。イザナキは、愛する妻を連れ戻そうと黄泉(よみ)の国に行き、亡きイザナミに「黄泉の国の神様に頼んでみるので、その間、私のことを見ないでください」と言いわたされる。しかし、イザナキは約束を守れずに、妻の変わり果てた遺体を見てしまい、おどろきのあまり逃げ出してしまう。黄泉の国から帰ってきたイザナキは、死のけがれを清めようと川でみそぎをした。目や鼻を洗っていると、そこからアマテラスオオミカミ(天照大神)、スサノオの命、ツクヨミの命の 3 柱の神が生まれた。アマテラスは太陽を神格化した女神で日本の最高神であり、皇室の祖先神とされている。
 [出雲神話]いっぽう、アマテラスの弟、スサノオの命は地上にくだり、八岐大蛇(やまたのおろち)から土地の神の娘を救って妻とした。その子孫に、オオクニヌシの神(大国主神)があらわれ、出雲地方を中心に地上を治めた。この一連の物語は、出雲神話とよばれる。

 〔国譲り神話]ところが、高天原ではアマテラスの孫、ニニギの命に地上を治めさせることに決め、交渉によってオオクニヌシの命に国土を譲らせた。
 [天孫降臨神話]三種の神器をたずさえたニニギの命が、神々と共に地上に下った話。
 [日向 3 代神話]日向(ヒムカ)におりたったニニギの命が、山の神の娘をめとって、ホオリの命を生み、ホオリの命は海の神の娘と結ばれ、ウガヤフキアエズの命を生んだ。その子供がカムヤマトイワレヒコの命である。イワレヒコの命は、天の霊力を血筋として受け継いだけでなく、山の神や海の神の霊力をその身体に取り込んだ。
 [神武東征伝承]そして瀬戸内海を経て大和に入り、初代の神武天皇として即位した。これが大和朝廷(やまとちょうてい)の始まりである。神話 ・ 伝承はこのように日本の国の成り立ちを語っている。2 月 11 日の建国記念日は神武天皇が紀元前 660 年の 1 月元旦に即位したとされるので、その日を太陽暦であらわしたものである。

《補講》 国譲り神話と古代人
争いをさけ、オオクニヌシがアマテラスに豊かな国土を渡した[国譲り]の神話。このお話の中に当時の人々の信仰やものの見方が現れています。
「国譲り」の主人公であるオオクニヌシ(大国主)は、日本神話に登場する「因幡の白兎を助けた情け深い神様」です。出雲(島根県)地方を中心に広い国土を立派に治めていました。一方、今の皇室の祖先神とされるアマテラス(天照大神)は高天原で神々と相談し、オオクニヌシに国土の統治権を譲り渡すよう、使者を派遣して交渉することにしました。しかし 1 回目と 2 回目の使者は、オオクニヌシに従ってしまい、帰ってきませんでした。最後に遣わされたタケミカズチの神(建御雷神) は、出雲の稲佐の浜に着くと、刀を突き立てあぐらをかき、大声で言いました。「この地上の国は、アマテラスの子孫が治める国である。この国を譲りなさい」。オオクニヌシは二人の息子の意見を聞いた上で、次のように応えました。「息子たちの言うとおり、この国を献上いたします。唯、私の住み処として、大地の底までとどき、高天原まで千木(ちぎ)が高くそびえ立つほどの、大きく立派な神殿をつくって私を祀ってください。そうすれば、私は引退して、身をかくします」

『古事記』に書かれた「国譲り」の神話には、古代の日本人の思想を読み解く手がかりが含まれています。
第一に、アマテラスは高天原の神々と相談して使者の派遣を決め、オオクニヌシも息子の意見を聞いて身のふり方を決めています、日本には、できるだけ話し合いで物事を決める合議の伝統がありました。
 第二に、世界の他の地域なら、国土を奪い取る皆殺しの戦争になるところですが、
「国譲り」の神話では、統治権の移譲が戦争ではなく、話し合いで決着しています。 
 第三に、オオクニヌシの心境を考えると、自分は何も悪いことをしていないのに、 苦心の末につくりあげた国を他者に譲るのですから、オオクニヌシはさぞかし悔しい思いをしたに違いありません。そこで希望通りの巨大な神殿をつくり、オオクニヌシを祀りました。それが出雲大社です。勝者は敗者に対して、その功績を認め名誉をあたえ、 魂を沈める祭りを欠かさない。古代の日本人はこうした政治のあり方を理想としたです。
今の出雲大社は高さが 24 mですが、最近、宮柱の根元が発見され、確かに奈良の大仏よりも高い 48 mの空中神殿を建てることができたことがわかりました。天皇の宮殿や奈良の大仏よりも巨大な空中神殿をつくってオオクニヌシを鎮魂したのは、日本が国家統一を成し遂げる上で「国譲り」がそれだけ重大な出来事だったことを証明しています。
2003 年に出雲大社を訪問された当時の皇后陛下(美智子妃)は次のお歌を詠まれました。
国譲り祀られましし大神の奇しき御業を偲びて止まず

08 大和朝廷と古墳の広がり

 3 世紀後半、大和(奈良県)の豪族を中心とする強力な政権が誕生した。これを大和朝廷と呼ぶ。大和朝廷は、やがて国内を統一したが、その経過については、古墳の普及のようすから推定できる。
 3 世紀ごろより日本ではまるで小山のように盛り上がった大きな墓がつくられるようになった。これが古墳と呼ばれるもので、古墳をつくることが流行し、6 世紀末までの約 300 年間を古墳時代と呼ぶ。
 古墳は、現在ではこんもりとした緑に覆われた山のようだが、つくられた当時は、表面に石が敷き詰められ、太陽の光に照り輝いていた。古墳の周りや頂上には、円筒形の人形や人物、家屋、馬などをかたどった埴輪が並べられ、墓として威容を誇っていた。大規模な古墳の多くは、入り口となる四角い形の手前の部分と、丸い形の後ろの部分からなる前方後円墳であった。円い部分の地中に石室があり、死者を葬った棺が安置され、鏡、玉、剣や馬具、農具などの副葬品も入れられた。
古墳に葬られていたのは、その地域の豪族だった。大和や河内(大阪府)では、巨大な古墳が多数つくられている。これは大和朝廷が、この地域の有力な豪族たちが連合して作った政権だったことを示している。
前方後円墳は、大和朝廷の古墳形式であり、南は鹿児島県、北は岩手県にわたる国内各地に約 5200 基も存在する。これらは大和朝廷の勢力の広がりを反映したものと考えられている。豪族たちの連合の上に立つのは、大王(のちの天皇)で、その古墳はひときわ巨大であった。仁徳天皇陵(大仙古墳)は、世界でも最大規模の墓である。

09 −大和朝廷と東アジアの国々

 220 年に漢が滅んでから 6 世紀末までの 400 年間、中国は内乱と小国分立が続き、東アジアの国々に対する影響力は弱まった。朝鮮半島には高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)の 3 つの国があったが、やがて北部の高句麗が強大となり、4 世紀後半には、半島南部の百済も攻撃した。百済は大和朝廷に助けを求めた。高句麗の広開土王(こうかいどおう)の碑文によると、「倭の軍勢が海を渡り、百済 ・ 新羅を「臣民」としたので、高句麗王がこれを撃退するために兵を送った」と記されている。大和朝廷は高句麗と戦ったが、次第に形成不利となり敗れて、404 年、朝鮮半島より兵を引いた。
5 世紀中ごろ、中国では漢民族が宋(南朝)と遊牧民の北魏(北朝)が争う南北朝時代を迎えた。一方、日本は大和朝廷の支配が広がっていった。大和朝廷が、宋に朝貢したのは、北魏と同盟関係を結んでいた高句麗に対抗し、朝鮮南部への軍事的影響力を維持するためであった。倭王は宋の皇帝に対して、朝鮮半島南部の軍事的支配権を認める称号を要請し、認められた。しかし称号は

役にたたなかったので、倭は外交戦略を転換し、宋には使節を送らなくなった。6 世紀になると朝鮮半島では高句麗に加えて、新羅が力を伸ばした。両国に 圧迫された百済は苦しい立場におちいった。百済は日本に援軍を求めて、日本へは技術者や知識人を送った。新羅は任那(みまな)の領有を百済と争い、562 年には任那を併合した。この問題に日本が介入するのをさけるため、任那の物品を日本へ贈り、友好的な姿勢をとった。6 世紀後半には、高句麗も百済・新羅同様、日本に使節を送り修好を結んだ。



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