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椰子の葉風 鈴木南樹 その2
椰子の葉風 鈴木南樹 その2は、コーヒ―園生活(三)、(四)、(五)を収録しています。サンパウロの代表的なコーヒー園の事務所で月50ミルを貰って働きながらコーヒー園で働くコロノのイタリア人のフィオリ、スペイン人のミゲルの家族を通じての当時の生活を語り農場主のピニャール伯爵と奴隷解放後も伯爵家に使える黒人シーコの物語、事務所で働く監督官を通じての各国移民の評価等を適格に捕らえた話は、笠戸丸移民以前の話として興味深い。写真も所々に挿絵的に添えられており(五)にある当時の農場風景を使わせて貰う事にしました。


コーヒー園生活(三)

フィオリのほかにもう一人、私が訪問するコロノがいた。それはミゲル・サンチェスというスペイン人であった。
フィオリは、楽天的な神にすがる運命論者で小金も残していたらしいが、ミゲルは全くフィオリとは正反対の性格を持っていた。ミゲルはスペインのワレシアの生まれで、バルセロナでの工場生活をしてからブラジルに渡ったのであった。
悲惨な労働と生活苦とは彼の心を暗くし、征服者に対する反抗は残忍の度を深くした。ミゲルは社会主義などに対してもある程度の理解を持っていた。
ある日、私が彼を訪問すると
「君はこんなところに君の国の人たちを働かせるつもりかね?」
まるで喧嘩でもするように突っかかってきた。
「一人のつまらないカマラーダ(日給取り)に過ぎない私にはどうすることもできません。ただ、私の目で見たままを知らせてやるだけです」
と、言い訳がましく私が言うと彼は「よろしい。私の子供たちを見たまえ」
秋晴れの湿った土の上には、六才くらいの子が年上らしく三人の子供が遊んでいた。汚れた衣服はただ破れていないというだけのよれよれであった。彼は暗い顔をして「私にはほかに十才と十二才になる二人の子供がある。朝の暗いうちから夕方の暗くなるまで働いても、働いても、ポレンタ(トウモロコシの粉をねったもの)も満足に食べられないじゃないか」
彼は五千本のコーヒーの木を受け持っていた。
労働能率の上がらない家族としては多すぎるくらいである。三か月ごとの支払日に彼は労働の手数料として百五十ミルレースずつ受け取るはずだが、一か月にすると五十ミルレースにしかならない。いくら物価の安い時代でも、五十ミルレースで五人の子供と夫婦が食べていくということはなかなか難しい。
私は月給が五十ミルレースだと言って不平不満を並べたが、このミゲル君の境遇に比べると比較にならないほど良いと言わなければならない。
「なるほどね。ミゲル君、しかしメザーダ(月払い額)以外に間作物とか、豚とかいうようなものの収入はないのかね?」
私は返答に困ってこんなことを言ってみた。
ミゲルの返事は即答で続けさまであった。
「それは君、コロノ仲間の金持ち階級のことだよ。豚を飼う金を出す前に、我が家ではまずその餌になるトウモロコシを売らなければならないからね。コーヒーの木の間で作る農作物なんて名ばかりで高が知れたものだ。豚を飼ってもかろうじて自家用の油をとるくらいが関の山だ」
彼は大きなため息をついた。
「そうかね」
私も身につまされた声で返事した。
ミゲルの不満はただ食べていけないという問題だけではなかった。
彼の説明するところによれば、サンパウロ州のコーヒー園の労働はまるで奴隷の境遇である。エスクラボ(奴隷)解放令を公布しても、農園主が労働者に対して意識のうちで感じていることは、アフリカの黒人奴隷に対するのと大して違わない。ただ違う点は、黒人奴隷はその一生を買い取ったのであるが、彼らコロノは、一年間という契約期間があるという『時間の差』があるだけに過ぎないというのである。
「君は事務所で働いているのだからよく知っているでしょう。私たちが農場主、または支配人を訪ねる時には、まず遠くから帽子を脱いで、恐る恐る相手方の許可を待たなければ近づくこともできないではないですか」
私のうなずくのを見ると
「古いアリストクラシア(貴族)の多いヨーロッパであっても、今時、そんな馬鹿げた階級的なふるまいはなくなってしまったよ。まして君、ブラジルは共和国じゃないか」
彼の声は急に鋭くなった。
「そんなことはまだいいとする。しかしどうしても我慢がならないのは、監督から私たちが革の鞭で追い回されることである。」
沈痛な表情で私をまっすぐに見つめたミゲルの目には涙のようなものが浮かんでいた。
私はふとある一つの場面の、びっくりするような光景を思い出さずにはいられなかった。
それは・・・
ある日、一人の半黒の労働者が、支配人メネゴニ氏と事務所前で何事かを話していたが、だんだん声が荒々しくなってきたので私は窓から顔を出した。その瞬間にメネゴニ氏が、その相手の半黒の労働者を十数段ある石段の上から突き落とすところであった。
怒鳴り散らすメネゴニ氏の手には、乗馬用の鞭が力を込めて握られていたのである。これはほんの偶然の出来事であったに違いないと思った。また誰であっても激怒した場合には、それくらいのことはあり得ることだが、私はミゲルの言葉を軽々しく聞き流すことができないような気がした。
しかし私は
「それはちょっと極端だね」と、ミゲルの言葉に賛同しなかった。
「事務所などにいたのでは、コーヒー園の真相は到底理解できるものではありません。農場にしてもここの農場は寛大な方だからね。支配人は、口は悪いが人はいいのだからな」
ミゲルの顔にも少し穏やかな気分がかすかに浮かんでいた。
「ブラジルにも一人のリンカーンが必要ですかね」
私はこう言って立ち上がった。
夕暮れの日差しは開け放された隣室の窓いっぱいにさして、シーツをかけたベッドが真っ白に見えた。不幸な貧しいミゲルも、その生まれた国の習慣に従って、いかにも寝心地よさそうにベッドを整えることを忘れなかった。


コーヒー園生活(四)

私はイタリア人とスペイン人との、コーヒー園に対する全く正反対の生活を見た。
私はフィオリの考えにも、ミゲルの意見にも真理が存在することを否定することはできなかった。二人の物事に対する見方が、まったく一致しないほどかけ離れていたが、それはどちらもコーヒー農園の実情で、つまり物事の表向きと内実のようなものであった。
もっとわかりやすく言えば、コーヒー農園労働者の中にはフィオリのような者もいるが、ミゲルのような者も少なくないということである。
私は自分の、半年かそれ位の農園生活の体験から見て、考えなしに正しいことか正しくないかの意見をいう危険を冒すことを望まなかった。私は、できるだけ多くのコロノに近づいて、そのありのままの生活を知ることに努めた。
農園内の労働者は、イタリア人が六割。スペイン、ポルトガル、オーストリア人などが三割を占めていたが、残りの一割がブラジル人であった。その多くは黒人で、そうでなければ少なからず黒人の血が混じった、いわゆるムラトと呼ばれる半黒であった。
彼らはコーヒー農園の仕事よりも、カロセーロ(馬車引き)か、馬小屋で働いて牛や馬を取り扱うような労働を好んで行っていた。パイア州から出稼ぎに来ている黒人の中には、凶暴な性格の者も少なくなかったが、サンパウロ州生まれのこれらの労働者は、極めて従順なお人好しが多かった。
その中にシーコ(Franciscoを略したもの)と呼ばれる、髭も髪の毛も、雪のように真っ白になった八十才を越えた老人がいた。シーコはアフリカから買われてきた奴隷で、初めはビスコンデ・ピニヤール駅の伯爵農場で働いていたのである。
非常に伯爵一家のお気に入りであって、コーヒー農園の労働よりも、伯爵家の家庭内での仕事についていた。老シーコの静かに落ち着いた話によれば、ピニヤール家の息子たちは全員、彼の黒い手を煩わさないものはいなかったそうである。
中でも、長男のドクトル・カルロス・ボテリヨ氏(当時のサンパウロ州農務長官で日本移民の契約者になる)の、負けず嫌いなわがままな子供時代の、あまり知られていないエピソードなどを語って聞かせてくれた。
老シーコは、ピニヤール伯爵がこのチビリサ農場を開拓し始めるのと同時に移ってきたのである。
帝国主義者でドン・ペードロ帝二世の忠実な部下であったピニヤール伯爵が、共和政府を転覆しようと企てて、そのための軍資金を届けるために託した彼の使いの者が、伯爵の信頼を裏切って、リオ、サンパウロ方面で姿を隠してしまった。
もちろんこの事件は、秘密裏に世間に知られないように処理されたが、伯爵はその件があって以来、ふさぎ込んで元気がなくなり、すべてに興味をなくしていつも病床に臥せりがちになった。
現在の農園事務所になっている奥の、あの大きな部屋に残っているジャカランダ(木の名前)製のベッドに横たわって、伯爵はその鋭い独特な目を見張って大きなため息をついた。
伯爵はサンパウロ州において十本の指で数えられる都市サンカルロスの、初めて土地を開発し町を作った人であった。リオ・クラロ市から奥地、つまりジヤウ、アララクワラ、ジャボテカバール、ドース、コリゴス駅方面への鉄道は、The Sao Pauro Claro Railwayの名のもとに鉄道会社を立ち上げ、その資本は主にピニヤール一家に頼って成したものであった。
サンパウロ銀行も伯爵が創立したものであった。バンデランテとしてコーヒー農園を開拓した点においても、むしろリンコン以北のモジガス流域に進入したマルケンニヨ・プラド氏、リベロン・プレトの森林に斧をふるって開拓したジュンケーラ一族よりも先鞭者であった。
伯爵はポルトガル帝政の崩壊以来、全く社会から遠ざかっていたが、孤独な寂しい生活は本当に耐えがたいものがあった。伯爵は子供のような駄々っ子となり、怒りやすくなっていった。
伯爵のその日は、いつになく安らかで落ち着いて見えたが突然夢から覚めたように
「ドン・ペードロ・セグンド!」
かすかではあるが力のこもった声が、真っ白な伯爵の口髭の中から漏れ聞こえたのが最後であった。
伯爵はきっと千八百八十六年にペードロ二世陛下が、サンパウロ州にお出かけあそばされたときに、伯爵にもたらされた限りない親愛の情を、つい今日の出来事のように改めて思い出されたのであろう。
        
それは実に悲しい光景であった。
雨季もようやく終わろうとしている一千九百一年三月十一日のことであった。もう窓のそばの大きく茂ったパイネイラも、一つ二つ咲き始めた薄紅色の花の上を、つい先ほどの夕方から降り始めた雨が糸のようにしとしとと垂れて、まるで身につまされるような音を立てていた。
ドクトル・フィルミヤノ・ピント(元サンパウロ市長)、ドクトル・ベント・ブエノ(元司法長)、クヒス・ビニヤノ大佐達の夫妻(いずれも伯爵の娘婿)をはじめ、多くの息子たちが全員、薄暗いロウソクの灯のまたたくもとで声をあげて泣いた。
シーコも床板の上に倒れて、十字を切りながら
「オー・メウ・デウス(おぉ、私の神様という意味)」
と叫びながら声を限りに泣いた。
シーコは、奴隷解放以前からすでに自由を与えられていたが、奴隷以上の忠実な召使であった。伯爵が亡くなってからのチビリサの農場は、子供たちによって合資会社組織になってしまった。
大きな子爵の邸宅の一部は事務所になって、ただコーヒーの収穫の時だけドクトル・ベント氏か、ドクトル・フィルミヤノ氏かの家族が来て数か月を過ごす生活であった。
一年間のその数か月だけが老シーコにとっては、忘れがたい伯爵時代が復活してくるように思えるのであった。彼に与えられた農場内の家から出て来て、終日、主人の邸宅内で何くれとなく働くのが、周りの人たちの注意を引いた。
シーコはベント氏が引き揚げてからも、朝・夕、事務所前に来て私に
「ボン・ディヤ」
「ボーア・タルデ」
と挨拶して、竹籠にトウモロコシを入れたものを肩に担いで通った。それは彼の唯一の仕事である豚に餌を与えるためであった。
彼は主人の命令で、働いても、働かなくても食べていけるだけの賃金は支給されていたが、老シーコは八十才になっても、農場に飼われている豚(主人が来たときに食料となる)にトウモロコシを投げ与えて、食欲旺盛な豚たちが競り合って餌を争って食うのを、面白そうに眺めるのが何よりの楽しみのように見えた。
ある朝、彼はいつものようにではなく黙り込んで私の前を通って行った。
私は彼の姿をジーっと見送った。老シーコの歩き方が何とはなしに、くたびれてだるそうに見えたからだ。
 大体五十メートルくらい歩いただろうか、彼はバッタリ倒れてしまった。
私は何か恐ろしいような予感がして
「コエリヨさん、大変です。シーコが倒れた」
と、叫びながら走って行った。
コエリヨさんもグレゴリオさんも私の後ろから走って来た。老シーコに手をかけて抱き起こしたがもう息は耐えていた。
「本当に死んだのかね?」
コエリヨさんは老シーコを揺さぶったが何の返事もなかった。彼が主人の次に愛した豚は、まだ数十歩離れた豚小屋の中で、ウイ・ウイ・ウイと老シーコが来るのを待ち焦がれているように鳴いていた。
コエリヨさんも、グレゴリオさんも頭を垂れて十字を切った。
私は目に痛ましい悲しみの涙がにじみ出るのをどうすることもできなかった。
老シーコは死んだのだ。まるで枯れ木が倒れるように、何の苦しみもなく、しかも何の予告もなしに死んでしまったのだ。
これが奴隷であった黒人の最後の姿であった。


コーヒー園生活(五)

雨季には珍しい良く晴れたある日曜日の朝であった。
シュンボラヅの盆地から南風がざわざわと、辺り一面の樹木を揺り動かせていた。
四〜五人の部落監督、工場長などはもう用件を済ませて、みんな事務所前のシメンタード(セメントで塗り固めてある)の前庭の縁に腰かけていた。
支配人メネゴニ氏も椅子を持ち出してきて腰かけていた。
イナゴの被害も案外早く回復されて、豆もトウモロコシも青々と成長してきたことは、
監督たちもなんとなく穏やかな落ち着きを見せて、ちょっとニュースでも語り合おうというような様子であった。
私は機会があればこの人たちから、それぞれの国から来たコーヒー園の農民たちが、労働者としてサンパウロ州で、どのような成功を収めているかを聞いてみたかったので、こんなチャンスはないと思い
「ホルテさんどうです、ポルトガル人は金を儲けていますかね?」
ホルテはとても太った赤ら顔の髭の濃い、いかにも物語の絵から抜け出してきたようなポルトガル人であった。
「だめですな。そりゃぁポルトガル人だって、サントス、リオなどの商人の中には成功して金持ちになった者もいるがね。農業では成功した者はあまりおりません。私の国の者は無学ですからね。ひとつ面白い話を聞かせましょうか」
ホルテは独特な大きな目を輝かせて、キセルの煙草を詰め替えた。

「ブラジルへ行けば金の成る木がある。どこへ行っても金儲けは朝飯前だと、こんな風に聞かされて、そう信じて私の国からサントスに上陸した一人の青年がいたのです。ところがこれまた面白い運のめぐりあわせというものがあったのです。サントスの波止場に第一歩の足を下すと、そこに一枚のイギリス金貨が落ちていたじゃありませんか。
『おや!』若者はおもちゃでも触るように拾い上げてじっと見つめていたが
『なんだ。けちくせぇ。もうブラジルのほんの入り口でこんなに金貨が落ちているぞ。もっと奥に入ったら一面に金貨がぶら下がっているのに違いない』
若者はこう言うと、その金貨を指でピンとはじき上げた。強烈な日光の反射を受けて、金貨は黄金色の閃光を見せながら海に落ちていったが、ほんのかすかな聞き取れないほどの音がした。それが金貨の最後であった。
若者はサンパウロ州の奥地に入って、あらゆる労働に従事したが、どこへ行っても一枚の白銅貨さえ見当たらなかった。
『こんなはずではなかったが…』
若者は口癖のようにこうつぶやいて、あきらめきれない黄金の夢を見ていた。

どうだね、ススキ。お前はどうかねアハハハ…」
ホルテは笑った。それは私を笑っているように見えた。
「ポルトガル人はコーヒー園には合わなかったようだが鉄道工夫の方では一人舞台ですね」
支配人が口をはさんだ。
「ドイツ人は?」
と私。
「ドイツ人もコーヒー園労働には向いていません。彼らはのろのろしていて、朝の早いうちから鐘やコルネットでたたき起こされるようなことを喜びません。自由勝手に自分の仕事をやらせたら一生でもコツコツやっているのですがね」
「しかしシミットはコロノからコーヒー王になったのではないですか?」
私は納得がいかなくてこんなことを言った。
「シミット?あれはコロノで儲けたのではない。偽札で儲けたのさ。シミットは時代が生んだ思いがけない幸運児だったよ」
嘘か本当か知らない話だ。シミットは農場の支払いに真偽の紙幣を取り混ぜて使用した。そうして、偽札だと言って取り換えに来る者には
『そうか、そうか』
と言って何のためらいもなく本物の紙幣と交換してやった。そこでシミットの偽札なら構わん、ということになって噂がすぐに四方に広がっていった。しかしシミットは自分の手から直接支払ったものでなければ絶対に取り換えなかった。
「人間は、運と頭とを両天秤にかけて行動すると素晴らしいことになる。シミットの偽札はリベイランプレト郡内から外へどれだけ出て行って、二度とシミットの本物の紙幣と交換する必要のなかった金額はどれだけになったであろうか。何しろ時代が時代ですからね」
―なぜ自分も偽札を使わなかったのか―と後悔しているようにも聞き取れた。
「しかしシミットは偉い。いい加減で見切りをつけて、二度とそういうことをしなかったからね」
簿記係のコエリヨが窓から顔を出して言った。
「金を儲けた人の歴史には、何かとんでもない暗黒面があるものですな」
「日本でも、一代で百万長者になった者に、やはり偽札事件に絡んでいる者がおります」
私も合槌を打った。
「イタリア人はどうですか?」
「イタリア人?」
長い髭を引っ張るたびに、その四角い顔を左右に動かす、チビリサ部落の監督のミネゲチは私の顔を見守った。彼はイタリア生まれである。
「イタリア人は馬鹿だからね。コーヒー園労働者には一番向いているのかも知れない。しかし金を少しためると町に出たがる。町に出ないものは本国に引き揚げてしまう。シチリア、カラブヤなどの石ころだらけの自然的に恵まれない土地から来た者が多いから、我慢はするが話ほど金を残した者はないようです」
イタリア人である支配人のメルゴニ氏も同感らしくうなずいた。
「マタラゾ(イタリア移民の成功者)は?」
「マタラゾはサントス、サンパウロ間の鉄道工事では、工夫たちにバナナを売っていたそうだが。やっぱり、ね、マタラゾにもシミットのような話がちょいちょい外へもれますぜ」
みんな何か思い当たるという風に笑いあった。
「スペイン人はどうです?」
「これは問題にならん。ストライキの張本人。怠け者。喧嘩好き。借金して逃げないものはこちらから追い出すよりほかない。始末に負えないのがスペイン人でしょう」
「しかし例外もありますぜ」
「勿論です」
「ブラジル人はどうですか?シュンボラーヅの監督さん」
黙り込んでいたブラジル生まれの監督マシエルに言葉をかけた。
「ブラジル人のコーヒー園労働者と言っても二種類に分かれます。すなわちサンパウロ州生まれと、他州から来たもの。その多くはバイヤノ(バイヤ州に住んでいる人)ですな。サンパウロ州内生まれの者は、あまりコーヒー園労働は好みません。恥ずかしい話ですが、食って生きてさえいればいいのですからな。一種の規律に束縛されることは苦痛なのです。彼らは一日働けば、二日も三日も遊んでいます。勤勉な者では馬車引きや御者などを好んで働きます。」
 こう言って巻きたばこに新しく火をつけた。
「次はバイヤノですな。彼らは何百キロも離れた鉄道も通っていないところから、タピオカ(マンジョカの澱粉から製造した食べ物。日本で例えるなら飯粒を干したようなもの)を背負ってサンパウロ州に来る、実にすばしこくて荒々しい民族であります。ほとんどのサンパウロ州コーヒー農園の乾燥場の仕事は、彼らによって行われるといっても、異議をさしはさむ人はいないでしょう。
しかし、彼らも一乾燥期を過ごして、バイヤに引き上げるものは別として、二年、三年とサンパウロ州内を渡り歩く者の八割位は、もう見込みがありません。
彼らは女を買う。ジョゴ(賭博)を覚える。何年たっても木綿の小麦粉袋に、一切の財産である持ち物を入れて、今日は東、明日は南へと渡り歩いて、終わりにはピストルか刃物の錆となってしまうのが落ちです。彼らはせっかちな喧嘩好きですからね」
マシエルは監督の中で一番の物知りであった。感慨に堪えないような顔をして
「コエリヨさん、ブラジル人はだめですな」
「ノン・ブレスタ、ノン・ブレスタ(ダメ、ダメと言う意味)」
簿記係の声を聞くと全員が立ち上がった。朝飯の鐘が軽い涼風に送られて、夏の清新な緑に囲まれたコーヒー園内の空気に気持ちのいい振動を起こした。


(コメント集)
出石:和田さん 皆さん
日本人がブラジルへ移住するようになる、つまり笠戸丸が出港する1年も前に、後に続く日本人のためにたった一人でブラジルで頑張っていた若い男性がいることを皆さんはご存知でしょうか?
1905年の杉村公使の「視察復命書」に触発されて移民事業を始めようとした水野龍がブラジルを見るために南米・チリ行の船に乗ったのです。(日本からブラジルへの直行便は笠戸丸が最初ですから)
たまたまその船に乗っていた鈴木貞次郎が、船上で知り合った水野龍にブラジル行を誘われてブラジルに同行するのですが、ブラジルとの移民契約が結べなかった水野がサンパウロの農政局に「自分は1年後に再渡伯するが、その間、彼を残して行く」ということで、鈴木さんはコーヒー農園で1906〜1907年の1年余を過ごすことになったのです。
私は、20代の若い鈴木さんがたった一人でブラジルでどのように過ごしていたのだろうかとずっと興味がありました。
そしてもう何年も前になりますが、鈴木さんがその1年間の自叙伝を残しているのを見つけました。戦前の日伯協会の月刊誌「ブラジル」に1931年の12月から1933年の5月までの18回分に「椰子の葉風」として連載されていたのです。
何分、昭和の初期の文章ですので、それを現代風に私なりに一冊にまとめてみようと、のんびり気が向いた折々に取り組んでいたものがやっと出来上がりました。
出来上がって満足していたのですが、今回のコロナ騒ぎで「人間、いつ何時・・」と思うと、一人で満足していないで興味のある人に見てもらった方が・・・と思うようにもなりました。
123頁で126,098文字ありますが、和田さんのお手を煩わすのも申し訳ないし、迷っています。


和田:出石さん まだ起きて居られるのですか?もう午前2時ですよね。小人19で昼と夜が入れ替わったのですか?
鈴木貞次郎さんの自叙伝の一部日本移住の始まる前の生活を綴った貴重な作品を読み易く叩き直されたとの事、是非紹介させて下さい。40年!!寄稿集になら2度、BLOGには、適当な写真が見つかれば18回に分けて掲載も可能です。WORDでの原稿を送って下さい。一番良い方法で使わせて貰います。どんな気持ちでこの作品を叩き直したか出石さんの御自身の気持ちを序文として書いて頂けると嬉しいです。それと出石さんの近影、ブラジル誌に掲載時の写真が残っておればそれを一緒に送って貰えないですか。写真があれば18回に分けてBLOGに掲載しながら皆さんにMLで紹介させて貰います。それを2回に分けて40年!!ホームページにも残して置く事にします。嬉しいニュースを有難う。宜しくお願いします。



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