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知っておきたい『日本の歴史』徳力啓三 その14(最終回)
3月26日(水)に始まった知っておきたい『日本の歴史』は、最終回のその14に到達しました。週一で三ヶ月弱、日本の歴史を徳力さんと一緒に紐解いて来ました。
最終回は、第三節 21世紀の世界と日本、91−冷戦の終結と共産主義の崩壊、91−21世紀の日本の進路で終了します。70歳を過ぎてから歴史に興味を持ち歴史の基礎となる過去の事象を知る作業の結果がこの本の発行に繋がったとの事。知っておきたい日本の歴史、特に戦後の日本史の捉え方に叩き込まれた自虐史観からの開放、胸を張って日本人としての美点を態度で示した東日本大震災後の日本人に誇りを持ちこうした歴史の蓄積を失わずに受け継いでいくべきだとの結論に賛同したいと思います。
写真は、今世紀の大きな出来事として東日本大震災の地元紙河北新報の記事を残して置く事にしました。長らくお付き合い頂き有難う御座いました。


第 3 節 21 世紀の世界と日本

90―冷戦の終結と共産主義の崩壊
米ソの冷戦は、アメリカがベトナムから撤退したあとも続いた。ソ連は軍事力を増強して、世界各地の共産主義勢力の援助を強化した。1979 年末には、アフガニスタンへ軍事侵攻した。アメリカは 1981 年にレーガン大統領が登場し、ソ連との軍備拡張競争に乗り出した。ソ連はこの競争に耐え切れず、次第に経済力を失っていった。
1985 年、ソ連ではゴルバチョフ政権が誕生して、市場経済の導入や情報公開によるソ連社会の再建に取り組んだ。しかしこれにより国内はかえって混乱し、東欧でも自由化を要求する動きが広がった。
1989 年、ヨーロッパにおける東西対立の象徴であったベルリンの壁が壊され、翌年西ドイツは東ドイツを統合した。ベルリンの壁は、戦後 28 年にわたってベルリンの町を東西に分断してきた。機関銃で監視されていた非情の壁が、東西両市民の手で取り壊された。ヨーロッパでの共産主義陣営の崩壊は突然始まり、あっという間に進み共産主義は終末を迎えた。
ソ連はアメリカとの軍拡競争を断念し、1989 年米ソ首脳は地中海のマルタ島で会談し、長年続いた冷戦の終結を宣言した。東欧諸国では次々と共産主義政権が崩壊した。ソ連共産党は活動を停止し、1991 年ソ連を解体した。ソ連を筆頭とする共産主義体制の崩壊によって、約 70 年におよぶ共産主義の実験は決着をみた。この体制は、人々に豊かで安定した暮らしを保証できず、言論の自由など政治的権利も保障できないことが明らかになった。
1990年8 月、イラク軍が突然クゥエートに侵攻した。翌年 1 月アメリカを中心とする多国籍軍がイラク軍と戦い、クゥエートから撤退させた(湾岸戦争)。この戦争では、日本は憲法を理由にして軍事行動には参加せず、巨額の戦費負担と自衛隊による機雷除去など行った。が、国際社会はそれらの貢献を評価しなかった。このため日本国内では日本の国際貢献のあり方について、深刻な議論がおきた。

2001 年 9 月ニュ−ヨークの世界貿易センタービルに、ハイジャックされた旅客機が突入、その直後、同ビルは跡形もなく崩れ落ちた。その後、全米各所でテロが行われ、多数の死傷者を出した(同時多発テロ)。犯行はイスラム過激組織アルカイダによるとされた。テロとの戦いを宣言したアメリカは、報復のためにアフガニスタンの拠点を攻撃し、2003 年からはイラクに侵攻した(イラク戦争)。

《補講》 戦争と全体主義の犠牲者
20 世紀は、「戦争と革命の時代」 でした。人類はこの 100 年の間に、2 度の世界大戦とロシア革命をはじめとする多数の革命を経験しました。この世紀ほど夥しい人命が失われた時代はありませんでした。第1 次大戦では1000 万人の戦死者をだし、第 2 次大戦では 2500 万人の規模になった上、多数の民間人も犠牲になりました。
ナチスドイツはユダヤ人の大量殺戮をおこないました。ナチズムの犠牲者を 2500 万人とする説もあります。ソ連の共産革命による一党独裁のスターリン支配下で「富農撲滅」の名のもとで、多数の無実の農民が処刑され、あるいは餓死させられました。更に共産主義を受け入れない人は政治犯として強制収容所に送った。中国の文化大革命による犠牲者などを合わせると 1 億人に近いといわれています。
20 世紀は、ファシズムと共産主義の二つの全体主義の犠牲者が、2 つの世界大戦の死者数をはるかに上回り、戦争よりも多くの血が流れた世紀と考えられています。米ソの冷戦が終了したとはいえ、東アジアではまだ冷戦の名残りがあり、世界各地で民族や宗教の対立に根ざす争いごとはなくなっていません。21 世紀は、20 世紀の人類が犯した過ちを繰り返してはなりません。

91−21世紀の日本の進路
米ソ冷戦の終結によって、世界規模の核戦争の危険は遠のいたが、民族や宗教の対立、社会体制の違いに基づく紛争やテロの脅威は、その後もなくなっていない。とくに東アジアでは、共産党が一党支配する国家との冷戦状態が未だに続いており、脅威となっている。
20 世紀末から中国が経済的に台頭し、2012 年には GDP(国内総生産)でアメリカに次ぐ世界第 2 位になったとされる。しかし、同国の国民一人当たりの所得は日本よりはるかに低く、極端な貧富の格差も生まれている。都市の大気や河川の汚染、国土の砂漠化などの環境破壊も深刻である。
中国は軍備拡張を進め、チベットやウイグルなどの支配を強め、周辺海域や海洋への軍事力を背景に進出を強化している。また、尖閣諸島の領有権を主張し、頻繁に漁船、公船、航空機を日本の領海・領空に侵入させているが、日本は「尖閣は日本固有の領土であり、領土問題は存在しない」 との立場をとり、尖閣諸島を守っている。尖閣諸島は 1885 年からの調査に基づき、1895 年日本政府がどの国にも属していないことを確認し、閣議決定して日本の領土に編入した。そして最盛期には 200 人以上の日本人がカツオ節製造などのために住居していた。戦後アメリカの施設下にあったが 1972 年沖縄返還にともない日本に戻った。
朝鮮半島は近代日本の国防の焦点だったが、北朝鮮では今でも朝鮮労働党と金一族の専制支配のもと、核とミサイルの開発を進め、東アジアの不安定要因となっている。北朝鮮は 1970 年代から日本人を拉致し、自国の体制強化のために利用した。日本は 3 度にわたり拉致被害者と家族の一部を帰国させたが、依然として数百名とも言われる日本人同胞が不当に拘束されている。2001 年10 月、北朝鮮に拉致されていた日本人 5 名が帰国したが、我が国の国民保護の体制の不備を突いて拉致された被害者がいまだ多くいる。
竹島は日本固有の領土であるが、韓国は竹島を自国領と主張し、1953 年から武装警察官を常駐させて不当な占拠をつづけている。竹島は、江戸時代には鳥取藩の人が幕府の許可を得て漁業を行っていた。1905 年国際法に従って我が国の領土として、島根県に編入し、実効支配を行っていた。
21 世紀の日本の進むべき道はどこにあるのだろうか。
2011 年3月 11 日、東日本を襲ったマグネチュード 9.0 の大地震による巨大な津波に東北・関東地方の太平洋沿岸が飲み込まれ、約 20.000 人が亡くなった。地震と津波による原子力発電所の事故も起こり、多くの人が避難を強いられた。この災害の中でも肉親の死を乗り越えて冷静沈着に行動した被災者の振る舞いは、世界の人々をおどろかせ、賞賛された。日本周辺における観測史上最大の地震で、震源は南北 500km、東西 200km の広範囲にわたるものであった。地震の後に押し寄せた津波は、人と家屋を飲み込み、大きな船まで押し流した。
2006 年に改正された教育基本法は 「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」 という教育目標を定めている。日本には古来、美しい田園と麗しい社会を築いてきた豊かな伝統がある。21 世紀を迎えた今、日本人は、みずからの歴史に自信と誇りを持ち、優れた日本文化を世界に発信し、人類の平和と発展に貢献していくことが求められている。

《補講》 勇気と友情の物語・世界と交流した日本人の記録

トルコの軍艦・エルトゥールル号事件
1890 年 6 月、トルコ(オスマン帝国)の軍艦エルトゥールル号で、650 人の親善使節が横浜に到着しました。日本ではこの年、始めて帝国議会が開かれた年で、同じように近代国家をめざしていたトルコは、日本との友好を強く望んでいました。明治天皇始め各界の熱烈な歓迎を受け、9 月に帰国の途につきました。神戸に向かう途中で台風に遭い、和歌山県串本町大島の樫野崎沖で難破、沈没してしまいました。587 人が犠牲になる大惨事で、深夜、岸に打ち上げられた人々は、灯台にたどり着き、助けを求めました。灯台守は万国信号の本を広げ、三日月と星の国旗を決め手にトルコ人であることを知りました。
大島には 400 戸の島民が住んでいました。気の毒な異国の遭難者を救おうとして献身的に働きました。男たちは海で遭難者を探し、冷たくなりかけた負傷者には裸になって自分の体温で体をあたため、命のともし火を甦らせました。女たちは負傷者の介護や食事の世話に不眠不休で奔走しました。島民たちは非常食用の鶏など、持てるものを全てを提供しました。
事件が新聞で報じられると、日本中から 2.500 万円に相当する義捐金が集まりました。生存者 69 名は、神戸の病院で手厚い治療を受け、元気を回復して日本の軍艦「金剛」「比叡」 に乗って帰国しました。明治天皇は島民の立派な行いを賞賛し、それまで救援活動にかかった費用を申し出ることを求めました。島民は 「当たり前のことをしただけ」 といってきっぱり断りました。明治の日本人の心意気を示す出来事でした。
95 年後の 1985年3 月、イラン・イラク戦争のさなか、イラクのフセイン大統領は、「今から 48 時間後以降は、イランの上空のすべての飛行機は無差別に打ち落とす」と発表しました。他の国の人々は自国から派遣された特別機で次々と脱出しましたが、日本人とその家族は、テヘラン空港に取り残されてしまいました。 時間切れが間近になった時、2 機の飛行機が突然やってきて、空港に降り立ちました。日本人救出の為の特別機でした。215 人の日本人は、警告期限のわずか 2 時間まえに、無事出発することが出来ました。
飛行機は、トルコ政府が、エルトゥールル号事件の恩返しのために派遣した救援機だったのです。事件から 95 年も経っているのに、トルコの人々は、明治の日本人が示した真心と献身への感謝を忘れていなかったのです。

台湾に巨大ダムを作った八田與一(はったよいち)
台湾の嘉南平野は、台湾の全耕地面積の 1/6 を占める広さです。雨期には洪水が起き、乾期には水不足に悩まされる、不毛の大地でした。石川県に生まれ、東京大学で土木技術を学んで、台湾総督府に赴任した八田與一は、現地を調査して工事計画を提出しました。それは嘉南平野の上流の川をせき止めダムを作り、安定して水を供給する灌漑施設をつくる計画でした。工事は困難を極めました。ある日のこと石油ガスの爆発がおこり、50 人余りが死亡する大惨事になりました。八田は、「もう私の言うことを聞いてくれる人はいないだろう」と嘆きました。が、台湾の人たちは「事故はあんたのせいじゃない。おれたちの為、台湾のために、皆で命がけで働いているのだ」と逆に八田を励ました。
1930 年、10 年がかりの世紀の大事業が完成し、嘉南平野は緑の大地に生まれ変わりました。アメリカの土木学会は、「八田ダム」と名つけ、世界にその偉業を紹介しました。台湾の現地の人々は、今でも八田の命日には慰霊祭を毎年行っています。

《補講》 東日本大震災と日本人に対応していたと賞賛する現地ルポを伝えました。
このような大災害に際して、自己犠牲の精神で非常事態に対処した日本人がいました。宮城県南三陸町の職員で危機管理課に勤めていた遠藤未希さん(24 才)は、津波が迫る中、防災無線で「6 mの津波が来ています。早く逃げてください」と住人に避難を呼びかけつづけ、みずからは津波にのみ込まれて亡くなりました。この女性の母親や多くの住民が、彼女の呼びかけによって命を救われました。災害出動した自衛隊員や警察官の献身的な働きも特筆すべきものでした。
天皇陛下は、地震発生 5 日目には国民宛にメッセージを出され、次のように述べられました。「自衛隊、警察、消防、海上保安庁をはじめとする国や地方自治体の人々、諸外国から救援のため来日した人々、国内の様々な救援組織に属する人々が、余震の続く危険な状況の中で、日夜救援活動を進めている努力に感謝し、その労を深くねぎらいたく思います。」
こうした日本人の行動は、長い長い歴史の中から生まれ育った日本人独特のものであります。「日本社会に根づく義務感、逆境での品位、謙虚さ、寛容、勇気」(スペイン)、「無私の心と不動の献身」(アメリカ)、「武士道精神」(台湾)など、各国は日本人の国民性を高く評価しました。
日本人が持つ国民性は、日本の長い歴史の中で育まれてきた文化です。日本人は縄文時代以来、豊かな自然の恵みのもとで温和な性格を備え、和を大切にし、助け合いと支え合いの文化を作り上げてきたと言われています。こうした歴史の蓄積を失わずに受け継いでいくことを、私たちは心に誓いたいものです。

知っておきたい歴史の基礎
私は 70 才を過ぎてから、日本の歴史に興味を持ちました。
過去のことを勉強するなど、無駄と決め込んでいました。それでも歴史を彩った史実だけは知ろうとしました。が、誰がいつ何をしたかさえ、記憶に残せませんでした。そこで大きな歴史の流れの中で、今起こっていることと過去に起こったことを比べたり、将来何が起こるかを予測することにしました。
この作業は大変面白く「歴史の基礎」となる過去の事象を知れば知るほど、更に広く、深く知りたいと思うようになりました。歴史との関連を知れば、日本の神話や記紀の意味するところまで「ああ、そうか」とうなずけます。毎日の生活の中でふと疑問に思うことが浮かんだ時にも、歴史との関連性において、「なるほど」と思えます。生き方や考え方の根ッ子になるものが歴史なのです。
また歴史は、2680 年の伝統と文化を創りあげてきた日本のご先祖の生き方を知る基です。それを知ることは、自分を豊かにしてくれます。覚えようとせず、暇を見ては、ページをめくって見る。興味が湧いたら、その前後をちょっと調べてみる。私はそんな調子でこの 4 〜 5 年間過ごしてきました。
私が得たものは、「日本人とは凄い人々の集まりであり、私もその後継者の一人である」という自覚でした。残された時間は多くはありませんが、間にあったという安堵感を得ることが出来ました。その嬉しさが、この本を印刷しようという決心となりました。将来、誰かが、ブラジルの人にも解るように翻訳し、日本の歴史を一人でも多くの方に知ってもらえたら、これ以上の喜びはありません。
20-11-2019 徳力啓三


《著者略歴》
1941 年生まれる。学生時代、日本学生海外移住連盟の派遣で、1年間ブラジル全土を訪ね歩く。三重大農学部を卒業後、1966 年渡伯、ブラジル ・ ヤンマー社に 26 年間の勤務中、1975 年より5年間 MT 州で大農牧場を経営、
1988 年より4年間 MA 州で銑鉄・木炭工場の経営に参加。1992 年独立、LA CANTARE 社を立ち上げる。有機コーヒーの日本向け輸出の傍らブラジル産健康食品を扱う。2011 年実業より引退。ブラジル日本会議に入会、2014 年より同会理事長を勤めた。

知っておきたい日本の歴史

発行日 2020年2月 11日著 者 徳力啓三
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