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知っておきたい『日本の歴史』徳力啓三 連載その5
知っておきたい『日本の歴史』その5は、第2節武家政治の展開、24−建武の新政と南北朝の時代、25−室町幕府と守護大名、26−日明貿易と朝鮮・琉球、27-応仁の乱と下克上と続き第3節 中世社会と文化に入ります。28-中世の年と農村の文化、29―鎌倉文化、30−室町文化で終わります。まだ少し字数が残りますが、区切りのいい所で終わり新しい展開は、次回に回すことにします。鎌倉文化、室町文化は、面白いのですが中学生でこんなことを習ったかなあとその程度の高さに驚きます。写真は、室町文化の粋、北山文化を代表する金閣寺の写真の1枚を使用しました。


第 2 節 武家政治の展開

24−建武の新政と南北朝の時代

 鎌倉幕府の支配が揺らぎ始めると、北条氏はいっそう権力を集中しようとして、かえって御家人の反発を強めた。14 世紀の初めに即位した後醍醐(ごだいご) 天皇は、天皇自らが行う天皇親政を理想とし、その実現のために倒幕の計画を進めた。初めは計画が漏れて失敗し、後醍醐天皇は隠岐の島に移された。後醍醐天皇の皇子護良親王や、河内の豪族・楠木正成(くすのきまさしげ・1294- 1336)らは近畿地方の新興武士を結集して幕府と粘り強く戦った。
やがて、後醍醐天皇が隠岐の島から脱出すると、形勢は一転した。幕府軍から有力な御家人が脱落した。足利尊氏(あしかがたかうじ・1305 - 1358)が幕府にそむいて、京都の六波羅探題を滅ぼした。ついで関東の新田義貞も朝廷方につき、大軍を率いて鎌倉の幕府を攻め、1333 年、ついに鎌倉幕府は滅亡した。後醍醐天皇は、京都にもどると、天皇親政をめざし、公家と武家の力を合わせた新しい政治を始めた。幕府滅亡の翌年、1334 年に年号を建武と改めたため、これを建武の新政(建武の中興)という。
 しかし、建武の新政は、武家社会の慣習を無視して領地争いに介入したり、貴族の慣例を否定した人材登用を行ったため、当初から政治への不満を多く生み出した。そのような時に、足利尊氏が武家政治を再興しようと兵をあげ、天皇親政による新しい制度は 2 年余りで崩れ去った。
 1336 年、足利尊氏は京都に新しい天皇を立て、建武式目を定めた。これは京都に幕府を開き、鎌倉幕府の政治を手本とした幕府政治の再興をはかったものだった。一方、後醍醐天皇は、吉野(奈良県)に逃れ、ここに 2 つの朝廷が並び立つこととなった。京都の朝廷を北朝と呼び、吉野の朝廷を南朝と呼んだ。両者はそれぞれ各地の武士に呼びかけ、約 60 年の間、全国で争いを続けた。この時代を南北朝時代(なんぼくちょうじだい)とよぶ。

25−室町幕府と守護大名

 足利尊氏は、建武式目を制定し、新しい幕府の方針とした。1338 年に、北朝の天皇から征夷大将軍に任じられ、京都に幕府を開いた。のちに尊氏の孫の義満が、京都の室町に邸宅を建て、そこで政治をおこなったため室町幕府と呼ばれた。足利氏は、そこで 237 年もの間、政治の中心を占めていた。この期間を室町時代(1336 - 1573)といい、この期間は、2つに区分される。南北朝時代の 56 年間と南北朝が合一してから応仁の乱までの 75 年と、応仁の乱以降の戦国時代の 106 年間をさす。足利尊氏が京都に幕府を開いたのは、地の利のよさと、尊氏支持の有力武士団が畿内にあったためと鎌倉時代の有力武士団を、天皇の力を利用し従わせようとしたためである。室町幕府は、将軍の補佐役として管領(かんれい)を置いた。管領には、足利一族の有力な守護大名がついた。また関東地方をおさめるため鎌倉府をおいたが、大きな権限をもっていたので、次第に京都の幕府から独立するようになった。
室町幕府は地方の守護に、国内の荘園や公領の年貢の半分をを取立てる権限を与え、守護の力を強め、全国の武士をまとめようとした。やがて守護は地元の武士を家来にし、荘園や公領を自分のものにしていった。さらに、国司の権限も吸収し、それぞれの国を支配する守護大名に成長した。
 室町幕府は、将軍の力が弱く、守護大名による連合政権の性格をもっていたが、幕府として足利将軍家の力が最も大きかったのは、3 代将軍義満の時代で幕府の最盛期であった。義満は南朝の勢いが衰えた 1392 年に南北朝の合一を実現し、戦乱をおさめた。さらに、地方の有力な守護をおさえたり滅ぼしたりして、支配を安定させた。義満は武家の最高位である征夷大将軍と公家の最高位である太政大臣を歴任した。室町幕府は、課税権、市政権、裁判権など、多くの朝廷の権限を吸収して、統一政権の性格を強めた。他方で、義満は明(みん)国との貿易を求め、国交を開き、明国の皇帝に「日本国王」の金印をもらい、自らを 「日本国王臣源道義」 と名乗り、臣下として屈従する姿勢をみせた。

26−日明貿易と朝鮮・琉球

 13世紀後半から 15 世紀にかけて、東アジアは大きく動いた。中国では 1368 年、漢民族の王朝である明国が建国され、元が北方に追われた。明国は、日本に、倭寇の取り締まりを求めてきた。倭寇(わこう)とは、かって元の襲撃をうけた壱岐や対馬や松浦地方を根拠地とする武装貿易船団で、日本人のほか朝鮮人が多数含まれていた。彼らは時には数百人にも及ぶ船団を組み、朝鮮半島や中国大陸沿岸に上陸して密貿易や略奪行為を行ったり、他の船舶に対し海賊行為を働いたりした。1404 年、当時の室町幕府の将軍・足利義満は倭寇を取り締まることを条件に、明国との貿易を始めた。この貿易は倭寇と区別するため、明国の皇帝が支給した証明書(勘合)を使ったので勘合貿易と呼ばれる。日本は刀剣・銅・硫黄・蒔絵などを輸出し、明国からは銅銭・絹織物・書画などを輸入して室町幕府の重要な財源となった。
 朝鮮では、倭寇撃退に成果を上げた李成桂が高麗(こうらい)を倒し 1392 年、朝鮮(李氏朝鮮)を建てた。朝鮮も日本に倭寇の禁止と通交を求めてきた。幕府がこれに応じた結果、日朝貿易が始まった。ところが日本側の貿易船があまりにも多かったので、のちに、朝鮮は対馬の宋氏に貿易の独占権を与え、日本からの使節を受け入れる窓口として倭館(わかん)を設けた。日本は銅、硫黄、染料などを輸出し、朝鮮からは木綿を輸入した。
 琉球では、北山・中山・南山の 3 つの勢力が、それぞれ城を拠点に対立していたが、1429 年には中山の尚氏が3つの勢力を統一して、琉球王国をつくりあげた。そこは、明国が民間貿易を禁止する海禁政策をとる中で、明国の冊封を受け、日本、朝鮮、更には遠く東南アジアから各地の産物を明国にもたらす中継貿易で活躍し、繁栄した。こうして、15 世紀中ごろには、東アジアの海上交易のネットワークが出来上がった。
 蝦夷地(えぞち = 北海道)では、アイヌと呼ばれる人々が、狩猟や漁業を行っていたが、14 世紀ごろに、津軽(青森県)の十三港(とさみなと)を拠点にした交易が始まり、鮭・昆布・毛皮などをもたらした。それらの産物は、日本海を通って畿内に運ばれようになった。
 16 世紀の倭寇は、大部分が中国人で、彼らは明国の海禁政策をかいくぐり、貿易や海運を行う一方、中国沿岸を荒らしまわった。そのため明国は国力を弱めた。又この時期、鉄砲や宣教師が倭寇の船に乗って日本へ到達した。

27−応仁の乱と下克上

 室町幕府の 3 代目・足利義満の死後、次第に幕府の権力は衰え、守護大名の細川氏と山名氏は、幕府の実権を争っていた。8 代将軍足利義政は、弟の義視をいったん後継者に決めながら、実子の義尚が生まれると、わが子に将軍の位を譲ろうとした。これが元で、将軍家の跡継ぎ争いがおこったが、それに管領家の跡継ぎ争いが連動して、細川勝元と山名宗全が対立し、1467 年に応仁の乱(おうにんの乱)が始まった。全国の武士が、細川の東軍と山名の西軍に分かれ、両軍で20 万を超える兵が、京都を主戦場に戦った。戦いは11 年間も続き、他所から入ってきた盗賊の略奪や暴行も盛んにおこなわれた。その結果、京都は荒れ果て、大半が焼け野原になってしまった。
 応仁の乱は、従来の体制がくずれ、日本の社会が激しく変化するきっかけになった。室町幕府の権威はおとろえ、有名無実となった。それにともない、幕府に支えられた守護大名の権力も、しばしば家臣団に奪われた。社会全体に、身分の下のものが実力で上のものに要求を認めさせたり打ち勝ったりする、下克上(げこくじょう)と呼ばれる風潮が広がるようになった。
政府が機能せず、治安を守ってくれる警察権力も存在しなかったため、武士は勿論のこと、僧侶から庶民にいたるまで、あらゆる階層の人々が自らの命と財産を守るため武装した。法律や権力に頼らず、自分たちのことは自分たちで解決するという自力救済の思想が行きわたった。同じことは、農村でもみられ、地域の自衛のために農民は武装した。このようにして、侍でも農民でもあるような武士が多数生まれた。彼らは地侍と呼ばれた。
 この時代の人々は、一揆と呼ばれる固く結束した組織をつくって、共同で行動した。1428 年には徳政(とくせい=借金帳消し)を要求する農民一揆がおこった。山城国(京都)南部では、1485 年有力な武士を指導者に民衆が団結して守護大名を追放し、8 年にわたって自治を行った(山城の国一揆)。加賀国(石川県) では、一向宗(浄土真宗)の信徒が、固い宗教的信念に結ばれて、1488 年から100 年近く自治を行った(一向一揆)。日本にはこののち、戦国大名が出現し、互いに力を争う戦国時代に入っていった。一向一揆の指導者は、蓮如だった。その教えは 「御文」(おふみ)というわかりやすい文書につづられ、多数の信者を獲得した。京都に本願寺を再興するなど、教団隆盛の基礎を築いた。


第 3 節 中世社会と文化

28ー中世の都市と農村の変化

 中世の農業には、さまざまな技術の改良があり、生産性が高まった。米と麦の 2 毛作が普及し、牛馬耕が広まった。灌漑用に水車を利用し、刈草や牛馬のふんを肥料に使う工夫もなされた。また商品作物の栽培が盛んになり、桑、コウゾ、ウルシ、エゴマ、藍など、手工業の原料となる作物がつくられた。繊維では、麻の栽培に加えて、16 世紀になると朝鮮から伝わった綿の栽培も始まった。
 手工業では、地元の特色を生かした特産品がつくられた。京都の西陣織、博多の絹織物、美濃の和紙、灘の酒、能登の輪島塗などが有名である。また、すき、くわなど農具や刀をつくる鍛冶職人、なべ、かまなど日用品を作る鋳物職人もあらわれ、生活を向上させた。農業や手工業の発達につれ、商業も活発になった。交通の要地や寺社の門前などで定期市が始まった。産業が盛んになってくると、物資の輸送を管理する問丸(といまる)、馬に荷物を載せて運ぶ馬借(ばしゃく)、高利貸を営む土倉や酒屋などが活躍した。
 産業や交通の発達にともない、各地に商人や職人が集まって住む都市が形づくられた。日明貿易の拠点として栄えた港町の堺(大阪府)や博多(福岡県)では、富を蓄えた有力な商人の合議によって町の政治が行なわれ、自治都市としての性格を備えた。京都では、裕福な商工業者である町衆が、地域ごとに自治の仕組みをつくった。
 自治の動きは農村にもおこった。近畿地方やその周辺では、名主(みょうしゅ) や地侍などと呼ばれた有力な農民を指導者として、荘園の枠を超えた村のまとまりがうまれた。農民は、村の神社や寺などで寄合(よりあい)を開き、林野の共同利用、用水路の管理、祭りなどの行事、村の掟などを相談して決めた。こうした農民の自治組織を惣(そう)という。惣が発達すると、領主のむやみな介入をしめだし、年貢納入を惣が一括して行う地下請(じげうけ)や、犯罪捜査と裁判を惣独自に行う自検断(じけんだん)が行われるようになった。

29−鎌倉文化

 鎌倉時代には、仏教はより深く民衆に浸透していった。戦乱や災害、飢餓におびえる民衆の心を救うために、源信、空也に続く行動的な僧たちが比叡山からあらわれた。法然(1133 - 1212)は浄土宗を開き、一心に、「南無阿弥陀佛」(なむあみだぶつ)と念ずれば誰でも極楽浄土に生まれ変われると説いた。その弟子の親鸞(1173 - 1262)はさらにつきつめて、善人よりも罪の深い悪人こそ罪の深さを知るゆえに救われると説き、浄土真宗(一向宗)の基礎を築いた。時宗の一遍は念仏の札を配り、踊り念仏で諸国をめぐった。これらの新仏教はいずれも人智の小ささと仏心の大きさを知った上での他力本願の思想である。「ただ念仏を唱えて、全てを仏意にまかせよ」という教えは、修行や学問に縁の無い民衆には大きな救いだった。
日蓮(1222 - 1282)は法華経を仏教の最高の教えだとして「南無妙法蓮華経」
(なむみょうほうれんげきょう)を唱えれば、人も国家も安泰になると説いた(日蓮宗)。宋から帰国した栄西と道元は禅宗を伝えた。栄西は臨済宗を開き、いかなる凡夫にも仏性があり、それを自覚すればそれが悟りだと説いた。道元は曹洞宗を開いて、ひたすら座禅を組むことで、自力で悟りを得られると説いた。自己鍛錬を要する禅宗は武士の気風に合うため、鎌倉幕府に保護された。
武家政治を象徴する美術は、彫刻によくあらわれている。写実的で力強い造形が、運慶・快慶とその弟子たちによって生み出された。東大寺南大門の金剛力士像は隆々たる筋肉と憤怒の表情で見る者を圧倒した。興福寺にある古代インド仏教の学者無著(むちゃく)とその弟子世親の像も運慶の作とされる。重源によって宋の建築様式で再建された東大寺南大門は、高さ 25 mを超えるわが国有数の山門である。
 源平の戦いは深く民衆の心をとらえた。勝った源氏より敗れた平氏への哀惜の情が強く、平氏滅亡を描いた『平家物語』は、盲目の琵琶法師の弾き語りで広く全国で親しまれた。貴族社会では和歌がいっそう洗練され、藤原定家(1162-1241)らによって新感覚の『新古今和歌集』が編纂された。武士を捨てて諸国を遍歴した西行(1118 - 1190)や、『金塊和歌集』を編んだ 3 代将軍(1192―1219)など、異色の歌人が輩出している。随筆文学では鴨長明の『方丈記』、吉田兼好の『徒然草』が騒乱の世の無常をつづった。絵画では「平治物語絵巻」など絵巻物や似絵(にせえ)とよばれた写実的な肖像画に優れた作品が多い。

30−室町文化

 室町時代の文化は、3 代将軍足利義満が、1397 年に京都の北山に金閣を建て、8 代将軍足利義政は、京都の東山に1482 年に銀閣を建てた。室町時代の文化は、この2つの山荘が象徴する 2 つの時期に分けられる。
 金箔が光り輝く金閣は 3 層の異なる建築様式で、1 層が寝殿造り、2 層が書院 造り、3 層が仏堂様式で、それぞれ公家文化、武家文化、仏教文化をあらわし、王朝文化から武家文化への過渡期を象徴している。芸能では、観阿弥・世阿弥父子が大衆芸能であった猿楽や田楽を能として大成させた。能の合間に演じられた狂言は民衆の生活を良くあらわしていた。能・ 狂言は武家屋敷や寺社に招かれて演じられ、この時代を代表する芸能になった。この頃の文化を北山文化という。将軍義政の建てた銀閣では、王朝風の寝殿造りが姿を消し、1 層が書院造、 2 層が禅宗風の仏殿と、渋い武家風に変わった。武家の屋敷の中には、畳と襖(ふすま)、障子を取り入れた書院造や書画を鑑賞する床の間が生まれた。義政が保護した簡素な文化は、のちの時代の質素で落ち着いた侘び寂びの文化につながった。茶の湯には集団による賑やかな茶会のほか、茶室でひっそりと楽しむ侘び茶があった。禅宗の寺院では、枯山水と呼ばれる簡素な庭園が好まれた。龍安寺の石庭、苔寺とよばれた西芳寺の庭がその典型である。絵画では雪舟が水墨画を確立し、宗祇らが和歌を歌いつぐ連歌の絶頂期をむかえた。これらを
東山文化とよぶ。
 戦乱によって多くの公家や僧が地方に逃れたため、京都の文化が地方に伝えられた。同時に下野国(栃木県足利市)には足利学校が創られ、学問の中心となった。各地の寺院では武家や庶民の子供の教育が始まり、識字率がたかまりによって御伽草子(おとぎぞうし)と呼ばれる絵本がよく読まれ、浦島太郎や一寸法師などの昔話が親しまれた。
 交通や産業も発達し、庶民の生活は豊かになった。中国から持ち込んだ茶を飲む習慣が庶民の間に広がった。味噌や醤油もこの時代に普及した。住まいは、それまで寝床としてつかわれた床の間が、書や絵を飾る場所になった。年中行事として盆踊りなどが始ったのもこの時代とされる。
 鎌倉時代に生まれた浄土宗、日蓮宗、禅宗は、戦乱の無常観に打ちひしがれている庶民に広がり、のちにはそれぞれの宗派が教団として拡大した。

《補講》 一揆と合議の伝統
 一揆の始まり ・ 一揆とは、「揆を一にする(気持ちを一つにする)」という意味で、人々が共通の目的のために寄合を持ち、立場の違いを超えて、平等な資格で一致団結することをあらわす言葉です。平安時代の末、寺院の僧兵が訴訟などの共同の行動をとる時、団結を神仏に誓う為に、行動の趣旨を書いた紙を焼いて水に混ぜ、全員で回し飲みしました。これが一揆の始まりと言われます。
 鎌倉幕府と一揆 ・ 鎌倉時代、執権となった北条泰時は、1225 年、評定会議を設置し、執権をはじめ有力御家人や幕府の役人の代表によって、ものごとを決定しょうとしました。1232 年、御成敗式目を完成させ、評定会議は、この法律に基づいて裁判をおこなうことになりました。心得としては「会議で訴訟について議論をするときは、訴えた人や訴えられた人が親しいとか、好きや嫌いで判断してはならない。また、会議では、周囲の人に遠慮したり、地位の高い人を恐れたりせず、ただ道理だけにもとづいて、発言するべきである。会議の決定が結果として正しいものであろうと間違ったものであろうと、その決定は一同、全員の責任である。」
評定会議では、全員がこの文書に署名しました。これは評定衆が一致団結して公平な裁判を行うことを神仏に誓ったもので、まさしく一揆の結成でした。一揆とはこのように、正しい決定をめざしてメンバーの全員が徹底的に議論しょうととする「合議」の精神を含んだものでした。
 広がる一揆と農村の自立 ・ 応仁の乱によって幕府や守護大名の力がおとろえてくると、村の農民は、一揆を結成して、行動方針を合議し、武装して実力で自分たちの村を守ったり、支配層に対して要求を通そうとするようになりました。1428 年、近江の国(滋賀県)に始った農民の一揆は徳政(借金の帳消し)を要求し、京都の高利貸を襲撃しました。このような農民などの民衆が結束して、借金の帳消しを求める一揆を徳政一揆と呼びます。「合議」と「満場一致」を特徴とする一揆は、農民に限らず、武士・僧侶から職人に至るまでの全ての階層において、人々が社会的に行動する時の集団のあり方となりました。



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