知っておきたい『日本の歴史』徳力啓三 その8
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知っておきたい『日本の歴史』その8は、第4節 幕府政治の展開、44−幕府の政治改革、45−化政文化、46−幕府政治の動揺と続き、新しく第4章 近代の日本と世界(T)に入ります。第1節欧米諸国のアジア進出、47−市民革命と産業革命、48−欧米列強のアジア進出、第2節 開国から明治維新へ、49−ペリーの来航と開国、50−尊王攘夷運動の展開、51‐薩長同盟と王政復古、52‐明治新政府、53‐廃藩置県と四民平等、54−学制・兵制・税制の3大改革までで字数が9800字に達し旨く掲載出来るか?心配。写真は、上野のお山の西郷ドンです。 |
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第 4 節 幕府政治の展開
44―幕府の政治改革
18 世紀に入ると、年貢米に依存する幕府財政は、米価に左右されて絶えず不足がちで、旗本・御家人への俸禄も事欠くようになった。1716 年、第 8 代将軍徳川吉宗は「世直し」を唱え、率先して粗衣粗食を実行して、家臣や町人に倹約令を出した。諸大名には石高の 100 分の 1 の米を幕府に上納させる「上米の令」を発した。更に新田開発を進め、米の増収に努めた。百姓には作柄にかかわらず5公5 民の年貢を義務づけて幕府の財政立て直しに成果をあげたが、百姓の負担は増えた。1732 年の大飢饉では、西日本中心に一揆と打ちこわしがおこった。
吉宗は目安箱をもうけて庶民の意見を吸い上げ、町奉行に大岡越前守を抜擢し、改革にあたらせた。大岡の進言で、公事方御定書(くじかたおさだめがき) をつくって裁きを公平にし、貧民のために小石川養生所をもうけ、町火消し「いろは四十八組」を組織した。これら将軍吉宗の新しい政治を享保の改革という。
幕府の緊縮政策はしばしば景気の停滞をまねいた。1772 年吉宗の引退の後、老中に取り立てられた田沼意次(1719 - 88)は、商業・流通の活性化によって財政を豊かにしようと考えた。田沼は商人組織の株仲間を公認し、彼らの利益の独占を認める変わりに多額の運上金(営業税)を徴収した。新田を増やすため、印旛沼(千葉県)の干拓に商人の資金を出させた。また、蝦夷地(北海道) を開発し、海産物の流通ルートを開いた。殖産興業に先見性があった。
1783 年、浅間山が大噴火した。そのため天候不順による大飢饉が発生し、
100 万人近い餓死者が出た(天明の大飢餓)。各地で一揆がおこり、田沼は権力争いの中で老中をやめさせられた。田沼が政治の中心にいた約 20 年間を田沼時代という。この時期に青木昆陽(1698 - 1769)や上杉鷹山(1751 - 1822)のように、さまざまな改革を行った人々もいた。
1787 年、第 11 代将軍家斉のとき、幕府は白河藩主松平定信を老中首座に任命した。定信は凶作や飢餓に備えて農村に備蓄米制度を定めた。一方、都市に流れ込んだ百姓に資金を与えて帰村させ、農村の復興に努めた。更に借金苦の旗本や御家人を救うため、商人からの借金を帳消しにさせた。その代り武士には倹約を徹底させ、学問・教養・武術を奨励した。昌平坂学問所を幕府直轄として朱子学を学ばせ、それ以外を異端の学とした。こうした 6 年間にわたる定信の政治を寛政の改革という。
45−化政文化
江戸時代の文化の盛衰は幕府の経済政策と密接なかかわりがあった。寛政の改革と 19 世紀前半の天宝の改革では財政再建のため、幕府が緊縮財政をとり倹約を奨励したので経済が勢いを失った。しかし2 回の改革にはさまれた文化・文政の 25 年間は緊縮政策がゆるみ、経済の活性化にともない町人文化が花開いた。これを化政文化という。その文化の中心は巨大な消費都市の江戸であった。
俳諧では与謝蕪村が自然を詠み、小林一茶は田園の暮らしを詠んだ。町人の間では、川柳や狂歌が流行った。草双紙という挿絵入りの本がはやり、十辺舎一九の『東海道中膝栗毛』など滑稽本が好まれた。滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』などの読本もよく読まれた。また子供向けの「赤本」も好まれた。このような大衆文芸の広がりが貸本屋をはやらせ、19 世紀の初めの江戸には 600 軒以上の貸本屋があり、貧しくても本に親しむ時代が来ていた。また、今日の新聞にあたる瓦版もあらわれ、市中で起きた事件や天変地異を知らせた。人々はあくせくすることなく、落語や人形浄瑠璃、歌舞伎、相撲を楽しんだ。観光旅行をかねた伊勢詣でや四国八十八か所巡礼がさかんになり、旅の道中で見聞した様々な情報が全国に広がるきっかけとなった。
浮世絵は 19 世紀後半、ゴッホらフランス印象派の画家たちに大きな影響を与えた。庶民に人気の高かった浮世絵に対し、武士や教養のある町人に好まれたのは、丸山応挙らの文人画で、渋く静かな水墨画であった。絵画では、多色刷りの版画技術が発達し、浮世絵の黄金時代となった。中でも喜多川歌麿の美人画や東洲斎写楽の役者絵は庶民にうけた。葛城北斎の『富嶽三十六景』など風景画や歌川広重の「東海道五十三次」など雄大な風景画で名をなした。
《補講》 町人が育てた大衆芸能―歌舞伎の大発展
江戸時代の初期、京都の四条川原で出雲阿国(いずものおくに)のかぶき踊りが上演、人気をよんでいました。やがて阿国の踊りを真似た踊りを見せる芝居小屋がぞくぞくと生まれました。河川敷に建てられた屋根もない粗末なものでしたが、これが現代まで続く歌舞伎の基となりました。これが大阪の道頓堀、江戸の京橋河原でも流行るようになりました。町人たちは、活力あふれる踊りに魅せられ、芝居小屋は大繁盛しました。やがて歌舞伎は、市中の芝居小屋へ進出するまでになりました。 歌舞伎は町人に支持され、幕府が取り締まりを強化しても、どんどん大きくなり、江戸、大阪、京都では、常設館まで出来ました。風紀の乱れを畏れた幕府は、女役も男優が演じることを条件に、上演を認めました。それが今日の歌舞伎の伝統となっています
歌舞伎が成功したのは、近松門左衛門や鶴見南北らの台本作家と歌舞伎の名優たちの創意工夫のたまものでした。江戸の演目には舞台を踏みとどろかす所作と大見得をきる荒事とよばれる芸があり、関西では和事といわれる人情話しをしっとりと演じお客の心を掴んだそうです。常設館には観客席も出来、花道、廻り舞台、引幕などの工夫がこらされました。人気役者は人々の憧れの的となり、役者絵が飛ぶように売れました。能楽は武士階級によって保護されましたが、歌舞伎は町人たちが幕府の取り締まりにも屈せず育てた大衆芸能だったのです。
《補講》 百万都市・江戸はエコロジーの町でした
江戸は、徳川家康が幕府を開いた頃、15 万人ほどの人口でした。120 年後の 1730 年ごろには、100 万人を超えていました。当時のヨーロッパで最大の都市、フランスのパリが 54 万人といわれておりましたので、江戸が世界一の大都市であったのです。これだけの住民が暮らすための衣・食・住はどうしていたのでしょう。江戸の町は、膨大な人口を養うために、資源を無駄にしない合理的な都市機能を備えていたのです。
上水道は、家康の時代に井の頭池を水源とする水道敷設を命じ、これがのちに神田浄水とよばれた水道で、多摩川から引いた玉川浄水と合わせると総延長 150km の水道網となりました。ロンドンで 30 年遅れで 30km の上水道、パリで上水道ができたのは 19 世紀末であったのです。江戸の下水道は未発達でしたが、糞尿は農家が肥料として買取り、お金か作物で支払いました。民家には大小便が分かれたト イレがあり、品質ごとに単価が違いました。肥料分の多いものには高く、肥料分の 少ないものは安い。汲み取り権を決める制度があり、騒動が起こらないようになっ ていました。江戸市中のゴミは定期的に集められ、船ではこばれ、江戸湾の埋め立 てに使われました。紙くず、鍋釜包丁なども回収され、修理して再利用していまし た。衣類は貴重品で何度でも仕立てなおされました。古着商が日本橋や神田川べり に軒を連ねて繁盛し、その組合には、行商人も含めて1100 人もが加盟していました。 江戸時代の江戸の町は、このような高度に発達したリサイクルを含むエコロジー 社会となっていました。どんな不作の時でも、米の値段は 2 倍を超えず、そば代も銭湯代も 200 年にわたって据え置きという安定した社会が続いたのです。
46―幕府政治の動揺
18 世紀の末ごろから、日本列島の海域に欧米諸国の船が出没するようになった。1800 年ごろまでに目撃された外国船の数は 10 隻未満、1840 年までの 40 年間で 30 隻程度であった。1792 年、ついで 1804 年にロシアが、幕府に通商を求めてきた。幕府は、鎖国を理由に拒否すると、樺太を襲撃した。1808 年にはイギリスの船が長崎港に侵入し、日本人をおどろかせた。その後、1825 年に、幕府は異国船打ち払い令を出した。1837 年天保の大飢饉で、多くの死者を出した大阪では、陽明学者大塩平八郎(1793 - 1837)が豪商を襲い、金品を強奪、貧しい人々に分け与えた。が暴動は一日でおわり、大塩は自害した(大塩平八郎の乱)。
1841 年老中の水野忠邦(1794 - 1851)は、農村の再建と商業の抑制に取り組んだ。物価の高騰をさける為に株仲間の解散を命じ、倹約令をだした。歌舞伎や大衆向けの文芸を取締まった。この急激な改革を天保の改革という。しかし武家や民衆の反発をかい、幕府の権威はいよいよ傾いた。
1840 年以降 20 年の間に外国船の日本への接近は盛んになり、88 隻を数えた。欧米諸国の接近を感じて、『開国兵談』をあらわした林子平は海防論を展開した。
水戸藩の相沢正志斎は結束して外国と戦う姿勢を示すように説いた。反対に幕府の「異国船打払い令』を批判した高野長英は投獄され、渡邉崋山も幽閉された。
一方、国防への関心が高まるととともに。日本周辺地域の探検も進んだ。間宮林蔵は幕府の命を受け、蝦夷地(北海道)から樺太にかけて踏査し、樺太が島であることを明らかにした。
《補講》 浮世絵とジャポニズム・フランスで花開いた江戸の文化
浮世絵と日本ブーム ・ 1878 年(明治 10 年)、パリ万国博覧会が開かれました。そこで浮世絵が紹介されると、空前の日本ブームが巻き起こりました。印象派の画家たちは、浮世絵の明るい色彩や大胆な構図や線描に魅了され、熱心に模写しました。モネは自宅に池や太鼓橋を作り、水面の睡蓮や生い茂る草花を描きました。
浮世絵の影響は、表面的な日本趣味や技法だけにとどまりません。印象派は観念的だった宗教画を否定し、人々の生活や自然の中に美を見出さそうとしました。ありのままの人間の姿を題材にした浮世絵が、大きな影響をあたえたのです。このように、日本の芸術が西洋に与えた影響をジャポニズムと言います。ジャポニズムはその後も、ポスターやガラス工芸など、西洋美術の多様な分野におよびました。
ゴッホは弟テオドールにあてた手紙にこう書いています。「印象派の画家たちはみな日本の絵を愛し、影響を受けている。私達はフランスの日本人だ」。ゴッホは、歌川広重の描いた「亀戸梅屋敷」を模写した梅の木の絵を遺しています。彼は本当に日本の浮世絵が好きになり、色々な点で影響を受けたのです。
明治の日本人は、身近にある浮世絵の価値を知らず、輸出する陶磁器の包み紙として、海を渡ったものもありました。パリ画壇に強い衝撃を与えたのは、陶磁器よりもその包み紙だったのです。西洋美術を必死に学んでいた明治の日本人は、自国の伝統美術の価値を西洋人の目で再発見したのでした。
第4章 近代の日本と世界(T)
第1節 欧米諸国のアジア進出
47―市民革命と産業革命
1688 年、英国では名誉革命(市民革命ともいう)が起こり、17 世紀後半より100 年間政治と宗教の間で争いが続いた。国王と議会の間で話がつき無血革命が成功、イギリス王は亡命、新しくオランダから王を迎え、イギリスでは立憲君主制の議会政治となった。
1776 年、アメリカはイギリスより独立、独立宣言をだした。合衆国憲法が作られ、三権分立の国家が生まれた。
1789 年、フランスでは自由・平等をうたった人権宣言を発表した。近代国民国家が出来たが、王族は殺され、70 万人の国民が殺された。これを市民革命とよぶ。
18 世紀後半イギリスでは産業革命が起こり、綿糸、綿織物産業が栄えた。インドより綿を輸入し、綿糸や綿布を大量に輸出した。19 世紀に入ると、蒸気機関を発明、フランス、ドイツ、アメリカも発展した。そして市民革命+産業革命で国力を増した白人国家が勢いを増し、アジア・アフリカ諸国を次々に植民地化していった。白人主義が世界を制覇していった。
48―欧米列強のアジア進出
1840 年〜 1842 年、当時の西欧によるアジアの植民地化がすすんだ。イギリスはインド、ビルマ、ネパール、ブータン、セイロンを征服し、植民地化を進めた。イギリスはインドを完全に制圧し、インドで生産された綿をイギリスに運び、綿製品にしてインドに高く売りつけた。インドの綿産業は壊滅し、インド国民は叛乱をこころみたが、軍事力ではイギリスに勝てず、政治も経済も産業までイギリスに制圧された。
フランスはインドシナ 3 国(ベトナム、ラオス、ミャンマー)をとり、スペインは南シナ海とフィリピン、オランダはチィモールを征服した。
1840 年英国はインドで生産されたアヘンを清国に売りこみ、清国産のお茶をイギリスへ運び、イギリスからは綿製品をインドや清国に輸出し、莫大な利益をあげた。
1842 年、イギリスと清国の間でアヘン戦争がおこった。その戦争に負けた清国は、南京条約を結ばされ、多額の賠償金をとられた。その上、香港・上海・マカオを割譲させられ、更に不平等条約を結ばされ、結果的には欧州各国の半植民地の状態におかれるようになっていった。この情報は日本にもたらされ、大きな衝撃を与えた。
第 2 節 開国から明治維新へ
49―ペリーの来航と開国
1853 年、アメリカのペリー提督が 4 隻の巨大な軍艦(黒船)を率いて浦賀沖に来て、日本に開港を迫った。徳川幕府は、10 年前のイギリス対清国の戦争の悲惨な結果を知っており、維新の志士たちも欧米諸国によるアジアの国々の征服、奴隷化をすすめるあくどい植民地化の惨状を見聞していた。
ペリー提督の 1 回目の日本訪問の目的は、捕鯨船への燃料と食糧の補給を受けるためであった。翌年黒船 4 隻で再び浦賀に来て、徳川幕府に開国を迫る。同年 5 月、老中阿部正弘は開国を許し、日米親和条約を結び、下田と函館の二つの港を開港した。朝廷側は、それを不許可としたため、国論は攘夷派と開国派に分かれ、朝廷側と幕府側との紛争のもととなった。
50−尊王攘夷運動の展開
1858 年、幕府は朝廷の許可がないまま、アメリカと通商条約を締結した。そして五つの港を外国船に対して開いた。国内では一挙に攘夷運動が活発化し、日本国内が二分され、大騒動となった。
1862 年、薩摩藩内でイギリス人殺傷事件がおこり、1863 年薩英戦争がおこった。同じ年に、長州藩が 5 カ国の外国籍の船 19 艘に砲撃を加えた(下関戦争)。幕府は攘夷運動を抑えるため長州藩をとがめ、出兵準備にはいった。それに反発して、尊王攘夷派の諸藩が行動を起こした。薩長土藩の下級武士団は、その経験から開国して西洋の文化を取り入れ、軍事力を強化しないと、西欧諸国に負け、植民地化されることを恐れた。
51―薩長同盟と王政復古
1863 年、幕府側は攘夷派を朝廷より追放し、会津や薩摩藩らと新体制をつくり、長州征伐に向かった。薩摩藩は京都で勢力を広げ、長州藩は落ち目となったが、薩摩の西郷や大久保が実力で幕府に対抗するようになった。
1866 年、土佐藩の坂本竜馬が薩長の仲を取り持ち、「薩長同盟」を結成、統一国家構想を打ち出す。力をあわせた攘夷運動派が力を増し、錦の御旗を掲げた討伐軍が優勢となり、幕府を倒そうと立ち上った。同じ年、第 14 代将軍が死去し、徳川慶喜(1837 - 1913)が 15 代将軍となった。朝廷では、幕府に好意的であった孝明天皇が崩御され、14 歳の明治天皇が即位された。翌 1867 年、将軍・慶喜は大政奉還(たいせいほうかん)を決断、朝廷派が益々勢いを増した。1868 年幕府は崩壊、明治天皇の王政復古が実現した。
当時活躍した歴史上の人物を列記する。
吉田松陰(1830 - 1859) 29 歳 坂本竜馬(1835 - 1867) 32 歳 高杉晋作(1839 - 1867) 28 歳 木戸孝充(桂小五郎 1833 - 1877)44歳 大久保利通(1830 - 1878) 48 歳 西郷隆盛(1827 - 1877) 50 歳
52―明治新政府
徳川幕府を倒さんとする討伐軍(官軍)と旧幕府軍との戦いは一年半にわたって日本各地・京都、東京、会津、函館で行われた。これらの戦いを戊辰戦争と総称する。戊辰戦争は新政府軍(公家+薩摩+長州を中心とした討伐軍)対幕府軍(徳川幕府+譜代大名)の戦いであった。京都の鳥羽伏見の戦いは、西郷率いる新政府軍は錦の御旗をかかげ、天皇の軍隊として幕府軍を圧倒した。ついで江戸(今の東京)での上野戦争は、江戸城の無血開場の後、旧幕臣が上野の山に立てこもり政府軍に抵抗した。次いで会津で行われた会津戦争は、旧幕府軍の会津藩が地元に帰り、幕府軍最後の抵抗をこころみた。さらに幕府の水軍が、北海道は函館に逃げた上、五稜郭に陣を張り、旧幕府水軍が立て籠もった戦争で、旧幕府軍の抵抗はこれで最後となった。
新政府軍は、旧勢力を一掃し、幕末から明治にかけた明治維新を達成し、明治政府は日本の近代国家への建設を始めた。1868年3 月、明治天皇は公家・諸侯らと共に、「5 カ条のご誓文」を作り、神に誓約するという形で新政府の出発とした。これが西洋文明をとりいれ、近代的な立憲国家を発展させる基礎となった。同年9月、元号を「明治」と改元し、江戸は「東京」と改称され、新首都となった。天皇は翌年、京都御所より東京の皇居(旧江戸城)へと移られた。
《資料》 5カ条のご誓文
@広く会議を興し 万事公論に決すべし
A上下心を一にして 盛んに経綸を行うべし
B官武一途庶民に至るまで各々その志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す
C旧来の陋習を破り 天地の公道に基くべし
D知識を世界に求め 大いに皇基を振起すべし
このご誓文は、明治天皇が明治元年(1868年3月 14 日)に神前に誓った維新政府の国是。由利公正(1829 - 1909)が起草し、木戸孝允と福岡孝弟(たかちか 1835- 1919)が修正を加えたもので、のちに立憲思想の源をなすものと言われた。
53―廃藩置県と四民平等
版籍奉還・1869 年になって、明治維新をすすめた薩摩、長州、土佐、肥前(佐賀・長崎県)の 4 藩の藩主が天皇に対して領地、領民の返還を願い出た。それで、他の藩主たちもそれに見習い領地、領民を天皇に返した。これを版籍奉還という。藩主はもとのままで、軍事と徴税は実質的に各藩にのこされた。
1871 年太政官制を改組して閣議制となり、太政大臣、右大臣、参議からなる閣議が指導力を発揮できるようになった。これが今の内閣制の元となった。新政府直属の軍隊を創設し、薩長土の武士 1 万人を御親兵(天皇親衛隊)とした。皇居に元藩主を呼び、天皇の名で廃藩置県を宣した。これによる混乱はなく、新政府は、はじめて安定した姿となった。藩主に代わる「県令」(後の県知事) が新政府より派遣された。このようにして中央集権国家の骨格が出来上がり、軍事と政治全体の権限を新政府が握った。当時の人口は 3313 万人。皇族華族が0.01%、僧侶0.9%、士族5.49%、平民93.5%であった。今までの制度を廃止し、華族(藩主と公家)を除き四民平等の思想のもと全員が平民という身分になった。平民には苗字を与え、職業の自由な選択、結婚の自由、住居・旅行の自由化が実現した。1871 年には 3 府 302 県が半年後には3府 72 県に統合され、1888 年にはほぼ現在の区分に整った。
54−学制・兵制・税制の3大改革
1872 年、近代国家建設の基盤は、就学、兵役、納税の 3 つにありとして、国民の義務を明示し、それに対する政府の方針を明らかにした。
学制は、全ての国民は教育をうけ、国家発展のため各人が自立することが大切であるとした。1867 年に全国に約 1 万 5000 あった寺子屋は、10 年後には学校制に組み込まれ、その時点で学校の数は 2 万 6000 校となっていた。識字率は 1873 年で 30%であったが、1883 年で 50%、1893 年で 60%、1900 年には80%に達し 1903 年には 93%、1912 年にはほぼ 100%となった。
1873 年に徴兵令が公布され、全国 6 カ所に陸軍の師団がつくられた。国民皆兵制度で、男子は 20 才になると徴兵されることになった。武士の特権を平民へ渡したことになるが、平民には人手をとられると不評であった。
1871 年、地租の改正もおこなわれた。農民は田畑に何を植えてもよいとし、土地の売買も認めると宣言した。更に政府は、全国の地価を定め、土地所有者を確定して、彼らに地券を公布した。1873 年には、地租として地価の 3.0%を貨幣で納める制度が発表された。これで政府は全国一律に税を徴収するシステムが出来、安定した歳入を政府にもたらした。我が国は近代国家として歩んでいくための財政基盤を固めることができた。
《補講》 明治維新とは何か
一国の統治者たちが、自らのその身分を廃止して、新しい国家をつくった 世界に例のない改革は、なぜ実現できたのか
欧米の列国は、1800 年には地球の陸地の約 35%を支配していました。第 1 次世界大戦が始まった 1914 年には、その支配圏は約 84%に達していました。日本はその中で欧米列強の植民地化をまぬがれていました。明治維新は、まさにその時、日本で起こったのです。
もし、明治維新で中央集権国家ができていなかったら、日本は欧米列強の支配化に組み入れられていたでしょう。このような欧米による領土拡大政策は、帝国主義とよばれています。日本が独立を維持し、大国の仲間入りを果たすまでの歴史は、こうした世界的な帝国主義の時代の流れの中で起こったのです
我が国が新しい時代に対応する政治体制が比較的早くすることができたのはなぜでしょう。その大きな要因のひとつは、江戸時代の日本の政治にあったのです。当時は武家政治の時代であり、江戸幕府が政治の実権をにぎっていました。が、江戸幕府の将軍を任命するのは、天皇であり、武士は天皇に仕える身分であるという関係は、古代日本より連綿として続いていました。権威と権力は、独占されるものではなく、権威は天皇に、権力は幕府に帰属するものとなっていました。このように日本には、2 つの中心がありました。これが幕末の危機を回避するのに役立ちました。列強の圧力が高まると、幕府の権力は衰えましたが、天皇を統合の中心とすることで政権の移動が短期間で済まされたのです。
明治維新は、武士階級の自己犠牲による改革であったといえます。明治維新によって身分制度が廃止され、四民平等の社会が実現しました。しかし武士の特権はなくなり、武士の身分そのものがなくなりました。武士の身分を廃止したのは、ほかならぬ武士の身分の人々によって構成された明治政府でした。日本の特権階級であった武士は、他の階級によってたおされたのではありません。外国から圧力の前に、みずから革命を推進し、みずからを消滅させるという犠牲をはらったのです。武士達の望みは、日本という国の力をよびさますことだったのです。この改革は世界に例を見ないもので、武士たちは公のためにはたらくことを自己の使命とかんがえていたからこそ、明治維新がおこったのです。
明治維新の改革において、新しい国づくりの基礎とされたのは教育でした。教育を重視する思想は江戸時代から引き継がれたものです。
長岡藩(新潟県)は幕府の味方をして戊辰戦争に敗れ、戦乱と洪水で深刻な食糧不足に悩まされていました。近隣の藩より米 100 俵が見舞いとして送られてきましたが、藩の責任者の小林虎三郎は、一粒の米も藩士に分けず、将来のために、国漢学校という藩の学校を開設する資金に回してしまいました。将来に備えて資源を人づくりに重点的に使うこのような思想(米 100 俵の精神)が、日本の近代化を成功させるもとになったのです。
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