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知っておきたい『日本の歴史』徳力啓三 その13
知っておきたい『日本の歴史』その13は、85−占領政策の転換と朝鮮戦争から始まり86−独立の回復と米ソ冷戦で第1節が終わり第2節高度経済成長と日本の発展に入り87−世界の奇跡・高度経済成長、88‐冷戦の推移と日本経済発展、89−戦後の文化で終わる。愈々次回14回で終了します。徳力さんとの質疑応答の為、番外編を設けていますが、戦後のGHQ指導を受けた日教組による自虐史観を植え付けられた現代史を何とか正しい日本史に戻そうとの徳力さんの努力についてもう少し語り合おうではないですか?
写真は、国民と共に歩まれた昭和天皇の写真を使わせて貰いました。


85―占領政策の転換と朝鮮戦争

国際連合(国連)が、終戦直後の 1945 年 10 月に、2 度の世界戦争を反省し、戦争を防ぐための国際組織として結成された。国際連合は英語で United Nation と言い、第二次世界大戦時の連合国のことで、戦争で戦勝国となった連合国側が、戦後も世界の秩序の指導的立場を維持する為に作った組織です。日本やドイツのような戦争に負けた国を牽制する「旧敵国条項」は現在も設立当初のまま残っている。
しかし、戦争の芽はなくならず、ソ連は東ヨーロッパ諸国を占領し、各国の共産党を通して、西ヨーロッパにまで共産主義の影響を及ぼし始めた。アメリカはその影響を封じるために、西ヨーロッパ諸国に大規模経済援助(マーシャル・プラン)を行い、1949 年には、ソ連に対抗する軍事同盟として北大西洋条約機構(NATO)を結成した。一方、ソ連も 1949 年には原子爆弾を開発し、NATO に対抗して、1955 年に東欧諸国とワルシャワ条約機構(WTO)を結成しました。ドイツは東西に分断され、世界はアメリカの資本主義とソ連の共産主義が争う冷戦の時代に入っていった。
中国では、戦争中は抗日で手を結んでいた国民党と共産党が、戦争が終わると国共内戦を始めた。1949 年には毛沢東がひきいる共産党が勝利し、中華人民共和国が成立した。一方、蒋介石がひきいる国民党は台湾にのがれ、国民党政府を立てた。朝鮮半島では、1948 年に半島の南部にアメリカが支持する大韓民国(韓国)、北部にソ連の影響下にある朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)がつくられ南北の対立が始まり、冷戦は東アジアにも広がった。
日本では、冷戦が始まると、アメリカは東アジアの共産主義に対する防壁として日本を位置づけ、また自由主義陣営の一員として、日本の経済発展を抑える方向ではなく、発展させる方向へとその方針を切り替えた。
1950 年 6 月、北朝鮮は南北の武力統一をめざし、ソ連の支持のもと突如韓国に侵攻してきた。これが朝鮮戦争の始まりである。北朝鮮軍は一時釜山(プサン)の近くまで占領、これに対し、韓国軍とマッカーサーが指揮するアメリカ軍主体の国連軍が反撃にでた。国連軍は中朝国境近くまで追い込んだが、そこで中国共産党軍が、北朝鮮側につき、戦況は一進一退を繰り返した。1953 年になって休戦協定が結ばれ、戦闘は停止した。朝鮮半島には、67 年後の今も南北に分断された状態のままで、休戦中となっている。
日本に駐留していたアメリカ軍が朝鮮に出撃した後、日本の治安を護るために、日本は 1950年8 月に GHQ の指令により警察予備隊7万5 千名(1954 年に自衛隊と名称変更)を募集した。また国連軍に多くの軍事物資を必要としたので、日本はそれを供給するため大忙し(戦争特需)となり、そのため大東亜戦争で破壊された日本経済は立ち上がり、生産が一挙に拡大した。

86−独立の回復と米ソ冷戦

アメリカは、朝鮮戦争をきっかけに、基地の存続などを条件に、日本の独立を早めようと考えた。1951 年 9 月サンフランシスコで講和会議が開かれ、日本は自由主義陣営の 48 カ国とサンフランシスコ講和条約を結び、更にアメリカとの間で日米安全保障条約(日米安保条約)を結び、アメリカ軍の日本駐留を認めた。1952年4月 28 日サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を回復し、大東亜戦争の戦後占領が終った。独立した後、日本は戦場となったアジア諸国に対し賠償を行った。

《資料》 国別の国家戦後賠償と経済無償技術援助(金額単位億円)
国名 調印年 賠償金額 無償援助額
ビルマ(ミャンマー) 1955/63 720 504
タイ 1955/62 100
フィリピン 1956 1980
インドネシア 1958 803
ベトナム 1960 140
韓国 1965 1080
モンゴル 1977 50
ラオス、カンボジア、マレーシア、シンガポール、ミクロネシアには 30 億円以下の無償技術援助を行った。賠償額は 3643 億円、無償援助は 1836 億円、総計 5479 億円にのぼった。

ソ連は、北方領土の国後(くなしり)、択捉(えとろふ)歯舞(はぼまい)色丹(しこたん)北方 4 島を不法占拠しているために、日ソ間では平和条約を締結できなかった。1956 年 10 月、日ソ共同宣言で戦争状態を終結し、国交を回復した。これでソ連の反対がなくなり、同年 12 月、日本は国連に加盟して国際社会に復帰した。日本が独立し、復興に努めている間、米ソ両陣営の冷戦は激化していった。両国は、原子爆弾より破壊力の高い水素爆弾の開発に成功し、核弾頭を搭載した大陸間弾道弾(ICBM)を配置して、相手国を直接破壊できる攻撃力を備えた。
1953 年ソ連のスターリンが死去し、1956 年の共産党大会でフルシチョフ第一書記がスターリン批判をした。この時期、アメリカとの平和共存の動きがあり、「冷戦の雪解け」と言われたが、社会体制の違いに由来する米ソの冷戦は収まらなかった。1957 年にはソ連が人工衛星の打ち上げに成功した。アメリカもそれに続き、両国は宇宙技術の開発でも競い合うことになった。
同年日本では岸信介首相は日米安保条約の改定を目指し、1960年1 月に新条約を調印した。これにより日本の安全保障は強化された。ところが、日本共産党、社会党、労働組合、学生団体などは広く国民各層に訴え、反対運動を起こした。1960年5 月、自民党は新安保条約の国会承認を強行可決した。国会周辺はデモ隊が押し寄せ、連日のように国会を取り囲む大きな騒乱となった。
6 月 19 日の批准の日には、国会周辺は人々で埋め尽くされた(安保闘争)。岸首相は新安保条約成立後に辞職した。

《資料》 *戦後から 1960 年代までの主な内閣の総理大臣とその仕事1946 年 吉 田茂 第一次内閣 日本国憲法制定
1948 年 吉 田茂 第二次内閣 サンフランシスコ講和条約締結(1951 年)
1954 年 鳩山一郎 総理大臣 日ソ共同宣言(1956 年)
1957 年 岸 信介 総理大臣 日米安保条約の改定(1960 年)

《資料》 * 米ソ冷戦の経過
年 アメリカ中心の自由陣営 ソ連中心の共産主義陣営1945 国際連合成立
1946 英のチャーチル、鉄のカーテンの閉鎖性を批判 ソ連が東欧諸国を占領
1947 米のトルーマン、共産主義封じ込め政策発表 欧州各国共産党向コミンフォルム
1948 ベルリン封鎖
1949 北大西洋条約機構 NATO 成立 中国共産党の中華人民共和国成立
1950 朝鮮戦争始まる 北朝鮮軍の軍事侵入
1955 ワルシャワ条約機構(WTO)成立
1956 ソ連でスタ−リン批判
1957 ソ連初の人工衛星打ち上げに成功
1960 日米安全保障条約改定
1961 ベルリンの壁設置
1962 米ソ間でキューバ危機
1965-1975 ベトナム戦争
1966 中国で文化大革命始まる
1972 米のニクソン、中国訪問
1976 ベトナム社会主義共和国成立
1979 ソ連のアフガニスタン侵攻
1989 米ソ首脳会談により冷戦終結宣言

第 2 節 高度経済成長と日本の発展

87−世界の奇跡・高度経済成長

1960 年、岸内閣が退陣し、首相となった池田勇人は 10 年間で所得を倍増させるという所得倍増政策を掲げた。自民党は結党の時に掲げた自主憲法の制定や防衛力強化という課題を先送りするようになった。日本の経済は、1960 年ごろよりほぼ毎年 10 年間、年率 10%という歴史上稀な 「世界の奇跡」 といわれる成長を続けた(高度経済成長)。1968 年には国民総生産(GNP)が資本主義国陣営でアメリカに次いで世界第 2 位となった。ソニー、ホンダ、トヨタなど世界的な企業が成長し、中小企業の工場の現場では無数の人々が、工夫や発明を積み重ね、産業の発展に大きな役割をはたした。
日本の経済成長は、1955 年に 10 兆円に満たないものであったが、1970 年には 15 年で約 8 倍の 80 兆円となり、1985 年には 15 年間で 4 倍の 330 兆円、1995 年には 10 年間で 480 兆円に達し、アメリカに次ぐ世界第 2 の経済大国となった。
また高速道路網や新幹線の建設も始まり、庶民の生活にも電化製品や自動車が普及した。農村も豊かになり、米は生産過剰になって、減反政策がとられるほどになった。所得の増加は国内市場の拡大をもたらした。日本の地位は向上し、1964 年には東京オリンピックが、1970 年には大阪で万国博覧会が開催された。これらはアジアではじめて開催された世界的大イベントであった。東海道新幹線は 1964 年 10 月 1 日東京〜大阪間で開通し、所要時間は今までの半分近くに短縮し、大きな経済効果を生み出した。また 1970年3月 14 日から9月13 日まで大阪万博が開かれたが、6400 万人の入場者を得て万博史上最多の入場者を記録した。
一方、経済の発展にともない、1960 年台後半ごろより、工場の煙や排水など産業廃棄物による公害が問題となった。水俣病や四日市ぜんそくなどの公害病、自動車の排気ガスなどによる大気汚染、家庭での洗剤による河川の汚染などの解決が求められた。これに対し、1971 年には環境省が設置され、公害防止の対策がとられ、状況は改善されていった。その後、日本は世界で最先端の公害防止技術を有する国となった。
東南アジア諸国との戦後賠償は順次解決がはかられた。1965 年には日本と韓国は日韓基本条約を結び国交を正常化し、有償無償合計計 8 億ドルの協力金を韓国に支払った。日韓基本条約では、第 2 条で大日本帝国と大韓帝国の間で結ばれた全ての条約は無効とすることを確認し、第 3 条で大韓民国政府は、朝鮮にある唯一の合法的な政府であることを確認した。
アメリカの施政下にあった沖縄では、ベトナム戦争が始まり基地の使用頻度が高まり、祖国復帰運動が盛んになった。佐藤栄作内閣は、非核 3 原則を表明し、核兵器抜きで基地を維持するという条件で、沖縄返還への同意をアメリカから取り付けた。1972年5 月、沖縄本土復帰が実現した。沖縄本土復帰記念式典には、昭和天皇と皇后陛下が出席された。それ以降、沖縄県と他県との格差を解消する為に、政府は沖縄担当大臣を特設し、様々な経済支援を行い、沖縄振興に力をそそいだ。

《補講》 日本の底力を世界に示した東京オリンピック

日本が経済成長を続ける中、アジアで初のオリンピックが開催されました。
東京オリンピックでは、バレーボールと柔道が新たな競技として付け加えられ、20 競技 163 種目にわたり 93 カ国、5588 人が参加しました。日本の選手の活躍をみると、女子バレーボールは宿敵ソ連を破って優勝しました。この勝利は国民に大きな感動を与え、世界に「東洋の魔女」の名声は一挙に広がりました。また日本はレスリングで金メダル 5 個、柔道で金メダル 3 個を獲得しました。男子体操競技では金メダル 5 個に加え、男子団体で 2 連覇を成し遂げました。日本のメダル数は金 16 個、銀 5 個、銅 8 個で、アメリカ、ソ連に次いで第 3 位となり、日本の競技力の高さを世界に示しました。オリンピックは世界最大のスポーツの祭典です。その開催地である日本は、オリンピックを契機に道路の整備、鉄道、空港などの交通網も完備され、高速道路、新幹線、モノレール、更には国立競技場、駒沢オリンピック公園などが整備され、景観が一新されて美しい町並みが出来上がりました。また大会運営についても、IOC(国際オリンピック委員会)から完璧なまでのきめの細かさと褒めたたえられました。日本人の持つ勤勉さ、組織力によって、「世界の奇跡」とよばれる大復興が成し遂げられ、その底力を世界中に知らしめた歴史的出来事でした。それは日本国民が、「世界の中の日本人」として自国に対する愛や日本人としての誇りを感じる場となりました。
東京オリンピックの成功により、日本人は敗戦によって失いかけていた自信と誇りを取り戻したのです。2020 年には 2 回目のオリンピック・パラリンピックが東京で開催されることになりました。平和で豊かで強靭な国家としての日本の姿を世界に示す場となるでしょう。

88‐冷戦の推移と日本経済発展

1961 年、東西に分断されたドイツでは、東ドイツが住民の西側への脱走を防ぐために東西ベルリンを隔てる壁を築いた。ベルリンの壁は、近代都市の中央を二重の壁でさえぎった。この壁は東西冷戦の象徴となった。この壁を越えて西ベルリンに脱出しようとした東ドイツ人は射殺された。ベルリンの壁は、1989 年に崩壊、冷戦が終わりを告げた。
1962 年にはソ連がキューバに核ミサイル基地を建設しようとしたことから、米ソの間に核戦争がおこりかけた(キューバ危機)。この時アメリカのケネデイ大統領は、毅然とした態度を貫いたため、ソ連のフルシチョフ首相は、ミサイルを撤去した。こうして米露の戦争は避けられた。
1965 年アメリカはインドシナ半島の共産主義を警戒し、ソ連や中国が支援する北ベトナムに対抗して、南べトナムを支えるため、直接軍隊を派遣した(ベトナム戦争)。しかし、アメリカ本国を含む各国でアメリカの軍事介入に対する非難が集まり、1973 年アメリカはベトナムから撤退した。2 年後には北ベトナムが南ベトナムを軍事力で併合し、ベトナム社会主義共和国が成立した。これによってアメリカの威信は傷ついた。ベトナム戦争はフランスの植民地であったベトナムの独立運動が発端で、北側を共産主義陣営、南側を資本主義陣営が支援する冷戦時代の代理戦争であった。
1970 年代になると、アメリカのニクソン大統領は、激化していた中ソ対立を利用してソ連を牽制し、同時にベトナム戦争を終結させようとして、中華人民共和国に接近し、米中両国関係は正常化に向かった。それを受けて日本の田中首相は日中共同声明に調印し、日中の国交正常化が実現した。一方台湾に本拠をおく中華民国との国交は断絶した。その後、1978 年には日中平和友好条約が結ばれた。
同じ頃、中東の産油諸国が石油の輸出規制をしたため、この地域の石油に依存する日本経済は、1973 年と 1979 年の 2 回にわたり、深刻な打撃を受けた(石油危機)。しかし、これによって電気製品が消費電力を大きく減らすなど省エネルギー技術が発達し、日本経済はかえって強くなった。アメリカに次ぐ世界第 2 位の経済大国になっていた日本は、更に科学技術大国へとなっていった。 1973 年、中東でアラブ諸国とイスラエルとの戦争が起こった。アラブ産油 国は石油の輸出を制限し、原油価格は 4 倍に跳ね上がった。ほぼ 100%輸入に頼る日本は、最も深刻な打撃を受けた。1979 年には、イランで王政を倒す革命が起こり、再び原油価格が高騰した。が日本の経済は前回ほどの打撃は受けず、産業の発展はとまらなかった。
1989年1月7 日、昭和天皇が崩御された。60 年に及ぶ、激動の昭和時代は幕をおろした。皇太子・明仁親王が皇位を継承し、新しい年号は平成と定められた。これは「内外ともに平和が達成される」という願いが込められた年号だった。

《補講》 国民と共に歩まれた昭和天皇

立憲君主の学びと国民の安寧を祈り、無私と献身のご生涯
昭和天皇は 1901年4月 29 日、大正天皇の第 1 子としてお生まれになりました。御名は迪宮裕仁(みちのみやひろひと)、幼少のころより極めて真面目で誠実なお人柄でした。
昭和天皇は 1921 年、ヨーロッパを訪問しイギリス国王ジョージ 5 世と親しく話し合いました。イギリスの政体 「立憲君主制」 を学んだといいます。「君臨すれども統治せず」 という君主のあり方は、武家が政権をとり、朝廷は国家の安寧を祈るという日本の政治形態にも似ていました。天皇は「もし、自分がよいと思うことは裁可し、いやなことは裁可しないというならば、これは専制君主と変わらない」と述べています。昭和天皇は、国の命運に関わる重要な場面で、自ら決断されたことがあります。1936 年の二・二六事件の時、天皇は将校たちの武力行為に対して厳しい態度でのぞみ、叛乱軍とみなして鎮圧を命じました。
1945 年 8 月の終戦も昭和天皇の決断でした。ポツダム宣言を受諾して戦争をやめるか、本土で決戦をするべきか政府内の意見が二つに分かれ、どちらとも決することが出来なくなった時、鈴木貫太郎首相は、天皇にその判断を委ねたのです。昭和天皇は「私は国民を護りたい」と終戦のご聖断を下されました。
終戦の年の 9 月、天皇はみずから占領軍総司令官マッカーサー元帥のもとを訪ねました。元帥は天皇が命乞いや弁解にきた、と思いました。歴史上何処の国の指導者も、戦争に負けると財産を持って亡命するか、自分と家族の安全を求めてくるのが普通だからです。しかし、天皇の口から出た言葉は 「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に全責任をもつものとして、私自身を貴方の代表する諸国の採決に委ねるためお訪ねした」 というものでした。元帥は 「死をもともなうほどの責任、明らかに天皇に帰すべきではない責任までも引き受けようとする、この勇気に満ちた態度に、骨の髄まで揺り動かされた」と『回想録』に記しています。
敗戦後の日本には住む家も食べるものもない焼け野原でした。天皇は全国民を見舞いたいと日本各地を親しく巡幸し復興に励む人々と親しく言葉をかわされました。巡航は 1411 カ所にのぼりました。1988 年の秋、病床に伏した天皇は、医師に「もうだめか」とおたずねになりました。医師は「もう長くないのか」 という意味だと思いましたが、実はそうではなく、天皇は次の御製を読まれました。
思はざる 病となりぬ 沖縄を たづね果たさむ つとめありしを
この前年、沖縄行幸が決まっていましたが、天皇は重い病に倒れてしまったのです。国内最大の地上戦となり、戦後も長くアメリカ軍の占領下にあった沖縄への行幸は、昭和天皇の悲願でした。昭和天皇はみずからの最後を悟り「沖縄に行幸するのはもうだめか」とつぶやいたのでした。
昭和天皇のご生涯は、大日本帝国憲法における統治権の総らん者(すべてを掌握して治める人)として、戦争に苦悩した前半生と日本国憲法における象徴天皇として、国民の幸せと国家の平安を祈る後半生だったといえるでしょう。その生涯は常に国民とともにありました。

89―戦後の文化

戦後の日本は、敗戦の痛手を受けながら、さまざまな分野で、新たな文化の担い手が登場した。文学では川端康成が日本的な美の探究をつづけた。三島由紀夫や石原慎太郎など若い世代もあらわれ、新しい文学を創造しようとする気概をみせた。
自然科学の分野では、1949 年湯川秀樹が日本人で始めてノーベル賞を受賞し、国民に大きな希望を与えた。その後も多数のノーベル賞受賞者を生み出した。

《資料》 *日本人ノーベル賞受賞者
湯川秀樹 1949 物理学 朝永振一郎 1965 物理学 川端康成 1968 文学
江崎玲於奈 1973 物理学 佐藤栄作 1974 平和賞 福井謙一 1981 化学
利根川進 1987 医学生理 大江健三郎 1994 文学 白川英樹 2000 化学
野依良治 2001 化学 小柴昌俊 2002 物理学 田中耕一 2002 化学
南部陽一郎 2008 物理学 小林誠 2008 物理学 益川敏英 2008 物理学
下村脩 2008 化学 鈴木章 2010 化学 根岸英一 2010 化学
山中伸弥 2012 医学生理 赤崎勇 2014 物理学 天野浩 2014 物理学
中村修二 2014 物理学

戦後・昭和期の文化の大きな特徴は、大正以来の文化の大衆化がいっそう進展したことである。特にラジオやレコードによる歌謡曲の普及は著しく、美空ひばりのように、国民的に親しまれる歌手も登場した。
文学においては、純文学も大衆文学も幅広い読者を獲得する作家が生まれた。松本清張は社会派推理小説、司馬遼太郎は歴史ものを当時の青春群像をとおして描き広く読まれた。GHQ に禁止されていた時代劇の映画がつくられるようになると「忠臣蔵」などが復活、日本映画が復興した。映画監督の小津安二郎は日本の家族を描写し、黒沢明監督は構想の良さと映像美で国際的に注目された。高度成長期ののち、様々な分野で、日本人の才能が世界的に高い評価を得るようになった。漫画やアニメの先駆者となった手塚治虫、宮崎駿らはその代表的な例である。

日本文化は日本古来の伝統と外来の文化を融合させることによって生まれてきた。そして現代においては日本人の発信する文化は、同時代の外国人にも広く受け入れられ、彼らに大きな影響を与えている。また、世界的な健康ブームの中で「和食」が注目され、2013 年にはユネスコ無形文化遺産に選ばれた。正月や田植えなどの慣行を含む、日本の食材と豊かさが評価された。




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