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椰子の葉風  鈴木南樹 その12
椰子の葉風その12は、移民収容所時代(三)、(四)と字数が余ったとので(五)の一部を加え9500字として残りは次回に回すことにする。住む場所を確保、移民収容所最初の日は、始まる30分前に出社し施設を旧知のエルクラノさんに案内して貰う。移民収容所での仕事は、朝の8時に始まり午前中3時間で昼休み午後は1時から始まり4時まで1日6時間で農場に比べると余りにも楽過ぎて驚く。1908年に笠戸丸移民を受け入れる為の準備を移民収容所で勉強を始める。風土病のマラリアに付いての描写が始まるところでその12は、終わる。色々勉強になる。
写真は、挿絵にある移民収容所の見取り図を使わせて貰いました。


◇移民収容所時代(三)

 藤崎商店の後藤武夫君と二人であちこち探し回った結果、移民収容所には少し遠かったがルースの公園にも近く、藤崎商店へも電車で行けば五分くらいで行けるし、タマンヅアチイ河も近くにあって、まだ空き地がそこらに沢山あったから、空気もよかろうということで、サン・カエタノ街とルース兵営に沿ったジョゼ・テオドロ街とをつないでいる、アメリカ街の中ほどのポルトガル人の表の部屋を借りることにした。
 カーマ(寝台)、レンソーエス(敷布)、ラバトーリオ(洗面台)と洗面器、簡単な机と椅子一脚など、なくてはならないこれらの品々を買うのに、一年間農場で働いて残した金では支払いきれなかった。不足分は後藤君の好意で立て替えてもらったのも、忘れられないエピソードである。
 さあ、何もかも一通りはそろった。農園内のあの赤土に汚れた壁、七十センチ幅の狭い寝台。埃だらけの部屋に比べれば、これはまさに金殿玉楼(黄金で飾り玉をちりばめた御殿)である。不足など言うのは罰が当たる。もし足らないものがあるとするならそれはこれからの努力である。『一生懸命働くんだね』
私は白い敷布で包んだ寝台の上に倒れて、天井を仰ぎ見ながら、一種の幸福・・・満足感に打たれて、こんなことをつぶやいた。
      
◇     ◇      ◇
 朝は八時出勤だということであったが、私は初めての日でもあるし、七時半ころには、もう移民収容所の門をくぐっていた。
「やあ、ススキさん!」
 私はびっくりした。私の名を知っているものは所長のほかにはまだいないはずだ。誰だろうかと声のする方を見ると、そこにエルクラノ氏が立っていた。
 一年前、三浦通訳官や水野龍氏などと初めてサンパウロ州のコーヒー園地帯を巡視した時、サンパウロ州政府の命令で私たちの案内役をつとめてくれた人である。意外なところで旧知に出会って私は非常に喜んだ。聞けばエルクラノ氏は移民収容所の掃除監督になっているとのことである。私にとってこんな力強いことはない。
「意外ですね。あれからずっとこちらで働いているのですか?」
「そうです。これからは君も私たちの仲間ですよ」
 二人は握手してから抱き合って、右手を背中に伸ばしてバタバタと叩いた。これはブラジルで最も親密な情を表す挨拶の仕方である。
「ススキさん、あまり人の来ないうちに、所内を少し案内しましょう」
 エルクラノは先に立って順々に案内してくれた。
       
 移民収容所は左記の建物を総合したものである。
A、植民、労働局 (Agencia official da Colonizacao e Trabalho)
B、警察詰め所 (Posto Policial)
C、郵便局及び両替店 (Agencia do Correio e Casa da Cambio)
D、移民ホテル (Hospedaria de immingrantes)
     この中に事務所(Escriptorio)、税関(Alfandega)などがある。
E、食堂 (Sala de refeicao)
F、便所 (Latrina)
G、病院 (Hospital)
     この中に診察所(Consultorio de medico)と薬局(Seccao de pharmacia)がある。
H、荷揚げプラットホーム (Platoforma de bagagem)
I、浴室 (Banheira)
       
 これだけのものが完備していれば、海外から来た新しい移民たちにとって、何一つ不足はないと言ってもいいだろう。ただ一つ、売店がないのは物足らないような感じがないでもない。しかし、移民収容所の方針として、新来者があまりものを買って食うということは、衛生上よろしくないというのが一つ、もう一つは無駄な費用を使わせまいという老婆心からである。だからどうしても必要なものであるパンだけは、イタリア人のパン屋が随時出張して来て売ることになっている。
     
 移民収容所の中心は敷地の真ん中に凹字形を逆さにした二階建ての大建築である。入り口が中央になって階段を上って行くと、その左側前面は全部事務室と、事務用物品貯蔵室となっている。左側前面は二部屋あって、小さな方は事務室になっており、他のもっとも大きな一部屋は新来の移民を州移民法により、色々な質問をしてこれを登記するために使われている。この部屋をSala de Chamada(点呼部屋とも登記部屋ともいうべきか)と称されている。
 右側の階下は二区に分割されていて、前方は税関、後方は移民の荷物置き場と、その輸送事務を取り扱うところとなっている。左の方の階下と二階全部が移民たちの宿泊のために提供されている。
 移民の寝台に対する設備は不完全で、かつ数も足らないらしく見えた。エルクラノの話によれば夫婦者だけが銅色に塗った鉄製寝台を提供されて、やや厚い綿布を敷いて寝るが、独身者はガマで編んだむしろを敷いて板の間に寝ることになっている。もちろん夫婦者の数が少ない場合は独身者も寝台を占有することは自由である。
 凹字形の三方から廊下で結びついている食堂には、少しばかり大理石の机もあったが、大部分はペンキを塗った食卓であった。
 私が納得をいかないのが便所の設備であった。コンクリートで長い溝ができているが、その上に太い鉄棒を通している。私はこういう便所を、日本から初めて南米へ渡航する時の乗船グレンファグ号においても発見したが、ついにどういう風にして便ずるものかわからなかった。便所のことなどはあまり気のきいた話ではないから、ついそのままになっていたが、ここで再びこういう奇怪な設備の便所に出会うということはよくよく縁があるものと見える。
一体あの棒で器械体操でもするように腰を下ろすものなのか。それでなければ位置の安定を得るために、一方の手で後ろ向きに握りしめでもするものか見当がつかない。こういうものの前に立って研究してもいられないから閉口だ。第一に戸がなくて開け放しなのが気になる。日本移民の来る前になんとかしたいものである。
 (最近の革命後、移民収容所は兵営となり、移民たちはサントスより農園へ直送されることになっているが、これは一時の変形で、憲法政治が復活してサンパウロ州人によってサンパウロ州の政治が行われるようになれば、早晩移民収容所が再開されることはわかりきったことであるから、昔の移民の収容所における生活を理解すると同時に、将来の渡伯者の参考にもなるだろうと思う) 
移民たちが収容所で、どういう順序で取り扱われるかというと、サントス港に着いた移民の数が少なければ、普通の列車で移民収容所から一キロメートル弱の距離にあるブラス駅まで送られ、そこから徒歩で迎えに出ている役人に案内されて来るのであるが、日本移民のように一度に多数がやって来る場合は、いつもサントス埠頭から特別列車に乗ってそのまま収容所専属のプラットホーム、つまり(H)の建物で下車するのである。
もしそれが夜であったなら仮食券を貰って食堂で食べ物を貰うのである。さもなければまず移民たちは(D)の建物内の右側にある大部屋に、女、子供も全員がここに集合して登記を受けなければならない。
 日本はなんでも特別的な取り扱いを受けることが好きな国民で、ここでも世界のどこに行ってもないような移民法の結果、移民会社というものがある。これがいいことか、悪いことかは知らないが、万事先回りして世話を焼いてくれるので、時としてはここで登記が済んで初めて渡されるべき食券を、サントスの船の中で渡されるようなことも少なくない。
 そういう特別なことはとにかく、一般に移民が収容所に入って来た時、一番厳粛で、そうして一番大切なものはこの登記である。
 まず一段高いところには、移民収容所長、船会社又は移民会社代表人、登記事務を取り扱う書記とかが座っている。そうして移民は一人ひとり移民会社または船会社から提出された移民名簿によって呼び出され、左の条項に対し聞きただされる。
  〇姓名(Nome) 〇年令(Edade) 〇身分(Estado Civil) 〇宗教(Religiao) 〇国籍(Nacionalidade)
このほかに文字を理解するかどうかや、所持金高、出生地、出発港名などが聞きただされる。これが済むとそれぞれに食券(Cartao de refeicao)が渡される。
この食券には家族の年令、つまり
1、十二才以上
2、三才より十一才まで
3、三才以下
の三ランクに分かれてその数が記入されている。これは移民収容所にいる間はいつも必ず必要なものである。
 食堂ではこれによって、パン・コーヒーその他の食料品が供給されるのであるし、もし外出しようとする場合はこの食券を門番に渡さなければならない。契約をするときにも、この食券にその行き先や主人の名前が記されるのであるから、これを大事に保管しておく必要がある。
 さて、移民の登記が済んでこの食券を渡されたなら荷物を受け取らなければならない。それは(D)の建物の中の右側階下である。荷物の多いときは、プラットホームから税関の方まで一面に荷物が散在しているから、自分のものを探し出して、早く検査を受けるように努力しなければならない。
 これが済めば移民は係の者の許可を得て外出することができる。執務時間外であれば門番に食券さえ渡せば、自由に市街地へ出て行っても差し支えない。移民の収容所内に宿泊できるのは七日を限度とされているから、その間に行く先を決定しなければならない。
 それなら、移民はどのようにして契約主を探すかというと、移民収容所内に公認周旋人(CorrectorOfficiar)がいる。イタリア人にはイタリア人。スペイン人にはスペイン人の周旋人が、いずれも植民労働局に申し込まれている農場主の、契約条件の写しをたくさん持っていて、移民の希望する地域を聞いたうえで、その方面から申し込んできている農場をいちいち読んで聞かせる。
条件も吟味した上で、わからない点にはいくらでも質問をして、万事O・Kということになると、(A)の建物の中に行くことになる。そこで契約の内容を改めて詳しく読んで聞かされる。この条件に対してはサンパウロ州政府が保証してくれる。
つまり移民の自由意思によって農場を選定するということに対し、絶対に干渉しないことが、サンパウロ州移民法の精神なのである。
契約が済めば、後は荷物の発送である。それは(D)の建物の右側後方の事務室に行って、食券を見せてよくよく間違いのないように、自分の荷物を一か所に集めて、その個数を確認して、行く先地に発送してもらうのである。
 これで万事終了である。あとは買い物をするか、市内の知人を訪ねるか、もし日本の貨幣でも持っているなら(C)の建物の中に行って両替をしてもらえばよい。この両替店はあまり割合のよい方ではないが、決してインチキなことはやらないから、安心して貨幣の交換ができるのが取り柄である。
 人数の少ないときは出発の朝に、既定のパンと牛肉のサラミを渡されるが、日本移民のように多数の場合は出発の前夜に供給される。
出発はその鉄道の路線、路線によって違うが、ソロカバナ沿線に配耕される者は、二キロメートルの距離を朝の暗いうちから歩かされるのはちょっと困ることであるが、サンパウロ市の(多くは賑やかでない通りを通過するのであるが)情緒を味わう一端ともなり、移民気分に浸ることから言えば、かえってこの方が面白い。
◇    ◇   ◇
「これで君は移民収容所を全部見学したことになりますね」
二人は丁度、収容所員の出勤者がその名簿に署名する事務室の入口に戻ってきたとき、エルクラノはこう言って私を振り返った。
「いや、どうもありがとう。おかげさまでよくわかりました。しかしまだ病院の方が残っているようですね」
「そうそう。しかし病院と言ってもね、君、ここは十人くらいの収容力しかないのでね。それにホンの一週間くらいで全治の見込みが確かなものだけを入院させて、後はサンタ・カーザ(慈善病院)に送ってしまうのです。
 移民に病気のある場合は、毎朝ドクトルが出張して来て無料で診察をして薬をくれる。これが主な病院の方の仕事ですね。いずれ後で、君をイミグラソンの担当医マリオ・グラコさんに紹介してあげますよ。ドクトルは政治好きな面白い人だから、君の質問には喜んで答えてくれるでしょう。時にもう時間です、出勤簿に署名したまえ」
 エルクラノはそこに立っていた受付のビットリオというイタリア人と話し合って、私の署名すべき箇所を教えてくれた。
「君に断っておくがね。この出勤簿は八時五分までここに置いてあるが、それから後は助役のところへ持って行かなければならないから、遅刻した場合は助役の承認がなければ署名が許されない。つまり欠勤者と見なされるということになります」
受付のビットリオはこう言って教えてくれた。そこへどやどやと三〜四人の事務員が出勤してきた。
カンカンカンと八時の勤務時間を報ずる鐘が、大きな建物に反響を起こして鳴り渡った。

※付記・最近の移民収容所は一九〇八年代と比べると面目を一新して、門と建物の間には庭園的な設備を作り、食堂の食卓は全部大理石となり、天井にガラスを張って採光をよくし、ベッドは二段にして全収容者に供給することができるようになり、便所の場合も改築してもう昔日の面影はない。
 さらに後方病院の右側に一棟を新築して、これを病気その他の不幸なる事情のもとに帰国する移民(Repatriacao)を収容することになっている。
         

◇移民収容所時代 (四)

私に与えられた勤務は、収容所内の中央廊下に面した一室で、移民にパスを供給することであった。
 主任はビートと言って、五十を越して痩せこけた、見るからに病身らしい人であった。
私は殆ど何をしてよいか分からなかった。コーヒー園に入ったときは、ただ働きさえすればよいのであったが、肉体労働でない点は楽でも、当時の私ぐらいの語学の程度では殆ど手がつけられないような気がした。
 親切なビートはいろいろと仕事を説明した後、「なあに、気にすることはない。二〜三日は黙って見ていてください。必要な場合は私から君にこうしろ、ああしろと言うからね。ただ、所長でも来たときは、何か忙しそうにしていればいいさ」と、こう言って笑った。 
くだらない計算などしているうちにいつの間にか十一時の鐘が鳴った。お昼休みである。
ビートは私がまだ飯を食う場所が決まっていないということを聞いて、自分の行っているレストランに誘ってくれた。
 それはコンコルデァ街(現アラメダ・プラト街)の始まりの方で、ブラス第一の盛り場、コンコルデァ広場から二十歩も離れていないで、ノルテ(北)停車場の横手であった。お得意さんは安月給取りか、鉄道で働いている人たちでテーブルは満員の人であった。料理はイタリアの田舎式でバカに脂肪気の多いもので、スープなどもトマトから出た赤い汁の上に油が玉になってぎらぎら浮いていた。
 それでもコーヒー園のフェジョン(豆)と豚油の炒りご飯よりは、比べものにならないうまさであった。第一、パンが農場ではひどいときには焼いてから五〜六日もたった、まるで石のように固い、かむとボクボク物の味がしないようなものと違って、フランス式の焼き立てのパンがうまかった。皮がきつね色になったところを、カリカリと歯で砕いて食う味は例えようもなく舌を喜ばせた。
 午後は一時からの出勤である。二時にコーヒーがある。収容所のコーヒーはなかなか馬鹿にはできないよい味を持っていた。四時にはまたカンカン鐘が鳴って、退所の時間を知らせるのである。午前中三時間、午後に三時間、合計たった六時間、それが移民収容所における勤務時間の総計であった。
 私はあっけにとられて移民収容所から外へ出た。何だか、拍子抜けがしたような感じである。あまりにも仕事が楽すぎてかえって手につかないような気がする。
 コーヒー農園にいたときは、朝は暗いうちから夜の八時、ひどいときは十時過ぎまで事務所内にいなければならないことが、一週間には必ず二日ぐらいはあった。
とんでもない勤労に身体が綿のようになって、一日でもよい朝からゆっくり休んでみたい、と思ったこともあったが、内心は常に緊張して、どこか心の底で『負けてはならない、どこまでもやり通すんだ』というような声がして私を励ましていたが、移民収容所では一日にほんの六時間ばかりの、それもぶらぶら遊んでいるような仕事で私はもったいないような気がしてならなかった。
そうしてこの習慣づけられた、一日中せっせと働く私自身の身体を持って行く場所がないのが第一の苦痛であった。
 私はイミグラソン(移民収容所)の帰りにはまっすぐに、センターにある藤崎商店の後藤君を訪問した。
「いや〜!今日はどうだったかね?」
心配していたという風な感じであった。
「さあ・・?」
私は何と言ってよいか分からなかった。
「イミグラソンの仕事は、そんなに大したことはないでしょう?」
「仕事の方は問題じゃないがね。君、官吏(今でいう国家公務員)なんて楽なもんだなぁ」
「それがどうしたんだ?」
「どうもこうもない。俺はあんまり暇で、気が抜けたセルベージャ(ビール)のような気がするんだ」
「いいゝゝゝゝ、いいじゃないか」
後藤君は笑った。私はその笑顔をじっと見守って恨めしいような、泣きたいような、何とも、かとも、形容のできないむしゃくしゃした気分になって考え込んでしまった。


◇移民収容所時代 (五)
 
コーヒー農園で肉体労働の困難と戦うよりも、移民収容所の気楽な仕事に順応していくことは、はるかに容易であった。だんだん慣れていくにしたがって、六時間の労働さえも長いような気さえして、午後四時の鐘が鳴るのが待ち遠しくなって行った。
『おかしなものだなァ、人間は結局何もせずに遊んでいても不足なんだね。満足というものは死んだときに得られるくらいなものだろう』
 私はいつもこう思って『働けるときは働けるだけ働くんだ。苦痛と不平とは、つまり、人間が生きているということなんだ』こんな悟りめいたことを頭に浮かべて、六時間を有意義に過ごすことに専念した。
こういうわけで、私は仕事のないときは自分から進んで、仕事を探し出した。
 移民にパスを供給する手続きや、その数を計算する仕事は私にとって、あまりにも簡単すぎてあっけないものであった。私はモラエスが担任としている、国内から入所する移民(Immingrantes reentradas)の登記事務を練習した。これは私にとって非常に興味あるものであった。
 サンパウロ州内では主に中央線のタウバテ、カサパーバ、パライブナなど、いわゆるブラジルのナイル河と称されているパライブナ渓谷の、州の中で最も早く開けた地方の、無知とも純朴ともいうべき黒人、ムラトと呼ばれる混血種などが、一時的に国内奥地へ出稼ぎに行く者たちが入ってきた。
州外からはバイヤ、リオ両州の人が多く、たまにベルナンプーコや、もっと北方から来た者などもあった。
 これら北方の、違った発音のアクセントを持っている人たちと会話することは、語学の上に対するばかりでなく、ブラジルの未知の世界を知るためにも、望んでも得られないような機会であった。
私に早くから、アマゾナスに対する憧憬心を植え付けたのは、みなこの原始的な空気に生きている「赤裸々な」北方人との接触から来たのであった。
 外国人としてはイタリア人、スペイン人、たまにドイツ、ロシア人などもあった。イタリア人、スペイン人にはどうにかこうにか意思の疎通はできたが、ドイツ、オーストリア、ロシア人に対して私は、ようやく覚えこんだブロークンな単語で質問を発しては、何が何だか自分でも訳が分からなくなってしまって、よくロシア人の通訳を呼んできた。
もし傍で聞いている人があったならば、吹き出さずにはおれなかったであろう。これは私にとってこの上ない苦痛でもあり、恥でもあったが、私はそれを意義あるものとして、むしろ喜びを持って耐え忍んだ。
 特に私の注意を引いたことはこの国内から入所する移民の中には、国内の奥地でのコーヒー園地方で病気になって、サンパウロ市慈善病院(Santa Casa de Misericordia)に入院して、全治した外国移民が入所してくることであった。移民収容所は慈善病院の証明書さえあれば、これらの人を収容して、州内ならばどんな遠いところへでもパスを与えた。
   
 私はよくこれらの病気上がりの人達に質問をした。
「君はどこが悪かったのかね?」
「私はひどいトラホームでした。まだ本当に治ったわけではないんだが・・・。帰らなければ口が干上がりますからね」
こんなことを言う者もあった。
しかし大体において頭が痛いとか、胃腸の調子がよくないとか、呼吸器官が正常ではないとかいうもので、特殊な地方病がないのは私の心を強くした。
 しかし私はある日、血の気がどこに潜んでいるのだろうかと思うような青白い、痩せこけた一青年が、病院の証明を持って入所してきたのを登記した。
「君はどこが悪いのかね?」
「私はマレタです」
青年は悲しそうな眼をしばたいた。マレタとはマラリヤのことである。
「君はどこの耕地にいたのかね?」
「ソロカバナ線のシャバンテスで、主人はエンリケ・クンニャ・ブエノというのです」
「君のいる所は毎年マレタが流行しますか?」
「私のいる耕地は毎年というわけではないが、サルト・グランデ方面に行ったら大変です。マレタで命を取られる人が少なくありません。何でも町は雨期に入ると、住民の大部分が他所へ逃げて、誰もいなくなるなんて言っております。ナーニ、私の場合はよせばよいのに、魚釣りに行ってやられたのです」
 こんなことを言ってうつむいた青年の顔にやや赤味がさしてきた。
「しかし、君はそんな様子で、もうよくなったのかね?」
「全くというわけでもないですが、もう震えもやんだし、熱がなくなったんです。うちには老人だけだから、これ以上はキニーネの錠剤でも飲んで、気を付ければよいと医者が言いますから・・・」
「ふむ、そうかね」
 私はなんだか前途が暗くなったような気がした。チビリサ農場ではそんな病気はなかった。最も普通なのはトラホーム、アメーバ赤痢くらいだったもので、こういう病人を見たことがなかった。私はそのことについて、もう少し知っておく必要がある。私は食券をこの青年に渡してから、ビートに振り返って 
「ビートさん、あなたは私にマレタのことについて知っているだけ話してくれませんか」
 私の真剣な心配らしい態度がビートの心を動かした。
しかしそのさびしい口元にはかすかな微笑がほのめいた。
「マレタ?・・・あれにかかるのも、悪化させるのも、自ら好んでやるというのは残酷だが、九分九厘まで当人が悪い場合が多いようですね」
 ビートはこう断定して、ぽつりぽつりマレタについて語りだした。
「マラリヤは、新しく開けたところならば、どこにでもあるものだと思えば間違いありません。水が停滞して腐敗しやすいところは危険です。森林の中の湿地などで、水が青白くなってジュクジュクしている所などを通るときは気を付けなければいけません。大きな川でも流れが急でない所が危ないのです。
 マレタの蚊は、アノフエレスと言って気をつけて見ると、ケツ(尻)の方をあげて止まるからすぐ分ります。人間というものは四六時中注意していられないから、マレタにかかりたくない者は、蚊の発生時には釣りに出かけたり、滝を見に行ったりすることを絶対に避けるべきです。
どうしても危険な川の傍に泊まらなければならない時には、キニーネ(Sal de quinina)を〇・三〜〇・四、あるいは〇・五を飲むことを忘れてはいけません。
 砂質の土壌であれば、森林伐採後一〜二年経つと、日光消毒によって不潔な溜水もなくなり、マレタ蚊の発生の機会がなくなるが、テーラ・ロッシャ(赤粘土)地帯になると何年たっても、マレタが絶滅しないところが多いから、一層の注意をすることが必要です。
 時節から言えばもちろん暑い時期であるが、流水の増加するときよりも減水時に多いです。それはいろいろな汚物が水たまりに停滞してアノフエレス蚊の発生を助けるからです」
   



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