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知っておきたい『日本の歴史』徳力啓三 その12
知っておきたい『日本の歴史』その12は、81−大東亜会議とアジア諸国から始まり、82‐戦時下の国民生活、83−経済を巡る外交と日本の敗戦と続き第6章現代の日本と世界、昭和時代後半・平成時代に入り第1節 占領と冷戦に入り84−占領下の日本に入り面白くなって来た所で終了します。後1回では字数がオーバーしそうなので最終回は、コメント集を掲載して終わらせることにします。後2回、お楽しみ下さい。
写真は、1943年11月に行われた大東亜会議の各国首脳と帝国議事堂前で撮った記念写真。中央が東条英機首相。


81−大東亜会議とアジア諸国
日本の緒戦の勝利は、長年白人の植民地支配に苦しんできた東南アジアやインドの人々に独立への夢を与えた。日本軍の破竹の快進撃は、現地の人々の協力があったからこそ可能であった。親日国であったタイに加え、日本軍の捕虜となったイギリス軍のインド人兵士を中心としてインド国民軍〔INA〕が結成された。インドネシアでもビルマでも、日本軍の指導で軍隊が作られた。この軍組織が後のアジア各国の建国の独立戦争の中核となった。
大東亜会議が 1943年 11月5日、日本の呼びかけにより東京で開催された。以前よりアジア各地の独立運動家が日本に亡命し、多くの日本人がこれを支援していた。戦争が始まると日本は、占領下に置いたアジア各国に戦争の協力を求めた。
 現地の人たちは将来の独立を期待し、これに応えた。大東亜会議は初の有色人種だけの国際会議であり、その結束を示した。また白人の大西洋憲章に対して、「大東亜共同宣言」を発し、「大東亜共栄圏の建設」を戦争の一大目標に掲げた。
日本にとってのアジア進出は、戦争遂行に必要な資源の入手とアジア各国の独立のもとに新しい経済圏を作ることにあった。日本は「アジアの解放」の為に、欧米の白人諸国の植民地守備軍と戦わなければならなかった。戦場となったところでは、損害がでたが、日本軍は占領した各国で、軍政をしき、小学校を建て、技術訓練をし、民衆を奮い立たせる教育を行った。また現地の指導者らは、自国を守るための訓練をし、若者には軍事教練まで施し、欧米諸国からの独立を達成するため準備を行った。彼らもまた日本の軍政統治に協力した。
しかし、欧米諸国の植民地政策の手先となっていた人々の中には、日本の軍政に反発する人もおり、反日活動も起こった。食糧不足や強制労働に不満を持った現地人もいたが、日本軍が終戦で撤退した後、旧宗主国のイギリス、フランス、オランダは直ちに再支配するために、旧植民地に戻ってきた。しかし、これらの地域の国々は、再支配しようと戻ってきた旧宗主国の軍隊に立ち向い、果敢な抵抗を試みた。彼らは、日本軍が教えた独立への戦いをおのずから実践し、自分らの力により独立を勝ち取っていった。また日本軍の将兵の中には、終戦後も現地に残り、独立戦争を共に戦った日本軍人が多数いた。

《資料》 アジアの人々を奮い立たせた日本の行動・『日本人よ!ありがとう』より
「日本軍は、長い間、アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないとあきらめていたアジアの民族に驚異の感動と自信を与えてくれました。長い間眠っていた『自分たちの祖国を自分たちの国にしよう』という心を目覚めさせてくれたのです。私達はマレー半島を進撃してゆく日本軍に、歓呼の声をあげました。敗れて逃げてゆくイギリス軍を見たときに、今まで感じたことがない興奮を覚えました。」
マレーシアの独立運動家・元上院議員のラジャーダト・ノンチック氏の著書より

《資料》 日本を解放軍としてむかえたインドネシアの人々
350 年間にわたってオランダの植民地とされて来たインドネシアには、昔から一つの伝説が口伝えに語り継がれてきた。ジャワ島にあった小さな王国がオランダにより滅ぼされた時、王様が次のような予言をしました。「今に北の方から黄色い巨人が現れて、圧制者を追放し、トウモロコシの実がなるころには立ち去る。そうして我々は解放される。」(ショヨボ王の予言)
1942 年、日本軍がインドネシアに進駐すると、人々は道端に集り、歓呼の声をあげて迎えた。日本はオランダを追放してくれた解放軍だった。実際、日本の 3 年半の占領期間に、PETA と称する軍事組織の訓練、中等学校の増設、共通語の普及など、後の独立の基礎となる多くの改革が日本軍の手でなされた。インドネシアでは約 1000 名の日本兵が残留し、インドネシアの独立のために PETA とともに 4 年半にわたって戦った。この独立戦争で約 700 名の元日本兵が戦死した。

《資料》 日本が独立を認めた国々
1943 年・ビルマ、フィリピンを独立させ、自由インド仮政府を承認した。
1945 年・ベトナム、カンボジア、ラオスを独立させた。

《資料》 大東亜会議(1943 年 11 月東京)に出席した国々
日本の東条英機首相、ビルマ(現ミャンマー)、満州帝国、中華民国南京政府(重慶の蒋介石に対抗し、日本の支援を受けて南京に立てられた政府)、タイ、フィリピン、自由インド仮政府の 7 カ国の各国代表が参加した。

82‐戦時下の国民生活
第一次世界大戦以降、戦争は兵隊だけではなく、国民総出で教育、文化など全てをかけて行う総力戦の時代になっていた。日本では物資、経済、産業、交通など全ての部門を政府が統制する総動員体制をとった。
戦争による物資の不足で、暮らしの中から綿、羊毛、皮、ゴム製品などが順次姿を消した。政府は国民運動を起こし消費節約、貯蓄増強などを国民に呼びかけた。
戦況が悪化するに従い、国内の統制はより一層厳しくなり、多くの青年男子が招集され、戦場に行ったため、労働力の不足を埋めるための、徴用が行われた。また、多数の生徒・学生が勤労動員され、未婚女性は女子挺身隊として工場で働くことになった。又大学生までも徴兵猶予が取り消され、出征していった(学徒出陣)。あらゆる物資が不足し、寺の鐘など民生用の金属も供出され、生活は窮乏を極めた。それでも国民は戦争の勝利を信じ、よく働き、良く戦った。戦争末期には朝鮮、台湾の人々まで徴兵や徴用が適用された。1944 年に入ると、戦局は日本にますます不利となり、飛行機や潜航艇を使い敵に決死の攻撃をかけるようになった(飛行機による特攻攻撃を、一般に神風特攻という)。
1944 年 7 月、サイパン島が陥落し、アメリカ軍はそこから日本本土を空襲し始めた。同年年末には B-29 爆撃機による民間人への無差別爆撃を開始した。爆弾投下などにより、日本国民は直接戦火にさらされるようになった。子供たちは危険を避けるため、親元を離れ、地方のお寺などへ疎開した(学童疎開)。1945 年 3 月アメリカ軍は東京の下町(5km × 6km)の範囲に集中して大爆撃を加え、一夜にして約 10 万人の市民が焼殺された。その後も日本の大中の町200 以上が焼き払われ、50 万人以上の国民が命を落とした。

83−終戦を巡る外交と日本の敗戦
1945年2 月、ソ連領クリミヤ半島のヤルタに米英ソ 3 国の首脳が集り、連合国側の戦後処理を話し合った(ヤルタ会談)。ここでアメリカのルーズベルト大統領は、アメリカの負担を減らす為、ソ連の対日参戦を求めた。ソ連のスターリンは、ドイツとの戦争が終わってから 3 月後に参戦すると回答した。その代償として、南カラフトと千島列島を要求して、合意を取り付けた(ヤルタ秘密協定)。この密約は領土不拡大を宣言した大西洋憲章に違反していた。
1945年5 月、連合軍がベルリンに侵攻すると、ヒットラーは自殺し、ドイツ政府は崩壊、ドイツ軍は無条件降伏した。こうしてヨーロッパでの第 2 次大戦は終わった。一方アジアでの戦いはアメリカ軍が 3 月には沖縄の攻撃を開始し、沖縄戦が始まった。この戦いで、沖縄県民にも多数の犠牲者がでた。日本軍もよく戦い沖縄県民も良く協力した。日本では戦争終結を巡る議論が繰り返され、中立国ソ連に連合軍との講和の仲介を求めることに決まった。
7 月ドイツのポツダムに米英ソ 3 国の首脳が集まり、26 日、日本に対する降伏条件を示したポツダム宣言を米英中 3 国の名前で発表した。ポツダム宣言を受け取った日本側は鈴木貫太郎首相や主要閣僚が、条件付の降伏要求であることに着目し、これを受諾する方向に傾いた。しかし、阿南陸軍大臣などは国体護持の保証がないとして反対し、本土決戦を主張して譲らなかった。ソ連の対日参戦決定を知らない日本政府は仲介の返事を待った。アメリカ軍は8月6日広島に原子爆弾を投下した。8 日にはソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に宣戦布告、翌日満州に侵攻し始めた。9 日にはアメリカが長崎に原爆を投下した。
同じ 9 日の深夜、昭和天皇ご臨席のもと御前会議が開かれ、ポツタム宣言の受諾について討論、賛否同数となり結論が出ず、鈴木首相が天皇に聖断を仰いだ。天皇はこれ以上の国民の犠牲を避けるため、即時ポツダム宣言を受諾し戦争を終結することを決められた。8 月 15 日正午、天皇陛下はじきじきラジオ放送に出られ、国民は長かった戦争の終わりと、日本の敗戦を知った。日本の降伏によって、第二次世界大戦は終結した。

《資料》 ご聖断のときの昭和天皇のご発言 1945 年8月 14日
「……このような状態で本土決戦に臨んだらどうなるか、私は非常に心配である。あるいは、日本民族は、皆死んでしまわなければならないことになるのではないかと思う。そうなればどうしてこの日本という国を子孫に伝えることが出来るのか。一人でも多くの国民に生き残ってもらって、その人たちに将来再び立ち上がってもらう以外にこの日本を子孫に伝える方法はないと思う。……皆のものは、この場合私のことを心配してくれると思うが、私はどうなってもかまわない。私はこのように考えて、戦争を即時終結することに決心したのである」
(迫水久恒書記官長の証言より)

《資料》 沖縄戦について・日米戦争の唯一の本土決戦
1945 年 3 月より始った沖縄戦での日本側の軍民戦没者推計は、18 万人余り。うち住民の死者は、約 94.000 名を数えた。大激戦の結果、1945 年 6 月 23 日、沖縄は完全にアメリカの物量戦に制圧された。沖縄戦の司令官・太田実海軍少将は「沖縄県民はかく戦えり。県民に対し後世特別の御高配あらんことを」と県民の献身的な協力と惨劇を本土に電報で伝え、自決した。

《補講》 大東亜戦争とアジアの独立

アジアの解放を掲げた日本は敗れましたが、アジアは植民地から解放され独立できました。
大東亜戦争のアジア諸国に対する影響としては、日本は自存を目的とした戦争を始めると直ちに資源獲得のため、当時オランダやイギリスの植民地になっていた東南アジアに軍を進めました。アジアの諸国は欧米の植民地支配に苦しんでいました。日本軍が着くと、「解放軍がきた」と歓迎され、戦争初期の日本軍の目覚しい勝利は、アジアの人々に独立の希望を抱かせました。
インドの独立と日本軍
インドは 16 世紀以降、ヨーロッパ諸国の植民地支配を受けました。ムガール帝国を分割支配し、最終的にはイギリスが、他国を圧し、400 年もの間インド全体を支配しました。第一次大戦後のインドでは、ガンジーらの英政府に対する不服従運動がおこり、独立運動が芽生えました。インド独立運動の指導者チャンドラ・ボーズは自前の軍隊をもった政府の樹立を考えていました。日本軍がシンガポールのイギリス軍の根拠地を奪取した時、13000 人ものインド人兵士がイギリス軍の一部として捕虜となりました。日本軍はこれら兵士を説得し、インド独立の為の国民軍としました。
1943 年 10 月、シンガポールでチャンドラ・ボーズを首班とする自由インド仮政府ができました。インド国民軍は「チャロー・デリー」(行け、デリー)と叫びながら、日本軍と一緒にインドに向かって進撃を開始しました(インパール作戦)。しかし成功しませんでした。戦後、イギリスはインドの支配を続ける為に、独立運動をした人々を反逆者として裁判にかけようとしました。するとインドの人々はいっせいに立ち上がり、独立をさけびました。大東亜戦争が終ったあと、1947 年になってイギリスはインドの独立を認めました。

アジアを覆う独立の波
日本が連合国に降伏すると、欧米諸国は日本の占領下にあったビルマ、マレー、インドネシアに再び植民地支配をしようと戻って来ました。
インドネシアは、日本の占領中は独立を認められませんでした。戦後、多くの日本人兵士が現地に残りインドネシアの人たちと共に独立のために戦いました。
ベトナム、カンボジア、ラオスの三国は、フランスの植民地で、戦前は仏領インドシナと呼ばれていました。日本軍はフランス政府の了解を得て、この地域に進駐していました。この地でも、日本が降伏後、フランスが戻って来ましたが、多くの日本の兵士が現地に残り、これらの国々の人たちと一緒に独立戦争を戦いました。 世界がみた大東亜戦争大東亜会議にも出席したミャンマーのバー・モウ初代首相の著書『ビルマの夜明』


《資料》 大東亜戦争とアジア各国の独立
第 2 次世界大戦後に独立した国々と独立した年
独立年 国の名前 旧宗主国 独立年 国の名前 旧宗主国
1946 フィリピン アメリカ 1947 インド イギリス
1948 ビルマ(現ミャンマー) イギリス 1949 インドネシア オランダ
1953 ラオス フランス 1953 カンボジア フランス
1954 ベトナム フランス 1957 マレーシア イギリス
1963 シンガポール イギリス


《補講》 戦時国際法と戦争犯罪
戦時国際法とは、1907 年オランダのハーグで締結された「ハーグ陸戦法規」がその代表的な国際ルールです。人類は長い歴史の中で国家や民族の利害の衝突から、絶え間なく戦争を繰り返してきました。残酷な出来事もたえませんでした。たとえ戦時であっても、やってはいけないことを国際的に取り決めたルールが、戦時国際法といわれるものです。
*戦闘員以外の民間人を殺傷したり、捕虜となった兵士を虐待することは禁止する。
*軍服を着てないものに武器を持たせたり、戦闘に参加させることは禁止する。
*それらを捕らえた場合は一定の手続き後、ゲリラやスパイとして処刑を認める。20 世紀最大の戦争犯罪沖縄戦でも本土の大都市への無差別爆撃でも非武装の民間人が標的にされ、沢山の人が殺されました。1945年3月 10 日の東京大空襲の攻撃命令を受けたアメリカ軍のパイロットは、「それは戦時国際法違反ではないか」と司令官に問いただしたと言われてれています。東京大空襲では一夜にして 10 万人が焼け死にました。
原爆投下では、広島で約 14 万人以上、長崎で約 7 万人以上の人が亡くなりました。その犠牲者は一般市民で、その被害の大きさは、20 世紀最大の戦争犯罪であり、アメリカ軍が犯した最大の誤りでした。これらはいずれも1945年に起こった民間人の
殺戮でした。

シベリア抑留
1945 年8月9 日、ソ連は日本との中立条約を破って、満州・樺太に侵入し、日本の民間人に略奪、暴行、殺害を繰り返しました。ソ連は日本が降伏したあとも侵攻をやめず、日本固有の北方領土の占領を終えた時には、既に 9 月になっていました。さらに、捕虜は即座に帰国させるとしたポツダム宣言の規定に違反して、捕虜を含む 60 万人以上の日本人をシベリアなど各地に連行し、満足な食事も与えず、過酷な強制労働に従事させました。そのため、わかっているだけでも、抑留中に 6 万人以上の日本人が死亡しました。
これら戦争の勝者である連合国側の戦争犯罪は一切、裁かれることはありませんでした。

日本軍の戦争犯罪
日本軍も戦争中に侵攻した地域で捕虜となった敵国の兵士や非武装の民間人に対し、不当な殺害や虐待を行ったことがありました。連合国側は、日本軍のおかした戦争犯罪を厳しく裁き、1000 人に近い兵士が B 級、或いは C 級戦犯として処刑されました。その中には無実でありながら、誤った判決で、処刑された人も多くいました。


第6章 現代の日本と世界 昭和時代後半・平成時代

第 1 節 占領と冷戦

84‐占領下の日本
1945年8 月末、アメリカ軍を主体とする連合国軍による日本占領が始まった。アメリカの占領目的は、日本が再びアメリカの脅威にならないよう、国家の体制を作りかえることだった。
日本政府は存続したが、その上にマッカーサーが率いる連合国軍総司令部(GHQ)が占領軍として君臨し、日本を統治した。日本では戦時中検閲が行わ れていたが、占領下では報道に対する言論の自由は奪われ、占領軍は、30 項 目の報道禁止項目をもとに徹底した検閲を行った。これをプレスコードという。また GHQ は日本を民主化することを基本方針としており、民主化のための 5 大改革指令を1945 年10 月に発した。@婦人参政権の付与、A労働組合の結成、B教育の自由主義化、C圧政的諸制度の撤廃、D経済の民主化を発令した。また経済の改革として 財閥の解体、大地主の土地を取り上げ農地の解放。その他、労働関係の改革として労働基準法、独占禁止法なども制定した。教育改革としては教育基本法や学校教育法を制定し、政治改革としては日本国憲法を定め、民主化と称して新選挙法まで様々な改革指令をだした。沖縄と小笠原諸島のみはアメリカ軍が直接統治を行った。
日本国は、ポツダム宣言により北海道、本州、四国、九州と周辺の島々のみを領土とされ、朝鮮、台湾など日清戦争後に領有・併合した領土を全て失った。北方領土は、ソ連によって不法に占拠され、現在まで続いている。
また日本の陸海軍は、無条件降伏させられ、完全解体された。外地に居た軍隊も全て武装解除され、日本への復員が始まった。外地にいた民間人も全員日本に引き上げた。復員・引き上げは、戦後の大混乱の中で困難を極めた。シベリア抑留や中国残留日本人孤児など多くの悲劇を生んだ。
 1946 年 GHQ は東京裁判を開いた(極東国際軍事裁判)。戦争中の指導的な軍人や政治家が「平和に対する罪」などを犯したとして 「戦争犯罪者」 であると断罪され、25 名が有罪判決を受け、うち 7 名が死刑判決を受けた。またGHQ は戦時中に公的地位にあった者など、各界の指導者約 21 万人を公職追放した。公職追放者の内訳は戦争犯罪者として軍人 125.657 名、政治関係者37.834 名 , その他軍国主義者 46.515 名、合計 210.006 名。のちに政界、財界、言論界、教職者にも拡大され、約 12 万名が追放され、職を失った。
1946 年 2 月、GHQ は、日本の国家体制を作りかえるため大日本帝国憲法の改正を求めた。日本側は民主化を進めるためには、明治憲法に多少の修正を施せば足りると考えたが、GHQ は、約 1 週間後に自ら作成した英文の憲法草案を日本政府に示し、それを受け入れることを迫った。日本政府は、交戦権の否認などを含む草案に衝撃をを受けたが、拒否した場合、天皇の地位が存続できなくなることを恐れ、やむなくこれを受け入れた。帝国議会の審議を経て 11 月 3 日、日本国憲法は公布された。

《資料》 *新日本国憲法
天皇を日本国および日本国民統合の象徴と定めた。主権在民を謳い、国会を国権の最高機関とし、議院内閣制を明記した。基本的人権に関する規定も挿入された。また 「国際紛争を解決する手段としての戦争破棄」 は他国の憲法にも見られる規定であったが、「戦力を持たない」 と定め、「交戦権を否認した」ことは、他に例を見ない国家の独立性をそこなう憲法となった。

《補講》 占領下の憲法作成とその成り立ち

日本には主権がなく、外交権もありませんでした。これほど長期間の占領は歴史上例がありません。
戦争は国家の意思を、武力を持って相手国に強制することです。ですから 1945 年8月 15 日には戦闘が終っただけで、戦勝国の意志を敗戦国に押し付ける政策は、占領期間中も継続し、戦争が本当に終ったのは、日本が独立を回復した時だと考えることもできます。
アメリカの占領目的は、日本が再びアメリカに武力を持って立ち向かうことのないように、日本の国体を改造することでした。そこでその期間中に英文で書いた憲法草案を与えるなど国家の改造を図りました。それが民主化と呼ばれる一連の占領政策の意味するところです。
占領期間中に憲法を変えることは、戦時国際法で禁止されています。しかし当時の日本政府はこの原案を受け入れ、日本政府の改正案として作成し、大日本帝国憲法を廃し新しい憲法を制定し、現在も有効な憲法としています。

戦争についての罪悪感を日本人に植えつける
検閲は戦前にも戦中にも行われていましたが、占領軍は占領直後から新聞、雑誌、ラジオ、映画の全てにわたって、言論に対する厳しい検閲を行いました。空襲や原爆については報道することも、連合国を批判したり、日本の立場を擁護することも禁じました(プレス・コード)。占領下の学校では教科書の軍事や天皇に関わる記述には墨が塗られました。
更に GHQ は 「戦争について罪悪感を日本人の心に植えつけるための情報宣伝計画」 を軍事作戦として実施したのです。これより日本人は 「悪い侵略戦争を始めたのは日本である」 と考えるように仕向けました。GHQ はまず初めに日本人が使っていた 「大東亜戦争」 という用語を禁止し、「太平洋戦争」と言わせました。新聞やラジオを通じて、日本兵がおかしたとされる暴虐な行為をあることないこと暴き立て、日本人の心に大きなショックを与えました。

東京裁判と国際法
東京裁判は 1946 年 5 月より 2 年半にわって開かれました。戦争中に指導的な立場であった政治家や軍人が被告とされ、被告全員が有罪と宣告されました。東条英機以下 7 名が絞首刑に処されました。東京裁判は、@勝った側が負けた側を裁いた。
A裁判官も検察官も勝った側から出た。B勝った側の戦争犯罪は裁かれなかった、という指摘があります。また 「平和に対する罪」 などは戦争が終ってから考えた罪状で、「事後法によって裁いてはいけない」という近代の裁判ではありえない、裁判の原則に反すると言われています。インドを代表して参加したパル判事は、「この裁判は国際法上の根拠を欠いている」として、全員の無罪を主張しました。しかしGHQはその意見書を公開せず、無視しました。

マッカーサーの反省
東京裁判開廷の最高責任者であるマッカーサーはこの裁判を積極的に進めまし た。が、戦争を始めた人を新たに設けた「平和に対する罪」で裁くことが正しいのか、という疑問を最初からもっていました。1950 年 10 月、彼がトルーマン大統領に会った時、同年 6 月から始った朝鮮戦争を取り上げ、国家の指導者を平和に対する罪で裁いても戦争は防止することはできないと、東京裁判について疑問を述べました。

占領下の検閲と東京裁判
占領下では連合軍への批判は一切許さない徹底した検閲が行われました。その中で開かれた東京裁判に関することは、報道されず、日本人の目にふれることはありませんでした。





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