HOME  HOME ExpoBrazil - Agaricus, herbs, propolis for health and beauty.  Nikkeybrasil  編集委員会  寄稿集目次  寄稿集目次  通信欄  通信欄  写真集  リンク集  準会員申込  em portugues




日本人移民、再起の原点・モジ・ダス・クルーゼス 東海林 正和
最初の日本移民を連れて来た笠戸丸の到着から苦労の10年が過ぎサンパウロ近郷のモジ・ダス・クルーゼスに安住の地を求めた1919年の入植から今日までの歴史を辿り、自らその地に住み着く事になった戦後移住者の東海林正和さんのブラジル放談・男のエッセイに書き残した記事を鈴木貞次郎さんの「椰子の葉風」に触発されて送って呉れた文をHPに残して置く事にしました。写真も彼の文に掲載されているモジの町のお祭りに馬で街を闊歩する東海林夫妻の写真を使わせて貰いました。


(94) 日本人移民、再起の原点・モジ・ダス・クルーゼス
投稿日: 11月 22, 2013投稿者: mshoji
1908年6月18日、781名の日本人を乗せた笠戸丸は、延々51日間の航海の末、ようやく朝霧に煙るブラジルのサントス港に辿り着き、錨を下ろした。彼らは、ブラジルに到着した最初の日本人移民で、夢と希望に胸を膨らませながら次々とタラップを降り、異国の大地を踏みしめた。
しかし、移民斡旋会社の甘い誘いの言葉を信じ、一攫千金を夢見て、はるばる地球の反対側からやってきた彼らを待ち受けていた現実は、想像を絶する過酷なものであった。

「金のなる木」といわれたコーヒーの木
宣伝文句にあった「金のなる木」が生い茂ったコーヒー農園は、確かに存在した。しかし、奴隷の代替として導入された移民たちの生活は「金」とは全く無縁であった。宿舎とは名ばかりの元奴隷小屋が与えられ、労働は日が昇る時間から沈むまでという、奴隷時代のパターンが踏襲された上に、わずかな賃金は、農場内の売店で調達する食料代で全て帳消しになったばかりか、不足分は借金として残った。これでは、移民派遣会社がうたっていたように、「5年で金持ちになって故郷に錦をかざる」どころか、100年働いても祖国に帰る船賃もでない。こんな状況に甘んじているより、イチかバチかの運命にかけようと、夜警の目を盗んで夜の闇にまぎれて農場を脱出する人たちが相次ぎ、最初の移民の大部分が一年も経たずにコーヒー農場を後にした。
それからの10年は、日本人移民にとって暗黒の時代となった。命からがら農場を脱出したものの、言葉も事情も分からない異国で、鉄道作業員など過酷な肉体労働にしか生活の糧を見出すことができず、多くの人たちは健康を害して、次々とブラジル大地の土と化していった。
この現実に、手をこまねいている訳にいかなくなった移民会社は、農場から脱出した移民と、これから上陸する新移民たちのために、独自に土地を入手して、植民地を造ることにした。サンパウロ州で移民会社が物色した土地は、日本の伝統的な農業である水田米の耕作を目的としたものであったが、それが移民たちに、新たな悲劇をもたらす結果となった。水田米に適した低地の湿地帯は、とりもなおさず、マラリアの発生源だったからだ。
当時、日本人たちはマラリアに関する知識がなく、初めは単なる発熱だと思っていたが、次々と多くの人たちが熱をだし始め、ほどなく最初の犠牲者がでた。マラリアは倒れたら二度と起き上がれない。投薬や治療も効果がなく、次から次へと死者が増え、毎日誰かの葬式が行われる有様であった。家族全員が病に倒れ、親族の参列もないままに埋葬された人たちも多く、その内、余りにも多くの犠牲者がでたために、死人は森で伐採された薪を焚いて荼毘に付された。
このように、移民たちを救済するはずだった、移民会社による、第一期の植民地政策は失敗に終わり、かろうじて生き残った人たちは、新たな生きる場所を求めて各地へと分散していった。こうして暗黒の時代といわれる10年が経過した。
そんな暗黒時代に、一抹の光明を与えることになったのが、モジ・ダス・クルーゼスである。それは、最初の日本人移民がブラジルに到着してから11年後の1919年に、モジに、鈴木シゲトシ・フジエ夫妻がやってきたことがキッカケだった。秋田県出身の夫妻は、最初移民会社が造設したタカリチンガ植民地に入植する予定でブラジルにやってきたが、同地にマラリアが蔓延したために急遽目的地を変更して、モジ・ダス・クルーゼスに辿り着いたという。この鈴木夫妻の到来が、日本人移民に再び希望の光をもたらすことになる。その要因になったのは、当時32才だったシゲトシ氏は、日本で農業大学を卒業した後、祖国で野菜栽培にたずさわっていたので、その知識が豊富だったことだ。モジの地を選んだ理由も、経験から、気候が野菜の栽培に向いていると判断したからだった。鈴木夫妻の蔬菜栽培は、間もなく軌道に乗り、それを伝え聞いた、各地に分散していた日本人移民たちは、次々とモジ・ダス・クルーゼス周辺に集まり始めた。

山に囲まれた盆地にあるモジ・ダス・クルーゼスの町
モジ・ダス・クルーゼスは今年、創設450年を迎えた古い町で、イタペチ山脈と、海岸山脈に囲まれた盆地にある。19世紀の、コーヒー栽培全盛時代には、この地もご多分にもれず、コーヒー農場が幅を利かしていた。しかし奴隷解放による人手不足と、アメリカに端を発した世界不況の影響で、コーヒー価格が暴落したことで、元々山岳地帯で、地形がコーヒー栽培には向いていなかったこともあって、農場主たちは次々とコーヒー栽培に見切りをつけて土地を放棄し、新たな農地を求めて移動していった。農場の跡地には、カボクロと呼ばれる、元奴隷や使用人たちがそのまま居残って、マンジョカ(たろ芋の一種)などを植えて、細々と自給自足の生活をしていた。
元々地主ではなく、そこに居座っていただけのカボクロたちが、安価に借地を提供してくれたことも、日本人にとっては極めてラッキーであった。

モジの日本人が経営する蔬菜畑
このようにして鈴木夫妻が先鞭をつけて、モジ・ダス・クルーゼス市の郊外で、日本人たちによる、茄子、トマト、キューリ、大根、白菜、キャベツなどの野菜栽培が始まった。当初、モジのブラジル人たちには、野菜を食べる習慣がなかったために、市内での販売はイマイチだったが、ある日本人が70キロ離れたサンパウロ市の中央市場に野菜を持ち込んだことで、様相が一変した。

モジ特産の柿。ポルトガル語でも「caqui」と呼ばれる。
当時サンパウロ市は、ブラジル商工業の中心地として大都市への発展途上にあり、膨れあがる人口は、イタリアを中心とするヨーロッパからの移住者たちで占められていた。彼らは、祖国では習慣的に野菜を食していた人たちだったので、当時ブラジルでは栽培されていなかった野菜類に飢えていた。そこへタイミングよく中央市場に持ち込まれたモジ産の野菜に歓喜して飛びついた。それをきっかけに、サンパウロの中央卸市場から、ブラジル全土に野菜が配送されるようになり、モジの野菜は作れば作るだけ売れるようになっていった。温暖な気候は、果物の栽培にも向いており、柿、桃、イチジク、梨、ポンカンなど、東洋的な果物の栽培を手掛ける日本人が現れ、こちらもブラジル人にもてはやされた。モジにおける野菜栽培の大ヒットは、たちまちブラジル全土に分散していた日本人たちに伝わり、それぞれの土地で同じように野菜栽培を手掛けるようになって、日本人移民たちは、次第に暗黒時代から脱却して生きる活路を見出し、ブラジルにおける未来に希望を抱くようになっていった。
当初は借地を畑にしていたモジの日本人たちは、やがてカボクロたちから土地を買い上げ、小規模とはいえ、ブラジルで最初の日本人地主が、次々と誕生するようになった。その内、より大きな土地を手に入れた人たちは、大規模な養鶏やジャガイモ栽培も手掛け、成功を収めた。今でこそ、日系人の農業従事者たちの数は減ったが、モジ市の郊外にいくと、その昔、彼らが開墾した畑に通じる、日本人の名前がついた道路が今も多く残っている。
黙々と野菜造りに励む日本人は、勤勉な人種として、ブラジル人誰しもが認めるところとなり、ブラジル人社会との接触が深まるに従って、誠実・正直に加えて謙虚な生活態度が、ブラジル人たちから大きな好感を得て、いつしかそれが日本人キャラクターの代名詞となり、確固たる市民権を獲得していった。後日、「ジャポネース・ガランチード(日本人は保証付)」の言葉が生まれ、日本人たちは、ブラジル人たちから絶大な信頼を得ることになっていく。

ダウンタウンの移民広場にある日本人移民家族の銅像
こうして、モジの町は日本人移民のお蔭で経済的にも潤うようになり、人口も増えて発展してゆくことになる。そのため、市ではダウンタウンの一角にある広場を「移民広場」と名付け、初期の日本人移民家族を模した銅像を建てて、その貢献に対し、永久的な敬意を表している。
日本人が最も多かった時期には、人口の30%を占めるまでになり、街のあちこちで日本語が飛び交い、まるで日本の町のような様相を呈していたこともあった。ところが1990年から始まった日本への出稼ぎブームで、モジの日系人社会に変化が起こった。ブームに便乗して、モジ市から日本へ出かけた日系人は、ブラジル全国で最も多く、約5万人(出稼ぎ総数は30万人)が流出した、と言われている。日本語が話せ、ある程度日本文化を身につけていたモジっ子たちは、日本での生活にそれほど違和感がなかったので、大部分の人たちが、そのまま日本に永住してしまった。その一方で、モジ市は商工業に発展が著しく、今では人口40万人の中堅都市になり、その分、日系人の占める割合は減ったというものの、今でも人口の一割を占めている。モジ・ダス・クルーゼスほど日系人の活躍が目覚ましく、尊重され、親しまれている町は、ブラジルでは他に例がなく、その活動の場は、農業は言うに及ばず、商工業、サービス業、医者、弁護士、学校の先生など、あらゆる分野に及んでいる。政治家も多く輩出し、中でも、モジ市長を二期務め、現連邦下院議員のアベ・ジュンジ氏は、市の発展に多大な貢献をし、市民に最も愛された日系人政治家として知られている。

野菜や果物がずらりと並ぶ日曜日の露天市場
私は、偶然、そんなモジ市に今年から住むようになった。というのは、この町に在住する日系二世の女性と、ふとしたことで知り合い、一年半の交際を経て再婚することになり、モジ市に居を構えたからだ。ゴルフ場が二つに乗馬クラブがあり、すし屋やラーメン屋があって、日系人が行き交う街の住み心地は、思った以上に快適である。毎週日曜日に開かれる青空市場には、ニラ、春菊、水菜、チソ、ほうれん草、シイタケ、シメジなど、他の土地では手に入らない野菜が並ぶことも、料理が趣味の私にとってはうれしい。
モジに住んでみて解ったことは、この町の日系人たちは、普段はブラジル人と同じ文化と習慣に基づいた日常生活を送っているが、それに加えて、いくつかの日本文化を身につけていて、極めて自然に使い分けながら生活していることだ。特筆すべきは、そのライフスタイルが三世、四世の子供たちによって、受け継がれていることだ。
しかし、世代が替わると伝えられる文化も少しづつ形が変化することは否めず、特にアルファベットで聞き覚えた日本語は、時々ドキッとするような表現が飛び出す。つい最近、二世の家内が小さなことにこだわる私の癖を見て、「金玉が小さい!」と言った。思わず噴き出した私は、その語源を問いただしたところ、父親がよく言っていたのだという。耳で聞いた日本語で、しかもイメージがローマ字表記になると「肝っ玉」が、いつのまにか「キンタマ」になってしまうのだ。

毎年開催されるモジ市の秋祭り。多くの日系人たちで賑わう
日本へ出稼ぎに行ったモジっ子が、週末にブラジル式のシュラスコ(焼肉)をしようと肉屋に出かけ、オヤジさんに、「心を500グラムください」と注文した。驚いたオヤジさんが聞き直したところ、鶏の心臓(ハツ)のことだった。いづれの話も、笑ってしまうが、どんな形にせよ、彼らが日本文化を受け継いでいこうという姿勢は、なんとも微笑ましい。毎年催される、秋祭り、運動会などには、どこにこれほど多くの日系人が住んでいるのかと思われるほど、多くの同胞たちで賑わう。彼らは、シュラスコと共に、おにぎりや煮しめを食卓に並べ、日常的に白飯、おしたし、酢の物、豆腐、漬物、味噌汁などを口にする。

カトリックの宗教行事で、モジ市街を馬で行進する筆者夫妻
私はこれまで、日本人が多くいる場所は、意識的に避けてきたような気がする。その理由はといえば、ブラジルに来てまで、日本的環境に身を置くのは、現地同化の妨げになって(言葉を覚えない、など)ナンセンスだ、という気持ちがあったからかも知れない。
そんな私が、人生の第四コーナーを回ったホームストレッチで、ブラジルで最も多くの日系人が在住する町に、日系二世の連れ合いと共に住むことになるとは、夢にも思わなかったが、本音をいうと、新しい伴侶とこの町を、心から気に入っている。(完)



アクセス数 7494487 Copyright 2002-2004 私たちの40年!! All rights reserved
Desenvolvido e mantido por AbraOn.
pagina gerada em 0.0204 segundos.