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椰子の葉風 鈴木南樹 その1
神戸にある神戸移住センターに週末にボランタリーとして訪問者に移住に付いての語り部をしておられる出石美知子さんが見付けた『椰子の葉風』を丹念にワードで叩き直し1冊の本の形態に仕上げた作品を出来るだけ多くの人に見て貰いたいとの気持ちで送って呉れました。これを40年!!のホームページにも15回程度に纏めて残して置く事にしました。今回は、その1で出石さんご自身の序文、目次、本文の1と2を掲載する事にしました。写真は、出石さん近影をお願いしているのですが、間に合わず旧神戸移住センター前に咲くイペーの花を使わせて貰いました。


序  文
皇国移民会社を興そうとした水野龍が、明治三十八年にブラジル第三代公使杉村濬(フカシ)(実際に書いたのは堀口久万一と言われている)が政府に提出した「視察復命書」に触発されて、自分の移民事業はブラジルへ人々を送り出すことだと思った。しかし移民の人をブラジルに送り出す前に、実際にブラジルを見てみたいと横浜からチリに向かう船に乗る。
当時は日本から直接ブラジルに向かう船でのルートがなかったのだ。
その船でチリへ向かうために一人で乗船していた鈴木貞次郎という二十代の青年と知り合う。水野は鈴木に「視察復命書」を見せて、ブラジルとはこんなに素晴らしい国らしいから、チリに行くのをやめて自分と一緒にブラジルへ行こうと誘った。鈴木の周りの人は『移民屋の言うことなど信用してはいけない』と反対したと言われている。
しかし、若い鈴木は一夜のうちに「視察復命書」を読んで感動し、水野に同行することを承諾する。
こうして、二人はペルーで下船し、アンデスを越えて四か月かけてブラジルにたどり着く。水野は直ぐに杉村公使に会いに行き、ブラジルへの日本人移住を図っていることを告げて賛同を得た。そして杉村公使にサンパウロ州農政局長に取り次いで貰うが、移民の契約は結べなかった。
それはブラジル側が日本人の情報を持っていなかったからである。まず、今までに日本人が移住した実績のあるハワイやアメリカなどから情報を集めてからの契約になる(実際は別の要因もあったらしいが)と言われる。
そこで水野は、自分は一年後にもう一度ブラジルに戻ってくる。しかしその間、一緒に来た鈴木貞次郎を残していくので、彼の働きぶりを見て日本人を理解してほしいと申し出たという。
こうして若い鈴木貞次郎は、たった一人でブラジルに残されたのである。
一年後に水野がブラジルにやって来たときは、鈴木はその農園で絶大なる信頼を受け、書記の仕事まで任されていたそうである。その結果、水野龍はブラジル・サンパウロ州と、三年間に三千人の移住を認めるという移民契約を結ぶことができたのだ。
若い鈴木がどんな思いで、たった一人で言葉も違うブラジルで暮らしていたのかに興味を持った。きつい仕事を、寂しい毎日を暮らしながらも、自分が今ここで投げだせば後に続く日本人はないのだという明治の若い男性の気概を感じる。
そんな時、鈴木がたった一人で暮らした一年間の回想録があると知ってぜひ読みたいと思ったのが『椰子の葉風』である。
鈴木貞次郎は正岡子規とも交流があり、俳号を「南樹」という。
                                出石 美知子



 ページ案内・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2〜3頁
鈴木貞次郎(南樹)前書き・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4頁

椰子の葉風
コーヒー園生活(一)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4頁
コーヒー園生活(二)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6頁
コーヒー園生活(三)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9頁
コーヒー園生活(四)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11頁
コーヒー園生活(五)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・14頁
コーヒー園生活(六)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17頁
コーヒー園生活(七)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・19頁
コーヒー園生活(八)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21頁
コーヒー園生活(九)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・25頁
コーヒー園生活(十)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27頁
コーヒー園生活(十一)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30頁
コーヒー園生活(十二)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・32頁
コーヒー園生活(十三)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・35頁
コーヒー園生活(十四)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・38頁
コーヒー園生活(十五)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・42頁
コーヒー園生活(十六)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・44頁
コーヒー園生活(十七)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・46頁
コーヒー園生活(十八)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・48頁
コーヒー園生活(十九)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・50頁
コーヒー園生活(二十)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・52頁
コーヒー園生活(二十一)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・54頁
コーヒー園生活(二十二)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・55頁
水野 龍 来伯(一)耕地からサンパウロへの旅 ・・・・・・・・・・55頁
水野 龍 来伯(二)なつかし日本人よ、日本語よ ・・・・・・・・・57頁
水野 龍 来伯(三)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・59頁
日本移民渡航前のサンパウロ市の邦人 ・・・・・・・・・・・・・・59頁
水野 龍 来伯(四) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・61頁
水野 龍 来伯(五) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・62頁
水野 龍 来伯(六) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・64頁
同胞移民に対する将来の心配 
果たして「来ることが第一」か? ・・・・・・・・・・・・66頁
狩りの一日 アンナの弟に抱く愛 ・・・・・・・・・・・・・・・・・69頁
コーヒー園生活 農園最後の思い出 ・・・・・・・・・・・・・・・・73頁
コーヒー園生活 農園との別れ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・79頁
移民収容所時代(一)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・84頁
移民収容所時代(二) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・87頁
移民収容所時代(三) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・88頁
移民収容所時代(四) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・94頁
移民収容所時代(五) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・95頁
移民収容所時代(六) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・99頁
移民収容所時代(七) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・101頁
移民収容所時代(八) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・104頁
移民収容所時代(九) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・108頁
移民収容所時代(十) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・114頁
移民収容所時代(十一) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・117頁



椰子の葉風
鈴 木 南 樹

『椰子の葉風』は、私が最初の日本人としてブラジルに渡った当時の自叙伝の一節である。ブラジルの農園生活と自然とを取りまとめて、第一回日本人移民がブラジルへ渡るまで
のことを書き残すというのが私の目的であった。
初めはブラジル時報に『放浪者の半生』として。そしてその続編をサンパウロ新報に『椰子の葉風』として掲載したけれど、一週間ごとに出される週刊紙にうまく対応することができないと自覚して中断していたものである。
ブラジルを知りたいと思う日本人の皆さんに、ブラジルのことを少しでも伝えることができたなら、私の望みは達せられたと言えるのである。


椰子の葉風

コーヒー園生活(一)

鐘とラッパの音で、その日その日の決められた肉体労働が支配されて、まだ奴隷制度があった頃の雰囲気を残しているコーヒー園生活も、下草の除草時に入るとラッパの音が聞こえてこなくなる。
朝の起床の鐘と夜の就寝の鐘だけが、相変わらず静かな空気を震わせて鳴り響いてくる。それはむしろ退屈な田園生活に、なんとなく待ち焦がれているような、新鮮な面白さが
や情緒が感じられる。
非常に忙しかったコーヒーの収穫時から解放されて、コロノ(農園労働者)たちにも、のんびりとした平和な気分であふれかえっている。願いが叶うなら雨がもう少し小降りになればいいと思うが、しかし雨は農作物の豊作か不作かを占うバロメーターであるから、土にかかわる農民にとって雨を嫌うのは反逆者のようなものである。
雨、雨、ある時は急に降る霰のように、またある時は、深い濃霧のように降り続ける日が多くなってくる。
私はこのような日曜日などには、よく近くのコロニヤ(移民小屋)を訪問した。窓の小さな長屋建てのほの暗い室内に、焚き火が真っ赤に燃え上がっているのが、いつも私の気持ちを和ませてくれた。
たまにはレンガを敷いてある小屋もあったが、ほとんどは土間であった。汚れた壁、すすけた天井。それに板を張っていないので粗雑な瓦屋根は、ともすると雨漏りがするのであった。風が激しく横殴りの雨の場合は、ガラス戸のない窓には不細工な板戸で窓を閉ざすので、室内は夕暮れのように薄暗くなった。

私のよく訪問する小屋の主人はイタリア人で、フィオリと呼ばれていた。
彼は口癖のように「俺はカラブレースではないよ」と言った。
南イタリアの酷暑と痩せた土地とは、そこに住む住民の性格を凶暴なものにした。カラブリア人は丁度、ブラジルのバイヤノと呼ばれる人のように、荒っぽく喧嘩好きな人間で、ある意味軽蔑の代名詞のようになっている。
フィオリはトスカーナ地方に住むトスカ人で、それを誇りとしていた。
独身時代にアルゼンチンに渡って、牧場でガウチョとして働いていた話をするのが得意であった。見渡す限り限界のない大平野では、太陽は地平線の果てから上って、地平線の果てに沈んで行った。そこにはコオロギの群れが跳ね回っているだけであったそうである。
フィオリは牛糞を燃やした火で、串に刺した牛の肉をゆっくりあぶりながら焼いて食べた。その比べようもない美味しさは忘れられないものの一つであったそうだ。若い娘のいる家に行って、マテ茶を回し飲みしながらご馳走になる楽しみは、五十才近い今でもフィオリの忘れられない思い出であるそうだ。
こんな話の終わりには必ず「アンナ、アンナ、コーヒーを入れておくれ」と、こう呼んで自分の十七才になる、バラのように美しい娘に言いつけるのである。やがて黒いコーヒーが、真っ白なホウロー製のカップに、なみなみと注がれて机の上に置かれると、夢見るようにアンナの顔を見上げて「アハハハハ・・・」と顔をくしゃくしゃにして笑った。フィオリはあまり学問を受けていなかったが、その体内には南欧のロマンティックな血が流れていた。
フィオリはアルゼンチンから、少しばかりまとまったお金を懐にしてイタリアに戻った。
そして村で評判の高かった美人のローザと、外国戻りの青年との間には、オペラにでもあるような出来事があって、ついに彼らの恋は成就したのだ。
「おいローザ、俺はお前の家の窓の下で、よくこんな歌を歌ったもんだな」と言って、彼は目を細くして自慢の歌を歌った。
私には歌の意味も分からないし、節回しがうまいのか下手なのかも聞き分けることはできなかった。しかし、いかにも感心したように黙り込んで、ジーっと聞いてさえいればよかった。確かに声だけは魂に透き通るような、晴れやかないい声であった。
背丈のすらりとした妻のローザは「フィオリもあの頃は、こんな禿げ頭ではなかったのですよ」と、台所からその愛嬌のある顔をひょっこり見せてくれた。
「お前だって、額にそんな小じわなんかなかったじゃないか」
「当り前よ」
「しかし、俺の声だけは相変わらず若いだろう?」フィオリが再び声を張り上げて歌うのを聞くと、ローザは吹き出してしまった。娘のアンナもどこか隅のほうでクスクス笑う声がする。
一日中降りやまない雨の夕暮れはますます暗くなって、犬が出入りするのや、たまに豚が入ってくることなどがあって、移民小屋の土間はじめじめと濡れてくる。
台所からササゲ豆の煮汁に、豚の油をいっぱい入れて炊きこんでいる匂いが、重い湿気を帯びた空気に漂ってくる。
遊びに出かけていたアントニオとジョバンニの二人の息子(十五才と十三才)がどやどやと帰ってきた。父親のフィオリは、昔の若いころに恋人だったローザに聞かせた歌をまだ歌っている。
「さようなら、親愛なフィオリ」こう言って立ち上がった私に初めて気づいて「まぁいい、いいじゃないか。イタリア名物のマカロンでも食べて行かないか。遠慮しなさんなよ」と言う。ローザもアンナも出てきて私を引き留めた。
しかし私は一度もその名物のマカロンをご馳走にならなかった。
               
コーヒー園生活(二)

たまたま晴れ渡った日曜日などに行くと、フィオリは元気よく移民小屋の裏のシケロン(豚小屋)で、豚にトウモロコシなどをやっていた。垣根を巡らせた一畝(約百u)にもならない野菜畑のバナナの木の下に、木製のバンコ(腰掛)を持ち出して私に勧めながら、話好きな彼は私の質問に答えてくれた。
「私たちもね、アンナが生まれてから苦労しましたぜ。アントニオ、ジョバンニと続けさまに子供が生まれたのでね。好きな私の歌が、そのころから声の質が落ちたとローザも言いますがね。私たちがブラジルに来たときは物価も安かったし、コーヒーの値段も上々で景気も良かったのですが、子供ができる、景気は悪くなる一方で散々な目にあいました。しかし神様は私たちを見捨てませんでした」
フィオリはこう言って空を見つめながら胸に十字を切った。
「あれからコーヒーは年々がた落ちで、取扱手数料も下がりましたが、幸い子供たちが段々大きくなってきて手伝ってくれるようになったのでね。子供は三人とも自慢ではないですが、ご覧のとおりおとなしい良い子でね。本当にいい子たちですよ。ローザも私も運があったというものですね」
感慨深い目をして私を見つめながら「なぁ〜に、メザーダ(賃金の月払い額)などはたかが知れています。でも豚の収入があるから助かっていますよ。トウモロコシは荷車に五台ほどしか取れないから、他所から少しずつ買ってきて豚に食わせています。豚は二か月に一頭ずつは売れますから、その収入とコーヒー収穫高の半分は残りますかな」
「そうすると、どれくらい残りますか?」
「そうですね、これとはっきり印刷したようにはいきませんが、豚は一頭百ミルレース前後で、約六百ミルレース。それから収穫手数料は多い年で六百ミルレース、少ない年で四百ミルレース。平均したら五百ミルレース位なものでしょうか。
その中からアンナも、もう嫁入り時期が近づいてくるので、着るものも買ってやらねばなりません。それにアントニオはサンホナ(アコーディオン)をほしいなんて言ったりしていますから、かれこれ二百ミルレース近く減りますから、残るのは一年間、都合よく過ごせて大体、八百〜九百ミルレース位というところでしょうね」
バナナの葉に風が吹いてバサバサと動くと、太陽の光がこぼれ落ちて、がっちりした体の逞しいトスカ人の赤ら顔をまるで彫刻のように見せた。
「しかし、これはあくまで計算ですよ。世の中、計算通りにはいきませんからね。ほら病気なんかという不意打ちがあるでしょう」
彼はいろいろな悲惨な出来事を話してくれた。その中で面白いのは金が残らなかったという話である。

あるイタリア人は一年間働いて、五百ミルレースの紙幣を二枚残した。しかしこの男は疑い深く、何者をも信じることができなかった。
例えば銀行に預ければ破産の恐れがある(その頃破産する銀行が多かった)。農場主に預ければ、引き出す時が非常に面倒である。他人に貸せば返金してもらえない場合がある。だからと言って他のイタリア人のように、金貨に換金してブリキ缶に入れておくと、泥棒に嗅ぎつかれることがないとは断言できない。
『さぁ心配だ』と、いろいろ考えた結果、この男はみんなが寝静まってから、毎晩コツコツと壁のレンガを一枚抜き取れるように工夫した。おそらく彼は、かのモンテクリスト伯以上の苦心をしたのであろう。
ようやく完全にこの苦労が成功して、壁のレンガを一枚抜き取れるようになった。その奥に命よりも大切な五百ミルレースの紙幣を二枚押し込んで、またもとのようにレンガをはめて、わからないようにしておいた。
彼はコーヒーを収穫する時も、除草する間も、いつも壁のレンガの奥に隠した二枚の紙幣のことが頭から離れることはなかった。夕方コーヒー園の仕事が終わって自分の小屋に引き上げると、真っ先に人に知られないように、壁のレンガにつけておいたしるしに、何の異常もないかどうかを確かめた。
翌朝目が覚めて寝床から離れると顔も洗わずに、そっと壁のレンガを調べるのを忘れなかった。やがて一年の農期が終わって年間の総決算をすると、彼はまた五百ミルレースの紙幣を二枚受け取った。
彼は金の隠し場所を自分の妻にさえ秘密にしていたので、どれほどまでに誰も見ていない時を待ち焦がれたことであろうか。それは当然みんなが寝静まる深夜だけしかなかった。
 まるでしばらく別れていた恋人にでも会うような気持で、一年間見たこともない無事な二枚の紙幣を確かめて、さらに二枚を加えるために、静かにそっとレンガを引き抜き始めた。彼の手は期待と緊張でぶるぶる震えていた。
ビックリ。大変!大変!
レンガを抜き取った穴の中には何も見あたらなかった。彼は気が狂ったようになって、ろうそくの灯をかざして一本の針が落ちたのも見逃すまいと目を凝らした。しかしそこにはただボロボロになった紙のかけらがあるだけだった。彼はびっくりするような大声を張り上げて「マリア、マリア、マリア!・・・」
叫びながら何度も妻の名を呼んでその紙切れをかき出した。
「俺が隠したのはこんなもんじゃない」
諦めきれずに彼の手は、何度も何度も穴の中に差し込まれた。
「泥棒だぞ!」
こう叫ぶのと、妻のマリアが起きてきたのはほとんど同時であった。
「泥棒だ。お前は泥棒だ!」
まるで鬼のように妻に跳びかかっていった。
「俺の紙幣を返せ!」
と言うかと思うと、彼は突然妻を離してまたもや穴の前に走って行った。
そうしてこぼれ落ちていた紙切れを土間から拾い上げた。しばらくの間こういう動作を繰り返していたが遂に
「無い。無い。何もない・・・」
と、地団太を踏んで、なすすべもなく立ちすくむだけだった。やがて大声をあげてわぁーわぁーと泣き出した。
気の毒にも彼は正気ではなくなっていた。
        
二枚の紙幣は実は泥棒にあったわけではなかった。
レンガの奥は、彼が望んだように誰も彼以外には見た者はいなかった。ただ一つ、彼の思いもしなかった闖入者があった。それは油気の好きな油虫であった。
人間ではない油虫は、この大切な五百ミルレースの、二枚の紙幣の値打を知っているわけがなく、その好きな油気―人間の手あかのついた部分―から徐々に喰っていったに過ぎなかった。
後になってそのボロボロになった紙幣の断片を、気の毒な妻が農場主に見せに行ったが、それはもう神様のほかにはどうすることもできなかった。

「どうです、金にはとかく油虫がつきたがるものですね」
フィオリは謎のような事を言って、ケロリとしていた。




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