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知っておきたい『日本の歴史』徳力啓三 連載その6
知っておきたい『日本の歴史』は、その6に入ります。第3章 近世の日本(安土桃山・江戸時代)第1節 戦国時代から天下統一へ
31‐戦国大名、32‐ヨーロッパ人の世界進出、33‐ヨーロッパ人の来航、34‐信長と秀吉の全国統一、35‐秀吉の政治と朝鮮出兵、36‐桃山文化に続いて第2節 江戸幕府の成立、37‐江戸幕府の成立、38‐朱印船貿易から特定国との交易へで字数切れになり次回に廻ります。写真は、桃山文化で検索したら面白い南蛮胴具足(東京国立博物館)が有ったのでお借りする事にした。


第3章 近世の日本(安土桃山・江戸時代)

第1節 戦国時代から天下統一へ

31―戦国大名

戦国大名の出現は、守護大名の力がおとろえ、下克上の風潮に乗って、実力のある家臣や地侍は、自らの力で守護大名を倒し、一国を支配するようになった。こうした新しい型の領主を戦国大名と言う。既に、南北朝の動乱の頃より、農村社会では、権威の衰えた幕府や守護の支配を離れ、農民の自治組織「惣」によって運営されている自立的な村「惣村」が形成された。いくつかの惣村が共通の利益のために一揆を結んだり、地元の武士「国人」を中心に結束して、自分たちの主張を通すこともしばしばあった。惣村は、境界争いなどを調停し、外敵から守ってくれる、より強い実力者を求めた。戦国大名という新しい統治者は、このような要求に応える形で登場してきた。
戦国大名は、領国内の武士を家来に組み入れ強力な家臣団を作り、他の大名との戦いに備えた。主君への反逆や謀反は機敏な行動として評価されることもあり、必ずしも不名誉とはされなかった。戦国大名の出自はさまざまで、甲斐の武田信玄は守護大名、越後の上杉謙信は守護代、安芸の毛利元就は国人から戦国大名となった。
戦国大名が、従来の幕府を背景にした守護大名と異なる点は、領国の経営の実力を備えることが求められたことである。実力が無ければ、家臣や領民に見限られ、別の実力者に首がすげかえられることもあった。戦国大名は、守りのかたい山や丘に山城を築き、一の丸、二の丸、三の丸と幾重にも守りを固め、濠をめぐらしして合戦に備えた。ふもとの平地に屋敷を構え、その周囲に家臣団や商工業者を住まわせて、城下町とした。城下町は、領国の政治、経済、文化の中心になった。また、戦国大名は、領国を豊かにするために、大規模な治水工事をし、耕地を広げて農業を盛んにした。鉱山の開発や商工業の保護、交通制度の整備などにも力をそそいだ。家臣の取りしまりや、領民の保護と支配のために、掟書などの名称で呼ばれる独自の法律「分国法」を定めた例も少なくない。戦国大名の領国支配が強まるにつれ、荘園は衰退していった。このようにして、各地で実力を養った戦国大名が勢力をのばし、互いに激しく争った約 100 年間を戦国時代という。

《資料》 主な戦国大名と分国法
相模(神奈川県)の北条氏、越前(福井県)の朝倉氏、駿河(静岡県)から三河(愛知県東部)の今川氏、越後(新潟県)の上杉氏、甲斐(山梨県)の武田氏、安芸(広島県) をはじめ中国地方一帯から九州、四国まで勢力をおよぼした毛利氏などがある。
戦国大名は、領国内の領民を治めたが、力による一方的な支配ではなかった。それぞれに分国法なる取り決めを上手に使いこなした。
例えば、甲斐の武田信玄は、「喧嘩両成敗法」という農村社会で受け継がれていた慣習法を取り入れ、領内の争いを裁定していた。また越前の朝倉氏が作った分国法には、「1 年に 3 度くらいは、有能で正直な者に申し付け、国内を巡視させ、領民の申し出を聞き、そのことを参考にして政治の改革をしていくのがよい」とした。領民の意見が領国の経営には不可欠であり、戦国大名はその声を吸収し、政治に反映させることで、よき統治者になることができた。

32− ヨーロッパ人の世界進出

中世ヨーロッパのキリスト教世界では、ローマ教皇を頂点とするカトリック教会が絶大な権力をもっていた。他方、イスラム教のアラビア人も勢力を広げ、8 世紀以降は、西アジアから地中海を経て、イベリア半島までを支配した。この時代、イスラム教諸国は学問や芸術においても、軍事力においても、キリスト教諸国よりはるかに先進国であった。しかし、イベリア半島では15 世紀末に、キリスト教徒がイスラム勢力を追い出して、スペインとポルトガルが支配するキリスト教圏に戻った。
16 世紀初め、ドイツのルターらがカトリック教会の腐敗を批判し、教会に頼らずに個人が聖書を通して神と直接向かい合うべきだとする改革運動をおこした。これを宗教改革という。彼らはプロテスタントと呼ばれた。その勃興に危機感をもったカトリック教会の内部からも改革運動がおこり、イエズス会が創立されるなど海外への布教に積極的に乗り出した。
15 世紀末から、ポルトガルとスペインは国をあげて海外進出をはかった。オスマン帝国などイスラム勢力が地中海の制海権をにぎっていたので、東方への物資の輸入ルートがはばまれていた。当時のヨーロッパでは肉料理の必需品は胡椒など香辛料が必要だった。それらをアラビア人の商人から購入しなければならなかったが、「金 1 g=胡椒 1 g」といわれるほど高価だった。領国は胡椒を直接買い付けるため、主産地インドへの新たなルートを求めた。
ポルトガルはアフリカの西海岸を南下してインドに向かう航路の発見に乗りだした。これに対してスペインはイタリア人のコロンブスを派遣して、大西洋をどこまでも西へと向かわせた。このようにしてヨーロッパ人がアジアの植民地を求める大航海時代が始まった。
1492 年、コロンブスは西インド諸島に到達した。ヨーロッパ人によるアメリカの「発見」である。彼はそこをインドと信じ込んだため、北米大陸の先住民はインディアンとよばれた。2 年後の 1494 年、ローマ教皇は大西洋を東西に分け、東半球で発見されるもの全てポルトガル王に属し、西半球で発見されるものは全てスペイン王に属すると取り決めた。これをトルデシリャス条約という。ポルトガルが派遣したバスコ・ダ・ガマは 1498 年、アフリカ南端の喜望峰を経てアフリカ東岸を北上し、インドに到達する新航路を発見した。

33 − ヨーロッパ人の来航

1543 年、シャム(現在のタイ)からポルトガル人を乗せた中国船が、暴風雨にあって、種子島(鹿児島県)に漂着した。彼らは日本に来た最初のヨーロッパ人だった。領主の種子島氏はポルトガル商人から鉄砲 2 挺を高額で買取り、刀鍛冶に研究を命じた。
種子島で鉄砲生産が研究され、やがて堺(大阪府)など各地の刀鍛冶が生産を始めると、その高い技術力によって数年の間に量産を始めた。鉄砲生産は急速に普及し、戦国大名たちが新兵器として盛んに求めた。日本はたちまち世界一の鉄砲生産国となった。さらに戦国大名が鉄砲を採用したことは戦闘の方法を大きく変え、全国統一を早める結果となった。
鉄砲伝来の 6 年後の 1549 年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着し、キリスト教の布教を開始した。その後もポルトガル人の商人と共にやってきた宣教師たちは熱心に布教し、キリスト教は西日本を中心に急速に広がった。宣教師は孤児院を作るなどして、人々の心をとらえた。戦国大名は、ポルトガル商人がもたらす珍しい舶来品を珍重した。
16 世紀末にはスペインの武装商人もアジアにあらわれ、フィリピンを征服して貿易の根拠地とした。彼らは日本では南蛮人と呼ばれ、日本に火薬・ 時計・ガラス製品などヨーロッパの品々や、中国産の生糸や絹織物をもたらした。彼らは世界有数の銀の産出国だった日本から銀を手に入れ、貨幣に鋳直してアジア各地との交易に用いた。これを南蛮貿易という。その後、日本人も南蛮貿易に乗り出し、東南アジアの各国に定住し、日本町をつくった。
南蛮貿易の利益に着目した西日本の大名たちの中には、キリスト教を保護し、自ら洗礼を受けるものもあらわれた。これをキリシタン大名という。最初のキリシタン大名となった九州の大村氏は、長崎を開港してイエズス会に寄進した。天然の良港だった長崎は、南蛮貿易と布教の拠点となって、急速に発展し、その後もヨーロッパとの窓口となった。
イエズス会はキリシタン大名の保護を受けて長崎・ 山口・ 京都などに教会(南蛮寺)を建て、キリスト教は更に広がった。1582 年、3 人のキリシタン大名が4 人の少年使節をローマ教皇のもとに送った(天正遣欧少年使節)。
少年たちは 3 年かけてローマに着き、教皇に謁見して大歓迎を受けた。それによって、ヨーロッパでは日本に対する関心が高まった。

34− 信長と秀吉の全国統一

日本人が広く国外に目を向けるようになる一方、国内では群雄割拠する有力な戦国大名が、我れ先にと京都にのぼり、朝廷の信任によって全国の統治者になろうと競い合っていた。その中で尾張(愛知県)の織田信長(1534 - 1582)が斬新な戦略と京都に近い地の利を生かして、頭角をあらわした。1560 年、駿河(静岡県)の今川義元を桶狭間で破った信長は、やがて京都にのぼると足利義昭を将軍に擁立して全国統一に乗り出した。
その後、信長は義昭と対立するようになり、1573 年、義昭を京都から追放した。ここに、室町幕府は 230 年の歴史の幕をとじた。信長は敵方の大名についた比叡山延暦寺を全山焼き討ちにし、浄土真宗の一向一揆も降伏させた。これによって、その後、仏教勢力の政治への発言力が弱まった。
信長は 1575 年、当代最強と言われた甲斐(山梨県)の武田勝頼の騎馬軍団を鉄砲隊で打ち破った(長篠の戦い)。その翌年、信長は京都に近い琵琶湖畔に壮大な安土城を築いた。信長は政治に発言する仏教勢力をおさえる一方で、万里の波濤を越えてやってきたキリシタン宣教師の勇気を称えた。
信長は、楽市楽座の政策をとって城下の商工業に自由な営業を認め、流通の妨げになる関所を廃止した。このように信長は旧来の政治勢力や社会制度を打破し、全国統一への道を切り開いた。しかし、1582 年、家臣の明智光秀の謀反にあい、京都の本能寺で自害した(本能寺の変)。
信長自害のあと、全国統一の事業を受け継いだのは豊臣秀吉(1537 - 1598) であった。備中(岡山県)高松城で対陣していた秀吉は、本能寺の変を知るや、直ちに毛利氏と和を結び、いち早く軍を引き返して、京都の天王山で明智光秀を討った。1583 年に、秀吉は信長の安土城をモデルにした壮大な大阪城の築城に着手し、全国を統治しょうとする意志を世にしめした。
1585 年には秀吉は関白に任ぜられ、その翌年には、朝廷より「豊臣」の姓を賜った。秀吉は天皇の名により全国の大名に、停戦して秀吉に服属することを命令し、(惣無事令)諸大名を次々と平定していった。1590 年、秀吉に歯向かう大名がいなくなって戦火は止み、秀吉の全国統一事業は完成した。翌年、関白を養子秀次に譲り、太閤となった。

《資料》 秀吉の天下統一は 8 年間
秀吉の天下統一は僅か 8 年の間に成し遂げられた。1582 年毛利氏との和睦、同年山崎の合戦で明智光秀を破る。1584 年小牧 ・ 長久手の戦いで徳川家康と決着がつかず和睦。1585 年四国の長宗我部元親を平定。1587 年には九州の島津義久を平定した。1590 年には小田原の北条氏政を攻め滅ぼし、同年、最後に奥州の伊達政宗を平定した。

35 −秀吉の政治と朝鮮出兵

秀吉は、1582 年から各大名に命じて米の収穫高を正確に調べさせ、土地の等級と石高を示す検地帳を作成した。これを太閤検地という。検地によって荘園領主だった中央貴族などの権利は奪われ、荘園制度は崩壊した。農民は土地私有権を認められるかわりに、その領主たる大名に年貢をおさめることとなった。1558 年、秀吉は刀狩令を発して農民や寺院から刀 ・ 弓・槍・鉄砲などを没収した。農民が耕作に専念することによって、子々孫々の安泰を保障し、領内の自衛 ・ 治安と国防は武士の役割とした(兵農分離)。
秀吉はキリスト教の保護者であったが、1587 年、突如としてバテレン追放令を発し、キリシタンの禁教政策に転換した。しかし、貿易による利益を重視して、南蛮商人の入港は引き続き認めたため、禁教政策は不徹底なものになり、バテレンの追放も実現しなかった。秀吉は庶民の信仰までは禁じなかったので、キリシタン信徒はその後も増え続けた。
フィリピンを拠点にしていたスペインの宣教師たちは、キリスト教を広める為、南アメリカやアジアとおなじように、武力によって中国や日本を征服する計画を立てていたといわれる。
全国を統一した秀吉は明国を征服して都を移し、インドまでも支配するという壮大な野望を抱いた。1592 年 15 万人の大軍を朝鮮に送った(朝鮮出兵)。加藤清正や小西行長などの武将にひきいられた秀吉の軍勢は、たちまち首都の漢城(現在のソウル)を落とし、朝鮮北部にまで進んだ。しかし、朝鮮側の李舜臣が率いる水軍の活躍、明国からの援軍などで敗勢となり、明国との和平交渉のために兵を引いた(文禄の役)。
1597 年、明国との交渉が決裂し、秀吉は再び約 14 万人の大軍を派遣した。明国の反撃で、今度は朝鮮南部から先に進むことができず、翌年、秀吉が死去したため撤兵した(慶長の役)。2 度にわたる戦いによって、朝鮮の国土や人々の生活は荒廃した。また、この出兵に莫大な費用と兵力を費やした豊臣家の支配はゆらいだ。このとき徳川家康は、朝鮮出兵には賛成し、九州まで出陣したが、渡海しなかった。

《資料》 秀吉のバテレン追放令(1587 年)
朝鮮出兵のために博多に来ていた秀吉は、随行の僧侶たちよりバテレンやキリシタン大名の所業についての訴えを聞き、平戸より訪ねてきた宣教師コエリョに使者を送り、次のような詰問をした。
1 −なぜ領民を強引に改宗させるのか、 2 −なぜ神社仏閣を破壊するのか、3 −なぜ牛馬の肉を食うのか、4 −なぜポルトガル人は多くの日本人を奴隷として買って連れ帰るのか。
コエリョは、秀吉を納得させる答えを出せませんでした。秀吉は側近の大名達のまえで、これまでのキリシタン保護の姿勢を一転して「バテレンの説く掟は悪魔のものだ。一切の善を破壊するものだ」と激しく批判し、「バテレン追放令」を布告しました。一向一揆のような権力に反抗する宗教勢力の台頭を恐れていたからである。

《資料》 秀吉の刀狩令(1588 年)
1 −各地の百姓が刀・弓・槍・鉄砲その他の武器をもつことをかたく禁ずる。そのわけは百姓が武器を持っていると、年貢や税を出ししぶり、おのずと一揆をくわだてたりする。また大名から土地を与えられている家臣といざこざが起き、処罰されるとその土地の生産がなくなる。そこで、大名や代官は、以上のような武器を全て集め、差し出しなさい。
1―取り集めた刀や短刀などは無駄にせず、京都の方広寺の建築用の釘やかすがいに使う。そうすれば、現世はもちろんあの世まで、百姓が助かることになる。 1―百姓は、農具だけ持ちひたすら農業に励め。そうすれば子孫の末まで長く暮らしを保つことができる。国内がやすらかとなり、人々が幸せになる。


《補講》 宣教師の見た日本人(1588 年)

16 世紀、日本へやってきたキリスト教の宣教師たちの目には、日本人はどのように映ったのでしょうか。極東の島国に住む日本人に「文明化した誇り高き民族」を見出しました。何よりも下層の日本人でさえ、盗みがないこと、読み書きが出来ることに強い印象をうけたようです。
神父ザビエルは、ゴア(インド)に送った書簡にこう書いています。「日本人は私が遭遇した国民の中で最も傑出している。異教徒の中で日本人にまさるものはあるまいと考える。彼らは相対的に良い素質を有し、悪意がなく、交わってすこぶる感じがよい。」「日本人はたいてい貧乏である。しかし武士たると平民たるを問わず貧乏を恥辱と思っている者はひとりもいない」
布教長トルレスは、日本人の暮らしについて以下のように書いています。「この国の豊かさはスペイン、フランス、イタリアをしのいでいる。キリスト教国にある一切のものが、この国にはある。彼らの長所を数えてゆけば、紙とインクが足りなくなります。」
オルガンチーノ神父は、日本人を知るにつれ、更に高い評価をしています。「私達ヨーロッパ人は互いに賢明に見えるが、日本人と比較すると、はなはだ野蛮であると思う。私は本当のところ、毎日日本人から教えられていることを白状します。私には全世界でこれほど天賦の才能を持つ国民はないと思います」
日本史を書き残したフロイス神父は、日本と西洋はまったく正反対である点を列挙し「日本人は罪人を処罰するのに平然と斬首するのに、家畜を殺すと仰天する」と首をかしげています。彼らにとって日本は矢張り「不思議の国」であり、「不思議な民族」だったのです。

36 ― 桃山文化

戦国時代を実力で勝ち抜いた戦国大名たちは、その権勢を誇るように雄大な文化を生んだ。これらの文化は信長の安土城と秀吉の伏見城(桃山城)にちなんで安土桃山文化、または単に桃山文化とよび、信長 ・ 秀吉が活躍した時代を安土桃山時代とよぶ。
信長、秀吉らが築いた城には壮麗な天守閣があった。天守閣は司令塔 ・ 展望台とされるが、権勢を象徴する装飾の性格が強い。信長の安土城の内装は金箔がほどこされ、「殿中ことごとく金なり」と称えられた。金箔の地に濃彩の絢爛豪華な襖絵や屏風絵を描いたのは狩野永徳ら狩野派の絵師たちであった。秀吉が建てた大阪城の障壁画も彼らの作品である。
堺の茶人で茶の湯を完成した千利休は、こうした華美な趣味に背をむけるように、狭い茶室で静かにたしなむ侘び茶を始めた。茶室の内装はすべて土壁で、床の間には竹の花入れをかけ、茶碗は京都の楽焼を好んだ。利休の確立した茶道は日本人の間に「侘び」という美意識をはぐくんだ。また、室町時代に生まれた華道は、初代池坊専好によってこの時期に完成された。
庶民の間にもこの世を楽しむ風潮が広まった。小唄が流行し、三味線の伴奏で浄瑠璃がうたわれ、これにあわせて人形浄瑠璃が生まれた。出雲大社の巫女としょうする出雲の阿国が始めたかぶき踊りは、江戸期に確立する歌舞伎の源流となった。衣服は活動的な小袖が一般的になり、麻にかわって木綿の衣料が普及し始めた。木綿は着心地がさっぱりして丈夫な上、色柄を染められるという特性があった。
南蛮貿易や宣教師の布教活動が盛んになって、天文学・医学・航海術が日本に伝わり、活版印刷によって『聖書』や『イソップ物語』などが出版された。南蛮人や南蛮風俗をテーマにした屏風絵が描かれ、衣服・工芸・食文化にも南蛮趣味が広がった。南米原産のタバコの移入によって喫煙の風習も始まり、トランプ遊びも広まった。このほか、カステラ、パン、マント、ジュバンなどさまざまな分野で南蛮語が新しい日本語となった。こうして西洋人が日本に伝えた異国の情緒ある文化を南蛮文化とよぶ。南蛮貿易で巨利を得た豪商が堺や博多などにあらわれ、南蛮文化を支え、広げた。その一部が日本社会に定着し、中国やインドのさらに向こうに広大な異文化があることを知らせた。それによって日本人は世界の見方を広げた。


第 2 節 江戸幕府の成立

37―江戸幕府の成立

豊臣秀吉の次に最大の実力者になったのは徳川家康(1542 - 1616)であった。秀吉は大阪の近くに家康のような実力者がいることを警戒して、家康の所領を本拠地の三河地方から関東に移した。家康は、辺境の地の江戸を開拓して町づくりを進め、実力をたくわえた。秀吉の死後、家康は多くの有力武将を味方につけて 1600 年、秀吉の重臣だった石田三成を中心とした西国の対抗勢力を「天下分け目の決戦」となった関ガ原の戦いで破った。
1603 年、家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開いた。1615 年の夏、豊臣秀吉の遺児秀頼を大阪城に攻め滅ぼし(大阪夏の陣)、全国支配を完成させた。徳川氏が将軍として 15 代にわたって統治し、大規模な戦乱のなかった約 260 年間を江戸時代という。
将軍直轄の天領と旗本の知行地を合わせると約 700 万石で、幕府は全国石高の四分の一を支配地とした。また、幕府は外交と貨幣の鋳造の権限を独占した。幕府の仕組みは、3 代将軍徳川家光の頃には、役職制度が整い、将軍の独断専行を慎み、評定と呼ばれる合議での意見を尊重した政治を行った。
大名は将軍より 1 万石以上の領地を与えられた武将をさし、将軍と主従関係を結んだ。幕府は全国に 260 あまりの大名を、徳川一族の親藩、昔から譜代の家臣である譜代大名、幕府が出来た後に徳川に臣従した外様大名の3 つに分け、幕府に反抗しにくいように配置した。
1615 年には武家諸法度(ぶけしょはっと)を定め、許可なくお城を改築したり、大船を建造したり、大名同士の無断婚姻などを禁じた。大名に不始末があれば、領地没収や国替を行い、1 年ごとに領地と江戸を往復する参勤交代の制度を定めた。大名が国許にいる間は、妻子は江戸屋敷に置いて人質にするなど巧みに統制した。将軍は江戸城の改築・修理や全国の河川の工事などを命じ、多大な負担を与えることで、財政力を殺ぐこともあった。が、日常の領地経営は、それぞれの大名に任せた。こうして、大名は領地と領民を自由に治めることにより、それぞれの地域で地方色豊かな文化が育った。


徳川家康は、貿易を奨励し、西日本の大名や長崎・堺の大商人などの貿易船に朱印状を与えて、海賊船ではないことを保証した。朱印船は安南(ベトナム)、ルソン(フィリピン)、シャム(タイ)など東南アジア各地に出かけて、活発な活動を展開した。現地に住みついた日本人による日本町の人口は、合わせて 1 万人におよんだ。大阪の陣に破れて亡命した浪人などもおり、その中には山田長政のようにシャムの国王から高い官位を与えられたものもいた。
家康はキリシタン禁教よりも南蛮貿易の利益を優先したため、キリスト教の信者は増えていった。幕府はこれを脅威と感じ始め、その対策に苦慮した。遅れてアジア貿易に参入したオランダとイギリスは「スペインとポルトガルは日本を征服しょうとしているが、我々プロテスタントは交易だけで、布教はしない」と弁明して、日本との貿易に食い込んできた。
幕府は 1612 年からキリスト教禁止令を 3 回発令し、スペインとポルトガルの来航を禁止した。1635 年には、日本人の海外への渡航も帰国も全て禁止して統制を強化した。
1637 年、九州の島原と天草地方で農民とキリスト教信徒の百姓など約 4 万人が、キリシタン大名だった小西行長の遺臣らとともに一揆をおこした。島原藩主・松倉勝家の重税と過酷なキリシタン弾圧に抗議する人々は、15 歳の天草四郎を総大将に立てて決起した。これを島原の乱という。激しい抵抗に手を焼いた幕府は翌年、約 12 万人の大軍を送り 3 カ月かけてようやく鎮圧した。
島原の乱のあと、幕府はキリスト教の弾圧を強化した。全住民を寺の宗門改帳に登録させ寺請状(キリスト教徒でないことを証明するもの)を出させた。これが今に残る檀家制度の始まりとなった。また、キリスト教徒でない証しとして踏み絵を使った。
1639 年、徳川家光は 5 回目の禁令をだし、オランダと中国以外の外国船の入港を禁じた。更に 1641 年オランダ商館を平戸から長崎の出島に移して封じ込めた。対オランダ・ 中国以外との貿易と出入国を厳しく制限するこの制度は、のちに鎖国とよばれた。

《資料》 鎖国とは
鎖国は、完全に国を閉ざした制度ではなく、その狙いはキリスト教の影響を排除し、幕府が貿易と海外情報を独占することにあった。鎖国という言葉は、長崎の外国語通訳が使ったのが始めで、明治以降歴史用語として定着した。徳川時代は、スペインとポルトガルと断交しただけで、国を閉ざすという意図はなかった。




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