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椰子の葉風 鈴木南樹 その7
椰子の葉風 その7は、前回のフィオリ家の夕食後遠くから聞こえて来るバイレの賑やかな騒音を聞きながらの美しい土曜の夜から始まり、コーヒー園での生活山建てと山崩しの話、コーヒー樹1000本当りの収穫量、豊作時で100アローバ(1500キロ)凶作だと400アローバ(600キロ)。続きは待ちに待った水野龍氏の再伯に伴い耕地からサンパウロへの旅情を誘う旅の描写、水野氏への報告に続く。今回は、コメント集なしで5編を収録できた。
写真は、日曜に売店に集まる農夫たちとの説明がある挿絵を使いました。


コーヒー園生活 (十九)

若人は踊る・恋の前奏曲
               朗らかに美しい土曜の夜
珍しく北風が吹き出して、気温が二〜三度高まったらしい。屋外の夜は限りなき快さである。若い男女の群れが夜の挨拶をしながら、何人も私たちの前を通って行った。
なかにはビオラを引きながら、高らかにはやりの歌を歌いながら行き過ぎるものもあった。少年アントニオとジョバンニも、いつの間にか姿を消して彼らの群れに入って行った。
百メートルばかり先のグルーボ(長屋)から、特に明るい灯が戸外の月光の中に橙色にながれて、サンホナ(アコーディオン)の音が手に取るように聞こえて来る。
バイレ(舞踏会)が催されているのである。
舞踏会などというと大層に聞こえるが、日本ならば盆踊りのもう少し簡単なものに過ぎない。しかし白人の社会では階級のいかんにかかわらず、バイレはなくてはならない社会生活の重大な機会であり、楽しみでもある。
お祭り、結婚式の夜などはもちろん、ちょっとした出来事にもバイレはつきもので、こうしたコロニヤでも土曜日の夜は、どこかでバイレの催しをすることが当たり前でいつものことである。 
男女の取り持ちをすることは、盆踊りもバイレも変わりはないが、ある限界を厳粛に保つ点においては、白人は日本人の追従を許さない美点を持っている。
ナモーラ(見染める)からノイバード(許嫁)までこぎつけることは、白人社会の若い男性にとっては容易なことではない。
まず男は窓の下に立って、二か月も三か月も我慢して、毎日毎日女と会話をする。それがやや進展してくると女は門のところまで出てくる。男はやはり門外に立って夜の九時、十時までも語り続ける。寒い霜の夜も、霧の深い晩も、何を話すものか知らないが、忍耐の限りを尽くして女のご機嫌を取らなければならない。
しかしもうここまでこぎつければ、誰も見ている人があるじゃなし、ぎゅっと手を握り合ったり、女の心ひとつでキスを許されるようなことがないでもない。順調にいけば、それから家の中に入ることを許され、婚約時代ということになって、女を自由に連れ出すことになるのである。
しかし相手の女によっては門前のところまでこぎつけて、それからトンと突っ放される者が少なくない。これは私が後年、あるポルトガル生まれの未亡人から聞いたことであるが、この未亡人が娘時代にはよく、誰にでもナモーラの申し込みに応じて話をするが、いつもそれ以上深入りしないで別れてしまっていたそうである。
その未亡人の母親はいつも
「妙な娘ね。きっとお前の心はブロンゼ(青銅)でできているんだよ」
と言ったそうだ。未亡人も
「若い娘時代の私の心は青銅だったのよ」
と、私に言って笑った。
どうして白人の娘は処女性を失うことを嫌がるかというと、それはもちろんカトリック教の影響であるが、法律上においても結婚の初夜において、もし処女でなかった場合は、その翌日にも離婚が許されているからである。
処女に対する強烈な誘惑も、溶けるような陶酔もなく、空虚なまま結婚の初夜を送らなければならない日本人は不幸である。純潔な処女のままで一生を愛する夫に捧げるという思想は美しいと思う。夫を持ってからでさえ、浮気をしなければよいというような日本の習慣には身震いせざるを得ない。
バイレと一口にいっても、あの悪魔化したぜいたくな社交場の娯楽機関となり、身持ちの悪い男女が、馬鹿げた振る舞いを演ずる媒介を作るようなものは退けたい。
しかしこうした純朴な田舎において行われるバイレに集まるものは、ほとんど若い未婚者のみに限られ、結婚への楽しい道程である上からみて、そうして若い男女が断然ある限界から脱線しないとしたならば、有益な意義ある機会であると言わなければならない。
「アンナさん、あなたは、踊りは嫌いですか?」
「いいえ、好きですわ。でもね、パパイ・・・・」
アンナは父親フィオリの顔を見つめて黙り込んでしまった。
「それはね、ススキさん。実は私もローザもアンナに、ここ四月〜五月はバイレに行かないように勧めているんですよ。なぁにね。アンナにかかわったことではないんです。あなたも事務所にいるのだから、とっくに聞いているでしょう?
ねぇ、ローザ、先月の初めだったね、ほら、ブラジル人の日雇いのペードロが、イタリア生まれのマリアを連れ出した一件がありましたでしょう」
「あぁ、あの警察で結婚した一件ですか?」
「そうです、よくあなたも覚えていらっしゃる」
こう言ってフィオリの語るところによれば、ブラジルでは(イタリアでも同じ)男が一度、女の処女性を奪ってしまった上は、いかにその親兄弟が二人の結婚を妨げようとしてもダメである。彼らは親の同意が得られない場合は、警察において結婚してしまうのである。女は両親の遺産に対する権利を放棄しさえすればよいのである。
女を犯した男が結婚に対する責任を果たすことができなかった場合は、数年間の禁固刑に処されるようになっている。もちろん女性の方から結婚を放棄する場合は、男の義務は解放されてしまう。
「こんなわけでね、だんだんコーヒー収穫期が近づいてくるので、各国の日雇い人が入り込んでくるでしょう。バイヤーノのような凶暴性を持った者から、取り返しのつかないような間違いが引き起こされてもならないし、アンナはまだ若いからね」
「いやなお父さん、私がそんな風に見えて?」
アンナはちらりと私を見て顔を火のようにした。
「なぁにね。お前にそんなことがあってたまるものか。ありはしないよ、ないよ。断然!しかしね、アンナ。お前にはまだ男を見る冷静な判断はないよ」
フィオリは若い昔でも思い出すように目をつぶった。
「アンナ!本当に気を悪くしてはいけないよ。お父さんがアルゼンチンから戻ってきたのは二十六才の時よ。あたしだって二十才を越したばかりではあったけど、お母さん・・お前のお祖母さんはね、やかましい、でもいい人であったの。フィオリが半年も通ってくるし、私の心もしっかりフィオリのものになってしまっても、まだお母さんは早い、早い、男を選ぶときは焦ってはいけないと言って、なかなか許してくれなかったんですよ」
ローザはしみじみとこう言ってフィオリを懐かしそうに柔和な目で見た。
「ハハハハ、ススキさん、ローザの奴とんだ若い時のお惚気話を言いおるわい。・・ローザ、罰金だぞ。濃いコーヒーでも早く沸かしておいで。俺にはビンガだ、ビンガだ」
バイレの裏庭で打ち揚げたものらしい、音ばかりバカに大きな花火が、轟音を轟かせながら月明の空に火の粉を散らした。


コーヒー園生活 (二十) 

 大豊作の次年は凶作
               山建てと山崩しの話
いつもならば、もうそろそろコーヒーの収穫が始まるころであったが、イナゴの害でコロノたちは間作物の撒きつけを二度も三度も繰り返したので、農場内の仕事はだいたい一か月前後手遅れとなっていった。
大豊年の後の年だったので、コーヒーの結実量が少なかったことがかえって成熟を早めたらしく、だいぶ赤くなってきたのが誰の目にもついた。
温厚な支配人も、毎日報告に来る監督たちを待ち焦がれて何かと指図をした。
山建ての一番早く済んだのがトツカ部落であった。監督はジュリオといってメネゴニ支配人時代から、もっとも信用のある人であった。農場内では一番端にあるということで、小規模な乾燥場もあり、コーヒー精選工場も完備しており、まるでこれは一個の独立した小農場であった。
ジュリオは他の監督のように、毎日事務所に顔を見せるというようなことはなかった。
何か仕事の変わり目とか、特別な用件でもない限りは、一か月に一回くらいしか来ないことも少なくなかった。
ジュリオが山建ての終わった報告に来たときは、支配人テオフィロもいつになく上機嫌であった。
「ジュリオ、今年は千本に、どれくらいの収穫がありそうな見込みかね?」
「そうですね、ココ(実)で三十五俵、ベニフィシアード(精選)で五十アローバス(七百五十キロ)くらいなもんでしょうか」
「五十アローバスもあるかね?私は農場全体から平均したら、千本で四十アローバス(六百キロ)をやっと越えるくらいではないかと思うがね」
「トツカだけは断然五十アローバスは下りません」
こんな風に二人の会話は、コーヒーの作柄についていろいろ取り交わされたが、コーヒーというものは豊年の次には必ず不作が来る。大きな豊年が来るには十数年、またはそれ以上の長い準備が必要である。すなわち十二月から二月の終わりまでに一大降雨があり、開花時における寒冷な南風のないことが絶対条件である。
昨年、千九百六年の豊作は、実にコーヒーがブラジルに移植されて以来のレコードであるが、決して天然の自然や人間たちの共同準備が、五年や六年の短い月日の後に達成されたものではないとのことである。
千本に対するコーヒーの結実量は、時として二百アローバス以上に達することもあるが、それはただほんの一部の例外の話で、平均して豊年で百アローバス、凶作で四十アローバスという両端を往き来しているのが、実際に近い収穫量である。
「なかなかコーヒー園経営も思うようにうまくいかないものですな」
支配人は心持ち暗い顔をした。
   ◇    ◇    ◇
ジュリオは支配人テオフィロとの話がすむと、日雇い人の使用記帳や、会計上のことを報告するために、簿記係の窓口に来た。
ジュリオは私の顔を見ると
「ススキ。ヴォッセ・エスタ・ボン(お前は達者かねということ)」
こう言って不揃いな一本の歯をちらりと見せながら笑った。
「ありがとう。時にジュリオさん、私はあなたに聞いてみたいと思うことがあるのだがね」
「バカに改まっているね。さぁさぁ私の知っていることであったら・・・」
「それは山建てのことなのです」
コロアソンで、ある者はモンテ(山)を盛り、ある者はコルドン(長畦)を作っているが、実際はどうするほうがよいのかを知りたいのであった。
「その良し悪しは人の見方によって違うがね。私の考えではこうなのです」
ジュリオの説明するところによれば、傾斜面は大雨などのあった場合に、コーヒーの実が流失する恐れがあるので、帯のように長く土を盛り立てる方がよく、平坦な土地はモンテ(山)にしてもコルドンにしても差し支えないとのことである。
もともとこういう地勢状から考え出して起こったやり方であるから、監督はよくその辺を考慮して最適の方法をとるべきである。
エスパルマソン(山崩し)は、コーヒー樹の下へはできるだけ肥料分のありそうなもの、例えば枯草、コーヒーの落ち葉などをかき寄せて、うすく土をかぶせるべきである。
つまりエスパルマソンはコーヒー樹の、新しく成長する細根を培うことを目標とすべきものである。
「ススキ、日本移民が来たら、またゆっくり伝授することにしよう。コエリヨさん、さぁ一つカマラーダの勘定をしてもらいましょう」
彼はこう言って肩にかけた木綿の袋から帳面を出した。
    

コーヒー園生活 (二十一)

 日本語を話す喜び
              待った水野氏遂に来る
水野龍氏がいよいよブラジル移民契約のために、再び渡航したという知らせをペトロポリスから受け取った。それにはサンパウロ市に着くと、直ぐ知らせてやるから出てくるようにと書いてあった。
約一年間にわたる農場生活において、私は時々簡単な報告めいたものを水野龍氏に送ってはいたが、果たしてどれだけの知識を得たであろう。理論的に日本移民が本当に有望であるかどうかを説明するには、私の体験ではまだまだ不十分であった。
公平に、率直に言うならばコーヒー農園における私の苦労などは、ほんの茶番狂言のようなものであるということが最も当たっているであろうと思う。
私は水野氏来伯を心から喜んだが、私自身の努力に対しては不満であった。一年ぶりで日本語、そうだなつかしい母国語を、この唇から語り出だすことの嬉しさはどんなであろうか。ほとんど日本の書物からさえ遠ざかっていた私は、はたしてどんな声で、どんな調子で、どんな風に水野氏と応対するのであろう。
第三者になってその光景を想像すると、それは実にたまらないほど滑稽なものであったので、私はとうとうふきだしてしまった。
「ススキさん、何かそんなに面白いことがあるのですか?あぁ分かった、昨日フィオリの家でアンナにもてたのですな!おぉススキ!ススキ!」
簿記係のコエリヨはなかばからかうような調子であった。
「いいや、大違い。実はねコエリヨさん、龍・水野がペトロポリスに着いたという知らせを受け取ったのです」
「リオ・ミズノ、そうかね。おぉ、あの頭の禿げた人の好い爺さんでしたね。私はあの人からもらった絹のハンカチーフをまだ大事に持っていますよ」
ブラジル人は、こういう場合は必ずその人からもらったもののことを話す。それはまた貰いたいという一種の謎かけと聞き取れないこともなかった。
「そうよ、あの禿げた爺さんですよ。今度は移民契約ができればいいがね」
「もちろんできるとも。サンパウロ州コーヒー園主は、イタリア人移民が来ないので困っているのだからね。日本移民が来るとこの農場へも最小限五十家族は入れるだろうから、君は通訳兼監督となるのですね」
「さあ・・・」
私にはそれが嬉しい期待でもあったが、恐ろしい不安でもあった。
「一体、リオ・ミズノはいつ頃この農場へくるのでしょうか?」
「わかりませんな。サンパウロ市に着くと電報を打つと言ってきていますが、私は会いに行かねばなりません」
「やあ、何かたいそう面白そうですね」
思いがけなく支配人が窓の外から声をかけた。どこか馬で一回りしてきたらしく、皮鞭を手に握っていた。
「ススキがね、リオ・ミズノが日本から着いたと言っているのですよ。あなたはご存じないかも知れませんが、リオ・ミズノは日本の移民会社の社長で、去年ススキと一緒に、公使館などの人たちとここへも立ち寄った人なのです」
「なるほど、それでススキがはしゃいでいるのですね」
「ススキは、もうサンパウロに行きたいと言って騒いでいるのです」
「ハハハハ、気の早い男だね」
朝飯を知らせる工場の九時の汽笛が、けたたましい音をたてて鳴りひびいた。


コーヒー園生活 (二十二)

水野 龍 来伯・・・(一)
           耕地からサンパウロへの旅
 それから一週間もたたないうちに、水野さんから『サンパウロ市に着いたから、すぐ出発せよ』という電報を受け取った。
支配人テオフィロは、私の十日間の休暇願をすぐ許してくれて、簿記係のコエリヨは『水野さんによろしく』などと言って喜んでくれた。
秋になっていたのでその日も晴れ輝いていた。私は車窓のガラスに顔を押し付けて、むさぼるようにゆれ動く光景を眺めた。
『おお、パイネイラ、パイネイラ』
私はいたるところの野に、山に咲いているうす紅の美しい花を見て叫んだ。
前の年、三浦通訳官、水野龍氏などと初めてコーヒー園を巡視した時も、この花が咲いていた。日本のさくらが夢見るような、おぼろおぼろの感じを与えるのとは違って、パイネイラの花は、透明の紺碧な空に鮮明ないろどりを見せて、朗らかな心持ちを起こさせる。
パイネイラは十数種類あるが、普通に見るのは羊毛の樹(Arvore Speciosa)、絹糸の樹(Paineira de Seda)などとよばれているもので、Bombaceasに属し、学名Chorisia Speciosaと称されるものである。ヌーボー式にぬっと、まるですりこぎを立てたように、太く、太く成長した樹にとげがあるのとないのがある。
花の咲くときは落葉をしているものも少なくない。よく調べてみれば花弁の長さは六センチ前後で、その色は鮮やかな桃色に、緑と褐色の斑点があって、中心に白いところのある配合がたまらないほど美しく見える。
小さな十数個の種を包むのに絹糸のような光沢のある綿をつけており、実の大きさは十五センチくらいである。ヌーボー式な大木にこういう実がぶらりぶらりと、数えられないほど沢山ぶら下がっているのは変わった眺めである。
この綿は布団やまくらなどに入れるとふわふわとして、いつまでもかたくならない特色を持っている。種を搾れば染料を得ることができ、髪の毛を染めるにも適している。
原住民は堕胎などにも利用すると聞いている。
ガラナやビールなどの偽造にも使用されることはあまり人に知られていない。アマゾナス地帯にある最大の樹スマウメイラも、ところ変われば品代わると言われるように、このパイネイラの別名に過ぎない。
   
 私はこんなことを考えながら、豊沃なサン・シモンの丘陵地帯をぬけて、カーザ・ブランカの広々とした平野を走る汽車の中から、サンパウロ、ミナス両州境に起伏している山脈のうねりを見て、初めて山らしいものに出会えたことを喜んだ。
特にカスカベール駅からポッソ・デ・カルダの火山型にちかい隆起を眺めて、日本のある地方を旅しているような感情にひたることができたのは意外であった。
 モジアナ線を通ることはこれで三回目である。だが二回とも言葉もわからず、ただ夢のようにぼんやりしていたのであったが、今回はたとえ片言交じりに過ぎないにせよ、多少の会話もでき、風俗・人情にも親しみを持ってくると、今日まで気づかなかったいろいろな新しいことが、それからそれへと目についてくる。
 満々と水をたたえて流れるモジグワス川も珍しかった。それは実に一年ぶりで見る大きな水流であった。突っ立った小さな丘を川向うに眺めて、バナナやミカンの木の多い、川の名前と同じ町には、教会の鐘が鳴り響いていた。
このあたりから地形は、再び波状をなして起伏して、黒味を帯びた赤土が日盛りの日光にさらされていた。枯れ枝の多いのが目についたが、それでもいたるところに成熟しかけたコーヒー園が広がっていて、さわやかな緑の波が地平線の彼方へ遠く、遠くうねっているのが見えた。
 ジャグワリ駅は何となく旅らしい感じの豊かなところである。石の多いジャグワリ河の岸には、椰子やマンゴ樹の繁った農場があって、いかにも熱帯らしい眺めをほしいままにしていた。名も知らない種々な果物が淡黄色のバナナ、黄金色のネーブル・オレンジなどに混じって陳列された商人の机が並んでいた。
ペロバ、カブリウバ、ジャカランダ、イペなどの名木で製造された杖。日本の温泉や名所などでもよく見かける、ろくろ細工の玩具めいた、いわゆるお土産品を売っている人たちもいた。
 カンビーナス市までの線路は、山間を通過しているので曲折がはげしかった。汽車のガラス窓が傾きかかった太陽の反射を受けてぎらぎらと光った。冷たいような妙な暖かさが車内の人々の顔を赤くしていた。
 ビリツーバで電気の高圧線が目に入ったときに、大きな都会に近づいたことを知って、胸がどっどっと高鳴りするのをどうすることもできなかった。
 チエテ河の鉄橋、電灯の海、その光を映した雲影。人口三十万のサンパウロの騒音が耳に響いたとき、私は一種言い表すことのできない狼狽を覚えた。


水野 龍氏来伯・・・(二)
         なつかし日本人よ、日本語よ
「いやあ!」
グランデ・ホテルの水野さんの部屋は、階上の昨年と同じ部屋であった。
ノックしてあらわれた私を見ると、例の重々しいゆっくりした口調でこう言うと、いつもの癖である心持ちょっと口をとがらせて私を迎えた。
「お久しゅうございます。別にお変りもありませんでしたか?」
私の口は妙にこんがらがって物を言うことができなかった。
それは決して感激のためではなかった。
長いといってもたった一年間に過ぎなかったが、日本の文字を読まず、日本語を話さなかったことは、私自身に自由にものを言うことをできにくくしたのである。
いかにもわざとらしく取られるのが嫌さに、あせればあせるほど言葉がつかえてしまって、我ながらおかしいほどであった。
「ハハハハ、鈴木は日本語もろくに喋られなければ、ブラジル語もまだ駄目だというから、これはいよいよ不具者になってしまったね、ハハハハ」
こう言って水野氏は笑った。私も仕方なく顔を赤くしながら笑うよりほかになかった。
「冗談はともかく、一つ君の体験による、コーヒー園に対する感想を忌憚なく話してくれたまえ」
水野さんはぽつりぽつりとこう言いながら、禿げた額から短く刈った白髪頭をなであげながら、私の顔を柔和な目つきで見守った。水野さんのこうした態度には誰にでも惚れさせるような慕わしいものがあった。
「さあ・・?」
私はちょっとなんと返事してよいかわからなかった。一年ぐらいの体験・・・、それも言葉さえろくろく通じない者のコーヒー園調査に、何の価値を認められるだろうか? 悪く言えば観光旅行者の知ったかぶりと五十歩百歩に過ぎない。
 これまで私の感じたことはその時々に水野さんに送っている。そうしてそれは水野さんの新著『ブラジル移民』や、当時博文館から発行されていた雑誌『太平洋』などに載せられているはずである。
数か月たってからそれを読み返してみると、冷や汗の出るような考え違いや誤りを見出すことが少なくなかった。
杉村公使のサンパウロ州コーヒー園巡視報告書中に、サツマ芋をジャガ芋と取り違えて書いているような滑稽に近い誤りがあったとしても、私はわざとらしい誇大な、いたずらに扇動するような無責任なことは絶対に避けたい。
 私は従来の報告書にもれたことや、誤りをただし、最近に実際に見聞きしたコロノの、間作物による収入に対してできるだけ詳しい話をしてから、コーヒー園労働に対する日本移民問題に対しては、私は自分の実際の経験よりも、外国移民の成績を見る方が、もっと確かな結論であると思うということを熱心に述べた。
「ね、水野さん、私の体験などは貧弱で言うに足りませんがね、イタリア人をごらんなさい。裸一貫で来た人たちが、五年、十年、二十年と過ごすうちに、立派に成功している人が市街地にうようよいるではないですか。事実ほど尊いものはありません。ブラジル移民は調査をしたり、考慮したりするよりも実行することが第一であると思います。
コーヒー園労働に日本人が耐え得るかということや、衛生状態などについては、労働になんの経験もなかったこの私が合格しているし、短いと言いながらも一ヶ年の間に、たった二日間だけ風邪で寝た以外、一服の薬さえ飲んだことのない私の健康な顔をご覧になれば、千百の非難を打ち消す何よりの証拠ではないですか」
 実際私は自分の貧弱な体験よりも、南欧移民の実情を知ることによって、コーヒー園に対する日本移民の可能性に、誰よりも楽観的な確信をもっていたことを、断言するにはばからないものである。
「そうだろう、俺も同感だ。君には苦労をかけたね」
水野さんは何度も軽くうなずいた。そこへノックする音がして一人の男が入ってきた。タバコ好きな人に特有な浅黒い色をした角ばった顔に、剃ってから四〜五日もたったらしい真っ黒な荒いひげがバラバラと鼻の下にも顎にも生えていた。
「伊藤君、紹介しましょう。これがいつも話していた鈴木だよ。今着いたところでね。伊藤君は今度俺と一緒に来てくれた通訳さんです」
私は立ち上がった。
「私は鈴木です」
「お名前は水野さんから聞いてよく知っております」
握りあった伊藤さんの手は、何となくがさがさとあぶら気のないような感じのする人であった。



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