椰子の葉風 鈴木南樹 その8
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椰子の葉風 その8は、水野龍の再伯に伴いサンパウロに出た序に当時サンパウロに住んで居た日本人(南樹さんと同じ1906年に着伯した藤崎商店の野間貞次郎さんと青年達)の隈部氏家族の存在等、日本移民渡航前のサンパウロ市の邦人についての詳細が語られており、笠戸丸をブラジル移民の始めとする移住史以前の状況を知り得た貴重な記述を始めて知る。帰国する水野龍より「今度こそ、移住者を連れて来るからしっかり頼むよ!」と云われ気を引き締めてチビリサのコーヒー園に戻る。
写真は、日本人移住史が始まる1908年の前年、1907年当時のサンパウロ市の写真が挿絵に有るのでお借りする事にしました。
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水野氏来伯・・・(三)
水野さんに対する大体の報告が終わったので、翌日から私は自由になった。
あたかも籠を出た鳥のような気持ちもしたが、一年間の農業生活からのあまりに突然な開放は、何となく間が抜けたようでかえってまごついた。
まず農場から書面のやり取りをしていた、藤崎商店の後藤武夫君を訪問することにして、グランデ・ホテルを出てサンベント街を下って行った。
アントニオ・プラード広場から右側の三軒目に『O Japao em Sao Paulo』 というのがそれであった。朱や金色をごてごてと塗っている瀬戸物、扇子、日傘など、ちょっと日本では想像もつかない、いわゆる海外向けの品物が並んでいた。
私はおそるおそる店の中に入って行った。
二〜三の客が絹ハンカチやおもちゃなどをさわっていたが、朝が早かったので店内はまだ静かであった。背の低いひげの濃い人は支店長の野間貞次郎君だとはすぐわかったが、そのほかの三人の青年の中の誰が私と文通をしている後藤君であるか判断がつかなかった。
「私は鈴木です、後藤君?」
私は三人の青年をじっと見つめた。
「鈴木君ですか、私が後藤です」
黄味のかった丸顔の、眼鏡の奥から時々鋭い眼光を投げかける、いかにも抜け目のなさそうな青年であった。
「これは佐久間重吉君、こちらは田中俊夫君」
集まってきた二人の青年に私は日本人らしく頭を下げて初対面の挨拶をした。
◇日本移民渡航前のサンパウロ市の邦人◇
佐久間君は、背は高くないが肩幅の張った頑丈な体格で、顔の大きい、今にもニヤニヤ冷笑を漏らしそうに見えた。田中君はやせ型でいかにも聡明らしい色の白い、気のおけなさそうな感じを与えた。
私はしばらく店内の椅子に腰かけて農場の話をした。後藤君たちはお客をあしらいながら、代わるがわる渡伯途上のことや、開店当時のことや、現在サンパウロ市に在留する日本人のことなどを私の質問に答えてくれた。
× × ×
千九百六年(明治三十九年)は日本人の渡伯者が多かった年であった。
気運というものは一種の不思議な謎である。日露戦争後の民族的自覚は『いざ海外へ!海外へ!』世界の隅々に出ていこうとした。杉村公使によって作られた気運は、ブラジルへもその気運のしぶきを飛ばさずには済まされなかった。
まず京都の人、三宅栄次郎君が私に遅れること五か月、すなわち明治三十九年四月七日神戸出帆の備後丸で渡伯の途についている。この人は徳富蘆花のトルストイ訪問と同船したのである。蘆花の巡礼紀行中の『方舟の鴿の如く(はこぶねのはとのごとく)』の項に
『自分の船室は備後丸の左舷、甲板の下、四畳半の部屋、六個の寝台を凹字型に二重に設けてある・・・・。南米ブラジルに行く人一名、ミラノ博覧会に行く人二名・・・。これが自分の同部屋の友である・・・』
南米ブラジルに行く人一名とあるのがつまり三宅君のことである。日本郵船欧州航路復旧後の第一船で日本を飛び出すというところに、当時の日本国民のはつらつたる精神を見ることができる。人間は、結局は時代の子である。
三宅君はのんびりした、いかにも京都人らしい人であった。裕福な銭湯屋の長男だということで、労働に経験がなかったため、思うようにいかなかったらしい。在伯十七〜八年、とうとうむなしく京都の生家に戻った。
『藤崎商店』の支店を開く目的をもって、野間貞次郎氏は三人の青年を連れて、神戸を出帆したのは千九百六年(明治三十九年)五月五日、日本郵船の欧州航路復活第二回目の河内丸であった。マルセーユ経由、サンパウロに市につつがなく旅装を解いたのは七月十五日であった。関税の関係、店の場所の選択などに意外に時間がかかって、サンベント街に開店したのは九月二十四日であった。
開店前に新聞社員などを招待して宴を催したので人気をあおり、来るわ、来るわ、日本の着物・・・それもほんの木綿の普段着であったが
「おお君は、『O Japao em Sao Paulo』を見たかね。正真正銘のジャポン・キモノを着ているぜ」
一つのニュースとして、サンパウロ市のあらゆる社会の噂話となった。
したがって店内は文字通り全く立錐の余地なしで、同じ場所に立ったまま身動きが取れず、売上金は着物の袖に投げ込むというありさまであった。
こうした混雑にありがちなスリにやられた者があらわれて、二日目からは巡査を派遣してもらって警戒をしたという騒ぎであった。
売上金を銀行に持っていくと、その中に二枚ばかり偽札があったのを、新聞では早速『日本人は偽札を知らない』という風なことを書き立てたのが意外に人気をあおって、実際に偽札を持って来るものなどが現れ、開店一か月位というものは、ろくに昼飯にもありつけないくらいの忙しさであった。
これが、日本人が初めてブラジルで店を開いた最初の記録である。
藤崎三郎助氏は東北人に似合わず、才知の鋭い、賢い頭脳の持ち主であったことも一原因には相違ないが、利害を度外視して日本商品の新販路を拡張しようとする、犠牲的精神に富んでいたということも見逃してはならない。
そうして藤崎氏にこういう決心をなさしめた裏には、彼の友人の堀口九万一氏の熱心な説得があったことが、大きな力になったことを忘れてはならない。
水野氏来伯・・・・(四)
藤崎商店の店員が神戸を出航してから一か月経った頃に、鹿児島から隈部三郎、本田竹治の二家族が、長瀬、鳥居、九玉、安田良一などの青年たちとで一団となった渡伯希望者が神戸に着いた。驚いたことにそこでは出雲から出て来た、明穂梅吉、太田、中井夫妻などの同じ目的を持った一行と落ち合ったのである。
偶然にも日向(鹿児島)と出雲の、二つの代表的日本文化発祥の地から、ブラジルに向かって新日本の創造を目的として、時を同じくしてお互いに出会えたということに対し、私は奇跡以上の興味を覚えるのである。
明穂氏らはフランスのマルセーユで下船して、一路渡伯したのに対して、隈部氏はどうしても鹿児島へ戻らなければならない事情があった。安田良一氏らの青年は明穂氏らと別れてロンドンに行ったが、ここでも思いがけない不幸がこの一行を待ち受けていた。
それは本田竹治氏一家が、むなしく本国に引き上げなければならない事情が生じたことである。こういうわけで明穂氏らのブラジル着は八月であったが、安田氏らは一か月遅れて九月になってようやくサンパウロの土を踏んだのであった。
いったん帰国した隈部氏はさらに有川新吉、松下正彦氏らを伴ってブラジルに着いたのは十月に入ってからであった。
落伍者はあった。しかし二十七年前(千九百六年)の日本には海外渡航に対して、今の人には考えられない難しい問題があったことを思ったなら、一年間にこれだけの日本人が渡伯できたということは、むしろ思いがけない好成績であったと言わなければならない。
これらの人たちは皆、当時サンパウロ市第一のホテルであった、ロッチセリー・スポルトマンの料理場の助手をしていた。月給は食費付き六〜七十ミルレースであった。
今、貴族然としてすましこんでいる堂々たる体格の持ち主、現サンパウロ市海興支店の明穂梅吉君なども、あのしかつめらしい顔をしながらジャガ芋の皮をむいていたのである。
その中の松下正彦君などは、多少の資金を作ると商才満々たる人であるから、小麦粉をこねてお団子に丸め、フェジョン(一種のササゲ豆)を漉して餡を作り、日本人の口に入れてさえも、とても珍妙なお汁粉をこしらえて
「ジャポン・ショコラーテ、ジャポン、ジャポン・ショコラーテ(日本チョコレートという意味)」
天秤棒に担いで、松下君のことだ、ありったけの大声でふれ歩いた。ロシアに勝った小人国日本のチョコレートとは一体どんなものだろうと、たちまち黒山のごとく人が集まってくる。物好きな人が
「一杯、そのジャポン・ショコラーテをおくれ」
松下君がうやうやしくシーカラ(茶碗)についで出すのを、恐る恐る口づけたかと思うと、たちまちパッと吐き出してしまう。
「なあんだ、フェジョンのような味がする。これがジャポン・ショコラーテ?」
ほかの一人が『俺にも一口』と言って試してこれも案の定すぐに吐き出す。一杯買うとそこら中の人で一口ずつ試食して二杯とは売れない。また二度と買ってくれない。中には
「日本人は背が低いはずだ。お前はそんな大きな体格をしているのだから偽物だろう。お前は志那人だな。なんだ、こんなジャポン・ショコラーテなんて人を馬鹿にしている。インチキをやると承知しないぞ、志那人め」
などと怒鳴りだすものもある。さすがの松下君の名案ジャポン・ショコラーテも散々な失敗で、再びホテルのジャガ芋の皮むきになるよりほかに仕方なかった。
ホテル・ロッチセリーは最初に渡伯した日本のパイオニアたちにとって、砂漠のオアシスのようなものであった。少し金がたまると直ぐに野心を起こして何事かを企てた。それは判を押したように失敗したが、いつも元の古巣へ舞い戻って芋の皮むきを始めた。
昇進の見込みもなかったが、支配人はぶつぶつ小言を言いながらも、日本人のために料理場の仕事を与えてくれた。この支配人の名前はどうしても思い出すことはできないが、日本人のサンパウロ発展史にもらすことのできない人である。
水野龍氏来伯・・・(五)
十人余りの在留日本人のうち、家庭を持っているのはただ隈部三郎氏だけであった。
ソルティロ(独身)者たちの間借りしているのは、リベロバダロ街の突き当りから右へ折れたサン・フランシスコ坂街であったが、隈部氏の借りている所は二〜三町離れたアスヅルバル・ナッシメント街のはずれであった。
一家の人たちは隈部氏夫妻と十七才になる光子さんをかしらに四人の娘たちと、一人の男の子を合わせて七人の賑やかな大家族であった。
『娘さんがいる!』
ただそれだけの言葉を聞いただけでも、当時の在留日本人の青年たちにとって大きな慰めであった。
隈部さんの一家は紙巻きたばこの請負をしていたが、ホテルの仕事から戻った青年たちは、我も我もと狭い隈部氏の一間に集まって煙草巻きの手伝いをした。それは丁度花の蜜を探って集まる蜂のようなものであった。
「後藤君、一つ隈部さんのお宅を訪問してみようではないか」
臆病ではにかみ屋の私でさえ『娘さんがいる』ということに、百パーセントの興味と好奇心とをもっていた。
「よかろう。しかし娘さんはもう他人のものらしいぞ、ハハハハ」
後藤君は笑った。
「いや、妙な風に取ってもらっては困る。私は隈部さんに敬意を表しておきたいのさ」
私は心にもないことを言った。その実は十七になる娘さんを見たかったのである。
「ハハハハ冗談だよ、君。もう店を閉める時間だ。さあ君のいわゆる敬意を表しに行こう」
「いやに皮肉るね」
二人は連れ立って、ブリガデイロ・ルイス・アントニオ街を左に折れて行った。うす青いガス灯の光は街路樹のプラタナスに吹く、秋らしい風に寂しくまたたいていた。
イタリア人の家の一と間を通りぬけて、セメントの階段を下りると隈部さんが間借りしている部屋であった。
パライゾの方から広がっている渓谷に面した部屋で、ジョアン・メンデス広場から、リベルダーデ街へかけての高台に建て連なっている不規則な家並みは、ナポリの裏通りを描いた絵を見るような情調があふれていた。
ぽっと黄ばんだランプの灯・・ガスでも電気でもないのが一層興味を引いた・・を中心に隈部夫人、娘さん、お手伝いの青年たちなど、皆一心に煙草を巻いていた。
突然の訪問者に隈部さんは驚きと、喜びとをごっちゃ混ぜにして私どもを迎えてくれた。
お茶が出たので、お手伝いの青年たちも一時仕事を止めて、二〜三の話を取り交わしたが、またせっせと煙草を巻き始めた。
油煙さえも少し立ち上って、ランプの灯はだんだん暗くなっていくような感じがした。娘さんたちのつつましやかに煙草を巻いている横顔だけが、ほんのり明るく浮き出されて見えた。
お茶を出してくれた隈部夫人も、間もなく煙草を巻くグループの中に混じって働きだした。あまり綺麗でない狭いこの一室には、ただ勤労の気分のみが満ちあふれていた。
私どもは長く邪魔をするには耐えられなかった。隈部さんが止めるのも聞かずに外に出ると、私は黙っておれなかった。
「感心なものだね」
後藤君を振り返った私の眼には涙があった。
「みんなでああして巻き上げた煙草を、隈部さんはサンベントの店に届けて、また新しく材料を貰ってくるのだ。まあ家族が職工で隈部さんは雑用係みたいなものですね」
後藤君も感慨に堪えないような様子であった。
隈部氏は弁護士をしていた人で、当時の知識階級である。夫人は英語が隈部氏よりも上手いという、キリスト教を信じる近代的な女性であった。
現在から二十七年前に相当な社会的地位を占めておった人が、きっぱりこれをなげうって一万マイル離れた天地に、新しい運命を切り開こうとする勇ましい考えは、感激なしに見ることはできない。
日本人をブラジルに植え付けるにはこのようにせよと、己自身が模範を示しているのである。あの暗いランプのもとには、人間の顔さえよく見えなかったが、神聖な尊いものが電光のひらめくように動いていた。私はこの目と心で明らかに見たのである。
「そうかね」
私は長い溜息をついた。
しかしそれは嘆き、悲しむのではなく、むしろ隈部氏をありがたく思い、褒めたたえる心の激しい思いから生まれたものであった。
隈部氏の心境は、ただ労働を体験したものによってのみ推し量られるものである。
神聖広場の大聖堂の上には月が出ていたが霧のためぼんやりしていた。
後藤君と別れて私はただ一人ディレイタ街を歩いて行った。私は一人になって考えたかったのである。
× × ×
これはここに書くべきことではない。しかし私にぜひ隈部氏について一言を述べさせてもらいたい。
隈部氏は経済的には成功しなかった。しかしそれはかえって隈部氏を尊くするものであった。金などためてはかえっていけないのである。隈部氏の本領は、その辺にごろごろ転がっている移民を食い物にして生活する人たちとは違う。
今から二十七年前にブラジルの土となる考えで渡伯し、その通りブラジルの土となった。
一人でも隈部さんの家族でブラジルの土とならない者はないだろう。ブラジルで結婚し、ブラジルで子供を産みつつある。産めよ、あふれよ。誰が認めようと認めなかろうと、隈部さんのやった大きな事実を、誰であっても消し去ることはできない。
移民契約者やその代理人を、ブラジル移民の功労者のように表彰する社会を弾劾する代わりに、私は隈部さんのようにブラジル移民の礎となって、人知れず死んでいった人たちに対して無限の尊敬の念を払うものである。
水野龍氏来伯・・・(六)
三浦通訳官と水野さんと、もう一人、モンテーロという水野さんの代理者としての資格を持つ小柄な男性と三人で、毎日のようにサンパウロ州の農務局出かけて行った。
移民契約は大した難関にも出くわさず、少しずつ進行しているらしかった。
私の農場に帰らなければならない日が一両日の間に迫ってきたので、その情報を得たいと思って三浦さんの部屋をノックした。
「エントレ!」
お入りなさいというスペイン語調の三浦さんの声がした。
「鈴木君か」
三浦さんはあまり多くない口ひげをひねりながら私の顔を見上げた。
「私はもう明日当たりチビリサヘ帰ろうと思ってね。移民契約の方がどんなふうになっているのかが気になるものですから・・・」
「鈴木、しっかりせんといかんぞ。移民が来るようにするのは私たちの努力だが、移民が着いてからは君の番だからね」
大きな象のような小さな目はじっと私をにらんだ。私はなんだか耐えられないような重みが加わってくるように感じた。
「それでは移民契約は成立しそうですか?」
「契約の可能性は安心してよかろう。私の心配するのは日本移民が、コーヒー農園に入ってからがどうなるかという問題だ。私にはほとんど見当がつかないというのが、偽らない告白だ。どうしたって私たちはいいところばかり見せられているので、よほど割引してかからないと、実際とは相当にかけ離れたことになるからね。
しかし日本人は世界のどこかに抜け道を見出さなければならない。杉村公使だって、私だって、そういう見地からブラジル移民というものを入れようと決心したのだ。私はどんなことがあっても日本人をブラジルに入れてみたいと思っている」
「もし本当に労働に経験のある家族が来れば、一年で一〜二コントスの純利は間違いないと思いますが・・・」
「ところが君、移民会社なんというものは濡れ手で粟のような宣伝をするし、渡航希望者は大工でも鍛冶屋でも、商人だって、怠け者だって送ってよこすから、そこに大きな落とし穴がどうしても出来てくるのさ。そうして困るのは何も知らない君たちさ。よほど覚悟しなければいけないね」
「そうですかね・・・しかし・・・」
私は何も言うべき言葉を知らなかった。日本移民の来ることを心から望んでやまなかった私の心にも、一抹の暗雲が沸き上がってきた。
「びっくりしてはいけないよ。そんなことは移民会社にとっては罪のない方さ。君はまだ純だね。こういうと語弊があるかもしれないが、もう少し人間が悪くならなければ、移民事業に携わることは無理さハハハハ、しかし君にはなれそうにもないね」
三浦さんの口元にはそれとなき微笑の影がひらめいた。
私は黙って考えにふけった。
「心配しなくてもいいよ。時に君、今度の契約では通訳に対して、州政府から旅費として五十ポンドを支給することになっているが、それは君にも適用するようにしてやるからね。
コーヒー園で犠牲になった報酬は、別に移民会社から当然君に支払うだろうから、これは私の好意だと思ってくれたまえ」
「ありがとう。いつもあなたからはお世話になりどおしです」
私は心の中でその五十ポンドが受け取れたなら、どうしようかと考えた。
三浦さんは州政府を訪問する時間だと言って立ち上がったので、私もその後に続いて部屋を出た。
× × ×
モンテーロ氏がおり、三浦通訳官が仲介者として口をきくので、サンパウロ州政府との交渉に、水野さんが連れて来たフランス語通訳の伊藤さんは、なんとなしに疎外されているようであった。多少そんな不平もあったものか、いつも酒を飲んでいたようであったし、夜になるとホテルから抜け出て日本人のところへ行っていた。
ブラジルにおける日本移民史の観点から見ると、この伊藤さんは、ほんの瞬間的な存在に過ぎなかった。だが、ただ一つこの人の残したものがある。
それは隈部光子嬢と同航海者の有川新吉氏との結婚の仲介に成功したことである。ほんの身内だけの内祝言があったと言うことを伊藤さんの酒に酔った口からきいた。
同国間におけるたった一人の娘さんを奪われるということは、青年たちにとってこれ以上の寂しさはなかったであろう。少しも親しみのなかった私などでさえ、なんだかいつも見つけている空の星が見えなくなったような感じがしてならなかった。
私はこんな歌を詠んだ。
ただ一目 見しばかりなる 娘(こ)なりしが 嫁ぐと聞けば 寂しねたまし
かくて、三浦通訳官から『もし移民契約成立の場合は、移民収容所の書記に任命されることになっているから、通告があり次第直ちにサンパウロに出てくるように』ということを聞かされ、水野さんからは『今度こそ移民を連れてくるからしっかり頼むぞ』と言われ、なんだか重たい荷を背負わされたような気持ちを抱いてチビリサに戻って行った。
(コメント集)
しゅくこ:美知子さんへ 「椰子の葉風」毎回たのしみに拝読しています。
一年もたたないうちにかなりのP語の会話力があった若者だな〜と
わたしも読みながら驚いていました。正岡子規の指導の下、俳句や
短歌を詠んでいた若者ですから、もともと言葉に関しては理解力や表現力のセンスがよかったのでしょうね。
挿絵も彼が描かれたのでしょうか。これもなかなか味がありますね。
ところでミルレースという言葉でコーヒー豆や豚や給料の値段が表されていますが、現在のお金にしていくらくらいなのでしょうか。
鈴木貞次郎さんは温かい優しい気持ちの持ち主なんですね。
文章も明るくて、読後感は愉しい後味が残ります。彼のその後の人生がどんな風に展開していくのか楽しみにしています。
山形には年に1-2度は 102才になる義母に会いに行きますが、コロナ騒ぎが収まったら旅行を兼ねて 鈴木貞次郎さんの故郷の大石田と歴史民俗資料館まで足を延ばしてみたくなりました。新幹線も停まりますし。
皆さまへ Stay safe & cool
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