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知っておきたい『日本の歴史』徳力啓三 連載その4
愈々面白くなって来た知っておきたい『日本の歴史』は、第4回目に入ります。第4節 律令国家の展開に入り18 平安京と摂関政治、19 平安文化、20 武士の
台頭と院政と続き、第2章 中世の日本(鎌倉・室町)の第1節 武家政治の始まりに入り21 平氏の繁栄と滅亡、22 鎌倉幕府の武家政治、23 元寇まで続きます。合計8000字でもう少し掲載可能なのですが、区切りが付いた所で次回に回すことにします。次回は、第2節 武家政治の展開、南北朝に入ります。お楽しみにお待ちください。写真は、インタネットで見つけた鎌倉幕府跡の桜並木の写真をお借りしました。


第 4 節 律令国家の展開

18 平安京と摂関政治

 6世紀の中頃から、貴族と僧侶の争いが激しくなった。桓武天皇は、寺院などの仏教勢力の影響が強い奈良の地をはなれ、都を移すことで政治を立て直そうと決意した。新しい都は、794 年に、交通の便利な今の京都につくられた。これが平安京で、明治天皇の東京遷都まで約 1000 年間、日本の都となった。そのうち、鎌倉に幕府が開かれるまでの約 400 年間を平安時代とよぶ。
桓武天皇は、農民にとって負担となっていた兵役の義務を廃し、郡司の子弟による軍隊をつくった。また地方政治の乱れを監視する役人をおき、郡司らの不正を取り締まった。また班田収受の制度をやめ、労役で治める税を半減させ、農民の負担を軽くした。
こうして律令国家が立て直され、天皇の権威が確立し、皇位の継承が安定してくると、天皇が直接、政治の場で意見を示す必要が少なくなった。一方藤原氏は、巧みに他の貴族を退け、一族の娘を天皇の皇后としてその皇子を天皇に立てることで、天皇の外戚となり、勢力をのばした。藤原氏は、天皇が幼い場合は、摂政として、また成人されたのちは関白として、国政の実権を握るようになった。これを摂関政治(せっかんせいじ)と呼ぶ。その最盛期は、藤原道長とその子の頼道のころで、藤原氏は朝廷の高い地位を一族でひとりじめにした。
 10 世紀になると、朝廷は国司らに地方政治をまかせ、公領からの税の確保を求めるほかは干渉しなくなった。有力者らは、みずから土地を開墾し、藤原氏を始めとする中央の貴族や寺社に寄進した。この様な土地は朝廷や国司によって税を免除される私有地として承認された。有力者らはその土地の管理者となって力をたくわえていった。管理のための事務所や倉庫は「荘」と呼ばれ、これら私有地を「荘園」(しょうえん)と呼んだ。

《資料》遷都の年代とその位置(127 年の間に 6 回も遷都した。)
667 年 近江大津宮 琵琶湖の南に最初に開かれた天皇の居場所・天智天皇
672 年 飛 鳥宮 奈良の飛鳥の里・天武天皇
694 年 藤 原宮 飛鳥宮の近く・持統天皇
710 年 平 城京 今の奈良市・元明天皇
784 年 長 岡京 現在の京都の南・桓武天皇
794 年 平安京 現在の京都市・桓武天皇、1867 年(明治元年)まで千年以上続いた。

19 平安文化

 奈良時代の仏教は国家の保護を受けて栄えた。が、経典の研究が中心となり、やがて停滞し、都が平安京に移ると、寺院は奈良に留め置かれた。このような時期に最澄と空海の 2 人の学僧が唐にわたり、仏教の新たな展開を学び、日本の仏教に新機軸をもたらした。
最澄(伝教大師でんぎょうだいし)は比叡山に延暦寺を開いて天台宗を広め、空海(弘法大師こうぼうだいし)は高野山に金剛峯寺を開いて真言宗を広めた。学僧たちは密教の奥義を求めて、山中でひたすら修行に励み、国家と万民の平安を祈った。しかし、やがて貴族の間に信者がひろがると、加持祈祷に重きをおき、寺院建立などでも支援を受けるようになった。
 894 年、右大臣菅原道真の建言により遣唐使が廃止されると、唐風文化を基礎としつつ、日本独自の優雅で繊細な文化が発達した。これを国風文化(こくふうぶんか)とよぶ。貴族たちは、自然を模した庭園のある寝殿造りの屋敷に住み、服装も男性は束帯、女性は十二単などに変わった。絵画は自然をモチーフにした大和絵が襖や屏風を飾り、その大和絵から物語のある絵巻物が生まれた。鳥羽僧正の『鳥獣戯画』の軽妙な筆致は漫画の原型といえる。
とりわけ重要なのは、仮名文字(かなもじ)の発達である。特に平仮名は貴族の女性の間に広まり、仮名文字を使った文学が生まれた。清少納言はしなやかな観察力で宮殿の暮らしや季節の移ろいをつづった随筆『枕草子』をあらわし、紫式部は貴族の恋を題材に世界最古の長編小説『源氏物語』を書いた。和歌では醍醐天皇の勅命で、紀貫之らが『古今和歌集』を編纂し、小野小町や在原業平など六歌仙といわれる歌人の名作が収録された。
 10 世紀になると、庶民の間には社会不安から末法思想が広まった。都では放火・盗賊が横行し、比叡山の僧兵らが暴れた。地方では武士が台頭し、天災が立てつづけにおこった。それにこたえるように比叡山の天台宗の源信らが登場し、念仏をとなえて阿弥陀仏に帰依すれば、極楽浄土に生まれ変わるという浄土教を説いた。貴族たちも極楽浄土にあこがれ、阿弥陀堂を建てて、阿弥陀仏の像を奉納した。藤原頼道の平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう- 京都) や中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう - 岩手)がその代表である。

《資料》 末法思想とは
釈迦の入寂後、2000 年が過ぎると教えは衰え、現世には救いがなくなるという厭世思想。それゆえに自力ではなく、阿弥陀仏の力による救済(他力本願)される思想が生まれた。阿弥陀佛とはインドに生まれた「無限の寿命」を持つ仏のことで、西方の極楽浄土からあまねく人々を見守り、救うといわれている。

《補講》 仮名文字と女流文化

表音文字の発明・私達の先祖は漢字を学んで使うだけでは満足せず、漢字を用いて日本語(大和言葉)を表現することにチャレンジしました。漢字には表音(音声をあらわす)と表意(意味をあらわす)という 2 つの機能があります。日本人はその両方の機能を使って、やまと言葉で表現しようとしました。その成果が 8 世紀に完成した『万葉集』に見られます。
かなの発明と普及・漢語にはない助詞、助動詞、接続詞などは、漢字の音を利用するしかありません。動詞や形容詞の送り仮名も同様です。こうして日本人は漢字を変形させた表音文字を発明しました。それが片仮名(かたかな)で、漢字を省略したものです。例えば「世」という漢字を「セ」であらわしました。これが、カタカナです。9 世紀後半には、漢字を草書体にしたものができ、平仮名となりました。漢字の形を崩したもので、例えば「波」を「は」としました。
平仮名は曲線の優美な自体で、宮廷の女官たちの間で普及しました。彼女らは、教養高く、優れた知性を競い合い、王朝文学の花を咲かせたのです。清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道綱の母、菅原孝標の母など多くの女流文学者がで、世界一古い女流文学を残しました。
世界に誇る女流文学・日本人らしい微妙な表現ができるのが日本語です。例えば
「悲しい」は漢字でも表現できますが、「うら悲しい」とか「もの悲しい」などの表現はできないのです。日本人は 1000 年ほど前に感性のこまやかさを表現できる素晴らしい表音文字を発明したのです。仮名文字の発明によって日本人の文章表現は飛躍的に豊かとなりました。

20 武士の台頭と院政

 9〜 10 世紀になると、私有地である荘園が広がって、国司や郡司の権限が及ばなくなった。都でも地方でも盗賊が出没し、治安が乱れた。朝廷でも中央の貴族たちは、武芸を職業にする者たちによって、宮中や貴族の屋敷を護衛した。また地方でも、国司として赴任しそのまま住みついた一族や、地元の豪族の中に、土地を守る為に自ら集団で武装する者があらわれた。こうして、武士が登場した。
武士は、皇族や中央貴族の血統をくみ、また指導者としての能力に優れたものを棟梁として主従関係を結んで武士団をつくった。中でも、天皇の子孫とされる源氏と平氏がひきいる武士団が、特に有力だった。
10 世紀の中ごろ、関東の豪族・平将門と瀬戸内地方の国司であった藤原純友が、武士団を率いて叛乱をおこした。これらの叛乱をしずめるためにも、中央の貴族は、武士の力を頼らなければならなかった。
11 世紀のなかばすぎ、170 年ぶりに藤原氏を外戚を持たない後三条天皇が即位し、みずから政治を行った。これによって藤原氏の勢いは抑えられた。天皇は藤原氏の荘園を含む多くの荘園を整理する法令をだした。その流れを受けついだ白河天皇は、14 年間在位したのち、幼少の天皇に皇位を譲り、白河上皇として天皇の後ろだてになって政治の実権をにぎった。この政治を院政と言う。摂関政治は、天皇の母方の一族が実権を握る政治だったが、院政では、天皇の父や祖父が、朝廷のしきたりにとらわれない政治を行なった。鎌倉幕府成立までの約 100 年間を院政期というが、その後も院政は続いた。
院政が始まると、白河上皇は、平氏を中心とする武士団を、「北面の武士」として院の警護に重く用いたので、武士の台頭をうながした。11 世紀後半には、東北地方で 2 回にわたって戦乱がおこり、関東の武士を率いてこれを沈めた源義家が、この地方の武士の信望を集めるようになった。

《補講》 日本の天皇と天の思想
日本における 「天」 の思想は、神話に登場する「高天原」 に由来します。天皇の称号に 「天」 が含まれるのは、高天原の神々の中心であった太陽神・天照大神の直系の子孫と言う意味からです。日本では古代国家が完成し、律令制が導入され、政治のしくみが整いました。そののち天皇はしだいに政治の実権から遠ざかり神々を祀る聖なる存在、或いは国をおさめる権威となっていきます。そして、実際に政治をおこなうのは、摂政・関白・征夷大将軍などでありました。天皇は彼らを任命し、政治の正統性を保証してきました。日本では、年号が変わっても、政権の所在地が変わっても、皇室は永続するのです。


第2章 中世の日本(鎌倉・ 室町)

第1節 武家政治の始まり

21 平氏の繁栄と滅亡

 保元の乱(ほうげんのらん)とは、後白河天皇と崇徳上皇との間の激しい対立からおこった騒乱です。これに、勢力争いをしていた藤原氏の兄弟や、有力な武士たちが二手に分かれて加担し、戦いが始ったのは 1156 年でした。戦乱は小規模だったが、都を舞台とした天皇・上皇の争いの解決に、武士が大きな力を発揮した。この乱は武士が政治への発言力を増やしていくきっかけとなった。藤原氏出身の僧・慈円が書いた『愚管抄』(ぐかんしょう)という歴史書では、この乱から「武者の世」に移ったとしている。
保元の乱ののち、勝者の後白河天皇を支えた貴族の間の勢力争いから、1159 年に再び戦いが起った。これを平治の乱(へいじのらん)という。この乱で、平清盛が源義朝を破り、平氏が武士の中でももっとも有力な勢力となった。
 平清盛は後白河上皇との関係を深め、武士として初めて朝廷の最高位である太政大臣にまでのぼりつめた。また、娘や妻の妹を、宮中に入れ、朝廷と結びつきを深めた。一族も多数、朝廷の高い地位につき多くの荘園を手にいれ、全国の半分近くの地方をおさえた。さらに清盛は、大輪田泊(おおわだのとまり= 現在の神戸港)を整備して、宋(907 年に唐が滅びたあと内乱を経て 960 年に建国 した中国の王朝)の商船を招くなど、日宋貿易に力を尽くし、莫大な利益をあ げた。こうして平氏は、「平氏にあらずんば人にあらず」と言われるほど栄えた。しかし平家の栄華も長くは続かなかった。平氏はやがて後白河上皇との対立 を深め、上皇の院政を停止して、清盛の娘が産んだ 1 歳の安徳天皇を皇位につ けた。後白河上皇の皇子である以仁(もちひと)王がこれに反発し、平氏の追討を呼びかけた。平氏の支配に不満を持つ武士が、各地で次々に兵をあげた。平治の乱で討たれた源義朝の子の源頼朝は、鎌倉を拠点として関東の武士と主従関係を結び、勢力を伸ばしていった。
 頼朝は朝廷の命をうけ、弟の義経らを派遣し、平氏の討伐に向かわせた。義経は幼い安徳天皇とともに都から落ち延びていった平氏を各地の合戦で討ち、1185 年ついに壇の浦(関門海峡の東端)で滅ぼした。これら源氏と平氏の一連の戦いを、源平合戦とよぶ。わが国ではじめての全国規模の戦乱だった。

22 鎌倉幕府の武家政治

 平氏滅亡ののち、源頼朝は 1185 年、地方の国ごとに、守護をおき、荘園や公領には地頭を置くことを朝廷に認めさせた。守護は、郡司や警察の仕事につき、地方の政治にも関与した。地頭は、年貢の取立てや、土地の管理などを行った。一方義経が兄である頼朝と対立し、平泉の奥州藤原氏のもとに逃れると、頼朝はその勢力を攻め滅ぼし、東北地方も支配下に入れた。
 1192 年頼朝は、朝廷より征夷大将軍に任命された。頼朝は鎌倉に、簡素で、実際的な武家政治の拠点を築いた。これを鎌倉幕府(かまくらばくふ)と呼び、鎌倉に幕府が置かれた 140 年間を鎌倉時代という。鎌倉幕府は、将軍とその家来の武士である御家人の主従関係によって成りたっていた。御家人は将軍から先祖伝来の領地を保護されたり、新しい領地を与えられるなどの御恩を受け、そのかわり将軍に忠誠を誓い、戦の時には命をかけて戦って、奉公に励んだ。頼朝の死後、幕府の主導権をめぐる争いで有力な御家人が次々に滅び、頼朝 の妻・政子の生家である北条氏が実権を握った。源氏の将軍は、3 代目の実朝が暗殺され、途絶えた。そののち、京都から藤原氏や皇族などをむかえ、名ばかりの将軍にした。家柄は一御家人に過ぎなかった北条氏は、将軍を補佐する
執権の地位について、幕府の政治を動かした。
 その頃京都で、院政を行っていた後鳥羽上皇(1180 - 1239)は、朝廷の勢力を回復するため、1221 年、北条氏を打つように全国の武士に命令を出した。しかし多くの武士は幕府に結集し、またたくまに朝廷軍を打ち負かし、京都を占領した。これによって後鳥羽上皇は、隠岐の島に移された(承久の乱)。そののち、幕府は京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)を置き、朝廷を監視し、交渉にもあたらせ、さらに西日本の御家人を監督した。
 執権となった北条泰時は、1232 年、武家社会の慣習に基づき、初めての武家独自の法律である御成敗式目(ごせいばいしきもく=貞永式目とも言い、武士の間の紛争を避けるための法律)を定めた。これは、御家人に向けてその権利や義務、裁判の基準を解りやすく示し、その後の武士の法律の手本となった。

《資料》 武家政治と将軍
征夷大将軍とは、朝廷の支配の及んでいない地方を征伐するために、天皇から任命された、軍隊の総指揮官を指す名前であった。鎌倉幕府以降は、武家政権の首長の称号となり、単に「将軍」と呼ばれるようになった。将軍幕府の住居のあるところを幕府と呼んだ。それが転じて、武家政権を示す言葉となった。鎌倉幕府では 9 人の将軍、室町幕府と江戸幕府では夫々 15 人の将軍が任命された。将軍がいた時代を武家政治といい、約 700 年続いた。

《補講》 武士のおこりと鎌倉幕府
軍事を職業とする貴族の台頭 ・ 平安時代の公地公民制度が衰退し、国司が管理する農地が少なくなっていました。農地を切り開き、沢山の土地を持っていた農民は、税の取立てを免れようと、自分の土地を貴族や寺社の名義にしました。誰の土地かわからぬような状態となり、土地争いが頻発しました。
そのころ、都では、武芸を専門とする家柄の貴族が台頭しました。いずれも天皇の血筋を引く家柄で、平氏と源氏です。彼らは家業として、日夜、騎馬の技を磨き、天皇や貴族の警護にあたっていました。朝廷は、外敵への備えや争乱を鎮圧するために軍制を強化しました。源氏や平氏を中心に軍事集団を編成、問題がおきると出動しました。こうして「兵の家」は益々発展していきました。彼らの行く先々で、争いがおこり、地方豪族もそれに負けぬように軍人を雇い、武装を強化しました。都から来た軍事貴族は強大で、地方の豪族たちは、自分の領土を守ってくれるように彼らに頼みました。地方の豪族や領主が傘下に入り武士団が結成されていったのです。こうして日本の武士団は発展してゆき、日本国の政治をつかさどるようになり、明治維新に至るまで、武士階級が日本国を支配するようになったのです。


23 元寇

 13世紀の始め、モンゴル(蒙古)の高原で、ジンギス・ハンが遊牧民の諸部隊を統一し、モンゴル帝国を建てた。モンゴル帝国は、無敵の騎馬集団を各地に侵攻させ、またたくまに西アジアから中国まで、ユーラシア大陸の東西にまたがる広大な帝国を築いた。この動きに、ヨーロッパ人もおびえ、モンゴル人をおそれた。モンゴル帝国第 5 代目のフビライ・ハンは、大都(現在の北京) に都をつくった。フビライ・ハン(1215 - 1294)は、チンギス・ハンの孫で、国号を元とし、皇帝を名乗った。フビライは、東アジアへの支配を拡大し、モンゴル帝国は広大な領土を持ち、その一部が中国であった。現在の北京をモンゴル帝国の首都と定め、モンゴル人の国とした。フビライは独立をたもっていた日本にたびたび使いを送り、服属するよう求めた。しかし、朝廷と鎌倉幕府は、一致して、これをはねつけた。幕府は、執権の北条時宗を中心に、元の来襲に備えた。
 1274 年、元・高句麗連合軍は、対馬、壱岐を経て、博多に来襲した(文永の乱)。更に 7 年後に大船団を仕立てて日本を襲った(弘安の役)。日本側は、略奪と残虐な暴行の被害を受け、元軍の新奇な兵器にも悩まされた。しかし鎌倉武士はこれを国難として受け止め果敢に戦った。元軍は、のちに、「神風」と呼ばれた暴風雨におそわれ敗退した。こうして日本は、独立を保つことができた。2 度にわたる元軍の来襲を元寇(げんこう)という。こののち、フビライは数度にわたって日本侵攻をくわだてたが実現しなかった。
 元との戦いで、幕府を支える御家人は多くの犠牲をはらった。しかし、外敵との戦いであったので、新しい土地を確保できず、幕府は充分な恩賞を与えることが出来なかった。また「文永の役」のあと、幕府は御家人に防塁の建設や異国警護番役などを命じるなど、外敵への備えを強化した。これにより御家人には重い負担がのしかかり、幕府に対する不満がつのった。この頃に御家人は、兄弟による分割相続の繰り返しで、領地が次第に狭くなり、生活の基盤が弱くなっていた。その上に商工業の発達で武士も貨幣(銅銭)を使うことが多くなり領地を質にいれたり、売ったりするものも現れた。幕府は御家人を救うため、徳政令をだして、領地をただで取り戻せるようにしようとしたが、お金を御家人に貸す人が居なくなってしまい、かえって御家人を苦しめる結果となった。

《補講》 元寇と朝鮮半島

 1274 年と 1281 年の2回にわたって、モンゴル帝国は日本を襲いました。初回は3万人、2回目は 14 万人の兵隊が日本に攻め寄せました。初回の襲撃で、博多湾に入ってきた元軍を日本の武士は勇敢に迎え撃ち、命を惜しまず戦いました。敵は夕暮れが近づくと、船に引き上げ、翌朝には撤退してゆきました。2度目の来襲では、長崎県の平戸に結集し、博多湾を目指して伊万里湾の入り口まで迫ってきました。これに対して日本の武士団は、全力を持って船で元軍の大船団に挑みました。一昼夜に及ぶ戦闘で、大きな被害を受けた元軍は、その場に釘付けとなりました。その直後、台風が元軍を襲い、大部分の船が荒波に飲み込まれていきました。2度にわたって来襲した元軍は、日本を占領することが出来ませんでした。
最初の元寇で元軍は、対馬、壱岐や博多で民家に火をかけ、老人、女性、子供の区別なく残忍な仕方で殺害したり、捕虜としてつれさりました。
 古代より、朝鮮半島は、そこを通じて大陸の文化が日本に入ってくる架け橋でした。しかし朝鮮半島から大軍が襲来した元寇の恐怖の体験は、日本人の朝鮮半島に対するイメージを変えました。のちの明治時代に、政府は「朝鮮半島がロシアの勢力圏に入ると日本の安全が脅かされる」と警戒心を抱きました。そこにはこの元寇の体験が陰を落としていたのかもしれません。





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