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知っておきたい『日本の歴史』徳力啓三 連載その3
知っておきたい『日本の歴史』も其の3に入ります。前回の残り10 仏教伝来から始まり、第3節 律令国花の建設に入り11聖徳太子の新しい政治、12遣隋使と天皇号の始まり、13大化の改新、14律令国家への道、15大宝律令と平城京、16記紀の編纂と大仏造立、17飛鳥・天平の文化と続きます。旨く1万語以内に収まりました。次回は、第4節 律令国花の展開に入ります。週に一度の速度でホームページに公開しておりますが、FLWして頂いているでしょうか?理解度を試す意味で徳力さんに纏めの試験問題でも出して貰えると面白いでしょうね。
写真は、聖徳太子ゆかりの寺院、現存する世界最古の木造建築物群の世界遺産の法隆寺を使う事にしました。


10 仏教伝来
5世紀ごろ、インドで生まれた仏教は、2 方向に分かれてアジアに広がった。南方ルートを通って東南アジアに伝わった仏教は、上座部仏教と呼ばれ、厳しい修業によって個人が救われるという教えであった。北方のシルクロードを通って中国に伝わった仏教は、大乗仏教と呼ばれ、仏教の力で大衆を救い国家を護ろうとするものだった。5 〜 6 世紀の南北朝時代に仏教は大きく発展し、朝鮮半島の百済には南朝の宋から伝わった。6 世記の前半、当時の百済は、高句麗・新羅に攻め込まれて存亡の危機にあった。百済は、日本に再三にわたって、軍事援助を求めた。
百済の清明王は、日本との同盟を強固なものにする決め手として、552 年、金銅(銅 ・ 青銅の金メッキ)の仏像と経典を大和朝廷に献上した(仏教伝来)。日本に仏教が伝わったのは、欽明天皇の時代(539 - 571)の御世で、天皇は仏教を受容すべきかどうかを豪族たちにはかった。国際情勢に詳しい蘇我氏は「外国はみな、仏教を信じている」として、仏教を積極的に取り入れることを主張した。それに対し、軍事と祭祀を担当する物部氏は、「外国の神を拝めば、日本の国の神の怒りをかう」 と述べて反対した。こうした仏教導入をめぐる蘇我氏と物部氏の論争を崇仏論争という。この時、欽明天皇は、蘇我氏が仏教を私的に礼拝することを許した。
その後、疫病がはやると、国の神のたたりであると信じた物部氏は、仏像を川に流して捨てるなどしたので、この対立が蘇我 ・ 物部の戦争に発展し、蘇我氏が物部氏を滅ぼした。蘇我氏は日本初の仏教寺院として飛鳥寺(あすかでら) を建てた。両者の争いは仏教の教義に関わる対立ではなく、仏を外来の神ととらえた上で、その神が福をもたらすか、禍を引き寄せるかという考え方の違いであった。それは大和朝廷の主導権争いでもあった。
東アジアの戦乱を逃れて、多くの難民が一族や集団で日本に移り住んだ。これを帰化人または渡来人(とらいじん)といった。百済からの渡来人は土器(須恵器=すえき)や金属器の加工、土木 ・ 建築や儒教を伝え、漢字による朝廷の文書の作製にも力を発揮した。仏教が伝来すると、百済から仏像、仏具の工芸家や寺院建築の工人が渡来し、仏教芸術の発展の基礎を築いた。

第 3 節 律令国家の建設

11 聖徳太子の新しい政治
6 世紀の末、日本には、聖徳太子(574 - 622 うまやどのおうじ)という若い指導者があらわれた。皇族の一人として生まれ、一度に 10 人の訴えを聞き分けることができるという伝説を残しているほど聡明な人物だった。初めての女帝・推古天皇が即位すると、593 年、聖徳太子は、20 歳の若さで天皇を助ける摂政(せっしょう)となった。
その頃、中国大陸では大きな変化が起こっていた。589 年に隋王朝が、約 300年ぶりに全土の統一を果たした。強力な軍事力を持つ隋は、東アジアの国々にとっては脅威であった。朝鮮半島にあった百済、高句麗、新羅は、隋によって冊封(さくほう−みつぎものを持参して、臣下としてあいさつにいくこと)された。日本も如何に対処するか迫られた。聖徳太子は、まず隋へ遣隋使をおくった。遣隋使によって隋の強大さを知った太子は、日本が独立した国家として、更に発展するためには、大陸から優れた技術や制度を取り入れる必要があると考えた。聖徳太子は隋と対等な外交をするために、国内の改革を進めた。蘇我氏の血 筋を引く太子は、蘇我馬子(そがのうまこ)と協力して、政治のやり方を改めた。本当の狙いは、豪族の力をおさえ、大王(天皇)を中心とした国家の仕組みを整えることであった。603 年、太子は有力な豪族が役職を占める慣例を改め、家柄にかかわりなく、国家のために有用な人材を積極的に役人として採用した。次いで、冠位十二階の制度を取り入れた。また、604 年には、17 条の憲法を定めた。その内容は、豪族が争いをやめ、天皇中心に協力してゆくことなど求めたもので、公のために働く役人の心構えと国家の理想が示された。人々
の和を重視する考え方は、その後の日本社会の伝統となった。

《資料》 聖徳大子が作った憲法 (604 年)
「一に曰く、和を以って尊しとなし、さかうることなきを宗とせよ」 で始まる聖徳太子の 17 カ条の憲法を現代語訳に直した要旨。

@ 和を尊び、人に逆らいそむくことのないように心がけよ。
A 篤く三宝を敬え。三宝とは、仏と法(仏の教え)と、僧(教えを説く僧侶)である。
B 天皇の詔をうけたら、必ず謹んでこれに従え。
C 役人は、人の護るべき道を全ての根本とせよ。
D 裁判は公平に行え。
E 悪を懲らしめ、善をすすめよ。
F 人は各自の任務を果たせ。
G 役人は、早く出勤し、遅く帰ること。
H 全てのことにうそいつわりのないまごころをもって当たれ。
I 人の過失を怒ってはならない。
J 功績があれば賞を、罪を犯したら罰を正しく与えよ。
K 地方官は民から税をむさぼりとってはならない。
L 役人は自分職務の内容をよく理解せよ。
M 他人に嫉妬をもつな。
N 私心を捨てて、公の立場にたつのが、君主に仕える者の勤めだ。
O 民を労役に使うときは、農業の仕事の暇なときにせよ。
P 大切なことは一人で決めないで、皆とよく議論して決めよ。

12 遣隋使と天皇号の始まり
国内の改革に成功した聖徳太子は、607 年、再び遣隋使を派遣した。正使に選ばれた小野妹子(おののいもこ)は、豪族の出身だったが、才能を認められた優れた人物であった。この時の隋の皇帝にあてた国書(国の正式な手紙)の冒頭には、「日いづる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」 と書かれていた。太子は、手紙の文面で対等の立場を強調することで、隋に決して服属しないという決意をあらわした。隋の皇帝・煬帝(ようだい 569 - 618)は、この国書を無礼だとして激怒した。
朝貢国が、世界に一人しか存在しない皇帝の別名である天子という名称を、みずからの君主の称号として用いるのは、許しがたいことであった。しかし高句麗との戦争をひかえていた煬帝は、日本と高句麗が手を結ぶことを恐れて自重し、帰国する小野妹子に返礼の使者をつけた。
翌年 608 年、3 回目の遣隋使を派遣することになった。その時、国書に記す

君主の称号をどうするかが問題となった。中国の君主と同じ称号をとなえることは出来ない。そこで、「東の天皇つつしみて、西の皇帝にもうす」と書いた。皇帝といわず、隋の立場を配慮しつつも、「皇」 の文字をみずからの称号に使うことで、両国が対等であることを表明したのである。これが天皇という称号が使われた始まりとなった。日本の自立の姿勢を示す天皇の称号は、その後も使われ続け、今日に至っている。天皇とは、宗教的な権威を含む最高の統一者を意味するもので、これは、天皇をいただく独自の文化を持つ国家であることを世界に示している。
聖徳太子は、607 年に法隆寺(ほうりゅうじ)を建てるなど、仏教をあつく信仰した。しかし朝廷は、日本古来の神々を大切にすることも忘れなかった。同じ年に、朝廷で儀式を行い、伝統ある神々を祀り続けることを誓った。こうした姿勢は、外国の優れた文化を取り入れつつも、自国の文化を大切にするという日本の伝統の基となったと考えられる。
太子は、内政でも外交でも、8 世紀に完成する日本の古代中央集権国家の設計図を描いた指導者だった。太子が活躍した7世紀には、政治や文化の中心が奈良盆地の飛鳥地方にあったので、この頃を飛鳥時代と呼ぶ。

13 大化の改新
 618 年、唐が中国を統一し、新王朝を開いた。唐は隋の制度を引きつぎ、律令、戸籍、兵役、科挙など良く整備された国家をつくりあげた。日本からは遣唐使が派遣され、同行した留学生や僧が現地に滞在して唐の優れた制度や文化を学んだ。
7 世紀の中頃になると、国力をつけた唐は、対立する高句麗を攻撃し始めた。朝鮮半島 3 国に緊張が走り、日本も危機を感じ、国家の体制を強化し始めた。
聖徳太子が亡くなったあと、蘇我一族が権力を振るうようになった。蘇我馬子(そがのうまこ)の子・蝦夷(えみし)は、天皇のように振る舞い、自分の子を王子と呼ばせた。蝦夷の子入鹿(いるか)も、聖徳太子の長男を始め、太子の一族を一人残らず死に追いやって滅亡させた。

やがて、太子の理想を受けつぎ、蘇我氏をおさえ、天皇を中心とする国づくりをもとめる機運が生まれてきた。唐に派遣されていた遣唐使や留学生、僧侶が相ついで帰国し、唐の政治制度を伝えたことも改革の機運を高めた。大化の改新は、蘇我氏を倒すことから始った。その中心となったのは、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)であった。
645 年、皇子と鎌足は蘇我親子を打ち滅ぼし、新しい政治の仕組みを作る改革を始めた。この年、朝廷は日本で最初の年号を立てて、大化元年(645 年) とした。東アジアで中国の王朝が定めたものとは異なる独自の年号を制定して現在まで使用し続けているのは日本だけである。 翌年 646 年、これまでは皇室や豪族が私有していた土地と民を国家が直接統治する、公地公民(こうちこうみん)の方針を打ち出した。大化の改新は聖徳太子以来の国の理想を実現するために、天皇と臣下の区別を明らかにし、日本独自の秩序を打ち立てようとしたものであった。

14 律令国家への道
 中大兄皇子は都を飛鳥から近江に移し、即位して天智天皇(661―671)となった。天皇は国内の改革を更に進め、全国的な戸籍をつくった。
朝鮮半島では新羅が唐と結んで、日本と親交のあった百済を滅ぼした。半島南部が唐の支配下に入ることは、日本にとっては脅威となることから、朝廷は百済復興のための救援要請を受け、多くの兵と物資を送った。唐・新羅連合軍と日本・百済軍の決戦は、663 年、半島南西部の白村江(はくすきのえ)で行われ、2 日間の壮烈な戦いののち、日本・百済側の敗北に終った(白村江の戦い)。日本の軍船 400 隻は燃え上がり、空と海を真っ赤に染めた。次いで、新羅は高句麗を滅ぼし、朝鮮半島を統一した。百済からは、王族や貴族を始め、一般の人々まで日本に亡命してきた。そのうちの一部は近江(滋賀県)、一部は東国に定住した。朝廷は彼らを厚くもてなし、政治の制度の運営についての知識を得た。
白村江の敗北は、日本にとって大きな衝撃だった。唐と新羅の来襲を恐れた日本は、九州に防人(さきもり)を置き、水城(みずき)を築いて、国をあげて
防衛につとめた。防人とは、全国から集められ、九州北部沿岸と壱岐、対馬に 配置された兵士のことで、3 年交代で防衛の任についた。東国の兵士が多かった。天智天皇が亡くなった 672 年に、天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ) と天皇の子・大友皇子(おおとものおうじ)の間で、皇位継承をめぐって内乱がおこった。これを壬申の乱(じんしんのらん)という。大海人皇子は東国の 豪族を味方につけ、機敏な行動で大勝利をおさめた。この争いの中で豪族たちは分裂し、政治へ発言力を弱めた。こうして、天皇を中心に国全体の発展をは
かる体制がつくられていった。
内乱に勝利した大海人皇子は、天武天皇(672 - 686)として即位し、皇室の地位を高め、公地公民をめざす改革の動きを力強く進めた。また中国の律令制度も参考にして、国家の法律をさらに整備し、国の歴史書(『古事記』『日本書紀』) の編纂に着手した。同時に国を運営する役人の位や昇進の制度を整え豪族たちをこの制度の中に組み入れていった。
天武天皇の没後、皇后が即位して持統天皇となり改革を受けついだ。持統天皇は、都として、奈良盆地南部の地に、藤原京を建設した。これは中国にならってつくられた大規模な都の建設だった。ここに、聖徳太子の新政以来の律令国家をめざす国づくりが完成に近づいた。このころより、日本という国号が用いられようになった。

《資料》 敗戦を教訓にした律令国家
7 世紀なかば、東アジアは動乱の中にあった。強大な唐王朝に脅威を感じた朝鮮半島の国々は中央集権化を進めていた。しかし百済、新羅、高句麗の 3 国は、古来激しい抗争を繰り返しており、唐の軍事介入を招いた。
まず、唐・新羅軍は、百済を滅ぼし、次いで高句麗を南北から挟み撃ちにして滅亡させた。日本は百済の救援に赴いたが、百戦錬磨の唐軍に対して、豪族の寄せ集めである日本軍は、作戦もまとまらず、大敗を喫した。敗戦後、天智天皇は国家の危機を感じて中央集権化と律令の整備につとめた。天智・天武天皇は、東アジアの攻防と敗戦の経験を教訓に国づくりを進めた。

《補講》 「日本」という国名のおこり
「太陽の恵みをいっぱい受ける国」 わたしたちの国の名前は、「日本」(ニッポンま
たはニホン)です。では「日本」とはどんな意味を持つ言葉でしょうか。「にっぽん」は「日」と「本」という 2 つの文字で成り立っています。
「日」は、太陽のこと。太陽は、地球上のあらゆるものに光と熱を与え、命をはぐくみます。古代の日本人は、太陽の恵みを自覚していました。人間の知恵や力をはるかに超えた偉大な自然の「気」を感じ取っていたのです。「本」という字は「・・の元」ということです。二つをあわせると「太陽が出て来る処」となります。「昇る太陽の出てくるところの国」という意味になります。これは、自分たちの国にゆるぎない自信を持ち、その歴史にも誇りを持った古代のご先祖様が選んだ名前です。
「日本」という名前が出来る前には、周囲の国々から「倭」(わ)「和国」(わこく) と呼ばれていました。それは古代中国の人たちが、わが国を軽くみて、侮る気持ちで用いた名前だったのです。国内の政治制度がしだいに整い、国力も伸びて、アジアの国々の中でも重要な地位を占めるようになると、もっと自国に相応しい名前があるはずだと考えるようになりました。
1300 年ほど前、聖徳太子の新政によって、それまで中国の王朝との交渉は、日本は服属国のような立場を取っていました。それを改めるため、「天皇」という君主の称号を使い始め、中国に対して自主・対等の姿勢を示すことになりました。これが「日本」という国名の出発点でした。その後、天智天皇や天武天皇のもと、大化の改新を経て政治のしくみや、国内体制が整いました。
こうして、それまでの政治改革の成果をまとめて飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)という法律で 「日本」 という国名が公式に定められたと考えられています。それから約 1300 年を経た今日まで、この国名はまったく変わることなく使われています。我が国の名称がこの長い年月の間変わらなかったのは、その間国が途絶えたり他の民族に取って代わられたりすることがなかったからです。わが国は、世界で最も長い歴史を持つ国です。
「ジャパン」の起源も 「日本」 より・「ニッポン」と「ニホン」のどちらが正しい発音でしょうか。実はどちらでも良いのです。古くは「ニッポン」だったのが、短く「ニホン」と発音するようになり、両方の発音が並び使われるようになったからです。また古くは中国で「ジッポン」 と言う発音も行われていました。それを西洋の人々が耳で聞き取って、「ジパング」となり、更には、英語で「ジャパン」 とも呼ばれるようになりました。「ジャパン」 の起源もまた、「日本」だったわけです。

15 大宝律令と平城京 
 701 年、大宝律令がつくられた。律は刑罰、令は政治のしくみを定めた法律で、律令に基づいて政治を行う国を律令国家とよぶ。日本はこうして律令国家として 1300 年も前に完成した。律は唐にほぼならったものであったが、令は日本の実情に合わせて独自につくられた。たとえば、国政全般をつかさどる太政官のほかに神々の祭りをつかさどる神祇官が特別に置かれた。日本は中国に学びながらも独自の法律をつくりあげた。
710 年、律令国家の新しい都として、奈良に平城京をつくり遷都した。これよりのち、京都に都が移るまでのおよそ 80 年間を、奈良時代という。平城京は唐の長安を手本にして設計された。日本の国情に合わせてつくられた部分もある。防備のための城壁などはなく、平和な国情をあらわしていた。都には、碁盤の目のように道が通され、その北側の中央に、天皇の住まいや役所のある平城京が置かれた。東西二つの市(いち)では各地の産物が売り買いされ、唐の制度にならって富本銭(ふほんせん=日本最古の貨幣)という独自の貨幣も発行された。平城京の繁栄ぶりは、歌にまで歌われた。奈良時代の日本の人口は約 600 万人と推定されているが、平城京には約 10 万人が住んでいた。朝廷の役人が約 1 万人で、そのうちの約 200 人の人々は、天皇から高い地位をあたえられた、中央の有力な豪族だった。彼らは貴族とよばれ、朝廷で政治にたずさわった。国政は主な役人の合議によって進められた。
律令国家のもとでは公平な統治をめざして、全ての土地と民を国家が直接おさめる公地公民(こうちこうみん)の原則が打ち立てられた。この原則に基づき、人々に平等に土地を分ける、班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)というしくみが整えられた。この法では 6 年ごとに改める戸籍にもとづき、6 歳以上の男女に生活の基礎となる口分田(くぶんでん)が与えられ、亡くなると返還した。口分田を貰った公民は、租、調、庸と呼ばれる税を納めた。この制度は唐にならったもので実態に合わせてたびたび修正された。

16 記紀の編纂と大仏造立
 律令制度のもとで、地方は 60 あまりの国に分かれ、国ごとに朝廷から国司が派遣された。国の役所が置かれたところを国府(こくふ)と呼ばれた。中央と地方とを結ぶ大きな道路には駅が設けられ、役人が乗り継ぐ馬が用意された。現在の福岡県には大宰府(だざいふ)を置き、九州地方の統制や外交の窓口、更には沿岸防備の役目を与えた。東北地方には宮城県の多賀城と秋田県の秋田城を築き政治や軍事に当たった。
天武天皇は、律令国家のしくみが整うのに合わせて、国のおこりや歴史をまとめることを命じ、その編纂事業は次の天皇に引き継がれた。712 年には『古事記』(こじき)が完成し、全 3 巻の中に、民族の神話と歴史が筋道立った物語としてまとめられた。ついで 720 年には『日本書記』(にほんしょき)全 30 巻が完成、国家の正史として、歴代の天皇の系譜とその事績が詳細に記述された。また朝廷は国司に命じて、地方ごとに伝説や地理、産物を調べ『風土記』(ふどき)をつくらせて各地のようすを記録させた。
聖武天皇(724 - 749)の治世、疫病や天災がたびたび起こり、税をのがれるために、口分田を捨てて逃亡する農民もあらわれた。朝廷は、開墾を奨励し、743 年には墾田永年私財法を作った。この法律は開墾者の権利を認めるもので、人々の開墾への意欲をかきたて耕地の拡大に繋がった。有力な貴族や寺院も私有地を広げた。
聖武天皇と光明皇后は、国ごとに国分寺と国分尼寺を置き、日本の隅々まで仏教の心をいきわたらせることにより、国家の平安をもたらそうとした。都には、全国の国分寺の中心的な総国分寺として東大寺を建て、大仏造立を命じた。行基は橋や用水路をつくるなどして多くの人々の信頼を集めた僧である。行基も又大仏造立に大きく貢献した。大仏開眼の儀式はインド出身の高僧も加わって、盛大に行われた。聖武天皇のお后である光明皇后は、悲田院(貧しい人や孤児の保護施設)や施薬院(病人に薬や治療を施す施設)を建て、ご自身も病人の治療につとめられた。いっぽうで、これらの事業は、多くの資金を必要としたので、国家の財政は苦しくなった。

《資料》 古事記と日本書紀
古事記は、「古(いにしえ)の事をしるした書物」の意味だが、日本書紀の「紀」は、帝王の事績を年代順につづった記録を意味する。両書はほぼ同じ時期に完成していることより、同じように思われがちだが、文体が異なり、神話の構成などもかなり違っている。『古事記』によれば、天武天皇は歴史は国家の基礎であるとの考えを示し、歴史書の編纂を命じたという。『日本書紀』は日本国の由来を流暢な漢文で記し、対外意識と独立心の高まりを感じさせる。
この 2 つの歴史書を合わせて『記紀』と呼ぶ。『記紀』は天皇が日本の国を治めるいわれを述べたもので、その中で語られる神話・伝承からは、当時の人々の信仰や政治の理想についての考え方を知ることが出来る貴重な書物である。

17 飛鳥・天平の文化
6世紀の飛鳥時代、百済を経て、仏教が日本にもたらされた。仏像や経典は、自然崇拝だった日本人の心を揺るがし、一部の貴族が仏教を受け入れ始めた。それは目に見え、手に触れ、言葉で理解できる始めての宗教であった。6 世紀末、都に天然痘がはやった。用明天皇も感染した。病床に伏した天皇は平癒を祈って薬師如来(やくしにょらい)を信仰したため、仏教は始めて朝廷にも受け入れられた。
推古天皇と摂政の聖徳太子は斑鳩(いかるが)の里(奈良県の西北部)に薬師如来を納める為に法隆寺(ほうりゅうじ)を建立した。(消失、再建されているが、世界最古の木造建築である)仏教をあつく信仰する太子は崇仏派の蘇我氏と共に、飛鳥地方を中心に次々に寺院を建立した。この仏教文化を飛鳥文化(あすかぶんか)と呼ぶ。釈迦三尊像、百済観音像などが代表作である。
7世紀初頭、朝廷は遣唐使を十数回にわたり派遣した。才能と意欲のある留学生が選ばれ、海をわたり、唐の制度や文化を日本に伝えた。唐の高僧鑑真(がんじん)は日本に戒律を伝えようとして日本に向かったが 5 度も難破し、日本にたどりついた時には盲目になっていた。奈良時代には仏教の広まりとともに、朝廷や貴族の保護のもと多くのお寺が建てられた。聖武天皇の頃の年号よりこの頃のことを天平文化という。
この時代を代表する寺として、東大寺や薬師寺、艦真のために建てた唐招堤
寺(とうしょうだいじ)がある。仏像では東大寺の日光・月光菩薩像、興福寺の阿修羅像など仏教美術の傑作がある。752 年に完成した高さ 15 メートルの東大寺の大仏は世界最大の金銅仏である。
文学では『万葉集』が編纂され、古代から奈良時代までの 4500 首の和歌が身分の隔てなく採録されている。作者は天皇・貴族から名もなき農民・防人まで多彩である。詩歌集に女性や庶民の作品まで採られているのは、世界でも例がない。飛鳥時代には、多くの優れた作者が生まれ、優れた作品を多数残した。




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