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椰子の葉風 鈴木南樹 その10
椰子の葉風その10は、コーヒー園生活の最後としてフィオリと一緒に蟻塚を見付け、有名な『ブラジルがサウバを殺すか、サウバがブラジルを殺すか』の葉切り蟻サウバの話が続き農場でのフィオリ家での最後の夕食会に臨む。夕食後のお別れ、帰路家から離れた水汲み場で貰ったアンナの甘いキッス。何時も別れは辛い。。。
コーヒ―園生活の別れの章は、字数の関係で途中で切れてしまう。シュンボラズの農場の軽鉄の乗車場での支配人、工場長、監督たちとの別れを告げる。続きは、次回に。。。
写真は、葉切り蟻、サウバの挿絵を使いました。


◆コーヒー園生活の最後

「ススキさん、ススキさん」
 猟から戻った私たちの声を聞くと、フィオリが裏畑でしきりに私を呼んだ。
「またフィオリのもの好きが始まったよ、ホホ・・」
ローザの笑い声を後にして、私は直ぐフィオリのいるところへ急ぎ足で歩いて行った。
フィオリは鍬を握って立っていたが
「まあ見たまえ、ススキさん。ほら玉ねぎも、人参も、あんなにうまそうに成長したアルファセ(チシャ)も、一晩のうちにサウバ(葉切蟻)の奴が持っていってしまったんだからね」
なるほど二十坪ばかりのフィオリが真心を込めて世話をして、いつも自慢話の種であった野菜畑は見る影もなく荒らされていた。
「たった一晩のうちにかね?」
「そうよ。俺は腹が立って今日はビンガを飲んでいたんだが、どうしても癪だからね、今出てきてめちゃくちゃに、このサウバの通路を叩いているところなんだよ」
フィオリはまたしても鍬を振り上げて、その頭の方で二〜三回、地面を叩きつけた。
「しかし、そんなことをしたって駄目でしょう?」
「だめさ。ダメでも腹が立って泣きたいくらいなんだ。ススキさん、一つこのサウバの巣を探してみましょう」
フィオリは勢い込んで野菜畑の柵を飛び越えた。私もそのあとに続いた。
 蟻の道は、まるで人間が掃除でもしたようにきれいに細いうねうねした線を描きながら、赤土の上をどこまでも、どこまでも続いていた。
時として繁った雑草の中に隠れても、その雑草を分けてみるとはっきりとその下に跡を刻み付けていた。二百メートルも行ったところで、蟻の道は牧場の中に入って、そこに大きな赤い土を盛り上げていた。
「やあ、ここだぞ」
フィオリはじっと自分の敵にでも会ったような憎悪の目をして睨んだ。
 高さ二メートル位もあろうか。五メートル四方位の広さに広がって、上へ上へと新しい土の色をしたものが盛り上がっていた。
この驚くべき蟻のピラミッドの上はもちろん、四辺には縦横に蟻の道路が四方八方へ通じていた。牛馬に食われて短くなった牧草の中に、深さ九ミリメートル位に掘り下げられた、幅十八〜二十一ミリメートルくらいの道路が、あるものは一直線に、あるものはカーブを描いている光景はまるで大市街の中心に集中してくる道路と少しも変わりがなかった。
気を付けて見るとその道路、道路の連絡している方向が違っていると見えて、運搬してくるものが同じでないのも面白かった。つまり一方からはミカンの葉を運んでくると思えば、他方からは盛んにトウモロコシの実を担いできた。
そうしてその道路には運搬のために往復しているものと、これを監視するやや大きな蟻が行ったり、来たりしているのが目についた。
「実によく統制がとれていますね。世界でもっとも訓練されたドイツ兵にも劣らない立派なものですな」
「そうですとも。木の葉を切り取るものは切り取るもの。それを運ぶものは運ぶもの。また巣窟の通路を監視するものがあって、もし土の塊が落下しようものなら丁寧にこれを運搬して出している。
そうしてススキさん、まあご覧なさい。ほら少し大きな蟻がおって、何もせずにぶらぶらしているものがあるでしょう。あれはどこでも労働蟻が働いているところには、必ずああしておって何もしないのです。まあ軍隊で言うならば士官という役割でしょうね」
 フィオリは、こう言って蟻の道路をちょっとかき乱して土の塊を投げた。彼らは行く手をふさがれて、そこに一大渋滞を起こし、後から後からと荷を負うてくる蟻の群に混乱をきたした。
しかし、見ている間にその土の塊が少しずつ除けられて、もとのようになった。その間の行動を注視していると、やはり何もしない大きな蟻がおって、何事か指図しているように見えた。
「素晴らしいものですな。サウバはなんでも切ってしまうんですか?」
「ミカン、バラ、ユウカリプトなどの妙な匂いのする葉が好きですな。これを発見しようものなら、どうしても切り取ってしまわないうちは承知しないです。それからフェジョン豆でも、トウモロコシでも、米でも実のままどんどん運んで行きます。一つずつ持っていくのだが、何しろ何万とも知れない蟻が一瞬も休まず運んで行くのだから、一俵ぐらいやられるには、そう何日もかかるものではありません」
 こう言って、フィオリは自分のトウモロコシ小屋が、サウバ蟻につかれて困ったときの、嘘のような話を語って聞かせてくれた。
    
「蟻は毒薬で巣窟を爆発するよりほかに方法ありませんか?」
「それがね、ススキさん、タツー、タマンヅア、バンデーラなんという動物がいるんですよ。特にタツーがサウバ蟻の巣に穴を掘り始めながらみんな平らげてしまいますね。さすがのサウバも滅亡しないものは、どこかに逃げてしまうよりほかありません。しかし、そのタツーはたとえ保護獣になっていても、私たちみんなは見つけ次第、すぐ殺して料理することばかり考えますからね。実際タツー・リンニャはうまいですからね」 フィオリはこうつぶやいて立ち上がった。
「一つ蟻の巣を掘り返してみよう」
二鍬、三鍬さくりさくりとフィオリは蟻の巣のてっぺんの土を掘り返した。
 なんという無数の蟻だろう。それは何万、いや何億といった方がもっと適切である。
 うようよと沸き返るような、慌てふためきうろたえる様子を見せた。
「あっ、痛い、痛い」突然フィオリがこう叫んで飛び上がった。そうして慌ててズボンの中のすねの辺りを探し回ったら、そこには一匹の大きなサウバが食いついていた。
「畜生!」うんと力を入れて引っ張ると首が抜けて、胴体だけが頑丈なフィオリの手に残った。
「これだもの、執念深いやつだなあ」今度は憎々しげに首をもぎはなすと、すねにはたらたらと血がにじみ出ていた。
 フィオリも私もアリの巣から飛びのいて、遠くの方からその混乱する光景を見守った。
◇    ◇    ◇
 私の知っている範囲ではあるがこのサウバ(Sauva)について書いてみると、サンパウロ州の広い範囲に散らばっている葉切蟻は学名Atta sexdens Lというものである。
 詳細に研究したならば、形態の上からも、習性の上からも、もう一段進んだ分類の仕方もあるだろうが、普通サウバ蟻を次のような三分類に分けることになっている。

【1】 雌蟻・・・女王でTanajurasまたはTqasとも呼ばれている。羽根があって遠くへ飛んで行って新しいサウバ女王国を建設する。無数の卵を産み落とすことを使命としている。
【2】 雄蟻・・・形が女王蟻より少し小さく、数はほぼ女王蟻と同じである。BitusまたはTscobitusとも呼ばれ、女王と交尾を終えるとすぐ死んでしまう。
【3】 労働蟻・・・大きさは前二者に及ばない。なおこの労働蟻もその形態によって
Grandes(大)、Medias(中)、Pequenas(小)の三階級に分かれている。

雨季に入って、そろそろ気温が高くなって、アラボンガの鳴き声が近くの森に聞こえる頃になると、サウバ蟻の巣窟では活動が開始される。雨晴れの日などには盛り上がった土の上に、長さ三センチ以上もあるイサ(雌)とビツ(雄)の羽根の生えたのが、そこら一面に這い回っているのを発見する。
おそらくこの蟻のイサ(女王)ほど、恋愛から新婚までの享楽をほしいままにするものはあるまい。イサは強健なマンゲブーラ(傍牙)を持っていて、暗い蟻の穴から外に出ると間もなくその羽根を揺り動かせて、いかにも勇壮らしく、ブンブン音をたてて飛び立ってしまう。これに反してビツはあたかも神経衰弱の青年のように、よわよわとして音もなく大空に舞い上がってしまう。
 亜熱帯の夏の上空は、湿気の多い日本では想像もできないほど紺碧に晴れ輝いている。イサはその栗色の羽根をひらめかせて、臆病なビツを誘惑する。ビツは弱いが本能には勝てない。ダイヤのようにキラキラするイサの羽根に幻惑を感じながらも、すべての力を発揮してイサに近づいていく。
人間などは初夜の誘惑などと言って限りない楽しみを、秘密の間に結び付けているが、これはまたあまりにも公然たる恋の遊戯である。イサはなおもビツを誘って飛翔する。そうしてビツの興奮が絶頂に達したころを見計らって、ビツにとっては最初であり、最後の交尾をするのである。
現代の若者の目から見ればビツの運命ほど幸福なものはないだろう。大磯心中の八重子は処女のはかなさで恋の世界を天国に求めて死んだが、ビツはその本能から喚起される動物の最大幸福をたとえ瞬間であったにせよ、満喫して安らかに死んでしまうのである。
ビツのふらふらとした死骸が風に吹かれて落ちるのも、こういう意味からいうと無意義ではない。
これとは反対に女王イサは、欲望を満たした歓喜の情にあふれてその勢力がますます旺盛になってくる。そうして雑草もそれほど高く繁茂していなくて、湿気もあまり多くない適切な地点を見つけると、そこに飛び下りて彼女の使命とする、新しい女王国建設に努力するのである。
 イサはまず後足で羽根を取り除いてから、土を掘り、穴をあけ、居室を作るために働く。
六時間から十時間ほどかけて、約五百回ほど小さな(彼女にとっては大きな)土の塊を運搬すると、十五〜二十センチメートルの深さに達して、そこに楕円形の洞窟を作り出す。そうして翌日からすぐに卵を産みつける。
次にイサのもう一つの重要な義務である、古い巣窟を飛び出るときに自分の口の下のくぼんだ所に、円形の小さな塊として持ち運んだ菌(Cogu-melo またはFungoという)の種を蒔きつける。これは彼らの食料として一日も欠かせないものである。
サウバ蟻は木の葉や草の実を運んで行っても、絶対にそのまま食うようなことはない。彼らはこれを工業化、すなわちその楕円形の洞窟の中に集積して菌を養生するのである。
 サウバ蟻の巣を破壊した誰もが驚きの目を光らすのが、その巣窟の中にいっぱいになった柔らかな草や木の葉が暗緑色に変化して、白い粉をふりかけたようになっていることである。微生物学者のメラー氏はこの菌をRhozites gongylophoraと名付けている。
菌を蒔き付けてから二週間すると、イサの苦労が報いられて菌が成長し、食うことができるようになる。卵がふ化するのは一か月くらい後である。この卵は労働蟻として生まれて、十日目くらいから自己の天職である仕事にせっせと励んで、終日働いて休止することがない。
働きアリの一部は穴を下へ下へと掘って行って新しい蔵…室を作っていく。他の一部は外へ出て木の葉や草の葉を切って運んでくる。
こういう風にして何年か経ってしまうと、一段に十個または二十個を数える蟻の洞窟が四段にも五段にも出来上がって、地下四メートルにも達するものがあって、まるで、これはニューヨーク市のグランド・セントラル駅の地下に入ったような趣がある。
彼らの巧妙なる建築街は外界との交通路に対し、驚くべき趣向が示されている。
 まず、第一の穴道は生命線、または空気線(Mestres,resqiradouras)と名付けられ、巣窟の中心に直線につらぬかれて、それから各段の洞窟に向かって、ゆるやかなカーブのトンネルで連絡されている。
第二の防御線(Defesa)は、生命線を中心として八方に広がった通路のことである。つまり防御線は絶対に巣窟と直接に通じることはなく、一度は必ず生命線を通過しなければならないようになっている。
第三労働線(de Trabalho)も、起点を生命線に発していて表土に近く、どこまでもあくまで労働蟻の仕事に便利な地点まで延々と延長されている。労働線のもっとも長いものになると、一キロメートルもの遠方に達するものもある。
こういう風に精巧でち密さを尽くしたサウバ蟻の巣窟を退治するということはなかなか容易ではない。そうして彼らの根気強いことは考えるまでもない。上海事変の時に敵陣を突破して自爆し、英雄と言われた爆弾三勇士のように、死に対して何の恐怖も持っていない。だから毒薬を仕掛けてもすぐにこれを突破して出てくる。
 ブラジルではサウバ蟻を絶滅することの困難な理由は、共同戦線をはることができないということである。純粋なブラジル人には奇妙な癖がある。いやだと言ったなら、損得のあるなしにかかわらず承知しない。俺は俺で俺の天地で呼吸している、他人のかかわり知ることではないというような点がある。
 ある果樹園があった。自分の敷地内のサウバは完全に撲滅したので、果樹が非常な勢いで成長していった。ところがいつの間にか隣接の牧場からサウバが進入してきて、片っ端から果樹を丸坊主にしていく。どうすることもできないので、隣の牧場主に腰を低くして「どうぞ、あなたの牧場のサウバの巣窟を爆破してもらいたい」と嘆願したが、牧場主は冷ややかに平気な顔をして「サウバは牛を食べないからね」と答えたということである。なるほどいくらサウバが繁殖しても牛を殺すようなことはないだろうが、困ったのは果樹園主である。
こういうわけで、ある殺虫剤の広告に『ブラジルがサウバを殺すか、サウバがブラジルを殺すか』という言葉が書かれているのがある。必ずしも誇張の虚言ということはできない。
      ◇    ◇    ◇
 ジョバンニが、夕飯ができたと言って呼びに来たので、フィオリはしきりに私を夕飯に誘ってくれた。辞退すべきものであろうと思ったが、私の直感はこの農場にいるのもあと数日位だというような気がする。
もしそれが本当だとしたら朴訥で、暖かいフィオリの家庭に接するのもこれが最後になるかもしれない。あの優しいアンナとは何の交渉もないが、このまま別れてしまうのはなんという寂しさであろうか。私は心の底から涙がこみ上げてくるのをどうすることもできなかった。私はとうとうフィオリに連れられて行った。
 家の中はもうほの暗くなっていた。黄色がかったランプの光はぼんやりと机の上を照らして、ナポリ辺りの裏家を描いた絵にあるような情緒があふれていた。
 純イタリア式のボレンタに、脂ぎった牛肉のごてごてした濃い汁をつけて食う味は特別で他にはないものであった。腹いっぱいになったフィオリはしばらくものも言わず、縄管に紙たばこをつめてたばこをふかしていた。
 ローザは縞のスカーフをかぶったまま、息子たちのシャツのほころびを縫っていた。アントニオとジョバンニは腰掛の上に横になって、何かこそこそ話し合っていた。
 台所の方から時々水の音が聞こえて来るのはアンナが皿や鍋を洗っているのであろう。
室内はしばらくの間、平和な一種のくつろぎの雰囲気が満ちあふれた。
「ススキさん、あなたは本当に行ってしまうのかね?」
 フィオリは気が進まなそうな目をちらりと私に向けた。キセルからのぼる煙はこの人の柔和な顔を半分夢のように見せた。
「お別れしなければなりません」
私の声は低かった。
母親のローザはびっくりしたような目を私に向けた。
「いつ?そんなに早く?ススキさん、嘘だろう?」
「さあ、もう二〜三日たったら、私はここにはいないだろうと思う」
私は心のうちで、そんなことが嘘であってほしいというような気がしてならなかった。
「しかし、またおいででしょう?日本人が来たら、沢山連れてここにおいでなさいよ」
「さあ・・?」
私はこれ以上、どう言っていいかわからなかった。それが私の心をなおさら心苦しいものにした。
「さあ・・なんて、言いっこなしですよ、ススキさん」
「ローザ、ススキさんは何百人というお国の人の世話をしなければならないんだからね。
自分の思うようにならないのは当たり前だ。しかしね、ススキさん。ここに来ようと、来るまいと、私たちを忘れないでくださいよ」
フィオリはいつになく元気がなかった。ローザは勝手に決め込んで
「だってフィオリ、ススキさんは、どっかの農場に移民を連れて入るんだろう?同じことなら、こうして一年も暮らして、なじみの多いところに来る方がいいじゃないか、ねえススキさん」
「もちろんさ。しかしお前、明日のことを知っているのは神様だけだ。俺はどうもあなたがここに二度と来ないような気がしてならない」
「何を言うんだよ、フィオリ。こんなにあなた、アントニオだって、アンナだって、まるで弟妹のように親しくしているんじゃないか。そんなあなたの言うようなことがあってたまるもんですか。ススキさんは、必ずまた私たちと一緒のシュンボラヅに来るんだよ。そうでしょう、ススキさん」
 ローザは縫物をやめて、まともに私を見つめた。
私はなんだかフィオリの予言が真実らしいような気がしてならなかった。
「私もあなた方と別れるのは嫌です。しかしそれが私の運命であったら・・・」
 私の胸がふさがった。重荷を負うような疲労が全身をぐったりさせた。
「私は帰らせてもらいます。さようならお母さん」
 私がローザをお母さんと言ったのはこれが初めてであった。感傷的な私の心は、わけもなく、そう言ってみたかったのである。私は帽子をとって立ち上がった。
「ススキさん、あなたがここを発つ前に、もう一度来るということを約束してください」
 ローザの目には慈愛に満ちた涙がこもっていた。
「必ず来ます」
腰掛の上で横になったまま眠っている少年アントニオとジョバンニの無心な寝顔がうらやましかった。石段が危ないと言って、ローザはランプを出口に出してくれた。真っ暗な戸外に縞になって光を放っている黄色の鈍い明りを見ながら、私はフィオリの家から遠ざかって行った。
「ああ、ああ・・」
私は重いため息をついて立ち止まった。
それはパイネーラの樹の下にある共同水管から落ちる水の音が聞こえてきたので、急にのどが渇いて、水を飲みたいような気持になったからである。
「おや?」
 私はそこに、一人の女が立っているのを見た。
私は近づいて行った。私の胸はある予感で波立っていた。
「アンナじゃないの?」
アンナであった。水桶にいっぱい水をたたえて立っていた。まだ全部は散り尽くしていないパイネーラのこんもりした繁りは、星の光さえも漏らさなかった。
アンナは一言もものを言わなかった。
 私も黙ってアンナを見つめていた。
 一分、二分、三分と刻々に長いながい人間の一生が、地下へ沈み落ちていくような気がした。私はあまりの寂しさにたまらなくなった。
「アンナ!」
 私の声は私自身にさえ聞き取れないくらいの小さなものであった。
アンナは死んだように身動きさえもしなかった。私の目が涙にぬれてくるのを感じた。
「アンナ!!」
 私の声は震えを帯びていた。アンナはそれでも口を動かさなかった。
「アンナ!!!」
私の声は泣いていた。
アンナは不意に身をひるがえした。あっと思う私の首に、しなやかなアンナの両手がかかった。アンナは泣いていた。ボロボロと涙のこぼれ出る目を大きく開いて私を見つめた。
私はその涙をなめてやりたいような不思議な感じになった瞬間であった。
私の唇に焼き付くような甘い口づけ!それは実に悪魔的な幻惑であった。
「あたしのたった一つのプレゼントよ」
 卒倒するような気分で呆然としている私からアンナは飛鳥のように離れた。
「アンナ!!!」
 私の切ない叫びにも耳をかさず、アンナは水桶を下げて急ぎ足に、コロニヤの暗闇に消えていった。
 ある享楽感とでもいうべきものを私に残して・・・・。


◇コーヒー園生活の別れ

三浦通訳官から、とうとう予期していた書面が届いた。それには簡単に『移民契約が成立し、いよいよここ一か年以内に日本人の渡航を見ることになったから、君は直ちに上聖して移民収容所に入り、種々の移民輸入に関する事務を習得しなければならない』ということが書かれて、州農務長官カルロス・ボテリヨ氏に対する紹介状が同封してあった。
 私の心は波立った。たった一人の日本人として、人事…自然…何もかもが未知の世界であったこの農園には、危惧の念を抱きながら、幾多の苦労に限りない好奇心とをつきまぜながら、ほんの一年余りの年月を送ったに過ぎなかった。
しかし、それはいろいろな意味において、私が生れ落ちてから二十七年間の、恵まれた母国生活に比べてみることができない印象深いものであった。
 故郷の山水には、たとえそれがほんの一断片に過ぎないものでも、忘れがたい思い出と懐かしさが含まれているが、同じようにチビリサ農園においてもその一木一草にさえ、何かしら捨てがたい歴史があった。
 しかし私はどうしても別れなければならない時がきたのである。人間はどこまで行っても運命の子である。自分個人の立場から言えば、もちろん私はこの農場にこのままおった方が幸福である。
 月給はようやく百ミルレースに過ぎなかったが(八十ミルレースからその翌月に百ミルレースになった。もうすぐ百五十ミルレースに増加するという話を聞いた)、支配人テオフィロからはほとんど絶対的に信用され、簿記係のコエリヨからは親身に等しい親しみを受け、監督たちからも『ススキ、ススキ』と会うたびに、まず私に呼びかけるくらいの好意を持って待遇されていた。
 ひたすら一生懸命だった一年余りの苦闘で、乾燥場の日雇いから乾燥機の火夫、事務所のボーイ、それから現在の書記にまでこぎつけた地位を捨てて、前途の見極めのつかない移民収容所入りは、決して褒めたやり方ではないはずだ。
しかし私には私の自由にならない使命がある。
『日本移民が来るのだ』。
そこにすべてのものが言い尽くされている。
私は決して大きなことを言って、自己吹聴をするのではないが、当時の私はブラジルにおける日本移民のために、なくてはならない存在であったのである。
 私は三浦さんの書面を手にして都合よく事務所の机に向かっていた支配人の前に立った。
「いよいよお暇をいただかなければなりません」
 ものを言うことが嫌いな支配人テオフィロは、私の言ったことが聞こえなかったのではないかと思われるくらいしばらく黙っていた。
「いつ?」
「あなたのご都合さえよろしければ、明後日にでも・・・」
「うむ・・・」
机についた両手を顔に当てて目をつぶった。
「日本移民渡航の準備のためであると言うから止めることはできないがね。ススキ・・・」
 私の顔をつくづくと見守った。
「・・・日本移民が着いたなら、またここに来てくれるだろうな?」
「事情の許す限り、私からもそうお願いしたいと思っています」
 私は心から言った。
「よし、君の言うとおりにしたまえ」
 テオフィロは皮鞭を机の上から取り上げて、農場を巡視するためにいつもの落ちつきのある態度で外へ出て行った。私はその後姿が事務所の前庭から石段を下りて見えなくなると、急に泣きたいような寂しさに襲われた。
「俺はみんなと別れるんだ!」
◇    ◇     ◇
 農場からは私のために特別に客車を出してくれた。支配人テオフィロは軽鉄の乗車場まで来てくれた。簿記係のコエリヨはチビリサ停車場まで見送ると言って、杖を手にしながら私と並んで腰を下ろした。工場長フオルテは工場の前の線路にその大きな身体を出して、キセルをくわえながらさかんに手を振っていた。
 昨夜は十時過ぎまでにかかって、親しくしていたコロノ達にもみな別れをしてきた。ミゲルとフィオリは見送りたがっていたが、監督の許可を得なければならないので、私はそれを押しとめてきた。
 もうこれでシュンボラヅともさようならだ。



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