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椰子の葉風 鈴木南樹 その13
椰子の葉風その13は、前回の風土病マラリアの媒体である蚊の話の続きから始まり、移民収容所時代(六)に入り夜に移民収容所に遊びに行き、北欧移民、南欧移民のドイツ人、イタリア人、スペイン人の移民者600人もの収容風景に出くわしそれぞれの移民の特徴を観察する。その(七)では、下宿の引っ越しと宿屋の若夫婦の所かまわぬ馴れ合いに影響され日本で過ごした若かりし頃の性談議に入る。次回から後2回赤裸々な南樹青年の性談議が続く、後2回で終わらせるために途中になるが㈧に入る。
写真は、マラリアを媒体する尻を上げて止まる特徴のある蚊,アノフェレスの挿絵を使う事にする。



蚊がいかに繁殖力を持っているかということを、数字で表すと実に驚きに値するものがある。蚊の卵がボーフラ(Larva)になるには三日から八日かかる。ボーフラからさなぎ(Nympha)に変化するのに五日から十二日間を必要とし、さなぎから蚊が生まれるまでには早いもので一日、遅いもので三日を必要とする。そこで超スピードで卵から蚊になるまで九日間はかかる。最も長くかかった場合でも二十三日を越えない。そこで平均二十日かかるものとして、一匹の雌の蚊が五回孵化した場合を数字で表すと
第一回目産卵数(二十日目)   百五十
    そのうちの半数が雌の蚊が生まれるものと仮定して
第二回目産卵数(四十日目)   一万一千二百五十
第三回目産卵数(六十日目)   八十四万三千七百五十
第四回目産卵数(八十日目)   六千三百二十八万一千二百五十
第五回目産卵数(百日目)    四十七億四千六百九万三千五十
 驚くべし、ただ一匹の雌の蚊が百日間に五回の生殖を繰り返すことにより、その数、実に四十七億四千六百九万三千五十匹という途方もない数を示すことになる。こうなるとなかなか一匹の蚊でも見逃してはならない。
   
    ×     ×     ×
「マレタにかかると、身体がどことなくだるくなって食欲が減退し、ちょっと黄疸病にでもかかった気がします。場合によっては、脛から足にかけて妙に冷えたり、嫌な寒気がして風邪にかかったのではないかと疑うような感じを与えます。人によってはこんな状態が二〜三日あってから発熱します。
 私は若いときに魚釣りに行ってマラリヤにやられたことはありますが、熱が最も高くなったときは四十度を超えたくらいでした。こうした苦しい高熱が二時間も続いたのに、医者が来たときにはケロリと下がっていて、体温計はわずかに平熱を越えるくらいでした。
 もし不慣れな医者であると、こういう場合は腎臓が悪いとか、胃腸に故障があると言ったりすることも少なくない。ひどい医者はパラチフスの疑いがあるなどと、とんでもない診察をする場合もあるから、自分自身で注意する必要があります。
 マレタは早いうちであれば、注射の五〜六回もすればたいてい治ってしまうものです。ただ厄介なことには一年で根治することは難しいものであるから、翌年にも雨期が始まったら、キニーネを飲むとか注射をするとかすればもう安全です。
 それを難しくしてしまうのは、そのまま何もしないで放っておいて、始めの頃には二十四時間、四十八時間、七十二時間とこんな風に規則正しく出る高熱が、いつの間にかごっちゃになって絶えず発熱して、どうすることもできなくなってから医者に診てもらうということになるから重症になってしまうのです。
 サンパウロ州でマレタにかかりやすいところは、パウリスタ線ではモジ・グワス川の下流地方、ソロカバナ線ではパラナバネマの沿岸にあるサルト・グランデ町方面、チェテ川の下流地帯などです。
これらの地方はまだまだ衛生化されておりませんから、増水の終わりころからは余程気を付けなければマレタにやられるものと思わなければなりません。
 マレタのことはブラジルでは色々な名を持って呼ばれています。まずマラリヤ(Malaria)、
インバルヂズモ(Impaludismo)、パルヂズモ(Paludismo)、フェブレ・インテルミテンテ(Febre intermittente)、フェブレ・パルストレ(Febre Palustre)、トレメディラ(Tremede-ira)、セゼンエス(Sezoes)などと言われているが、皆このマレタ(Mareita)のことです。
 千八百四十八年にノット(Nott)により、マラリヤや高熱病が、蚊によって伝染されるということを広く説かれるようになってから、今日までに既に六十年になります。ブラジルでも医者のオヅワルド・クルスのような人物が出て、リオ・デ・ジャネイロを衛生化し、更にアマゾナス地帯のサネアネント(衛生化)に突進せんとしつつある時代です。
私はこんな身体をしていてもマレタには平気だったんですよ」
ビートは話の終わりにこんなことを付け加えた。
「ビートさん、もちろんそれは田舎の人たちの不注意もありますが、もし金がなかったらどうしたらいいのですか?」
「ハハハハ妙なところを心配するね、ススキ君。病気が重くなったら、今の青年のようにやっぱりああしてサンパウロ市まで出てくるじゃないか。それを思い切ってもっと早くすればいいのです」
「それもそうだがね・・・」
私はそれでも同意することに躊躇した。
「なあに、マレタなんて、毎日カンジャ(ニワトリと飯を入れたスープ)でも食べてぶらぶらしておればいいんだ。うむ、そうだ。マレタに一番いいことを教えましょう。それは乾燥した健康地に転地するんですね。マレタなどは二〜三日で吹き飛んでしまいますよ」
 ビートはこう言ってマレタなどを気にする私の心が理解できないという風であった。


◇移民収容所時代 (六)
 
私は夕飯後にはよく移民収容所に遊びに行った。
一つは外国移民の状態を見たいためと、もう一つは未熟なポルトガル語の会話を実習したいのが目的であった。夜の番人は二人いて、どちらもイタリア人であった。教育は殆どないが面白い話に富んだ人たちであった。
 私たちが会うとまず
「ケ・ア・デ・ノーボ」(ニュースがないかという意味)
「ア・ガリンニヤ・ボトウ・ドイス・オーボス」(雌鶏が卵を二個産み落としたという意味)
必ずこんなことを言って笑いを爆発させた。
 それはある暖かい夏の日の晩であった。私はいつものようにイミグラソンに行った。
 南欧移民が五百人、北欧移民が二百人ばかり入っているので、あの広い収容所も、ここに一団、あそこに一団とその国々の人たちが固まりあって話し合うのが賑やかであった。
 ドイツ系の人はごつごつした厚ぼったい、いかにも寒い国から来たという様子をしていて、多くはカシンボ(パイプ)をくわえながら、不器用な重々しい足取りで歩いている。
 イタリア人は鼻の赤い顔をして、がらがらと声高にユーモアな態度をして、少しも外国に来ているというような態度には見えない。
 スペイン人は背丈が小さく、何かものを探るような目つきをしている。服装も一番みすぼらしく落ち着きがない。『ミ・カゴ・デウス』『カラホ』なんて、人の前で聞くに堪えない言葉を遠慮なくしゃべって騒がしい。
イタリア人の会話はもともと声高く、喧嘩でもしているようだが、その実は何でもないのと違って、スペイン人のそれは、真剣で恐ろしいところがある。
 この国際的プロレタリアの絵巻物を見るような中を、私は夜警と一緒に長い廊下を歩いて行った。突然に起こるアコーディオンの音、それは人の心を憂鬱にするような音律を持っていた。
「スペイン人の踊りが始まったんだね」
夜警は独り言のようにつぶやいた。
 梯子段の下のちょっとした広場に円陣を作って踊っているのが、すぐ私たちの前で広がっていた。踊っている、踊っている。若い男と女とが抱き合って踊っている。その端の方に頭の禿げた小さなやせた老爺が、妙なステップで踊っているのもある。
アコーディオンの調子をあげたり下げたり、強めたり弱めたりが、彼らの手と足とを機械のような動きにさせていた。そこには国籍もなければ老若もないように見えた。
 この人たちはおそらく皆、船で知り合った人たちであろう。生まれ故郷の生活難から逃れて、新しい世界へ新しい幸福な夢を追ってきた人たちである。ある意味から言うといずれも社会の劣敗者である。
それがこうしてさも愉快らしく、『明日』にも直面しなければならない農場の苦労を置いておいて、なんのこだわりもなく踊っているのを見ると、南欧国民には、どうしても日本人などの想像することのできないルンペン性(浮浪性)がある。
よく言えば『青山いたるところにあり』だ。どこに行っても日光は輝いている。その日その日を朗らかに踊って暮らす。それがスペインだろうと、船の上だろうと、ブラジルだろうと彼らの人生観には何の変りもない。
日本人をあきらめのよい国民だというが、南欧人には違った意味で日本人などの及ばない、一種こうしたあきらめから出発した妙な楽天性がある。
 私がこんなことを考えていると、拍手の音が突然に起こって、アコーディオンは再びその沈鬱な音色を奏でだした。
 一人の若い娘・・・、それは実に真っ白な雪のような色をした長顔の唇の赤い十八〜九才の娘であった。スペイン式のバラの花の模様を散らしたマントに身体を包んで踊りだしたのである。コトコト、コトコトと足踏み高く、カスタネットを打ち鳴らしつつ踊りだしたのである。
何かしら人間が絶望の時に、じっと考え込んでつぶやくような、細い沈んだ声で歌っては、ひらひらと右へ進むと思えばまた左につつっつ・・と進んで行った。
 私はきれいだ、美しいというよりも、この娘の表す踊りには、やるせない憂鬱な恋が潜んでいると思った。私はふとカルメンのことを思い浮かべて、この娘の表情を見つめると、何かそこに似通ったものがあるように思えてならなかった。漆黒な髪に青い目、私はぞっとしてこの踊りの終わるのが気味悪くさえ思った。

 収容所内を一巡して、門のところに戻ってから私たちは長いこと話をしていた。午後十時の寝鐘が鳴るとさすがに今までの騒々しい音がやんで、水を打ったように静まり返った。
 薄暗い電灯のともった大きな建物が、星もない夜の闇に化け物のようにくっきりと黒く空をふさいでいた。そこへ崩れるように笑いながら、別の夜警が戻ってきた。
「ケー・アパンデカーセン・ヴェルゴンニャ・ハハハハハ…」
 なかなか笑いが止まらない。
「どうしたんだ、一人で笑っていたって仕様がないじゃないか」
「ナーニね、今、風呂場の方に回って行ったんだがね。ハハハハ、それ先ほど踊っていたスペインの女らしいのが、若い男と二人でおったのさ。ハハハハ、脅かしてやったら、すっかりうろたえていやがった。ひょっとするとあれはただの者じゃないよ」
 私の頭に電光の閃くようなものがあった。
そうだ、あのスペインの女には何か人に語られない秘密があったのだ。あの青ざめた人形のような顔をありありと思い浮かべて、私は計り知れない人間の運命を悲しんだ。


◇移民収容所時代 (七)
           
 三か月位たつと、月給が二百ミルレースであったから、藤崎商店の後藤君からから借りた所帯道具購入費の返済もできて、私の物好きな性質は部屋の飾りになるものなどを整えて、誰が来ても、そう顔を赤くすることがないくらいになった。
 都会生活に慣れるにしたがって、初めに運動になると言って借りたルース公園近くのアメリア街から移民収容所へ、三十分もてくてく歩くのが億劫になって行った。
電車を利用することもできないわけでもないが、サンパウロ市は日本のように乗り換えが簡単ではないから、一度「サン・カエタノ行」に乗って次に「ブレッセル行」に乗り換えなければならなかった。それでは電車賃だけで一日一ミル二百レース、一か月に三十六ミルレースとなり、まさに一部屋の借り賃以上になることとなり、経済上許すべからざることであった。
仕方なく移民収容所からわずかに数町の距離しか離れていない、プラタナスの街路樹が処女の若さを思わせるように、あの広い葉を風にひるがえしているカンボス・サーレス街四十七番地の一部屋を借りて引っ越しをした。
 主人はイタリアのナポリ県出身で、いわゆるナポリターノであった。二十五才くらいの若々しい、どっちかというとやせ型の、よく鼻筋の通った男であった。細君は二十才を越えたか、それとも二十二〜三才にもなるかと思われる色の白い、唇の妙にあだっぽいジョアンナという女であった。
 私の部屋は奥の突き当りであったから、この二人の便所と台所との間を通り抜けなければならなかった。結婚後丸三年がたったくらいで、乳飲み子が一人いたが、いつもその辺をだらしなく散らかしていた。亭主のアルマンドはどこかあまり遠くない工場にでも通っているらしく、昼飯の時間には戻って来た。
いつも高い声でジョアンナと話をするのが癖であった。何かしら罵り合っているように感じられて、そっと覗いてみると二人は必ずキスをしあっていた。
 『妙な夫婦だ』とは思ったが、初めのうちはそれほど気にもかけなかったが、それがだんだん私の心をかき乱さずにおかなかった。
白人が何につけ彼につけ、キスをすることを常習としているが、長いブラジルにおける生活において私はこの夫婦ほどキスの好きな、絶え間ない抱擁をほしいままにするものを未だに見たことがない。
 たった一人、あまり明るくないランプ(電灯ではなかった)を灯しながら、サンパウロ市の労働区の夜更けの静けさが身に染みる頃など、あのキスの音が聞こえてくると、たまらないほど私の心に一種不思議な焦りで心をざわつかせた。
ふと目を覚ました時などは、何でもない物音・・それは確かに空耳であったであろう・・を聞いても、二人がキスをしているのではないかと、自らけしからぬ光景をまざまざと眼前に描き出して神経をいらだたせた。
 私は女の肉体を知らなかったが、絶えずそれを求めていた。私の健康なこのはち切れそうな肉体はおそらく女を知っている人達よりも、もっと盛んであったということを断言するにはばからない。
 私はこうした男性の猛烈な欲求に対する道徳上の批判をすることを望まない。ただ私はそうした性的な満足を満たしている人たちと、私のように悶々の情を押し隠している人との間に、何ら醜悪の差がないということだけは言うことができる。いや、むしろ臭いものに蓋をしている私のような人間にさらに一層の愚劣と、醜悪とを感ぜずにはいられない。
 私の女の肉体に対する限りない執着の歴史!
それは確かに私の隠れた内的生活の醜悪な一面に相違ないが、おそらくこれは人間・・男性として誰でも経験する一過程であろうと思う。私は率直に私の一糸もまとわない赤裸々な性的生活のページに鋭いメスを貫いてみる。
   ×     ×     ×
 それは十八〜九歳くらいになった、ある暗い春の一日であった。茅葺の大きな昔風な家の薄暗い部屋々々にも、何とも言えない美しく人の心をそそるような光が、どこからさしてくるともなく、快い明るさを見せていた。
 私は何の気もなしに、一番奥の部屋へ畳の感触もこそばゆいような気分にそそられながら進んで行った。
 たしか唐詩選にあった七言絶句であったと思う。例の形容たっぷりな文句を筆太に書きなぐったふすまに手をかけてさっと開いた瞬間、私ははっとして魂も消えるような驚きの目を見張らざるを得なかった。
 ちょうどレビュー(ショー)の踊り子を照らす電光のように、昼下がりの春の陽は、張り替えてから三か月位もたった古びを帯びた障子にさしていて、それがくっきりと床の間のすぐ前に落ちていたが・・・そこには見てはならない生きた〇画が展開されていたのである。
 私の家では下女・下男などの奉公人は、代々一軒の家から父母から娘・息子へ、兄から弟、姉から妹という風に奉公している者が多かった。したがってこれらの人たちに対する対応は、単なる奉公人というよりは、貧しい遠縁の親類の人たちという待遇であった。
奉公が終わってから訪問を受けた場合の時などは、まるで自分の家の子どもたちでも来たような懇親の情を見せていた。特に女たちは自由にまるで家人同様自分の思うように、どこの部屋に入ろうと、寝ようとなんのこだわりもなかったのである。
 その日は岩ケ袋という隣村の、娘時代に奉公していた女が、金のために名古屋の遊女屋に売られて行ったと聞いていたが、大方年期が終わったのであろう、今朝から遊びに来ていたのをちらっと見ていた。その三十近い女が、まあ何という姿態であろう。手枕をしたまま寝そべっている。
田舎には珍しい、艶な色彩に富んだ着物を青畳の上に横たえて、腰から下がふしだらにその赤い血のように見える〇〇からみずみずしい白さ、それは白蝋細工の感じを与える二つのすねが不格好な八の字を描いているのである。
 春の陽にも雲が流れたのか、障子を通す日光のサインが急に黄色じみた暗さになると、その部屋の光景が、夢を見ているような遠い幽かな感触を与える。
しかし私にはまだどこかに現実の気分があって、それを避けようとあせって顔をそむけたが、あせればあせるほど妙に気がかりになって、私の目はあたかも夢遊病者のように前面に向いてしまうのであった。その不思議な色彩…赤い〇〇に白いすね・・・とに、恐ろしい底知れない力で引きずられていった。
そうして私は、あのネズミがものを盗み出すときに見せるような狡猾な醜い態度で、こっそりと音のしないように畳の上にひれ伏した。
 それから・・・・・・・。
 ジリジリ、ジリジリ・・・、またジリジリ・・・・・。
 カタツムリよりもなお遅い速度であったが、私の感じは全く時間を超越した、長いとも短いとも判断のできない、息苦しい『時』のミステリーな歩みに過ぎなかった。
 とうとう予期した恐ろしいショック、それは私の手が〇〇〇〇〇〇〇したのである。私はわなわなと身体をふるわせた。一分、二分、三分、その手は拒絶することを許さない、一種の魔力に支配されたように、するするするとなお〇〇〇〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇を・・・・・・・。
「あっ!!?」
 私は全身の血が一気に頭に上ってくるのではないかと思って、こう叫んだ。
私はもうそこにじっとしておられなかった。私は夢中になって走り出した。
 けたたましく障子を開けて外へ・・・。縁を下りると庭である。椿、高野松、紅葉など型通りに繁っている庭の奥は、一段高い堤になっていて、一面に芝草が生えて、五〜六本の桜が立ち並んでいた。この桜は俗に『種子蒔きさくら』と言って、早咲きのちょっと彼岸桜に似ていて、花の真っただ中に一層濃い紅色を見せる、ちょうど錦絵そのままの濃艶な美しさを誇るものであった。
 風のない、暑いほどの春の太陽の光は、その花雲から夢見るようにこぼれて、辺りをほの白いものに見せていた。
 私は飛び石を走るように伝って行くと、いつも寄りかかって空想にふけった、根元から二股になっている一番太い桜の木に寄りかかったが、それも束の間で力がなえて倒れるように座り込んでしまった。
 そうして火のようにくわっくわっと熱くなってくる肌、汗ばんでくる顔に両手をあてて、唇を食いしばった。
 羞恥、悔恨、恐怖、憤怒、これらの感念がぐるぐると水車のように回って来るかと思うと、終わりにはごっちゃになって破裂した。私はどうしていいかわからなくなって悶えた。
 後ろの方から
「貞ンザ、貞ンザ」
 縁側にあらわれたあの女の声である。
私の狼狽は極度に達した。私は黙っていたが、聴覚は水に落ちる針の音でさえも聞き漏らさないほど鋭く冴えていた。ねばりつくつばをのどに飲み込んで、じっと土の上を見つめていた。もしそこに穴があったらとしたら私は何の考えもなしにもぐり込んでいたであろう。動かない大地が恨めしかった。
「貞ンザ、貞ンザ」
 またしても呼んでいる。
 私はとうとう桜の木の下に倒れて、さめざめと泣きだした。
さくらの花がはらはらと散って来た。
私の目からは涙がとめどもなく流れだしたが、それを拭おうともしなかった。


◇移民収容所時代 (八)

 偶然な機会であったが、こうした変態性の発作をどうすることもできないほど異性に対する執着を持ちながら、以来十年間、私は何ら積極的な行動をあえてしなかった。
 おとなしい、女嫌いな青年として通った。もちろん私の精神生活にはキリスト教の影響もあったし、初恋の女性に対する、全能力をあげての心づくしもあったが、臆病で小心で、はにかみやであったことが、仕方なく女から遠ざけられていたという方が真相である。
 二十七才になって海外に出ようとしたとき、最も私の心を悩ませたものは何であるかと言うならば、それは『女を知らない』と言うことであった。内心は何とかして女を知る機会を求めていたのだが、このイポクリストの女嫌いには誰もかれも
「鈴木君だから芸者を呼ぶことだって相談してからでなければね・・」
 と言う風で、一つお別れに鈴木と二次会を遊郭でしようという者がない。酒を飲まないから、こっちでとぼけて浮かれ出すわけにもいかない。仕方なしに私は異性を知らない、いわゆる純な青年として、海外に出なければならぬ運命に追い詰められてしまった。
私の心は泣きたいようにつらかった。
 明治三十八年十二月十三日であった。私は北米行きの旅券を書き換えて、南米チリ行に変更したので、旅費の補給を必要として故郷に帰ったのである。
 父は早速承諾してくれた。しかし長兄の了解も得なければならないが、政治好きな彼は留守であった。私は長兄の後を追って山形市へ出た。上の山温泉に行った。長兄の泊まりそうな宿屋の亀屋、米屋などを訪ねてもどこにも見当たらなかった。
 私は昼飯でも食べてからのことだと観念して表通りの長谷屋の二階に上がった。
 湯から上がってくると炬燵ができていた。雪国の炬燵、それに湯上りと来ている。注文通りのコンディションに、私は半身を炬燵やぐらにもたせながらうとうとと長兄のことを考えていた。
「あなた、お退屈?」
 小柄な女中、丸顔で馬鹿に色っぽい目つきをする二十一〜二才と見える女である。無遠慮に炬燵に入り込んで、じっと私を見つめると妙な笑顔を見せた。
『いやな女だな』と。心のうちでは思ったが、いつの間にか炬燵のなかで、私の足と女の足とが触れ合った。また触れ合った。二度、三度、ついには女の方からあるサインらしい接触が送られた。
私はこんな女でなければ、異性の肉体を知る機会は断じてあり得ないというような狂暴心に支配されて動悸がしてかっとなった。しかし女性に対してうぶな私は、どうしてよいものかわからなかった。ただ燃えるような目を、私としてはこの上ない大胆な態度で、炬燵やぐらの上から女の上へ投げた。
 なんという不思議な目であろう、二重まぶたのつぶらな目の黒い瞳が、くるくると回転して私を見返したが、その目には、全世界を消し去ってしまうような恐ろしい魅力を秘めていた。私は口惜しくなって顔を布団の上に力強くすりつけながら黙り込んだ。
「よう、どうしたの?どうしたのってばさ?」
 女の足は炬燵のなかで、私にはわからない何かサインらしいものを送った。私は目がくらんでしまうような気がして、炬燵から立ち上がった。もう私はこのままではおられない危険を感じたからである。生まれながらの臆病はこうするよりほかなかったのである。
「私はもう帰るよ」
 女は立ち上がると私の羽織の紐をつかんだ。
「怒ったの?」
「うん」
「なぜそんなことをするの?」
「俺はね・・・急用があるんだよ・・・」
「いいわ。もう一度、炬燵におあたんないよ」
 引っ張った女の手と私の手がふれ合った。
「もし俺が泊まったら、君は来てくれる?」
 私はとうとうこんなことを言ってしまった。二十七年間、異性に対して言おう言おうとして言い得なかった一語である。女は例の恐ろしい目で私にOKのうなずきを見せた。
「ああ俺は海外に去る前に女を知ることができるんだ!」
 私はこう思うと、狂気のようになって、やせ型の小さい女が消えてなくなるような力強さで抱きしめた。
「俺は外国に行くので、どうしても兄に会わねばならんのだから、今日はこれで帰るが、遅くとも五日以内に上京のついでに泊まるからね・・・。いいだろう、きっと約束したぞ・・」
「きっとよ」
 私を送り出した女の目には例の笑いがひらめいていた。



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