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知っておきたい『日本の歴史』 徳力啓三 その9
知っておきたい『日本の歴史』その9は、55−近隣諸国と国境画定から始まり56―岩倉使節団と征韓論、57−殖産興業と文明開化と続き第3節 立憲国家と日清・日露戦争に入り58−条約改正への苦闘、59‐自由民権運動と政党の誕生、60‐第日本帝国憲法と日建政治、61‐日清戦争と三国干渉、62‐日英同盟、63‐国家の命運をかけた日ロ戦争まで続きます。字数の制限があり面白い所で次回に続く。。。となるのですが、それもご愛敬。我慢して下さい。さて写真は、何を選びましょうか?岩倉使節団の名前入りの主要メンバーの写真が見つかりました。


55‐近隣諸国と国境画定55
明治維新をなしとげた日本は、近代国民国家の建設をめざしました。近代国家が成り立つ要件は、@明確な国境線を持つ領土、A国民、B国民を統治する政府の 3 つである。国境があいまいなままだと、政府は国民の生命や財産を保証したり国民としての平等な権利を与える範囲を決めることが出来ない。
北方領土の画定については、1679 年に、樺太(カラフト=サハリン)に松前藩の陣屋があったとされているが、1855 年には徳川幕府とロシアとの間で日露和親条約が結ばれ、北方四島(ハボマイ、シコタン、クナシリ、エトロフ)までを日本領、それより北はロシア領と決めた。
樺太(サハリン)でのロシアとの国境線を決めぬまま、日本とロシアの混住地とした。1875 年になってロシアと樺太・千島交換条約を結んだ。その内容は、日本が樺太全土をロシアに譲り、そのかわりに、千島諸島(クリル諸島)を日本領にするというものだった。
1945 年8月9 日(大東亜戦争終結 1 週間前)ロシアは、日露和親条約があったにもかかわらず日本に戦争宣言すると同時に満州国に攻め込んだ。ロシアは北方四島にも侵入し、現在にいたるまで、占領したままとなっている。
太平洋諸島については、小笠原諸島はすべて日本の領土であることを、1876 年に世界各国に知らせ、了解をとっている。
南方諸島に関しては、日本は清国と間で、1871 年に日清修好条約を国際法に則り結んだ。琉球(現在の沖縄)は鹿児島藩の管轄に置くと決めた。同じ1871 年琉球民 54 人が難破して台湾に流れ着いたが、現地人はそれらを皆殺しにした。日本政府は清国に対して責任を問うたが「化外の民(台湾人のこと)」は知らないと返事してきたので、1874 年になって日本は台湾に兵を送った。清国との協議の結果、琉球島民を日本国民と認めた。それにより、1879 年、「沖縄(琉球)」は日本のものとし、沖縄県を設置した。1894 年に起こった日清戦争で日本が勝ち、それ以来、台湾は日本の領土となった。日本はこうして、近隣諸国との間の国境をほぼ画定した。

56‐岩倉使節団と征韓論
1871 年、廃藩置県が無事済んだ後、政府は岩倉具視を全権大使として、政府要人である木戸孝允、山口尚芳、伊藤博文、大久保利通など政府要人の約半数と共に女性、子供を加え総勢 150 名の大使節団をアメリカと欧州に 1 年8カ 月にわたり派遣した。この視察により日本の西洋に対する遅れは 40 年と見積もられ、近代産業の確立と富国を推進することを国家目標として定めた。
朝鮮は、日本との外交関係を結ぶことを拒否した。士族の間では、日本に対する態度を無礼だとして士族たちの間で武力を背景に、朝鮮に開国をせまる征韓論がわきおこった。廃藩で失業した士族は、明治政府が行う西洋技術や文化の導入政策は、彼らの受け継いできた武士の気概と日本のよき国柄を損なうとして、不満を抱いた。
西郷隆盛は士族に対する同情を持ち、何らかの仕事と名誉を与えるべきと考え、朝鮮の門戸を開かせようとした。が海外視察から戻った連中は、欧米の力を知り、朝鮮のことは後回しとし、富国強兵を国家目標とした。そのため留守番組の維新の志士達は、新政府より離別、郷里に帰ってしまった。政府高官として働いていた薩摩や土佐の元侍達は、西郷や板垣に続いて、ぞくぞくと東京を離れていった。
1876 年、秩禄処分(ちつろくしょぶん=士族に払っていた給金を一時金と引き換えに打ち切った)を発表、同年、「廃刀令」(はいとうれい=刀を取り上げること)。刀を取り上げられ、武士の誇りを傷つけられた怒りを爆発させた士族は、熊本、福岡、山口などで叛乱をおこした。しかし徴兵を主体とした政府軍には近代的装備、火力、通信手段、指揮能力があり、これらの叛乱をすべて鎮圧した。鹿児島の士族は、政府に対する不満は極めて強く、1877 年、彼らは県政を掌握したが、政府の西郷暗殺の噂などに激昂し、西郷を総指揮官として兵をあげ、東京に向かった。が、鎮台の置かれた熊本城攻略に失敗し、また九州各地でもやぶれ、追い詰められていった。反乱軍は各所で壊滅し、最後には西郷が自刃(じじん−はらきり)し、戦争は終わった。この戦争を「西南戦争」という。武士の時代はこれで完全に終り、維新の体勢が出来上がった。これ以降、叛乱はなくなり、国民皆兵体制が定着していった。

57‐殖産工業と文明開化
明治政府は、富国を目標にする方法として産業を興すことを考えた(殖産興業)。1872 年、群馬県富岡に官営の製糸工場をつくった。政府が富国を目標に最初につくった官営工場である。全国から士族の子女をあつめ、技術を習得させ、地元に帰って機械製糸の指導者を養成した。生糸はこの後、日本の主要な輸出品目となり、輸出総額の 70 〜 80%以上を占めた時期もあった。
欧米はアジア・アフリカ諸国の植民地化を進めたが、日本はそれに対し、富国強兵策をとり、白人による植民地化を防ぐため、国民が一丸となって国作りに励んだ。
1868 年、政府は幕府が経営していた鉱山や造船所などを官営にした。1869 年には、電信制度、続いて 1871 年に郵便制度がしかれ、さらに 1872 年には、新橋〜横浜間に鉄道が開通した。
大久保利通らは殖産興業を進めるために、外国の機械を購入し、技術者を招いて、製糸、紡績、炭鉱、銀鉱、銅鉱、造船所、セメントなどの官営の工場を各地につくり、のちに民間に払い下げて、工業発展の基礎とした。又政府は、1869 年、蝦夷地を北海道と改称し、開拓使という役所をおき、士族や屯田兵を入植させて開拓に力をいれた。
明治政府は、1867 年、奈良時代から続いてきた神仏習合の慣習を改めようと考え、神社から仏教色をなくす「神仏分離令」(神社とお寺を分ける法令)を定めた。1870 年、日本古来の神道を天下に布教せよとの「大教宣布のみことのり」(神道を天下に布教すること)が発せられた。政府はこれによって神道による国民意識の統合をはかろうとした。しかし、そのために各地で寺院や仏像を破壊する過激な動きが起こった(廃仏毀釈)。行き過ぎた動きを見た政府は、神道・仏教・儒教の 3 教により国民の意識を統合する方針に切り替えた。また西洋化を勧めるために、1873 年には太陽暦の採用(1日 24 時間、1 週間7 日、日曜日は休日とする)やキリスト教の信仰もみとめた。福沢諭吉の『学問のすすめ』などの啓蒙書が出版され、実力がものをいう社会の中での、独立自尊の精神の大切さが説かれて、広く読まれた。多くの新聞や雑誌も発刊され、欧米諸国の生活や風俗、思想を紹介するようになった。人々の生活にも大きな変化が生じた。東京などの都市では、洋服・シルクハット・ワイシャツなどの着用、人力車や馬車が走る文明開化の光景が出現した。

《資料》 明治維新で変わったこと
@身分制度が変わり、4 民平等になったこと。
A自由に経済活動が出来るようになったこと。
B武士は自分を犠牲にしても、国の力を呼び覚ます方向にうごいてくれた(天皇制の復活)。
C公のために働くことを自分の使命と考えた武士の理想を実現し、改革をやりとげたこと。
D新しい国作りの基礎を学制におき、江戸時代から続いた経済より教育の精神が生きた。

《補講》 幕末 ・ 明治初期に日本を訪れた外国人の見た日本と日本人
ペリー提督の日本人観(1850 年に日本にきたアメリカの提督の日本遠征記より抜粋) 日本国民は、男女を問わず、読み書きが出来る。見聞を広めどんなことにも興味 をしめす。他国の地理や物質の発達に関心を示す。日本人は一生懸命働く。余暇には将棋や碁を楽しんでいる。若い日本人の娘は姿がよくきれいである。日本人は品
位が高いなど記されている。
ジョン ・ ブラック(英字新聞発行者)・マナーの良さとモラルの高さに感銘を受けた。日本人の礼儀正しさ、日本人は柔和で、かなりの独立心を持ち、気持ちのよい挨拶をする。
アンベール(スイス人遣日使節団長)・下層の人でも親切で愛想が良い、庭に咲いている花を私が気にいったと言うと、一番美しい所を切り取って私にくれた。そしてお金を渡そうとしても受けとらなかった。
イザベラ・バード(1878 年・ イギリスの旅行作家)・雇った馬子の親切さ−皮ひもを亡くしたら、4km も戻って探してくれた。旅の終わりに少しお金をあげようとしたが、私の責任は貴方を無事目的地に届けることと言って、お金を受け取らなかった。
エドワード・モース(東大教授)・人力車の車夫の行儀の良いこと。車夫同士でお客の取り合いをしない。ぶつかっても微笑みを返し争わない。汚い言葉を使わず、目的地にまっすぐ走った。
ヴィレム・カッテンディーケ(海軍教官)・日本人の欲望は単純で、上流社会の食事といえど簡素、貧乏人らと変わらない。家の中も簡素単純で、日本人の礼儀正しさ、無償の親切、争いのない社会。

第 3 節 立憲国家と日清・日露戦争

58‐条約改正への苦闘
幕末に徳川幕府は、諸外国と修好通商条約を結んだ。1858 年当時、日本は 西欧諸国並みの法律を持っておらず、不平等な条約であった。不平等の第 1 は、日本で罪を犯した外国人を裁判で裁けず、外国の領事が裁判権をもっていた。第 2 は関税の自主権を持っていなかった。明治政府は、そのためこれらの改正を進め、外国と同等の権利を有する国になるため、涙ぐましい努力を続けた。1872 年に明治政府は岩倉使節団を欧米視察に送り出したが、その一大目的 は不平等条約の改正にあった。憲法がないと、独立国として認めてもらえぬため、維新後 23 年目に明治憲法をつくった。日清戦争後(1894 年)に英国と日英通商航海条約を結び、その翌年、領事裁判権を廃止させることが出来た。1911 年になって関税の自主権を回復させたが、条約を結んでから実に 58 年、岩倉使節団が欧米と交渉を始めてからでも 40 年の年月が経っていた。明治時
代が終わる直前まで明治の元勲たちは、日本国の独立のために尽くした。
明治政府は治外法権の撤廃と同時に、外国人に対して日本国内を開放し、自由な活動を認めた。日本も欧米並みの文明国であることをを示すため、鹿鳴館を建設し、舞踏会を催し、フランス料理でもてなしたりした。日本の昔の葬儀は白服であったが、黒服を使うようになったのは、西洋文化に合わせたからと言われている。日本は国を挙げての西洋化をすすめた。
日本がアジア以外の国と最初に結んだ通商条約は、1888 年に行ったメキシコが最初である。1896 年にはブラジルとの間に通商条約は結んだ。ブラジル移民が始まる 12 年前のことだった。

59‐自由民権運動と政党の誕生
1868 年、天皇は明治の御世を始めるにあたって、天皇自らが神に誓うという形で、「五ケ条のご誓文」をつくられた。御誓文では、会議を開き、世論に基づいて政治を行うことを国の根本方針として宣言した。
1874 年には板垣退助(1837 - 1919)は民撰議院設立の建白書を政府に提出した。その中で国民が政治に参加出来る国会の開設を求めた。なぜなら上に天皇あり、下に人民あり、中に居る有司(役人)が多くの法令を出し、絶えず変更する。これでは民意が反映されず、一貫した政策が見出せず、国が崩壊するもとであると主張した。
征韓論論争で政府を去った板垣は、薩長出身の藩閥政治を批判し、議会の開 設を急ぎ、国民の自由な政治参加すすめた。こうして自由民権運動は始まった。1877 年、板垣は土佐の士族中心の政治結社「立志社」を創設し、翌年、地 方議会として府県会を設立した。1880 年、国会期成同盟を大阪に結成し、新聞や演説会などを通して活動を広げていった。また、大隈重信は政党内閣制を主張し、自由党を創設した。1882 年、伊藤博文は欧州へ憲法作製のため出張、原案を創り始めた。そして 3 年後には、内閣制度を創設し、伊藤自ら初代内閣総理大臣となった。続いて待望の明治憲法が、伊藤らの手によって 1889 年に
発布された。
1891 年、伊藤総理は国会開設の勅諭を受け政党の結成をすすめた。明治憲法作成中には、民権派の国民による憲法草案が 3000 件も提案されたと言われている。日本国憲法の草案・作製に大いなる叡智を絞った明治の元勲らは、民撰議院(国会)設立に寄与した自民党党首の板垣退助(1837 - 1919)、立憲改進党党首で第 8 代首相の、大隈重信(1838 - 1922)、憲法草案者で初代首相の伊藤博文(1841 - 1919)、の諸氏である。

60‐大日本帝国憲法と立憲政治
1889 年2月 11 日、「大日本帝国憲法」は発布された。日本国の憲法の主な条項は、@天皇は日本国を統治する。A実際の政治は各大臣が行い、責任をもつ。B国民は兵役と納税の義務をもつ。C国民は言論、集会、住居、信教の自由を保障される。D国民は選挙権を持ち、衆議院議員を選ぶ権利を有する、などであった。翻訳された憲法は世界に配られた。イギリスではアジアの国に議会制憲法が成立し、古来の歴史や習慣をべースにした穏健な内容に驚いたと言われ、又ドイツでは二院制の衆議院と貴族院の組み合わせを高く評価した。
1890 年、第 1 回目の国制選挙が行われ、300 名の国民が選ばれた。第 1 回帝国議会(国会)が召集され、日本はアジアで最初の憲法をもつ立憲国家となった。独自の憲法を持つことにより、日本は事実上完全な独立国となった。
1890 年、天皇の名により「教育に関する勅語」が発布された。押し寄せる西洋文化に流されることなく、全ての国民が日本人らしい生き方をするため明治天皇ご自身が、国民に語りかける形式で、ご自身への戒め・目標を述べられている。それらは、古来より日本人が守ってきた生き方を短くまとめられている。@父母への孝行、A学問や公共心の大切さ、B非常時には国のために尽くすなどの心得を説かれたもので、一人ひとりが日々の生活を過ごす姿勢は、今まで通りで良いのだと、諭されている。国民はすんなりとこれを受け容れ、全国民へひろがっていった。また多くの言語に翻訳され海外にも知られた。
1945 年の終戦に至るまで、各学校で用いられ、近代日本人の生き方に大きな影響を与えた。残念ながら終戦直後の議会の決議により否定された。

《補講》 福沢諭吉(1835-1901)の『学問のすすめ』
啓蒙思想家、教育者、慶応義塾の創設者。個人の自由と権利を重視する考え方を説く。生涯、民間教育振興に尽力した。1872 年、西洋文明の紹介をした『学問のすすめ』を刊行、新社会は自由・独立・平等の価値観を持つことを宣言した。この本は 100 万部を超える大ベストセラーになった。福沢諭吉の言葉で有名なのは「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」。「一身独立して一国独立する」また「独立の気力なき者は、恥ずべき時に恥じず、論ずべき時に論ぜず、人さえ見れば腰を屈する」と気力の大切さを教えた。

61‐日清戦争と三国干渉
1882 年、金玉均は朝鮮の自立と近代化の必要性を痛感し、仲間を集めて独立開化派を結成した。日本の明治維新を見習い、軍隊制度を改革したのに対し、日本も援助を始めた。一部軍人が叛乱を起こし、宗主国である清国に援助を求めたために、清国は直ちに軍隊を派遣し、内乱を抑えた。こうした清国の横槍が入り、日本の援助は無駄となり、日本との対立が深まった。
1886 年、清国の東洋艦隊が長崎の港に修理のために寄港した。そこで清国の水兵達が騒動を起こし、死傷者がでた(長崎事件)。清国側は謝罪せず、日本側では恐れと怒りが広がった。
1894 年朝鮮南部で農民の暴動が起こった。朝鮮王朝は清国に鎮圧のための出兵を求めたが、日本も清国との申し合せに従い軍隊を派遣したため、両軍は話し合いがつかないまま衝突し、日清戦争(1894 - 1895)が勃発した。朝鮮半島や満州南部まで戦線は拡大したが、日本軍は陸戦でも海戦でも清国を圧倒し、勝利した。日本軍も清軍も兵器は近代的なものを持っていたが、日本軍は訓練・規律が行き届いており、戦う意欲も高かった。1895 年日本と清国は下関条約を結び、@清国は朝鮮の独立を認める。A清国は日本に対して賠償金を払う。B清国は遼東半島と台湾を日本に譲る等が決まった。清国が日本に戦争で敗れたために、欧米列強は清国を分割の対象とみなし、中国各地に租界をつくった。
西欧列国、中でも領土的野心をもつロシアは、ドイツとフランスを誘って、遼東半島の返還を日本に迫り、その圧力に屈した日本は致し方なくそれに応じた(三国干渉)。ロシアは 3 年後、旅順、大連を租借し、軍事基地を建築した。日本国民は、「今に見ておれ」とロシアに対して気勢をあげ、官民共になって国力の充実に努めた。

62‐日英同盟
ロシアは 19 世紀の末、不凍港を求めて、東アジアに目を向け始めた。ロシアの東方政策として、1891 年には大陸横断鉄道の建設にとりかかり、太平洋岸にあるウラジオストックにいたるシベリア鉄道の建設を始めた。「ウラジオストック」とはロシア語で、「東方を征服せよ」という意味である。1895 年には西部シベリア鉄道が完成、1900 年にはバイカル鉄道が完成し、1901 年には満州のハルピンまで到達した。1916 年には、ついにウラジオストックに達した。次いで東清鉄道を延長してハルピンから大連(港)まで鉄道で結び、不凍港を確保した。
1900 年清国では義和団事件が起こった。始めは山東省の武術の集団が暴れ出し、後に清国の首都、北京にまで押し寄せた。その頃北京には欧米日 8 カ国の外国軍軍隊が駐留していたが、義和団は北京を取り囲み、戦闘がおこなわれた。その戦闘の際、日本の芝五郎大佐の率いる日本軍の戦いぶりと規律の良さと強さが目立った。これがもとで英国の信頼を得て、日本は欧州の大国・英国との間で軍事同盟が結ばれた。
1902 年、日英同盟が締結された。この日英同盟が、やがて起こる日露戦争において重大な役目をはたし、日本軍に勝利を導く大きな要因となった。この同盟は第 1 次世界大戦後の 1922 年に解消されるまで続いたが、当時、世界最大の植民地を持つ英国との提携は、日本にとって数々の素晴らしい結果を引き出した。
1904 年、日露戦争が始った。日本の 10 倍の国家予算と軍事力を持つロシアは満州で建設中の鉄道沿線の保護のための兵力を増強し、鴨緑江河口に軍事基地を建設した。このまま黙視すればロシアは、更に兵員を増強し、満州全土を支配する恐れがあった。また 1895 年の日清戦争のあと、ロシアはドイツとフランスと打ち合わせ、日本に遼東半島の返還を迫ったことがある(3 国干渉)。日本が返還した遼東半島をロシアはそのまま領有し、朝鮮半島の兵力を増やしつづけ、朝鮮に対する政治的干渉を繰り返し、属国化を果たしていた。また旅順港には、巨大な永久軍事基地をつくった。日本はロシアの東方政策を恐れ、満州鉄道が完成する前に、ロシアとの決戦を決断せざるを得なかった。

《資料 》日本が英国と同盟を結んだ理由
1−英国は領土拡張の野心を持たない。通商利益と現状維持を望む。
2−日英同盟は平和防衛的なものとして、国際世論からも支持される。
3−英国と結ぶと清国が益々日本を信頼する。
4−英国が中に入るとロシアが大人しくなり、話しやすくなる。
5−ロシア海軍は英国海軍より弱い。
6−通商的に見ると、イギリスの方がロシアよりはるかに上であること。

63‐国家の命運をかけた日露戦争
1904年2 月に、日本はロシアに国交断絶を宣言し、開戦を通告した。戦場になったのは朝鮮と満州。乃木大将率いる陸軍隊は、旅順要塞を攻略、あと旅順港内のロシア艦隊を全滅させた。1905 年3 月の奉天会戦では、各地に転戦し、勝利を納めたが損耗が激しく、追撃できず、陸の戦闘は引き分けとなった。
1905年5月 27 日・東郷司令長官のもと対馬海峡でロシアのバルチック艦隊を全滅させた。世界の海戦史に残る大勝利を得た(日本海海戦)。この戦いで日本の勝利が確定した。9 月には、アメリカの仲介で日露間でポーツマス条約が結ばれた。
日本は戦費が不足し、ロシアは専制政治に対する不満から戦争の中止の機運となった。日本は、@朝鮮半島の主導権は日本であることをロシアに認めさせた。A日本はロシアがもつ遼東半島の租借権を得た。B南満州にロシアが建設した鉄道の権益を譲り受けた。C南樺太の領有を認めさせた。D日本はロシアより戦争賠償金は得ることが出来なかった。
日露戦争は日本の生き残りをかけた大戦争であった。日本はこれに勝って自国の安全保障を確立した。この勝利は、西洋列強の植民地にされていたアジア·アフリカの諸民族に独立の気運と夢を抱かせた。またトルコ、フィンランドやポーランドの人々に国家防衛の大切さとその勇気を与えた。
また一方では、白色人種優先主義が、大きな間違いであり、有色人種も独立国家をもつべきであり、人種差別の不平等性を世界の人々が知ることとなった。この件は欧米の白色人種国家にとっては、将来を揺るがす脅威となるという黄禍論が欧米に広がるきっかけになった。

《補講》 日露戦争を戦った日本人
秋山好古(1859 - 1930)奉天会戦で騎兵隊を指揮し、ロシアのコサックと戦い、日本騎兵の父といわれた。好古の兄弟・秋山真之(1868 - 1919)日本海海戦で海軍参謀として完璧な戦術を作った。「本日晴天なれど波高し」と大本営に打電し日本海海戦が始った。
久松の 5 勇士―宮古島の若い猟師達。バルチック艦隊を最初に発見、荒海を死にもの狂いで漕ぎわたり 15 時間掛って、石垣島に着き、大本営に電報をうち、この情報を伝えた。




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