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知っておきたい『日本の歴史』 徳力啓三 その11
知っておきたい『日本の歴史』その11は、第2節 第二次世界大戦と日本、73―世界恐慌とその影響から始まり、74−共産主義とファシズムの台頭、75−中国の排日運動と協調外交の挫折、76−満州事変と満州国建国、77−日中戦争(支那事変)、78−中国を巡る日米関係の悪化、79−第2次世界大戦の始まり、80−大東亜戦争(太平洋戦争)で字数達成次会に続く。知っているようでうる覚えの現代史、勉強させて貰いました。写真は、太平洋戦争の衝撃的幕開け、真珠湾攻撃の写真を使わせて貰いました。


第 2 節 第二次世界大戦と日本

73−世界恐慌とその影響
大正から昭和へ・1926 年、大正天皇は 12 月 26 日に崩御された。摂政を勤めておられた皇太子裕仁親王が皇位を継承し、昭和と改元された。
世界恐慌と昭和恐慌・第 1 次世界大戦の後、世界一の経済大国となったアメリカで 1929 年 10 月、ニューヨークの株式市場で株価の大暴落が起きた。世界的な恐慌が始まり、多数の会社が倒産し、労働者の 4 人に 1 人が職を失い、失業者が町に溢れた。不況は世界に広がり世界恐慌となった。アメリカへの輸出に頼る日本の経済も大きな打撃を受け、企業の倒産 ・ 休業が相つぎ、大量の失業者を出した(昭和恐慌)。農村では 1930 年の豊作で、農産物の価格が暴落し、農家の収入は激減した。翌年、今度は冷害による大凶作が北海道と東北を襲った。食事をとれない子供たち、娘の身売りが相次いだ。
世界恐慌に対して、各国様々な対応をした。世界各地に広大な植民地を持つイギリスやフランスは、本国と植民地との経済圏で重要な商品の自給自足をはかりつつ、外国の商品には高い関税をかけ国内の市場から締め出す政策をとった(ブロック経済)。アメリカも自国の産業保護に走り、関税を高くし、世界不況を更に深刻にした。ルーズベルト大統領は失業者を救うために国家予算で多くのダムをつくるなど大規模な公共事業を行った。しかし、アメリカ経済はなかなか回復しなかった。
1930 年、ロンドンで海軍の補助艦(戦艦、巡洋艦、航空母艦以外の海軍艦船) の制限を議題とする国際会議が開かれた(ロンドン軍縮会議)。日本ではこの会議で海軍に不利な協定を受け入れたとして、一部軍人や野党は政府を激しく非難攻撃した。浜口首相は暴漢に襲われ重傷を負い、内閣は倒れた。軍人が政治に口出しすることは、軍人勅諭で禁じられていたが、農村の窮状を目にした若手将校は、その原因を政財界の無能力と腐敗にあると考え、独自に政策を論じるグループが現れた。国民も、不況による社会不安の中で、財界と癒着し、政争に明け暮れる政党政治に失望し、次第に軍部に期待を寄せるようになった。《資料》 ブロック経済と日本
イギリス、フランス、オランダなどのヨーロッパ諸国は広大な植民地を持ち、豊かな資源をもつアメリカは一国だけでも、自給自足が可能だった。こうした「持てる国」は、植民地や領土をブロック化し、外部の商品には高い関税をかけて締め出した。他方、国内に資源の無い 「持たざる国」 である日本は原料を購入し、それを製品に加工して輸出することで経済が成り立っていた。ブロックによる巨大な関税の壁によって締め出され、日本の製品は輸出先がなくなった。日本は欧米の手法を真似して、東アジアに独自の経済圏(大東亜経済圏)をつくろうとした。

《資料》 軍人勅諭
天皇の言葉として軍人の心構えを説いた文章。1882 年に出された。軍人はウソをつくことと勝手に行動することを固く禁じられていた。軍人には政治に参加するための選挙権は与えられていなかった。


74−共産主義とファシズムの台頭
二つの全体主義がヨーロッパで生まれた。この二つの政治思想が 1920 年代から 1930 年にかけて世界に広まった。その一つはマルクスの思想に始まり、ロシア革命を引き起こした共産主義である。もう一つはドイツとイタリアに現れたファシズムである。どちらも国家や民族全体の目的の実現を最優先し、個人の自由を否定する思想を核心としているので、全体主義と呼ばれた。全体主義は各地に革命運動を生み出し、成功したところでは一党独裁と、国家の上に党を置く独特の政治体制を作り上げ、20 世紀の人類の歴史に大きな悲劇をもたらした。ロシアにおいては、独裁者スターリン(1879 - 1953)が、ソビエットの指導者となり、多くの反対者を処刑し死ぬまで独裁者として君臨した。
ドイツでは、独裁者ヒトラー(1889 - 1945)が、ドイツの民族主義に目覚め、巧みな演説で国民を熱狂させ、ナチス党を大きくし、戦争を始めた。
共産主義の考えでは、労働者が団結して、資本家を倒し、計画的に経済を運営して、階級による差別のない社会を作ることを理想とした。それを実現するための手段が一党独裁体制であるとした。スターリンは重工業を重視し、農業の集団化をすすめる一方、秘密警察や強制収容所を用いて膨大な数の反対者を処刑した。コミンテルンとは、国際共産党の英語の略称で、ソ連は 1919 年に、世界中に共産主義を広めるための拠点をつくった。日本では 1922 年に「コミンテルン日本支部日本共産党」を創立し、今も現存する。
日本政府は、1925 年日本国内に破壊行動や君主制の廃止や私有財産制の否定などの暴力行為が及ぶことを恐れ、治安維持法を制定し、暴動を防いだ。
イタリアでは、1922 年ムッソリーニのファシスト党が熱狂的な国民の支持を得て政権を掌握、やがて独裁政治を始めた。
ドイツでは、第一次大戦後、巨額の賠償金を背負わされ、激しい物価の高騰に国民の不安が高まった。ヒトラーがナチス党を率いて、民族の栄光回復と雇用の拡大をスローガンに掲げて活動を始めた。1932 年には国会の第1 党に躍進、政権を握った。首相に就任するや、ヒトラーは暴力や警察を使いたちまち独裁体制を作り、共産党の弾圧と再軍備を始めた。ナチスは民族の純潔を守ることを理念にかかげ、ドイツ国内のユダヤ人を迫害した。ヒトラーはソ連のやり方をそのまま真似をし、秘密警察、強制収容の手法で大量処刑をおこなった。ナチスとは国家社会主義労働党の略省。ヒトラーが支配した時代のドイツ国の政党名。ナチスは強制収容所にユダヤ人を集め、数百万人といわれるユダヤ人を虐殺した。

《資料》 各国の共産党設立年
@ロシア・1898 年、Aコミンテルン本部・1919 年、Bスペイン ・1918 年、Cドイツ ・1919 年、D中国・1921 年、Eフランス ・1921 年、F日本 ・1922 年、Gべトナム・1930 年、H朝鮮・1945 年。


75-中国の排日運動と協調外交の挫折
1925 年頃、中国では各地に私兵を抱えた軍閥が群雄割拠していた。孫文は国民党を創設し、その後を継いだ蒋介石は、各地で軍閥と戦い、全国統一をめざした。1928 年蒋介石は、北京を押さえて中国を統一したかにみえたが、不完全で、地方の軍閥は統一されず、地方に残存していた。日本が権益を持つ満州は、満州族のもので、日本の関東軍が軍閥と争っており統一の手が及んでいなかった。
この頃の中国では、中国に権益をもつ諸外国を排撃しようとする動きも高まっていた。それは中国の民族的反発だったが、暴力によって革命を実現したソ連の共産主義思想の影響を受け、過激な性格を帯びていた。勢力を拡大してくる日本に対しても、日本商品をボイコットし、日本人を襲撃する排日運動が活発になっていった。
一方、日本の外交は、政党内閣のもとで 2 期に渡って外務大臣を務めた幣原は英米と協調して、条約を守りつつ、中国の関税自主権回復の要求を支持するなど中国の民族感情にも同情をもって対応する、国際協調外交を推進した。しかし、中国の排日運動はおさまらなかった。日本では軍部を中心に、幣原の外交を軟弱外交として、批判する声が強くなった。
満州においては、日露戦争の勝利によって、遼東半島南部の関東州を租借し、ロシアから長春より南の鉄道の営業権を譲りうけ、南満州鉄道(満鉄)を設立した。昭和初期の満州には、既に 20 万人以上の日本人が移住していた。その保護と、関東州及び満鉄を警備するため、一万人の陸軍部隊(関東軍)が駐屯していた。
1928 年日本は山東省に居留民保護を口実に、軍隊を派遣(山東出兵)した。満州への支配を強めんとした関東軍は、軍閥の張作霖を爆殺し、満州への支配を強めようとした。これに対し、中国人による排日運動も激しくなり、列車妨害やテロ活動も始まり、日本人居留民の安全がおびやかされた。さらに、北にはソ連の脅威があり、南からは国民党の力もおよんできた。こうした中、関東軍の一部将校は、満州を軍事占領して、排日勢力を駆逐し、日本の権益を守ろうとする計画を練り始めた。


76-満州事変と満州国建国
1931 年 9 月、関東軍は奉天郊外の柳条湖で満鉄の線路を爆破し、これを中国側の攻撃だとして、満鉄沿線都市を占領した。政府と軍部中央は不拡大方針をとったが、関東軍は軍事行動を拡大し、全満州の主要地域を占領した。満州で日本人が受けていた不法な被害を解決できない日本政府の外交に不満を募らせていた多くの日本国民は、関東軍の行動を支持する者が多く、陸軍には多額の支援金が寄せられた。政府も、関東軍の行動を追認した(満州事変)。
満州の現地に根を張る軍閥の中には、関東軍と行動を共にするものもあり、1932年3 月、関東軍は清国最後の皇帝溥儀(ふぎ 1906 - 1967)を執政に立て、満州国を建国して、実質的に満州国を支配した。溥儀はのちに、満州国皇帝の地位についた。溥儀は満州族の王朝であった清国最後の皇帝で、正式名は愛新覚羅溥儀。1931 年の辛亥革命により翌 32 年に退位、天津に幽閉されていた。満州事変が起こると祖父の地である満州行きを希望し、関東軍の支援で幽閉から脱出し、満州に迎えられた。1932年5 月、政友会の犬養首相は、海軍将校らによって暗殺された。(五 ・ 一五事件)ここに政党内閣制の時代は終わりを告げ、その後は軍人や官僚出身者が首相に任命されるようになった。
アメリカはじめ各国は、満州事変を起こした日本を非難し、国際連盟を通じてイギリスのリットン卿を団長とする調査団を日本、中国、満州に派遣した
(リットン調査団)。調査団は満州における日本の権益の正当性や、満州に在住する日本人の権益と安全が脅かされていることを認めた。が他方、日本による満州建国を認めず、満州の占領地からの撤退と国際管理を勧告した。それは、満州における中国の主権を認め、法と秩序を維持出来る体制を作ることを意味したが、既に満州国を承認していた日本政府は、1933 年この勧告を拒否、国際連盟を脱退した。その後、日中間で停戦協定が結ばれ、満州国は、五族協和
· 王道楽土建設のスローガンのもと、日本の重工業の進出などによる凄まじい経済成長を遂げた。反日・抗日運動も頻発したが、建国時 3000 万人の人口が、日本の敗戦時にはたった 13 年間で 5000 万人にもなり、大発展したことが分かる。
1936 年、日本では二・二六事件が起こった。陸軍の将兵が警視庁や首相官邸を襲い、大臣などの要職者を殺害し、国会周辺を占拠した。この叛乱は、昭和恐慌による農村の疲弊、政治の腐敗を抑え、体制の刷新を訴え、天皇の親政を願うものだった。昭和天皇は二・二六の叛乱を許されず、3 日間で鎮圧されたが事件後、陸軍大臣と海軍大臣には現役の軍人しかなれない制度が復活し、陸海軍の支持がないと、内閣の組閣が出来なくなった。また、政権運営が難しくなり、軍人の発言力が増した。


77―日中戦争(支那事変)
コミンテルン(国際共産党)は、ヨーロッパの資本主義諸国で一挙に体制を変える世界革命を目指していた。しかし第一次世界大戦後に戦われたヨーロッパの革命闘争に敗北し、別の道を探した。それは社会主義のソ連を守りつつ、欧米や日本の植民地で活動する世界革命戦略を立てた。活動拠点の中国では、日本が次第にその標的になっていった。その頃の中国は蒋介石の率いる国民党と毛沢東の率いる共産党が激しく対立し、内戦状態にあった(国共内戦)。共産党の方が劣勢で、消滅の危機に追い込まれていた。そこで共産党はまず、共通の敵である日本に対し、力を合わせて戦うこと(抗日)を国民党に呼びかけた。しかし蒋介石は、まず始めに国内の共産党勢力をたおし、その後日本と戦うという考えをかえなかった。1928 年の列車爆破事件で爆殺された張作霖の息子の張学良は、蒋介石に共産党の討伐を命じられたが、内心は共産党の抗日の呼びかけに賛同していた。そこで蒋介石を西安で監禁し、内戦をやめ、国民党と共産党は、両者で日本と戦うことを認めさせた(西安事件)。こうして、中国は日本と戦う体制が整っていった。1937年7月7 日、北京郊外の盧溝橋で演習していた日本軍に向けて何者か(共産党軍?)が発砲する事件が起きた。翌日には国民党軍と戦闘となった(盧溝橋事件)。日本軍も国民軍も戦闘拡大の意図はなく、4 日後に停戦協定が結ばれた。が日本人への挑発を止めない何者か(共産党側)にたいして、日本軍側も中国への派兵を決めるなど両者の対立は激しくなっていった。
8 月上旬上海で日本陸軍の将校二人が暗殺され、7 月 29 日には北京近郊の通州で日本人居留者 223 名が無残にも逆殺される事件がおきた(通州事件)。8 月13 日、中国軍(国民 + 共産)の大軍は上海の日本人住居区を守っていた日本軍を攻撃、激しい戦闘が始った(上海事変)。日本軍は中国陸軍精鋭部隊に苦戦を強いられ、11 月までに4万人もの死傷者をだした。日本政府は、国民政府の首都南京を落とせば、蒋介石は降伏すると考え、この年 12 月に日本軍は南京を占領し、平和裡に南京をおさめた。
蒋介石は南京より更に奥地の重慶に逃げ、抗日戦争を続けた。その後、第二次大戦終了まで8年間続いた戦争を日中戦争(当時の呼称は支那事変)という。


78−中国を巡る日米関係の悪化
泥沼化する日中戦争は、米英仏ソ連の支援を受けた蒋介石が、日本軍に対して抗戦続け、戦争は長期化し、いつ終わるとも知れなかった。1937 年、開戦当初の日本国内は、戦争景気で雇用が増え、消費が拡大した。しかし中国大陸での戦争は、奥地にまで拡大し、泥沼化してゆき、終結のめども立たなかった。日本は、早期の戦争終結を望み、和平工作をはかったが、日中双方の足並みがそろわず、うまくいかなかった。長引く戦争を遂行する為に 1938 年には国家総動員法が成立した。議会の同意なしに物資や労働力の動員を出来る権限を軍隊に与えた。1940 年にはいると、米、味噌、砂糖、マッチなどの生活必需品まで配給制となった。同じ時期に、国会では「この戦争の目的は何か」と聞かれた政府は明確に答えることが出来なかった。国民は、「贅沢は敵」というスローガンのもと、切り詰めた生活を余儀なくされた。また国内の検閲も強化されますます不自由になったが、ドイツやソ連のごとく、統制経済を理想とする考えが広まった。軍部の力が強くなり政党が解散され、大政翼賛会にまとまり、挙国一致体制が出来上がった。
1938 年近衛首相は「東亜新秩序構想」を発表した。東亜とは、日本、満州、
中国を含む地域を指し、日本を中心に独自の経済圏を作るという構想であった。国内の不況が続くアメリカは、門戸解放、機会均等を唱え近衛声明に強く反発した。蒋介石を影で応援していたアメリカは、この前後より公然と蒋介石(国民党)を支援するようになり、日米戦争が近づいた。
1939 年アメリカは日米通商条約を延長しないと日本に通告した。石油や鉄など多くの物資をアメリカからの輸入に頼っていた日本は、更に苦しい立場に追い込まれた。この頃より、日本は、石油などの資源を得るため、東南アジアに進出する考えが強まった。しかし日本が進出すると、そこに植民地をもつイギリス、アメリカ、オランダ、フランスなどの軍隊がおり、衝突するのはさけられなかった。

《資料》 中国国民党の蒋介石軍への欧米諸国の援助
ソ連・1937 年・飛行機 900 機、戦車 200 両、トラック 1500 両、銃 15 万丁、弾 6 千万発、1939 年・1.5 億ドル。ソ連空軍密かに参戦
アメリカ・1927 〜 1941 年・4.2 億ドル。1940 年/戦闘機 50 機、弾丸 15 万発。1941 年・戦闘機 50 機、トラック 300 両、B -17 爆撃機 500 機。
イギリス・1939 年と 1941 年・2000 万ポンド。フランス・1938 年・1.5 億フラン、1939 年・9600 万フラン
これらの物資を蒋介石軍に援助物資を届ける為、アメリカと英国はビルマとインドシナを貫通する山岳道路を建設、整備した。これを援蒋ルートと呼んだ。


79−第2次世界大戦の始まり
1939年9 月、ヒトラー率いるドイツは、武力による領土回復と拡張を始めた。その前にソ連と不可侵条約を結んでおき、一気にポーランドに攻め込んだ。密約通り、ドイツとソ連はポーランドを分割占領した。イギリスとフランスは、ポーランドとの相互援助条約によって、ドイツに宣戦布告し、第 2 次世界大戦が始った。1940 年ドイツ軍はヨーロッパに侵攻し、パリを占領し、フランスを降服させ、イギリス本土に激しい空爆を行った。
日本は、1940 年に遠いヨーロッパの戦争当事国のドイツとイタリアと三国軍事同盟を結んだ。実質的な効用はないばかりでなく、反対にイギリスを支援するアメリカとの関係を決定的に悪化させた。1941年4 月、日本はソ連と日ソ中立条約を結び、2 つの条約の圧力でアメリカからの譲歩を引き出そうとした。が、6 月にはドイツがソ連に侵攻したため、ソ連は連合国側に加わった。そのためこの狙いはくるってしまった。それで、日本は日米関係を打開する為、ワシントンにおいて直接交渉をはじめたが、交渉は進展しなかった。
日本は石油の輸入先を求めてインドネシアを領有するオランダと交渉したが成功せず、反対にアメリカ、イギリス、支那、 オランダの 4 カ国が日本包囲網を作り経済的に追い詰める状況となった(ABCD 包囲網)。同年 7 月、日本の陸海軍はインドネシアの石油提供に関してオランダに圧力をかける目的で、仏印のサイゴンに進駐した(南部仏印進駐)。サイゴンは日本が南進する場合に軍事上の重要拠点であった。
8 月、アメリカは在米日本の資産を凍結していたが、その上に更に対日石油輸出を全面的に禁止した。当時の原油は 95%がアメリカ、5%がオランダ゙領インドネシアで産出していた。日本の石油在庫は半年分もなかった。
同月、米英両国は大西洋上で首脳会談を開き、「領土の不拡大、国境線の不変更、民族の自決」 など両国の戦争目的と戦後の方針を打ち出した(大西洋憲章)。経済的に追い詰められた日本は、アメリカとの戦争を何とか避けようと最大の努力を続けた。妥結しない場合は、開戦するという決意のもとに日米交渉を続けた。1941 年 11 月 26 日、アメリカより届いた最後通牒「ハルノート」には、「中国、インドシナから無条件で即時撤退せよ」という強硬な要求が綴られていた。アメリカ政府の最後通告と受けとめた日本政府は、アメリカとの戦争を決断した。

《資料》 アメリカの日本への最後通告「ハルノート」
当時のアメリカのハル国務長官の名前で彼が書いた文面であったのでこの名前がついた。彼はコムンテルンのスパイであったといわれている。その内容の一部を要約すると、3 項−日本は中国及びインドシナから一切の軍隊と警察を引上げるべし。4 項−日本は蒋介石政府のみを中国の正統な政府と認めよ ] の如し。

《資料》 *ユダヤ人を救った日本人 樋口季一郎と杉原千畝
1938 年、ソ連と満州の国境の町にビザをもたないユダヤ人難民 11.000 人が到着した。ハルピン特務機関の樋口中将は、満州国参謀長の東条英機大将の了解のもと、満州鉄道に依頼し、救援列車をだし、上海などに逃げる手配をした。また第二次大戦の始った 1940年7 月、リトニアにある日本領事館に、ドイツ軍に追われていた
ユダヤ人 6000 人が集った。領事の杉原千畝は徹夜で手書きのパスポートをつくり、合法的に出国させ彼らの命を救った。戦後この二人の勇気ある行動は、イスラエル政府に知られ表彰された。


80−大東亜戦争(太平洋戦争)
1941 年 12月8 日、日本海軍はアメリカのハワイにある真珠湾基地を奇襲し、アメリカの戦艦 4 隻を撃沈、4 隻を撃破し基地航空部隊に全滅に近い打撃を与えた。この作戦はアメリカの太平洋主力艦隊を撃破し、太平洋の制海権を獲得することを目指した。同日、日本陸軍はマレー半島に上陸し、イギリス軍を撃破しつつ、シンガポールを目指して進んだ。日本は英米に対して宣戦布告し、この戦争は「自存自衛のための戦争である」と宣言した。又この戦争を「大東亜戦争」と命名した。ドイツ・イタリアもアメリカにに宣誓布告し、第二次世界大戦は、日・独・伊の枢軸国と米・英・蘭・ソ・中の連合国が、世界中で戦う戦争へと拡大した。
対米英開戦をニュースで知った日本国民の多くは、その後次々に伝えられる戦果に歓喜した。他方、アメリカ政府は、日本の交渉打ち切りの通告が真珠湾攻撃よりも遅れたのは卑劣な[だまし討ち]であると自国民に宣伝した。日本の真珠湾攻撃は軍事的には成功したが、今まで戦争に反対していたアメリカ国民を「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に、対日戦争に団結させた。
真珠湾の大戦果の 2 日後の 12 月 10 日、マレー沖の海戦で、イギリスの誇る東洋艦隊の主力艦プリンス ・ オブ ・ ウエールズと戦艦レパレスが日本陸軍の航空部隊によって撃沈された。イギリスのアジア植民地の守りが一挙に吹き飛んだ。
1942 年の中ごろまでの日本軍の戦果は目覚しかった。開戦と同時にマレー半島に上陸した陸軍は、僅か 70 日で 1100km を南下し、半島南端にあるシンガポールに築かれたイギリス軍のアジア最大の要塞を陥落させた。果敢な進撃で、たちまちの内に日本は広大な東南アジア全域を制覇、占領した。米国と欧州各国の軍隊をアジアより追い落とした。
1942 年 6 月ミッドウエー海戦で日本の連合艦隊はアメリカの海軍に敗れ、航空母艦や多くの兵員を失った。この後、アメリカ軍は反撃に転じた。日本は制海権を失い、輸送船はアメリカの潜水艦によって次々に沈められ、補給路を絶たれた。日米の生産力の差が次第に表面化し、日本軍は武器・弾薬に限りある中で、苦戦を強いられた。ヨーロッパでもドイツは次第に劣勢となっていった。
ヨーロッパ戦線では 1942 年を境に、連合軍が反撃に転じた。1943 年ドイツ軍はソ連のスターリングラードに攻め込んだが敗退した。同年イタリア軍が降伏した。1944 年にはドイツ軍がパリより撤退した。

《資料》 大東亜戦争(大アジア戦争)
日本はこの戦争を大東亜戦争と呼んだが、アメリカは戦後、太平洋戦争という名称に統一した。日本はアジアの白人による植民地を救うための戦争と考えていたので、アメリカはその意図を消すため、戦争名を変えた。

《資料》 大東亜戦争の展開概略
@ 1941年 12月8 日・日本軍のハワイ攻撃 A 1941 年 12 月 10 日・陸軍航空隊よる英国東洋艦隊撃沈 B 1942年2月 15 日・日本軍のシンガポール占領 C 1942年6月5 日・ミッドウエイ海戦で日本軍は4 隻の航空母艦失う。D 1943年2月1 日・ガダルカナル島より日本軍撤退。E 北太平洋のアッツ島より日本軍撤退。 F  1944 年6月5 日 マリアナ沖海戦。G マリアナ諸島サイパン島で日本軍最初の玉砕 H フィリッピンの近くレイテ沖海戦 I 1944 年 12 月 パラオ島にて日本軍玉砕   J 1945 年3月7日 硫黄島にて日本軍総玉砕。 K 1945 年 3 月〜 6 月沖縄にて民間人を巻き込む戦闘。




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