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椰子の葉風 鈴木南樹 その4
椰子の葉風 その4は、コーヒー園生活(九)、(十)、(十一)になります。絶大の信頼を寄せて呉れたメネゴニ支配人との唐突な別れ、短い期間の新支配人から書記に引き上げられ、給料が80ミルレースに昇給した。農場主の変更、新しい支配人の身に詰まされる身の上話、宗教上別居は認められるが離婚は認められない話、当時のコーヒー豆の国際相場とブラジル経済との繋がり等、時代背景も分かり勉強になりました。
適当な写真が見つかりませんのでコーヒー園の収穫作業の写真を使わせて貰いました。


コーヒー園生活 (九)

メネゴニ支配人の罷免
              支配人の給料は・・・・・・
それから間もなくであった。
メネゴニ氏はサンパウロ市に別居している妻子を訪問することとなった。順序から言えば農場の重要な鍵はその次席者である、簿記係コエリヨに渡して行くべきものであるが、
メネゴニ氏はそれを私の手に渡した。
「簿記係でも書記でも、あいつらに鍵を渡すと、主人宅の戸棚を開けていい葡萄酒などみんな空にしてしまうからねぇ。一週間に一回、全部戸や窓を開けて掃除をするのだぞ。主人が来るという電報でもあったら、いつもの通りに気を付けるように・・・。ススキ、そんなら行ってくるぞ」
メネゴニが私にこうした絶大な信用をもっていることを初めて知った。私の目は涙にぬれていた。名残り惜しいような気持ちの高まりを抑えられなかった。
「ボーア・ビアゼン」(よい旅を…という意味)
メネゴニ氏の後姿をいつまでもいつまでも見送った。

メネゴニ氏がサンパウロ市に行ってから、事務所は人が減り静かになった。
人の好い簿記係のコエリヨは、いつも事務所には来ずに家にいた。書記のグレゴリオでさえ飯時の休憩の時間が長くなった。
私はただ一人で事務所の机に向かって命じられた計算などをしていたが、あの、やかまし屋の支配人がいないことが寂しくてたまらなかった。
一週間たっても、二週間過ぎても支配人メネゴニ氏は戻って来なかった。支配人が急性トラホームにかかっているのだというような話もあった。家庭内の面白くない事情のためだという噂も伝えられた。
ある日突然、主人のベント・ブエノ氏がやって来た。
それは実に意外な悲しむべきことのためであった。
簿記係コエリヨの話によると、ベント氏は支配人メネゴニの、短気な性質と怒号とを好まず、再び農場に戻るには及ばないという意味の書面を送って、解雇したのだということであった。
主人ベント氏の性質は本当に柔和で、たとえどんな場合でも静かに落ち着いて話す人であるから、コーヒー乾燥時の農場滞在中にも、しばしば支配人の挙動を見て「あれだからね・・」と眉をひそめているのを見たことがある。
私もメネゴニがコロノや黒人の日雇い人などに対して、むごい仕打ちで苦しめている態度をまざまざ見せられて、嫌悪の気持ちを持った経験を隠そうとは思わない。しかし、支配人の心の内には涙ぐましい情けの気持ちがあるのを見たことも、一度や二度ではない。
どちらにしても二百万本のコーヒーの木を有する大農場の支配人が、一枚の解雇状を郵送されただけで、それが少しも理解のある話し合いの上でなされなかったことは、正しいやり方ということはできない。                          これには簿記係コエリヨの、ありもしない告げ口なども、少なからず関わっていたことは明白な事実である。私はあの人のよさそうなコエリヨを、それからは、なんだか一種の疑がわしい目で見るようになった。
「ススキさん」
コエリヨは晴れやかな顔で私を呼んだ。その喜びに満ちた青黒い病人らしい顔の、高い鼻が一層高くなったように見えた。
「メネゴニの後任にジョゼ・シルバという支配人が、二〜三日中には来るぜ」
「私はメネゴニ氏をあんなに軽々しく解雇することは正しくないと思うがね」
私は不平らしくこう言った。
「ススキさん、君は何も知らないのだよ。まぁ知らなくてもよいのだよ。メネゴニは、あれは動物のような人間さ」
「だって、あんなによく働く人はめったにいないよ」
「働いても、ベントさんは、あんな大声でガミガミするのが嫌いだから、仕方がないじゃないか。メネゴニは、どうせ監督からの成り上がり者だからね。てんで教育などはないのだよ」
私はこれ以上、メネゴニ氏をくさすことを聞くに堪えられなかった。
「そうかね・・・。それは別として一体メネゴニさんはどれ位、給料をもらっていたのですか?」
私がいつか聞いてみたいと思っていたことであった。
「メネゴニが支配人になったのは、ここが初めてだから、たいしたことはないが、それでも六百ミルレース(当時の日本円四百円余)を貰っていたんだ」
「六百ミルレースとは、あまりに少な過ぎるのではないの?」
「月給は六百ミルレースだが、年度末の手当てが純益の十分の一であるから、一年にするとかれこれ二十コントス(日本金換算で一万三千三百三十三円余)になるからね。悪くはないよ。メネゴニは、もう二度とこんないい収入にありつけはしないよ」
「二十コントス!えらいものですなぁ」
「グワタパラ、サン・マルチンニヨ、ヅーモン辺りの大農場の支配人なら、この辺の十万本位の農場主より収入が多いくらいだ。そういう農場に五〜六年いると、どんな人でも財産を作るね」
コエリヨはこういうことから、色々な支配人の蓄財談を話して聞かせてくれた。


コーヒー園生活 (十)

  農場主変わる
            三十年前のコーヒー界展望
メネゴニに代わる支配人ジョゼ・シルバ氏は、予定の日にオスカル・アルダという青年監督を伴ってやって来た。                            シルバは髪の毛の白い、間もなく六十才になるかと思える、やせ型のいかにも温厚らしい老人であった。若い時からビニヤール一家に奉公し、今まで伯爵未亡人の農場を支配していたのを抜擢されたのである。
メネゴニはイタリア人であったので、書記グレゴリオであっても、部落の監督であってもイタリア系の人たちは、あんなやかましい支配人であったが少なからず何かしらの恩恵にあずかっていた。
しかし、シルバ氏はブラジル人なので、ブラジル出身者は皆小躍りして喜んだ。私はたびたびこれらの人たちが、新支配人の前でメネゴニのやり方をくさすのを聞いた。特に簿記係のコエリヨは人の好いシルバ氏を自由に動かして、最も得意らしく見えた。
新支配人は私にとってはメネゴニ以上に親切であった。イタリア人である書記ゴレゴリオの仕事に向かって、私の受け持ちがだんだん広がり食い込んでいった。
日・一日と農場の裏面に通じてくると、私はこのシュンボーラヅ農場が、甚だしい経営難に陥っていることがわかってきた。
私は事務室でベント氏がコエリヨ氏と、サントス港のコーヒー仲買人から来た書面をよくよく吟味して読みながら
「とてもいかん」
などとつぶやく声を聞いた。
コエリヨの話であるが、農場は百万ミルレース(当時の日本価格で約七十万円)の借金があり、とんでもなく大変な経済上の難局に当面しているとのことであった。
メネゴニをシルバに代えたのは、ある一面から言えば、農場のこうした悩みの現れだったということもできる。
したがってシルバの運命はどうにか二か月間続いただけであった。ついにシュンボラーヅ農場は、カンビーナス市の資本家の手に、百二十万ミルレースで買収されてしまったのである。
一万アルケルス以上の面積に二百万本のコーヒー樹を有し、二台のコーヒー精選機を備え、一台のコーヒー脱皮機、一棟の工場、農園内を走る軽便鉄道(レールの幅が狭く小型の機関車・車両の鉄道)。それがたった百二十万ミルレース。コーヒーの木一本当たりわずかに六百レースにしか当たらないのである。
現在、コーヒーに取りつかれている人は、コーヒーが下落したと言って青い吐息を吐いている。十アルケルスの面積に何の設備もなく、一万本そこそこのコーヒーの樹を植え付けて、百コントスだ、八十コントスだと言って、一本当たり二ミルレース前後に下落した時価を、ブラジル始まって以来の大暴落のように嘆き声をあげて悲観する。
それはコーヒーの歴史を知らない無知をさらけ出しているに過ぎない。千九百六年頃であったら、現在ノロエステ沿線にある同胞の十アルケルス一万二〜三千本の農場ならば、せいぜい六コントスというところであった。
コーヒーは千八百九十年前後に異常な好況を生み出した。つまり千八百九十三年二月から千八百九十四年一月の間において、リオ七等級コーヒーはニューヨーク市場において、一ポンド十八セント八分の三であった。しかし、千八百九十五年に至って、同じリオ一級のコーヒーでさえ最高で十セント四分の一に、最低で七セント四分の一に下落した。
当時の下落の状態を表してみると

年度      伯国輸出高   最高価格   最低価格
1898〜1899年    14,156     7       5,3/4
1899〜1900年    14,754     8       5,7/16
1900〜1901年    14,699     9       6.0
1901〜1902年    19,013     7       5,1/4
《備考》袋数の単位は1,000袋に対して価格はニューヨークの市場における一ポンド に対するアメリカドルである。

このために千九百二年、時のサンパウロ州統領ベルナルデス・カンボスによって『新コーヒー栽培禁止令』が発布されたが、その産出高は依然として増加し、千九百六年の大豊年になったことで、サンパウロ州のコーヒー業者は異常な恐慌を引き起こすに至った。

千九百一年以来の世界におけるコーヒー生産の概要を数字で表すと
年次   生産超過  生産不足    ストック数
1901年   1,105    −       6,835 袋
1902年   4,470    −      11,305 袋
1903年   570     −      11,875 袋
1904年   400     −      12,275 袋
1905年   −     1,060     11,215 袋
1906年   −     1,514      9,702 袋
1907年   6,678    −      16,380 袋
※《備考》単位 1,000袋

さらに同時代におけるサンパウロ州のストックを見ると
1901年                4,745,000 袋
1902年                9,385,000 袋
1903年                9,680,000 袋
1904年                9,585,000 袋
1905年                8,730,000 袋
1906年                7,490,000 袋
1907年                14,753,000 袋

つまり大豊作の後を受けた世界のストックは千六百三十八万袋であって、サンパウロ州だけでも実に千四百七十五万袋を保有するに至った。サントス市場のコーヒーはこの年、いわゆる値なしという破天荒な時代に突入するに至った。

サントス市場における当時のコーヒーの値段を見ると
年次     最高     最低    平均
1907〜8年    3,700    2,550   3,430
1908〜9年    3,900    3,000   3,400
1909〜10年    4,200    3,400   3,800
1910〜11年    7,250    3,900   3,830
※《備考》Typo nオ 十キログラムの相場、単位レース

十キロスの価格、わずかに三ミル四百レースに過ぎないから、六十キロス入りの精選コーヒー一袋はサントス市場において、二十ミル四百レースにしか当たらないわけである。
今日、コーヒーがいくら下落したといっても、十キロスはやはり十数ミルレースと言っているではないか。(勿論、輸出するとしたなら当時の為替は今日の比ではなかったが)
以上、コーヒー栽培をする同胞諸君のために少しばかり余談になってしまうが、参考となる資料を提供しておく次第である。


コーヒー園生活 (十一)

新支配人の悲恋秘話
              強き者よ!汝の名は女なり
農場の持ち主が変わると同時に新しい支配人が来た。テオフィロというカンピナス出身の四十才位に見える独身者であった。
顔色の悪い、あまり物数を言わない、何となし陰気臭い性格は、人を遠ざけるような寂しさがあった。
新支配人はいろいろ雇人の入れ替えを行ったが、私の上にも新しい明るい運命が待っていた。それはイタリア人である書記グレゴリオが解雇されて、その後任者に私が抜擢されたことである。
月給も三十ミルレース増額されて八十ミルレースになった。グレゴリオは月給百五十ミルレースであったから、私はわずかにその半額を少し越しているだけに過ぎない。これに反して私の勤務時間は非常に長かった。
私はいつも朝の暗いうちに事務所の戸を開けて新支配人の起きるのを待ち、夜は一番遅くまで残って戸を閉めた。しかし事務所の掃除男から書記となった嬉しさは、たとえどのような苦労も不平の気持ちを起こさせなかった。私はせっせと陰日向なく働いた。
新支配人テオフィロは決して褒めるようなことはなかったが、小言らしいことも言わなかった。テオフィロは主人宅の一室を占有していたので、私とは最も接触したわけであるが、彼は日露戦争に勝った模倣好きな小さな国民に対して何の興味も持っていなかった。
私は彼からゲーシャや、ムスメや、フジヤマなどに関しても、一回も質問をされなかった。彼は無言で自分のなすべきことをなし終えると、幽霊の消えるように、いつとはなしに自分の部屋に姿を消した。
 事務所の空気は、支配人メネゴニの時代は緊張し、シルバの時代は明るく、テオフィロになってからは灰色の気分がみなぎっていた。
ある日私は簿記のコエリヨにこんなことを言った。
「コエリヨさん、今度の支配人は妙な人ですね」
「どうして?」
「何だか黙ってばかりいるが、それなのに、とても察しのいい人柄のように思われる
が・・・」
「あの人はこれまでの支配人のうちで一番人柄がいいのだよ。あんなに陰気に見えるのは、あの人の過去に悲しい秘密があるからさ」
「へぇ、それは聞きものですな。一体どんなことですか?」
コエリヨは私の好奇心に満ちた顔を見つめて黙り込んだ。
「話せないような秘密?」
「いいや」
コエリヨは探り見るようにあたりを見回した。
「誰にも言ってはいかんよ」
こう念を押して話し出したところを要約すれば、父の遺産を継いだテオフィロはカンピネーロ鉄道線において、十五万本ばかりのコーヒー農園主であった。彼は人に羨まれるほどの若い美しい妻を持っていたが、とかく美しいものには魔が差しがちであった。隣り合った五十万本からの大農園主のふしだらな次男坊と、彼の妻は道ならぬ関係を結ぶに至った。
テオフィロの怒りと悲痛さとは、ただそういう体験を持った者だけが味わわされる最大限のものであった。彼は隣の耕地に通じるあぜ道で、例の次男坊を待ち伏せしてピストルで撃った。
二人は馬に乗っていた。あまりに興奮していた。
テオフィロの銃弾は狙いを外してしまった。それに反して、逃げながら撃った次男坊の銃弾は不幸にして、テオフィロの肩の辺りを撃ち抜いてしまった。もし次男坊に勇気があったなら、テオフィロの命はこの時失われていたはずである。
「そういうわけでテオフィロさんは法廷で判決された結果妻と別居してしまったのだよ」
コエリヨは悲痛な面持ちをした。
「どうして離縁しないのですか?つまりテオフィロさんに未練があったのですね」
「いや、カトリック教を信奉するこのブラジルでは、別居はできるが、離婚は許されません」
「おかしいですな」
「離婚はできませんから、したがってその別居した妻が死なない限り、夫は法律上の妻を新たに持つことはできません」
「そういう場合、夫は別居した妻に対してどういう義務がありますか?」
「夫婦間で条件の協定が平和的にできればよいが、もしそうでない場合は、夫の全財産の半分を妻に分けてやらねばなりません」
「いよいよけしからん。少なくとも姦通の場合だけは離婚を認め、財産に関する権利を剝奪しなければ道理に合わないと思う。つまりカトリック教は、教義にとらわれ過ぎて、かえってそれ以上の罪悪を認めるような結果になりますね」
「カトリック教はそういう非難は許しません。離婚がいけないという一点に、すべてを集中しているのです」
「それは驚くべき存在です。つまり、別居した妻は夫から分配された財産で、間男と涼しい顔をしながら、淫らな生活を自由に展開しうるわけですね」
「そうです。不幸にしてブラジルの民法は、恐ろしい結果をきたしつつあります」
さすがにコエリヨさんは暗い顔をした。そうしてブラジルではこういう不合理から、いろいろ恐ろしい事件が生じるということであった。
例えば姦夫、または姦夫姦婦を殺害した場合には、その九割まで被告は無罪の宣告を受ける。一方において、姦婦に対し都合の良い点があるが、他面において法律では許されていないことではあるが、陪審官の同情は夫の加えた罰を正当と認めて、罪としないというような、ちょっと常識では理解できないことがあるのである。
そればかりではない。残忍な夫になると医師と結託して、姦婦が狂人であるというような診断証書を作成して、その一生を牢獄に等しい精神病院の暗室の中に閉じ込め、実際には狂死させてしまうこともあるが、世間は多くの場合これを冷淡に見過ごしてしまう。
もちろん、こういう風なことができる人は、ごく少数の有力者のみに限られる特別なことである。
もし、強いて離婚をしようとすれば、夫婦間の完全な合意さえあれば、離婚を許す外国 に行って離婚することはできないことでないが、それはほんの一部の金満家にのみ可能なことであって、ブラジルにおいては九割九分まで離婚難の苦痛に悩んでおり、そこに大きな悲劇が絶えずかもされているといっても差し支えない。
「そういうわけで、我々ブラジル人はアモール(恋愛)という甘い夢は、=ナモーラ(見染める)・ノイバーダ(婚約)=などの嬉しい期間が過ぎて、結婚という現実に当面すると、急に疑惑と嫉妬の念をもって、妻に向かい合わなければならなくなってくるのです。こうした不安は実に堪えがたい忍苦です」
「意外ですね。私は移民小屋の前などで、若い男女に切々の思いに堪えないような光
景を見せつけられて、実は羨望に堪えなかったのですが・・・」
「我々にとってナモーラ(恋着とも見染めるとも)の時代が一番幸福です。テオフィロさんの恋愛もナモーラで終われば悲劇はなかったのです。彼も以前は非常に朗らかな性格であったということを聞きました」
コエリヨは深く物思いにふけるように目をつぶった・
「そうですかね・・」
私も深いため息を漏らした。
私はテオフィロのあの、いつも物思わし気な憂鬱な態度が飲み込めたような気がした。

(コメント集)
丸木:丸木:笠戸丸以前、既に日本人コロノが支配人から信頼されていた事実、南樹氏の入植は後続の我々移民の鑑です。ジャポネス ガランチードの種を蒔いたのがブラジル最初に日本人であったとは有り難い話です。その言葉が馬鹿正直と受け取られる揶揄も含んだ表現とも聞き及んでますが、いずれにせよ日本人の性格が南欧からの入植者の様な怠惰ではなかったと知る縁となり、先達移民の貴重な物語で毎回楽しみです。

駒形:恐れ入りますが私も一言申し上げます。JAPONES GARANTIDOについて・
1.JAPONES GARANTIDOは日本人には分かりやすい言葉です。GARANTIDOは品物などが保証付き、間違いない、などの意味に使われ、昔は小切手などCHECK GARANTIDO=銀行保証小切手などで知名でした。それでわれらが愛する田辺先輩などは「信頼できる日本人。保証書付きの日本人」のごとく理解され、私が会合などで「田辺さん、それは違いますよ。ブラジル人
がいう時は揶揄、軽蔑の意味で使うのです」と何回も言うのですが、また、後になり「保証付き日本人の意味で使い、私の文書などを見て「あんたは良いことを書いてる。感心した。JAPONES GARNTIDOの精神だ」などと褒めてくれます。私はいちいち反論などせず、ずやー、有難い、先生に褒めて頂いて有難い」と返事します。
2.一般の教養のないブラジル人は日本人を差別する、揶揄する時に「JAP.GUA.]と言います。ある程度教養のあるブラジル人はこのようなフレーズを言いません。JAP。GUAD。はポ語不十分のブラジル在住日本人が日本からの来客に教え、日本の県会議員などが県人会などの挨拶で、「皆様のご努力のお蔭で、今ではJAP.GUAD.と信頼されるようになった。偉い」などと使うようになりました。これは危ないな、と思っていたら、誰かが教えたのか安倍首相がニッケイ社会向け挨拶で同様「JAP.GUAD.と信頼されている」などと述べたのです。これをブラジル議会などで述べたら、どうも具合が悪いな、です。
3.大体、人を呼ぶのに名前を呼ばず「おいジャポネス」などとよぶのは余り相手を尊重してる言葉ではありません。「あのアメ公、朝鮮野郎」などと言うのと似たりです。以上何度も言ってるので草臥れますが、ご参考まで申し上げました。




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