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椰子の葉風 鈴木南樹 その3
椰子の葉風その3は、コーヒー園生活(六)、(七)、(八)とコメント編になります。コーヒー園支配人のメネゴニ氏に信頼されお金を任されるようになり、町で両替した金を帰路黒人に強奪されそうになったり、メネゴニ氏に連れて行かれた町の豪邸で神父さんと忘れられなくなる令嬢との出会い、12月から3月の始めて経験するブラジルの雨期と事務仕事だけでなくコーヒー園での単純労働とその意義、『ブラジルに日本人を入れるということは、単なる労働問題の上からだけで見ることはできない」と気付く、若い南樹の詩情豊かな農場生活が描かれている。適当な写真が見つからないので南樹が働いたであろうコーヒー園の写真を使う事にしました。


コーヒー園生活(六)

支配人メネゴニ氏の私に対する信用はますます深まっていった。事務所に必要な金銭を受け取る場合には、いつも私がクラビンニヨス町へと行かされた。支払日の前などはかなりの大金を、町に行って小銭と取り換えに行かされた。
私がそうした役目を務めることは誰でも知っていた。
今考えてみると、どれほど私の身辺が危険であったかということがわかる。
ある日、私はいつものように五百ミルレースの紙幣を小銭に換金して、町から戻っているところであった。何の考えも持っていなかった私は本街道を通らずに、近道を通って悠々と馬を走らせていた。
クラビンニヨスの街を通り過ぎると、サベ(茅の一種)が蕨の伸びたのと混ざり合って大きく茂って両側から道をふさいでいた。少し傾斜した左側は、放棄されたコーヒー園で茫々と雑草が生え、遠くの方に原始林が小さく丘陵の上に残っていた。
一本のイペの木が、季節ではないから花は咲いていないが、ひょろひょろと高くそびえて、その少し向こうから私のいる農場が広がっていた。私の乗っている白い馬が、もう一息でそのイペの木の下に出るというところで、一人の黒人が立っていた。
「オー、ジャポネーズ」
私は何の気もなしに馬の手綱を引いた。
「何?」
「銭をおくれ」
私は、はっとして黒人の顔を見た。二十四〜五才位に見える獰猛な顔、厚い唇、光るまなざし、私は内心、これはしまったと思った。
「銭なんか持っておらんよ」
「いやある」
「無いよ」
「ある」
私は夢中になって白い馬の尻を打った。何の拍子か馬は、黒人の方に蹄をあげて立ち上がった。私はその時どんなふうに黒人が馬を避けたか、私の馬がどんなふうに走ったのかを知らない。私はただ前にのめる様になって、コーヒー園内の急勾配の曲がった道を一目散に走っていた。
私の耳の底には、「Tem,Tem(あるよ、あるよと言う意味)」と叫ぶ黒人の声がして、あとから追ってくるような気がしてならなかった。
事務所についた私は息せききっていた。
「なんだね、ススキ。お前はどうかしたのかね?」
大きな机に向かっていた支配人が声をかけた。
「今、私は黒人にあったのです」
「黒人!それがどうかしたのかね?」
「銭を出せと言われました」
「ヂニエーロをくれ、ふむ」
支配人はじっとその灰色の目で私を見守った。
「ススキ、お前はどうかね。もし、黒人がお前に金を出せと言って、どうしても聞かないときは渡してやるかね?それを俺に聞かせてくれたまえ」
私は何の躊躇もしなかった。
「はい、もちろん私は渡します」
「なぜ?」
支配人はとんでもないという顔をした。
「私にはどんな大金でも、命には代えられません」
「困るね、ススキ。日本人は柔術を知っている。ロシアに勝った勇敢な国民である。黒人の一人や二人なんでもないじゃないか。どうだね、ススキ。お前はそういう場合本当に金を渡してしまうかね?」
メネゴニ氏は、それはどうしても信じられないというよりは、むしろ信じたくないという風に見えた。しかし私は嘘をつくことはできなかった。
「私は金を渡します」
断固言い切ってしまった。
「困るね、ススキ。渡しちゃぁいかんよ。第一、お前は日本人じゃないか」
「日本人にもいろいろあります。私は喧嘩なら誰よりも弱いのです」
他人の金で命のやり取りなど思いもよらぬことである。私にはそう返事するよりほかはなかった。
実際私は、トルストイの無抵抗主義に心酔していた時期であったし、子供じみた偉そうなことを言って、彼らを喜ばすことは簡単ではあったが、私の良心がそれを許さなかった。
日露戦争は日本人という者が戦争に強い国民である。個人としても柔術をもって手軽に相手を負かしてしまう、というふうに簡単に思われていたらしく見えた。
それなのにその強いはずの日本人は何事だ、黒人に無理強いされたら、何の抵抗もなしにその持ち金をやすやすと手渡してしまうという。これは実に常識では考えられないとんでもないこと甚だしく、理解できないことであった。
支配人メネゴニ氏は深いため息をついて、何か解くことができない謎でも考えるように顔をうつむけた。


コーヒー園生活(七)

雨季と言っても朝から晩まで一日中降り続くことは少ない。午後三時〜四時頃、激しい雷鳴があって、滝のような夕立が目まぐるしく降りすぎる日の方が多い。
リベロン・プレト地方における雨季の状態を数字で表すと
月名   雨日    雨量       風向き   最高湿度(C)
十二月  二十二日  二百三十四・七   北西    三十三・八
一月   二十一日  二百六十・九    北東    三十五・一
二月   二十二日  二百六十七・七   北西    三十五・七
三月   八日    二百三十・九    東     三十二・八
北の方、世界で最も雨量の多いアマゾナス地方から、赤道の温熱を含んだ風が吹きだすと、雲の形が変わってくる。いわゆる入道雲が現れ出て、白い綿花の塊のようなものが何重にも重なり合って、時たまそれに太陽の光線が金色を帯びて輝く時がある。悪魔の洞窟のような漆黒の真っ暗な色を見せて、宇宙の光明を塗りつぶすような勢いでぐんぐん広がっていく時がある。
雲の峰 いくつ崩れて 又いくつ 立つその峰に 日の輝けり
雲の峰 崩れて早き 北風に とどろき渡る 雷の音
こんな歌を詠んだことを覚えている。
四月に入ると東風が吹き出して、乾燥期が始まったことを知らせてくれる。
夜明けに東の空がようやく紅に満ちる頃、緩やかなうねりの小高い丘陵を、疾風のごとく吹きすぎる東風は、コーヒー農園地帯の忘れがたい快さである。
夕立の過ぎ去った後の月明かりの煌々たる光が、水分を含んだ深緑の草や木に流れる涼しさは、雨季の例えようもない感銘である。
私はいつも、このような夜に限って事務所を閉めてから、必ずただ一人で裏畑のバナナ林の中をそぞろ歩くのが癖であった。
二百メートル位のバナナの道。広々とした葉がひらひらと舞い翻ると、月光がこぼれて暗い地上に明るい影を投げる。時としては無風……おそらくはサンパウロ州の夜の一特色であろう……な時は、月光を浴びたバナナ林は不思議な夢の世界を展開する。
日本移民は果たして契約できるであろうか?
コーヒー乾燥場の労働も、時間が長いという以外に純然たる労働者にとっては、それほど困難とも思われない。私はこの自叙伝中に書き漏らしたが、
『コーヒー農園の仕事はなんでも体験しなければならない』
ということで、事務室の雑用をしながら時々鍬を持ってコーヒー農園労働に出て行った。
収穫後の畦崩しも、さほどきつい仕事だとは思わなかった。コーヒーの落葉の腐葉土が土の香りと混ざって鼻を打つのは、何とも例えようのない懐かしさであった。
トウモロコシの成長した中の雑草をとりつつ、若い娘のなまめかしい歌を聞くと、流れるような汗も気にならなかった。
くたびれて、ほっと太い息をしながらコロッテ(一種の水樽)に口をつけて、とくとくとくと水を飲むうまさは、ただ、土に親しむ者だけが知る味である。
しかし、しかし、私はいつも私に自問する苦しみの矢を放って考えに耽った。
徳富健次郎氏の『巡礼紀行』を読むと、『トルストイ翁の菜食主義や労働は、一種彼のもの好きで、彼の富があってこそ始めてできることであるというように感じられて、不快の念を持った』というようなことが書いてあったと思っている。社会主義者には現代の労働は苦痛であると批評している。
私の体験したコーヒー農園労働も、一年とか、一年半とか、とても短期間の限られた範囲にだからこそ、それほど大変なものではないに違いないが、これを五年、十年あるいは一生、働かなければならないとしたならば、問題は新しい別の意味を含んでくる。とにかく社会主義者の言うように、コーヒー農園の労働は苦痛に違いない。
私のコーヒー農園労働観は、私によってのみ言うことができる不備なものではなかろうか?純然たる労働者の目から見たならば、かのスペイン生まれのコロノのミゲルが感じたように、奴隷と同じような屈辱ではないだろうか?
私は耐えがたい重みが双肩の上に落ちてくるのを感じた。
「私は軽はずみな者であってはならない」
私の胸に何かひらめくものがあった。
「しかしブラジルに日本人を入れるということは、単なる労働問題の上からだけで見ることはできない」
こう気がつくと、身が軽々となったように晴れやかになった。
コオロギの音色は寂しいながら、夜更けの雰囲気を一層細やかな趣あるものにした。


コーヒー園生活(八)

十二月の、大降雨期に入ると、コーヒー農園は雑草が驚くべきスピードで成長してくるが、監督たちは収穫期とは比べものにならないほど落ち着いた気分になる。一日に一回ずつ、どんな勤勉な監督でも午前と午後の二回を、その受け持っている区域を見回ればよいだけなのである。
支配人の場合は天気の良い時を選んで、自分のいい馬の毛色の脂ぎった美しく輝いている様子と、正しい歩調とを楽しむといった様子で、農場内をあちらこちらと巡視すればよいので、収穫時のような緊張感はない。
勤勉そのもののような支配人メネゴニ氏も、自分の大テーブルの前に座って、ただぼんやりと降り止まぬ雨を眺めている日が多くなった。
ネメゴニ氏はなぜかその家族をサンパウロ市に住まわせていた。七か月余りに渡る私のコーヒー農園生活中にも、メネゴニ氏の妻は一度も農園に顔を見せなかった。子供を教育するためだという人もあれば、あまり仲が良くないからだと噂する声も聞いた。
 ガミガミとすぐ激怒して叱り飛ばす大声。灰色の鋭い眼光の睨み。表面からだけ見た支配人メネゴニ氏は、人情もない粗野な人のようにも思われているが、私は彼がしょんぼりと、どこを見つめるでもなく立っている姿を何度も見ている。
何かしら彼の心の底に、人に打ち明けられないような秘密と、もの寂しさを持っているらしい。少なくともメネゴニ氏は私にとっては、これ以上望むことができないほど人情味を見せていた。
「ススキ、今日は町に行こう」
天気の良い日曜日などに、座席の周りを柳で組んだトロリ(馬車)に、自ら皮鞭をとって、クラビンニヨス町へ連れて行ってくれた。私はイタリア人の上級な家庭には、支配人によって、何らかの日本政府の使命を帯びている労働者であるとして紹介された。
その中のある家庭……私は、今はどうしてもその名前を私の記憶から呼び起こすことができない……を訪問した時のことである。
十段ばかりの石段を登ったところにベランダがあって、若い一人の娘さんが椅子にもたれていた。
黒い僧服を着たカトリック僧が、ゆらゆら動くブランコ椅子に腰を下ろしていたが、何か面白い話の一区切りがついたという調子で、ハハハ・・・と笑い崩れているところであった。その脂ぎった赤ら顔に、どこか好色らしい気配がひらめいていた。
「日本人!珍しいね。お近づきを願います」
眼鏡を外して私をちらりとにらんだ。
それは本当にあのカトリック僧の腐敗を風刺した絵に見るような、妙な目の光であった。
「お近づきになることを喜びます」
こういう有閑階級に対する私の反感が伴って、自分でさえあまりに不愛想過ぎはしなかったかと思うほど、簡単な挨拶をしただけで黙り込んでしまった。カトリック僧はそんなことは少しも頓着せず、日露戦争の話などを我が物顔にしゃべり散らしてから
「時に妙なことを聞きますがね、日本人はご飯を食べるときに、両手に一本ずつの棒きれ(箸のことである)を持って、こういう風に・・・」
僧は人差し指を箸のように見せながら、その口に交互にもっていって
「・・・ものを食べるというが、本当かね?」
「アハハハ・・・」
私はわけもなく笑いこけた。
ブラジル人はよく私に、日本に鉄道はあるか?電車が走っているか?などということを聞く。とんでもないものになると、日本婦人の〇〇は横に切れているというが本当か?というような、無知な質問を恥ずかしげもなく聞いてくるのは一度や二度ではない。
もともと物知りであるべきカトリック僧までが、こんなバカバカしい質問をして恥としないのは、あまりにも滑稽であると思い、私は一言も返事を言おうとしなかった。
「おかしいね・・・」
パードレは、少しは私の気持ちを悟ったように見えた。
「・・・そういう話は嘘かね?」
「日本人をみんなはそんな目で見ています。一本の棒きれでは、いくら器用な人間でも物を持ち運ぶことは不可能じゃありませんか」
私は、また笑うよりほかにしようがなかった。
「だから聞くのですよ。マルコポーロで紹介された日本ならね。それ位なことは・・・。隠さなくってもいいんだよ、君。一本ずつの棒きれをこういう風にね、そら君・・・」
パードレは再び、いわゆる日本人が物を食う真似を滑稽な身振りでして見せた。
「ハハハ・・まるで道化役者のようですね。日本人は神様ではありません。奇跡はできませんよ、お僧さま」
癪に障ったので私はむっとした。
「でもねぇ君・・・」
パードレ(僧)はどうしてもそんなはずはないという顔をした。
いつの間にか娘さんは、椅子を離れてベランダの手すりに身をもたせながら、そこに這い廻っているバラの、黄色や薄紅色などの花びらを無心にちぎり取っては、その手のひらいっぱいにためていた。
「だってお僧さん、本人がそう言っているじゃないの!」
晴れやかな微笑をたたえた顔が、稲妻のごとく私の目をそれてパードレに移った。
「そんなに人を疑うものではないわ」
娘さんはその手のバラを誰に投げかけるともなく、空にパッとうち上げた。三十五度に近い温度をふくんだ明るい日光のあふれたベランダは、まるで無数の蝶々が飛び乱れるように、花びらがはらりはらりと黒い僧服の上にちり、私の頭の上にかかり、メネゴニ氏の膝の上に落ちた。
「ごめんなさい、ね。あたし失礼したわね、ホホホ・・」
娘は朗らかに笑った。まだ何枚かのバラの花びらが、白魚のような細い華奢な指にもてあそばれていたが、さりげなくそれを唇にもっていった。
「あら、少し酸っぱいわ」
無心な娘の態度はすべての人を魅了するには充分であった。
メネゴニ氏も私も心から笑った。
苦い顔をしていたパードレでさえ微笑がほのめいた。
「私、嬉しいこと、みんな笑ってよ。いいでしょう?私も笑うわ、ホホホ・・」
娘の正しくそろった歯が、桃の花のような唇からもれた。それは本当に二度と見ることができない、宝石の輝きに打たれたような感じであった。
何という印象的な女性であろう。
私は夢ではないかと、娘の顔から靴……白い靴を履いていた……そうして、全体の姿をおずおずしながらもむさぼるように見つめた。
「いや、これはしまった。パウジンニヨ(棒切れ)の話でつい遅くなったわい。ススキ、もう帰る時間が来たようですぞ」
メネゴニ氏は立ち上がった。
私は惜しい夢を覚まされたように、ぼんやりメネゴニ氏の後に続いた。
「アテ・ローゴ」(後ほど迄という意味)
「アテ・オトーラ・ビースタ」(またお目にかかるまでという意味)
と順々に手を握って行って、最後に娘さんの手を握ったとき、私は私の手に強い圧力を感じてハッとした。
青い灰色の澄んだ目が、私の心の奥底を見透かすような鋭さで見つめていた。
純白な彼女の顔色がだんだん薄桃色に熱の持ってくるのを見た。
私の手はまだ娘さんの手を固く握っていた。
不思議な衝動!
女性に対して限りなく内気な私にとって、あり得ないものであった。私ははっとして魂のない人形のように頭を垂れた。それっきり二度と彼女を見つめる勇気を奮い起こすことができなかった。
「アテ・ローゴ」
もう一度低い声でささやくのが関の山であった。
私は走る様に石段を下りて、馬車の上で待っていたメネゴニ氏の傍に腰を下ろした。
『わからない!わからない・・?』
生まれながら心臓の不完全な、私の胸の動悸はいやが上にも高まり、その不正な高鳴りが早鐘のように全身に流れた。
私は頭の髪の毛をかきむしった。
「ススキ、お前はパードレの言ったことを気にしているのかね?あれは冗談だよ、馬鹿だなぁ」
火のように赤くなった私の顔を不思議そうにメネゴニ氏は見つめた。
×  ×  ×  
メネゴニ氏は二度と私をあの家に連れて行かなかった。
『何という素晴らしい美しさに輝いた謎の女であったことか!』
一生に忘れることのできない感銘を、私の胸深くに刻まれたこの女性を思うたびに、私の魂は異常な興奮に波立つのである。
そうして短い人の一生に、あのようなシーンの甘美さに、たとえそれが一瞬の出来事であったにせよ、浸ることができた幸せを感謝する。
私は彼女から永遠に忘れることのできない、説明もできない夢を与えてもらった。
それは日本の女性には見られない魅力ある不思議なものであった。

(コメント集)
出石:和田さん おはようございます。昨日は免許の更新で出かけたのですが、高齢者ですので3年ごとですが、教習場で事前に講習を受けていますから、前回は10分もかからず更新できたので軽い気持ちで行ったのです。なんと、すごい人で更新センターの外壁の裏まで人が並んでいました。
コロナで更新業務が停止されていたのが6月1日から再開されたのでその分人が多かったのでしょう。その上10人ずつしか入れてもらえないので受付にたどり着くまで結構時間がかかりました。受け付けた後は10分もかからず終わりましたが・・。久しぶりのイライラ外出だったので疲れて、3時間も昼寝をしてしまって夜に眠れなかったのです。1冊の本のように仕上げてありますので鈴木さんの前書きの前に私の前書きもつけてあります。和田さん宛に送りますのでよろしくお願いします。
原文の色の変色した挿絵や写真もつけてありますので一度見てください。
お手数をかけますがよろしくお願いします。

和田:出石さん 原稿送って頂けるとの事、有難う御座います。始まる前から興味をお持ちの方もいますので直ぐにでも連載を始めたいと思います。又楽しみが一つ増えました。
車の運転免許書の書き換え大変でしたね。私の運転免許書は1972年3月8日付ですので2022年には、50年になりますが、現在所有の運転免許書が2021年の6月1日に切れますのでリニュウしないで置く積りです。社有車ですがホンダCIVICは、まだ新しく1万5千キロ程度しか走っておらず何かの時に有った方が良いと思うので恵子には、もう2-3回リニュウして貰う積りです。では原稿お待ちします。

東海林:興味あり。是非読んでみたいです。

丸木です。山縣勇三郎と共に鈴木貞次郎が私達日系移民の先駆者と、ブラジルで移民風雲録でしたか読んだ記憶がありますが、出石さんの連載が楽しみです。前任未踏の地で暮らす心意気はどの様なものなのでしょう。

出石:和田さん 送る前に変換間違いがないか、ざっと目を通していたので遅くなりました。
ポルトガル語で間違っているのがあれば訂正ください。お手数をかけますがよろしくお願いします。

和田:出石 さん 貴重な原稿有難う。字数からすると15回前後の連載になると思います。縦書きの原稿を横書きに変えて40年!!ホームページに掲載しBLOGに転載後皆さんにMLで流すことにしました。早速今日から始めます。美知子さんの近影をお願いしたのですが間に合わず旧神戸移住センター前の綺麗に咲くイペーの花を使いました。出来れば送って頂ければ入れ替えます。有難うございます。

丸木で~す 初回から既に移民生活の佳境ですね、油虫がブラジル紙幣を食べるとは。百歳で亡くなった僕の母が、妹の本棚の本の至るところに一万円札が挟んでたのが死後に見つかったとか。
僕の家内の姪の亭主がカラブリア人で、その親がコロンブス ビレッジと言うイタリア人の社交クラブを経営してます。長靴半島の足首から踵の辺りのカラブリアからの移民が多く、大繁盛してます。学校もありスポーツクラブもあり、旅行エージェントまでありますが、現在はコロナ騒ぎで閑古鳥。トロントにはイタリア人街が3箇所あり、カラブレーザ ソーセージやカラブレーザ パンは他の民族にも普及してます。カナダでは南部の貧しいシシリヤとカラブリアからの移民が圧倒的に多く、北部の裕福なトリノやミラノからの移民はそれほど多くありません、為念。サンパウロもイタリア系が多いですが、どのあたりから来てるのでしょうか?

駒形:サンパウロでもイタリー系で多いのは市シシリーとか南部の貧しい地域の人です。
ミラノとか北部はもともと南イタリーと別の人種、国だったようで、北の方はコーカサス系、南の方はアラブも交じり、だと、これは北イタリー出身の人が教えてくれました。
ブラジルの日系で多いのは沖縄、熊本などの九州系です。但し、今では混交も多く、
何系とは言い難いかもしれません。

和田;椰子の葉風その2を送りましたが、3回分を一緒に送り残りの字数を(コメント集)に使い皆さんのコメントを残して置く事にしました。どんどんコメントを書き込んで下さい。勿体ないのですが毎日掲載する事にします。お楽しみに。。。

久留米のはな:出石さん 出石さんの今までのコツコツ努力が皆さんの目に触れることがことが出来てよかったですね。皆さんが楽しみにしておられることでしょう。年代はずいぶん後ですが、84年前にブラジルに渡った夫の親戚家族に思いを重ねながら読ませていただきます。




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