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知っておきたい『日本の歴史』 徳力啓三 その10
知っておきたい『日本の歴史』徳力啓三その10は、64−世界列強の仲間入りを果たした日本から始まる。続いて第4節 近代産業と近代文化の形成に入り65−近代産業の発展とその背景、66−近代文化の形成と続き、第5章 近代の日本と世界(II)大正と昭和時代前期 第1節 第一次大戦とその影響、67−第一次世界大戦と日本の参戦、68−ロシア革命と対戦の終結、69−ベルサイュ条約と対戦の終結、70―政党政治の展開と社会運動、71―日米関係とワシントン会議、72−文化の大衆化と都市の生活でその10を終結する。写真は、日本の実業家の伝統を作った渋沢栄一生誕180年、2011年の大河ドラマ『青天を衝け』、2024年刷新の1万円札の肖像画になる渋沢栄一を使いました。


64−世界列強の仲間入りを果たした日本
1905 年、アメリカと「桂・タフト協定」を結び、フィリピンがアメリカの植民地であることを認め、日本が朝鮮と満州での指導的地位を持つことを認め合った。1907 年にロシアと第 1 次日露協約を結び、相互の権益を認め合った。こうして日本は世界の列強の一員となった。が、世界中から警戒の目で見られるようにもなった。
1908 年 10 月、アメリカは大西洋艦隊の 16 隻の白く塗った艦船を横浜に入港させた。日本政府はこれを威嚇外交だと察知したが、国を挙げて歓迎することで、その無言の脅しを受け流すことにした。彼らを載せた列車が新橋駅に着く時には、1000 人もの小学生にアメリカ国家を歌わせるなど、日本は政府、民間挙げて、アメリカへの友好の姿勢を必死になって示した。日露戦争でロシアを西へ押し返したとたんに太平洋をはさんで生まれた、新たな緊張を象徴する出来事だった。
1910 年、日本は韓国の韓国国民党の必死の願いを入れ、諸外国の賛意を得た上で韓国の併合を断行した(韓国併合)。併合地政策の一環として@鉄道の施設、A灌漑施設、B土地調査の実施、C学校の開設(併合時 100 校が 8 年後には4600 校)、D日本式教育とハングル文字の導入などが行なわれた。
清国は日清戦争に破れたことで、力の無さを露呈し、義和団の乱により、列強による中国大陸への進出がすすみ、清国の威信は地に落ちた。非征服民族である漢民族は、260 年もの間、征服され続けた清国を倒す機会を得た。1911 年10 月中国の武昌で武力蜂起がおき、各地に波及、共和制の国家をつくろうとする孫文らのグループが出て、清国の打倒の波が起った。その中心となったのが日本に留学していた 2 万人を超える留学生であった。孫文は 1912年1 月、中華民国の成立を宣言した。2 月には清国の宣統帝が退位し、満州族が作った清国は滅亡した。これを辛亥革命(しんがいかくめい)という。

《補講》 明治国家を背負った政治家・伊藤博文

伊藤博文は、明治の 3 傑といわれる、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の 3 人が1877 年ごろ相次いで没したあとを次いで、明治時代を作りあげた政治家です。日清、日露の大きな戦争を戦い、憲法を制定し、議会政治を発足させ、条約改定など明治時代の重要な事柄を遂行しました。
@彼は、岩倉視察団で欧米を廻った時、一行を代表し、「日の丸演説」をおこないました。「廃藩置県」について日本は数百年続いた古い制度を一発の弾丸も撃たず、一滴の血も流さず、撤廃した。こんな国が世界のどこにあるだろうか、と胸を張りました。
A更に、日本の国旗を指して「あの赤い丸は、今正に昇ろうとする太陽を象徴し、日本が欧米文明のただ中に向かって躍進する印であります ] と締めくくり、万来の拍手をあびました。
B伊藤が残した最も大きな業績は、憲法制定と国会の開設でした。1882 年より 1 年余り、ヨーロッパに留学し、ドイツの憲法学者から講義を受けました。帰国後の1885 年には、45 歳で初代の内閣総理大臣に就任し、憲法発布し、アジアで唯一つの憲法に基づく議会政治を行う国家をつくりあげました。
C 1909 年の日露戦争後の極東問題をロシアと協議する途上、満州国ハルピン駅頭で、大韓帝国の民族運動家に暗殺され、波乱の人生を閉じました。生涯、伊藤の行動をささえていたのは、「日本という国家を思う心」 でした。

第 4 節 近代産業と近代文化の形成

65−近代産業の発展とその背景
日本の産業革命は、明治政府の手によって海外で発展している工業を見習って進められた。1880 年頃より約 20 年間に、日本銀行を設立し、金融制度を整えた。また官営の工場をつくり、軌道に乗ると民営化し、民間の手で運営させ、綿糸、生糸、綿織物など重要な輸出産品を作り出し、海外に向け輸出した。
1889 年には新橋〜横浜間の鉄道が開通した。全国にも鉄道がひろがってゆき、道路の整備も進められた。交通の整備が進み、特に駅周辺が開発され発展しだすと、さまざまな副業ができるようになり、農村にまでその影響が及んだ。国全体が農業から工業へ移行し、日本全国が活気づいた。
1901 年には官営の八幡製鉄が開業、大々的な鉄鋼の生産が始まり、1905 年には 1 万トンクラスの船もつくれるようになった。これらの産業の近代化は、江戸時代からの民衆の高い教育水準、勤勉の精神、努力と工夫、自分の人生を独自につくろうという国民の意欲などなどが国民の間で満ちあふれ、近代化に大きな勢いをつけた。
この頃には街角には時計が置かれ、正確な時刻に合わせる生活習慣が広がり、工場労働者なども時間で管理されるようになった。反面、社会的な問題も起こり始め、工場労働者の低賃金、長時間労働なども問題になり始めた。労働組合運動も盛んになり、公害や鉱毒問題なども起った。

《資料》 民間に払い下げられた官営工場の数々
広島紡績所 / 広島 1882 年 広島綿糸紡績へ
深川セメント工場 / 東京 1884 年 浅野総一郎
札幌ビール醸造所 / 北海道 1886 年 大蔵喜八郎
長崎造船所 / 長崎 1887 年 三菱財閥
三池炭鉱 / 福岡県 1888 年 佐々木八郎
富岡製糸場 / 群馬県 1893 年 三井財閥
佐渡鉱山 / 新潟県 1896 年 三菱財閥

《補講》 *日本の実業家の伝統を作った渋沢栄一
超有能な明治時代の実業家で、『論語と算盤』を著わし、日本の実業家の模範となりました。「一身一家を繁栄させ公益をもたらし日本を豊かにすべし」「商人は信用を第一にすべし」「道徳と経済を統一し公共心を重んじよ」「富は社会に還元し、弱者を救済せよ」等々、名文句を数々残しました。
1840 年生まれ、6 歳で中国の古典を読みこなし、1864 年、24 歳で武士の身分を得、第 15 代将軍徳川慶喜に仕えました。1867 年、板倉使節団に選ばれ、欧米を視察、一年間英仏蘭を見て廻り見聞を広めました。銀行家が将校達と歓談しているのを見て、日本にもやがてそのような時代が来ること、また商売人は誇りを持って仕事をするべきこと、株式会社の形態が社会の発展の基になること、など日本の経済界の将来の姿を考えたと言われています。
1873 年、第一国立銀行を創設以来、次々に東京ガス、帝国ホテル、キリンビール、など株式会社を興しました。この他、東京養育院、沢山の慈善団体、病院などを作り、商業学校の設立や社会教育救済団体など生涯に 600 以上の会社や団体を創ったと言われています。


66−近代文化の形成
明治政府は西洋化を進め、西洋の学問と文化を急速に取り入れ近代化を進めた。1877 年には東京大学を創設し、1886 年には帝国大学へと昇格させた。外国よりその道の専門家である外国人を教師として雇い、大学での授業は全て英語で行った。また西洋の概念や理論を日本語に移入するため、膨大な翻訳語がつくられた。この時期つくられた翻訳語は、そのままの形で中国語、朝鮮語に持ち込まれ、現在も使われている。
1888 年頃より優れた日本人学者が世界の最先端の研究を行うようになった。
1890 年には、北里柴三郎が破傷風の血清を作り出し、1894 年には高峰譲吉がタカジアスターゼを、1897 年には志賀潔が赤痢菌を発見した。1903 年、長岡半太郎が原子の模型をつくり出し、1910 年には、鈴木梅太郎がビタミン B1 を発見した。1918 年、野口英世が黄熱病の病原体の研究をし病原菌を発見した。1888 年頃より思想や感情を日常の言葉で表現する運動(言文一致運動)が起こり口語文の基礎が出来上がった。二葉亭四迷や尾崎紅葉は同じ頃ロマン主義運動を起し、森鴎外や樋口一葉がそれに続いた。1898 年になると島崎藤村、夏目漱石、正岡子規、与謝野晶子、石川啄木、など明治時代の日本文学、俳諧、俳句、短歌など平易な言葉を使って民衆の誰もが参加出来るようになった。
明治時代を通して、西洋の美と日本の伝統とがしっかりと組み合わさった。絵画の分野では、日本の伝統美術を保存発展させるために東京美術学校を作った岡倉天心、日本画の横山大観や苅野芳崖、自然光の色彩感覚によって美術界に新風をいれた黒田清輝、藤島武治、彫刻では高村光雲、音楽では滝廉太郎など多彩な能力の持ち主達がそれぞれに大活躍をした。

《補講》 世界が見た日露戦争
世界の有色人種が、自国の独立への大きな希望を抱くに至った一大ニュース。
まず、白人の住むヨーロッパの人々の反応を見てみましょう。日露戦争における日本の勝利は、人種差別に基づく欧米中心の世界の秩序を揺るがすものとなりました。黄色人種の小国・日本が白色人種の大国・ロシアに勝ったからです。
中国の革命の父と呼ばれる孫文は、その当時ヨーロッパにいました。日本がロシアのバルチック艦隊を破った時のヨーロッパ人の反応を次のように書き残しています。「全ヨーロッパの人民は、あたかも父母を失った如くに悲しみ憂えたのです。イギリスは日本と同盟国でありましたが、殆んどのイギリス人は眉をひそめ、日本が勝利したことは決して白色人種の幸福を意味するものではないと思ったのです」
アジアの人々の反応はどうでしょう。「戦後しばらくして私は、船でアジアに帰ることになり、スエズ運河を通ると、沢山の現地人が、私が黄色人種であるのを見て、非常に喜んだ。『以前はわれわれ東亜の有色人種は、西方の白色人種の圧迫を受け、苦痛をなめた。だが、今度日本がロシアに勝ったことは、東方民族が西方民族に勝ったと同じだ。日本が勝ったのだから我々も勝たねばならない。だから我々は歓喜する』と。日本がロシアに勝ったことが、アジア民族にとっては独立にたいする大いなる希望を抱くに至ったのです。」これが、孫文が観察した日露戦争へのアジア人の反応でした。
次に、世界中の独立運動の指導者達が言った言葉をみてみましょう。
インドの独立運動家で後に首相になったネールは「もし日本が、もっとも強大なヨーロッパの一国に対して勝利を博したとするならば、どうしてそれをインドが為し得ないといえるだろう?」と書き残しました。エジプトの民族運動の指導者ムスタファーは「日本人こそヨーロッパ人に身の程をわきまえさせてやった唯一の東洋人である」と述べました。イランの詩人、シーラージーは「立憲制によってこそ日本は強大になった。その結果かくも強き敵に打ち勝った」と分析した。
日本の勝利は、20 世紀最大の奇跡といわれるほど、人類に対して大きな出来事であったのです。これにより、世界は白人による植民地支配がなくなるもとなり、また人種差別がなくなるもとにもなりました。第一次世界大戦のあと国際連盟結成の際には日本が、人種差別撤廃を世界に向かって提案したのです。日露戦争はそういう大きな成果を世界に残したのです。



第5章 近代の日本と世界 (II)
大正と昭和時代前半

第1節 第一次大戦とその影響

67−第一次世界大戦と日本の参戦
日露戦争後、ロシアは東アジアでの南下政策をあきらめ、再びヨーロッパへの進出をはかった。ドイツは既にオーストリア、イタリアと「三国同盟」を結んでいて、海軍力を拡大して海外進出を図っていた。1907 年、これを恐れたイギリスは、フランスとロシアと組んで「三国協商」を成立させ、ドイツを包囲した。ヨーロッパの国々はどちらかにつき、緊張が高まった。同盟側にはトルコ、 ブルガリア、協商側にはベルギー、 アメリカ、中国、日本などが加わった。後にイタリアが同盟を抜け、協商側に移った。
1914 年、オーストリアの皇太子がセルビアで暗殺された(サラエボ事件)。これがきっかけとなり両陣営は同盟や協商に基づき相次いで参戦し、第一次世界大戦が始まった。
日本はその頃、英国と「日英同盟」を結んでいたので協商側につき、ドイツに宣戦布告した。そしてドイツの租借地であった山東半島や青島(チンタオ)、太平洋の赤道以北のドイツ領を占領した。ドイツの潜水艦が協商側(連合国側) の商船を攻撃し始めると、日本は駆逐艦の艦隊を地中海に派遣し、護衛に活躍した。
1914 年当時の日本の領土は、朝鮮半島、沖縄、千島列島、南カラフト、小笠原諸島、南洋諸島(マリアナ、マーシャル、カロリン、 パラオ)に及んだ。

《資料》 中国に対する日本の 「21 カ条要求」 1915 年
日本は中国に対し次のように主張した。@ドイツが山東省に持っていた権益を譲ること。A日本の旅順、大連の租借地、南満州鉄道の利権の期限を 99 年間に延長すること。B中国は南満州、東部内モンゴルにおける鉱山の採掘権を日本へ与えることなど。


68−ロシア革命と対戦の終結
1917 年、長引く世界大戦の最中、ロシア革命が起こった。始めは市民の暴動であったが、兵士が加わり、ロマノフ王朝が倒れた(二月革命)。武装したレーニンの一派は、労働者と兵士を中心に代表者会議を起こし政府をつくった(十月革命)。そして武力を用いて共産党一党独裁体制をつくり上げた。
その後 5 年間、ソ連独裁政府は、ドイツとの戦争をやめ、革命に反対する国内勢力との内戦に没頭、皇帝一族、貴族、資本家、聖職者、知識人など数知れず(数千万人とも言われている)を殺害。飢饉の発生もあり、数百万の農民が餓死した。1922 年、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立した。
1918 年、日本はロシア領内で孤立したチェコスロバキア部隊の救出と満州の 権益を護るためにアメリカなどとともにシベリアへ兵を送った(シベリア出兵)。1918 年、4 年間続いた世界大戦は膨大な犠牲者をだして終わった。大戦は国 民経済、科学技術の全てを動員する総力戦であった。新兵器が用いられ、兵士以外の国民も戦禍に巻き込まれた。国民は軍需工場に動員され、生活物資が不
足し、困窮を極めた。
戦争による被害は、連合国側24 カ国の死傷者は2207 万人(含戦死者474 万人)、同盟国側 4 カ国の死傷者は、1516 万人(含戦死者 338 万人)となり、両者合わせると死傷者 3791 万人(含戦死者 853 万人)いずれも推定値だが、1918 年にアメリカが連合国側に加わったことにより、連合国側の勝利で終った。
敗北した同盟国側のドイツ帝国は崩壊、ワイマール共和国が成立した。ヨーロッパは、人類史上始めての総力戦の悲惨な現実を経験した。その一方で、日本は、少ない犠牲で戦勝国となった。戦地より遠く離れていたため、消耗戦に引きずり込まれることなく、国力を保持でき、国際社会での発言力が増した。


69−ベルサイュ条約と大戦後の世界
1919 年にパリで講和会議が開かれ、戦後の処理が話し合われた。日本は 5 大国(米、英、仏、日、伊)の一つとして出席し、ベルサイユ条約が結ばれた。これによって、ドイツは戦争の責任を問われ、領土の一部と全ての植民地を失い、過酷な賠償金 1320 億マルク(国家予算の 25 年分に匹敵)の返済にあえぐようになった。ドイツは膨大な補償のためスーパーインフレを引き起こし、これが第ニ次大戦を起こす大きな原因の一つとなった。
同じ年、パリの講和会議で国家の利害を超えた世界平和と国際協調のための国際機関の設立をアメリカのウィルソン大統領が提案し、国際連盟が発足した。ところが、提案国のアメリカが議会の反対にあって参加せず、国際連盟は限られた力しか発揮出来なかった。日本は国際連盟の規約に人種差別撤廃を盛り込むことを提案した。世界の有色人種は、この決議に期待した。投票の結果は 11 対 5 で賛成が多かったが、議長役のアメリカ代表のウィルソンは重要案件は全会一致を要するとして不採択を宣言した。多くの日本人は落胆した。
第一次大戦の後、アジアでは民族自決の運動が起きた。インドでは民族独立運動がおこった。非暴力主義のガンジーが、約束されていたインドの自治をイギリスに要求した。イギリスはこれを弾圧したが、民族独立への動きはかえって大規模になっていった。トルコでは、オスマン帝国の将軍ケマルが帝政を廃止し、共和国を樹立した。
日本の統治下にあった朝鮮では、1919 年 3 月旧国王の葬儀に集った人々が独立宣言しデモをした。日本の出先機関である総督府は、この運動を武力で鎮圧したが、事態を重くみて、統治の方針を文治政策に変更し、のちに日本との一体化を進めていくことになった。
中国では、日本がドイツの権益を引き継ぐことに反発し、1919 年、北京で学生のデモが発生した。この運動は後に中国全国に広がった。日本は、大戦中軍需品の輸出が急増し、アジア諸国への輸出も増えた。重工業も急速に発展して、日本は大戦景気と呼ばれる空前の好景気を迎えた。

《資料》 ベルサイユ条約の民族自決の原則で、敗戦国の植民地には独立を認めた。
メリカのウィルソン大統領は、ベルサイユ条約の民族自決の原則で、敗戦国の植民地には独立を認め、戦勝国の植民地には認めなかった。即ちドイツとオーストラリアの植民地であった@アイスランド、Aフィンランド、Bエストニア、Cラトビア、Dリトアニア、Eポーランド、Fチェコスロバキア、Gハンガリー、Hユーゴスラビアは独立国となった。独立したのは、白人国のみであった。


70‐政党政治の展開と社会運動
日露戦争後の日本の政治は、薩摩 ・ 長州出身者による藩閥勢力と立憲政友会という政党が、交互に内閣を組織する時期が続いた。明治天皇が崩御し、1912 年に入ると藩閥内閣を批判し、大日本帝国憲法の精神に基づいて国民の意思を反映した政治を求める運動(護憲運動)が起こった。
1918 年シベリア出兵を当て込んだ米の買占めが起こり、米の値段があがり、民衆が騒ぎ出し米騒動が全国で起こった。翌年内閣が総辞職したため、立憲政友会総裁の原敬が首相となり、陸・海・外務の 3 大臣以外の大臣は、全て立憲政友会に属する国会議員から選び、日本初の本格的な政党内閣をつくった。1921 年原首相は暴漢に襲われ暗殺された。
1920 年には政党政治が定着し、普通選挙運動などの社会運動も活発となり民主主義(デモクラシー)の思想と国際協調の世論が強まった(大正デモクラシー)。1922 年ごろになると労働組合が多数組織され、メーデーや労働運動、農民運動などが盛んに行われるようになり、女性の地位を高めるための婦人運動も始まり、婦人参政権や女子高等教育の拡充が主張されるようになった。
1924 年、加藤高明を首相とする護憲三派内閣が成立した。以後 8 年間、
1932 年まで衆議院で多数を占める政党の総裁が内閣を組織するようになった
(憲政の常道)。1925 年、同内閣は普通選挙法を成立させ、納税額による制限をなくし、25 歳以上の男子全員が投票権を獲得し、選挙人が 4 倍になった。1928 年には第 1 回普通選挙が行われ、立憲政友会が第一党になった。女性への選挙権は 1945 年になって始めて与えられた。

《資料》 各国の選挙の始まった年
各国の普通選挙が始まった年を調べるとフランスが 1848 年、1870 年にドイツと米国、英国が 1918 年、日本が 1925 年でインドが 1949 年。女性の参加はドイツが一番早く、1919 年、アメリカが 1920 年、イギリスが 1928 年、フランスと日本が1945 年でインドが 1949 年となっている。


71‐日米関係とワシントン会議
日露戦争の勝利によって、日本は東アジアにおける大国となった。フィリピンを領有したアメリカにとって、日本は極東政策の競争相手となった。日米間では、日露戦争直後(1906 年)から、人種差別問題が起こった。アメリカ西部諸州には、ハワイに移民した日本人が、カリフォルニア州へ再移住していたが、勤勉で優秀な日本人移民が、白人労働者の仕事を奪うとして、日本人を排斥する運動がおこった。1913 年になるとカリフォルニア州で排日土地法が制定され、日本人の土地の購入は出来なくなった。
1921 年、海軍軍縮と中国における各国の権益に関するワシントン会議がアメリカによって提案され、日本を含む9カ国が集った。目的は利害を調整し、この地域に安定した秩序を作り出すことであった。またこの会議で、米英日の海軍主力艦の保有率は 5:5:3 とすることが決った。日本は国際協調外交の精神で軍縮を推進した。しかし海軍の中にはそれでは国を守れないとする意見も根強かった。それとは別に 20 年間も続いた日英同盟をアメリカの強い意向で破棄されることとなり、日本は頼りになる同盟国を失った。
1924 年アメリカは日本人の受け入れを全面的に禁止する排日移民法を国会で議決した。これに対し、日本の世論は沸騰し、反米感情が進んだ。
1923 年 9 月関東大震災が起き、東京や横浜で発生した火事で、民家、重要建造物、文化施設など多数が消失、死者 ・ 行方不明者が 10 万人を超えた。この関東大震災の結果、日本の経済は大きな打撃を受けたが、近代都市の設計の基準つくりや防災の研究が始まった。幹線道路網や都市公園緑地帯の整備に努め、建物は鉄筋コンクリート作りに変わっていった。

《資料》 ワシントン会議
1921 年 12 月にはワシントンで、5 大国の日米英仏伊の他、ベルギー、オランダ、ポルトガル、中国が参加し、開かれた。米英日の制限保有量は52.5 万トン :52.5 万トン :31.5 万トン。航空母艦は5隻 :5隻 :3 隻と決められた。日英同盟は、日本にとって安全保障の要であった。これが無くなり、日本は単独でアメリカの軍事力に対抗しなければならなくなった。

《資料》 アメリカのアジアへの進出
アメリカは南北戦争(1865 年)以降アジアへの進出を企て、着々と植民地を増やしていた。南太平洋関係の進出年と場所は @ 1867 年・アリューシャン列島、A 1867 年・ミッドウエー諸島、B 1898 年・フィリピン、C 1898 年 ・ ハワイ諸島、D
1898 年・ジョンストーン島、E 1898 年・グアム島、F 1899 年・サモア、G 1899 年・ウェーク島、H 1912 年・パルミラ島の 9 箇所に及んだ。


72−文化の大衆化と都市の生活
大正時代には、中等・高等教育が普及、女子教育も充実して、向学心が高まった。学問では、柳田国男が激しい西洋化の中で、日本古来の風俗や民間伝承などを記録する民俗学を創始した。文学では人道主義を掲げた志賀直哉、武者小路実篤等の白樺派作家が活躍した。耽美的な作品を残した谷崎潤一郎、理知的作風の芥川龍之介らも活発に活動した。この頃、共産主義思想が日本に入ったことが特筆される。
日本文化の大衆化が進んだのも大正時代のこの頃の大きな出来事であった。新聞 ・ 雑誌など大衆の読み物が流行り、100 万部を超えるものが出た。文学全集や主婦向け雑誌、低価格本など沢山の種類の本が発刊された。ラジオ放送も始まりマスメディアが発達、情報の伝達が速く、一度に広く大量に伝えることが出来るようになった。それがまた大衆の政治参加を促し、社会や政治の動きに影響を及ぼすようになった。活動写真(無声映画)にトーキー(有声映画)が登場し、レコードで音楽が聴けるようになった。大衆小説、歌謡曲、宝塚歌劇、6大学野球などのスポーツなど大衆娯楽、童謡、玩具、遊園地、動物園など子供向けの文化もおおいに普及した。
同じ頃、大都市での生活ががらりと変わった。都市の中心部と郊外が電車で結ばれ、乗合自動車(バス)路線が拡充、日本最初の地下鉄(東京の上野〜浅草間) が開通(1927 年)した。鉄筋コンクリートのビルが建ち、住宅では井戸から水道へ、ランプから電燈へ、かまどからガスコンロへという変化が始まった。富裕層の住宅には、ガラス窓のついた洋風の応接間や子供部屋がつくられた。
町も食生活も変わり、日本の都市生活の原型が出来上がっていった。デパートが開店し、商品の種類が増えた。カレーライスやコロッケ、トンカツなどの洋食が食べられようになり、キャラメル、ビスケットなどの洋菓子も流行った。
新しい職業も増え、女性の働く場も次々に開発された。バスガール、電話交換手などの職業、女学生の制服、洋装をする女性(モダンガール)が増えたのもこの頃である。



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