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≪伯国日本移民の草分け≫  鈴木貞次郎著作 (その3)
≪伯国日本移民の草分け≫(その3)は、聖州巡視の九までを収録しています。笠戸丸移民を受け入れる前の水野 龍の視察旅行に鈴木貞次郎青年が同行する話で1906年当時の人口30万を突破した程度のサンパウロを描いている。奥地のジュンジャイから始まりモジアナ線のリベロンプレトのコーヒー園見学が語られている。この巡視旅行で面白いのは、当時のコロノ収容住宅には、便所がないことでその処理方法が裏庭に鍬をもって用足しに出たとの事で北ゴヤス(現トカンチンス州)のグルピーでの2年間の田舎生活と重なる部分があり農業移住者としての初期の生活を思い出す。
写真は、出口さんが送って呉れた本の挿絵を使わせて貰います。


聖州巡視 
  
      一
 1906年頃のサンパウロ市は人口ようやく30万を突破した位で、市街のいたる所にポルトガル人の無理想を暴露していた。ラルゴ・デ・ミゼリコルデヤからキンテンノ・ボカイバに出る所(現今マタラゾ会社の所在地裏)はうす暗い長屋建ての果物店が並んでいた。ラルゴ・デ・セのカテドラルの周囲は全て、コロニヤ時代の面影が、あの古ぼけた一階建てのせせこましい家屋のうちに溢れていた。クー・ダ・マイとか、プータ・ケ・テ・パレオなんというグロテスクな仮名を持った夜明かしの酒場があって、そこにはよくトロバドールなどを歌うイタリア人の酔いどれなどがあった。現今のラルゴ・デ・コレオには小さな市場があって、その前に聖市第一の劇場…トタン張りの木造の…ポリテアマ座があった。
 三階建ては十指を屈するに足らなかったろう。市第一のホテルは、ロテッセリー・スポルトマンと言って、現今のボルサ(サンベント街)の建物になっている所で、裏の方にまだ玉突き場として残っているのが、当時華麗を誇る食堂であった。
 私どもの宿った『グランデ・ホテル』は、サンベント街からリベロバダーロ街に出るトラベッサの角にあった。横町に向いた私の部屋からは赤い灯がちらちらして、顔を白く塗った女の艶な微笑が見えた。この一区画は、そうした雰囲気の漂う街路らしかった。水野さんと三浦さんはある夜何かこそこそと打ちひそめいて出て行ったが、窓に寄り添って、深い霧にほのめく、うす青いガス灯を物珍し気に見ていた私の眼前を横切る二人の影があった。私は見てならないものを見た様な気がして、窓を閉めた。何故かまだドンゼーラ(童貞)であった私の胸はドッドっと波打っていた。私は顔を赤くして、じゅっとくすぐったいような甘い考えにふけった。
 しばらくして戻って来た物音を聞いた私は、飛び立つように水野さんの部屋をノックした。好奇心そのものの様な私の目を見た水野さんは、
「ハハハ君、ああしておかないとね」
 何か独り合点したらしいことを言ってあのまばらな白髪頭をつるりと撫でながら笑った。善悪はともあれ老成ぶった日蓮信者の水野さんにも暖かい血が流れていた。
「役人なんて君、あれで三浦君もなかなか難しい所があるんだぜ」
 申し訳らしい、こんなことも言った。私はただまじまじと水野さんの顔を見ていた。
      ×   ×   ×
 水野さんの移民契約に対する運動は、順調に進展しつつあるらしかった。
 ジョルヂ・チビリッサが州長官で、カルロス・ボテッリヨが州農務長官であった。丁度移民問題で、イタリアがブラジル行契約移民の渡航を禁止したるに対し、剛腹なボテッリヨはこれに応戦して、地中海沿岸から移民を招致したが失敗に帰し、苦い経験をなめつつある時であった。
 聖州珈琲園の労働問題は、奴隷解放以来休止なき問題であった。十九世紀末に於いて燃え上がった珈琲黄金時代は、聖州の珈琲園を驚くほど拡大してしまった。これを耕耘するに要する労力を支那にさえ求め様とした。日本移民問題も大越公使以来の懸案で、若し聡明な識見が、大越公使にあったとせば、あんなずさんな報告を外務省に送って、日本移民を阻止する様な愚挙に出てなかったであろう。
 移民契約の当事者として、まずカルロス・ボテッリヨの義弟ドクトル・ベント・ヴェノ氏(カルロス・カンポス州統領時代の司法長官)とする事となった。その後ろには、これも義兄弟のドクトル・ヒルミヤノ・ピント氏の居ったことは勿論である。何しろボテッリヨ家は、コンデ・ド・ピニヤールと言ってサンカルロス市の開拓者であり、リオ・クラロ鉄道(現在のパウリスタ線)の如き資本の大部分は、実にピニヤール家の出資によって敷設せられたのである。リベロン・プレト地方の開拓者たるジュンケーラ家はどっちかと言えば田舎者の成り上がりであるが、ピニヤール家は錚々たる王党に属する名族である。

          二
 州政府側で日本移民契約に対する協議の時間を要し、水野氏側は珈琲園の実地視察なかるべからずと言うことで、当時移民収容所のコレトール・オヒシアルであった、あのお人好しのエルクラノ氏を案内者として内奥地へ向かって出発した。
 ジュンヂアイ市迄は山のうねりの急激な、雑草の茫々たる渓谷を辿って行くがカムピーナス市に近づくに従ってゆるやかな傾斜した丘陵の起伏となって来る。赤レンガを露出したままの停車場の建物も、田舎の都会にふさわしい落ち着きがあってよい。ところどころにそそり立ったパルメーラ・レアールに風が見えて、カトリック寺の鐘の音がまだ晴れきらぬ霧のなかから流れて来る。カムピーナス市ほど豊かに聖州田園の美しさを持った所は少ない。
 モヂアナ線へ乗り換えを待つ間、停車場構内のバーに入って珈琲を飲んだ。エルクラノ氏が
「どうぞ何でもご遠慮なしにお取りください」
 サンドイッチやお菓子などをすすめてくれた。
「君、遠慮はいらんよ。皆政府持ちだからね」
 三浦さんは笑って私の顔を見た。
 列車は砂利を敷いていないモヂアナ線を、砂煙を揚げて走った。車窓から初めて見る珈琲園は赤、黄、青など色さまざまの玉をつづって珍しいものの限りであった、枯れかかった唐黍畑や牛馬の放牧されている広い牧場などにパイネーラの花がさくらの様に咲いていた。
 サンタ・ヴィルヂアナ駅(現今のバルデアソン駅)に着いたのは午後二時過ぎであった。プラド一家のヴィルディアナ未亡人の所有で聖州有数の珈琲園の一つである、駅名と同じ名の農場から支配人が迎えに来ていた。私共はいわゆるテーラ・ロッシャの道を馬車に乗って走らせた。
 農場主の住宅にはユーカリ樹が高く聳えて、庭にはプリマヴェーラがさつき色に咲き誇っていた。

          三
平坦な広々とした珈琲乾燥場が邸宅の前面に展開されていた。その端れに近く、鐘を釣った監督の家につづいて移民小屋は幾十となく一線を引いて並んでいた。
 馬車で運んで来た珈琲はセメントを塗った溜め池に袋からぞろぞろと投げ入れられて美しい色彩を水の上に漂わせた。デスプロバドール(脱皮場)は間断なくこれを巻き上げて、表皮のむけた白い色の粒が乾燥場に流し出された。
 乾燥場には脱皮した珈琲の実と皮のままの黒い珈琲の実とが区別されて、その広々とした幾十となく区画された煉瓦造りの平面の上に広げられた。労働者は珈琲の実の上を長さ一尺三寸巾六寸位の板に長い棒を通したものを胸の所へ当てて押しならしていた。それが規則正しい一種の畦をなして波のうねりの様に見えた。
 目まぐるしい珈琲園視察の第一日はまたたく間に過ぎた。
「あれ位の労働なら、俺にもできる。ナーニ負けはしない」
 こんな自問自答の夢もあった。鐘の音がゆるやかに起こった。
「朝にふさわしい音だな」
 と思う間もなく、調子が段々迫って来て火事場の様な乱打になった。私はむくっと起きて、乾燥場に走り出た。ほの暗い中を人影が動いて、咳払いの音がする。冷ややかな東風が吹いて満天の朝星が落ちんばかりに瞬いていた。
「もう朝の仕事が始まったんだ」
 私は感慨無量の思いで立っていた。朝の光は夢のように広がって、刻一刻と乾燥場を明るくして来た。
      ×   ×   ×
 朝のミ―ストで発つことになったので、支配人は私共を珈琲園内の線路に案内した。そこで立ち話をしていると轟々と汽車の音がして来た。支配人は汽車を遠見に手を高く差し上げた。汽車はたちまち停車場でもない珈琲園のただなかに停車した。汽車に乗った私共は誰からともなし、
「手を上げると汽車がなんでもない所に停まるなんて、まるで信じられない位な話ですな」
「聖州はファゼンーデーロ万能だからさ」
「とにかくえらいもんだ」
 こんな会話があのがたぴしがたぴしと動揺する汽車のなかで、限りない興味をもって語られた。

          四
 チビリサ駅に着くと、そこにはヒルミアノ・ピント氏が支配人メネゴニ氏を従えて待っていた。トレンジンニョ(軽鉄)に乗った私共は枝もたわわに豊熟した珈琲樹の間をすれすれに走った。
 農場の中心地をシュンポラヅと言って、規模の大なることサンタ・ヴィルデヤナの比ではなかった。
ピニャール家の遺産を継承した子供達の合資組織になっていてドクトル・ヒルミヤノ氏は実にそのプレシデンテであった。珈琲樹数は二百万本、乾燥場、機械工場、珈琲精選場など相連なって、絶え間なき機械の音響と立ち登る煙突の煙とは、如何にも農場の大きさを語っていた。
 朝飯を済ませると、私共は再び用意された小汽車に乗って農場をかけ回った。シュンポラヅ部落の珈琲を摘んでいる場所は、丁度軽便鉄道線路に間近くあったので、そこにも案内された。
 初めて手に触れてみる珈琲樹、つやつやと黒味を帯びた緑、珊瑚にも勝る真紅色をした実、秋天五月の清澄な太陽を一杯に浴びて枝折れそうになっている樹姿、それが傾斜した地面に見る限りはるばると展開されている。
 梯子の上に登って実をこき下ろす男があれば、地につく枝をしだく子供もある。美しき更紗布で頭を包んでいるのは若い娘であろう。南国らしい歌がどこからとなし流れて来る。
「鈴木君、きれいなのがおるぞ。」
 三浦さんは笑いながら私を招いた。そこにはヒルミヤノ氏が立っていた。イタリア人の大家族と会話しながら、自ら珈琲の枝をしごいて見せて
「この通りですから、訳はありません」
 とでも言っているらしかった。水野さんも二枝三枝摘み落として
「なるほどこれは訳ない。日本人はこんな小手先の仕事ならイタリア人などに負けやしない」
 手にいっぱいの珈琲のつぶらな赤い実を見つめながら、
「第一このきれいなこと、まるでお姫様の仕事にもありそうだ。」
「これだけ実っているなら、おれだって一日三俵や四俵は摘んで見せる。」
 三浦さんはこんな合槌を打った。私共の満足気な様子を見ると、ヒルミヤノ氏もその目尻に特有な皺を寄せて喜んだ。

          五
 事務所は乾燥場につづいた高台にあった。煉瓦を敷き詰めた前庭から、シュンポラーヅの盆地がはるばると遠く扇を開いているように展開されていた。
 ランプが灯される頃になると私共一行に主人ヒルミヤノ氏もくつろいだ夕飯後の軽い気分でこの前庭に立った、簿記係、書記、支配人メネゴニ氏なども打ち混じって賑やかな会話が始まった。ポルトガル語の解らない私は、一人やや離れて、しんみりと点々とした移民家屋の灯火のまたたきを見つめながら、当然自分の前に落ちて来る労働生活を思い浮かべた。そこには何かしら輝いた希望があった。恐怖に似たたよりなさもあった。
 まもなく馬のいななきや蹄の音がして各部落から監督達が集まって来た。
 それはその日に収穫した各家族の珈琲俵数を報告するのと、翌日に対する仕事の命令を支配人から受け取るためである。
 簿記係が珈琲の記帳を始めると、ヒルミヤノ氏は私共一行を事務室に招いた。一々監督の珈琲受け取り記入帳によってその日その日の各家族の珈琲収穫数を実際に示してくれた。三浦さんはヒルミヤノ氏や監督達の言うことを丁寧に通訳してくれた。
 うなづき顔に合点、合点していた水野さんは監督の記帳を手にして、或る家族の一日の珈琲収穫数が三十八俵と言うのを発見すると、
「ほう! これはたいしたもんですな!!」
「一俵一ミル五百レースの収穫手数料として五十七ミルレースだから収穫が終わった時には素晴らしい計算になりますね」
 三浦さんは私共にこう言いながら、ヒルミヤノ氏をふり向いて、何か口早にささやいた。すると簿記係が数冊の移民の通帳(カデルネータ)を持って来て、昨農年度の総勘定の数字を示してくれた。少なきは一コント位から多きは五コントス位迄の差し引き残高が明白に水野さんに挙示された。
「そうすると三浦さん、日本金にしていくら位になりますかな」
「一コントと言うと日本金に換算して七百円、五コントスならざっと三千四百円を少しきれますね」
「三千四百円ですか!?」
 水野さんは低い声でこう言って目をみはった。
「他にトウモロコシだ、豆だ、というような間作物、豚、鶏などの売却による副収入があると言っておりますよ」
 三浦さんはこんなことも言った。

          六
 水野さんはひたすらに満足した面持ちで、どうしてこんな労働の天国が今日迄日本人に忘れられていたのであろう?ハワイだ、ペルーだ、南洋だ、満州だと言って、ブラジルあることを知らなかった事は一種の奇跡である。ブラジル移民によって日本の人口過剰と米の問題が初めて解決される(水野龍氏はブラジル出発に当たって、この二問題と移民とを結びつけたパンフレットを配布して来たのである)と言う様なことを例の重々しい口調で語った。
 この場合、水野さんはそのカデルネタの持主が幾人より構成されている家族であろう?とか、この農場における幾百家族中の最も裕福な二、三例に過ぎないのではあるまい?という様な余計な詮索をする必要を認めなかったのであろう。三浦さんの前で余りに深く追求して珈琲移民の前途に傷をつけるような愚を好まなかったので、そこは万事左様ごもっともでお茶を濁したのではないかと言う様な疑いはちと穿ち過ぎた話である。水野さんという人の頭は、左様に計算的でなく法華宗だと自称するだけ、ただ太鼓をドンドンと叩くに適した人で、またこの太鼓が甘く当たってブラジルにおける日本移民の今日をなしたのである。成るべくよい所だけを見て、悪い所は知らん顔をする位の覚悟がなければ、移民事業など出来るものではない。実際水野さんの珈琲園視察は、あぶないものに障るまい、障るまいとする様なほんの外観ばかりの一瞥に過ぎなかった。あの移民小屋を形容して病院の如し、と言ったのは必ずしも水野さんがウソを言ったのでなく、たまたま白く塗られた移民小屋を外面から恐る恐る覗いて、そう思った事を率直に言った迄であろう。これを軽率だと言うことは出来るかもしれないが、水野さんは移民をたばかるような考えのなかったことは、私の信じて疑わない所である。
『移民の収入』についてやや確信を得た水野さんの顔はのんびりして見えた。前夜に支配人メネゴニ氏と打ち合わせをしていた監督達は
「ボー・ノイテ」
「アテ・アマニャナ」
 口々に私共にも丁寧に挨拶して下りて行った。頑丈な髭のこい男、半黒の丈の高い男などが特に私の目についた。何れも腰にはピストルを提げていた。その或る者はファコン(大刀)を帯びていたのは如何にも物々しい感じを起させた。
「鈴木君、君もあんなになるんだぜ」
 水野さんは後ろから声をかけた。私はだまって監督たちの馬に乗るのを、ほの暗い星の光に透かして見た。

        七
 チビリサ駅からリベロンプレト市迄の沿線は、杉村公使の所謂珈琲海の連続であった。うねうねとどこまでも珈琲を植えた小丘が起伏して地平線の彼方に、一抹の白雲が悠々と流れている光景は水彩画そのものにも見られない爽清な趣があった。カラピンニョス駅から汽車はやや低地を走って、ヴェノポリス農場のマンゴ樹の並木は初めて見る旅人の好奇心をそそった。
 珈琲産地のメッカ、リベロンプレト駅前の広場には、ミカン、バナナ、パインアップル等を売る大道商人が居って何となし熱帯らしい気分があふれていた。物見高い市民は、電報でロシアに勝った矮小なジャポネーズの一行が通ると言うことを知って、停車場内は勿論、私共の通る道々に集まって来て、進んで言葉をかけるものもあれば、数人ずつ停立しつつ何かしら黄色をした醜いこの東洋の旅人の噂話をしているらしく見えた。
 ほこりに汚れた汽車がリベロンプレートを出発して間もなくであった。
「あれが珈琲王の農場です」
 エルクラノ氏の声に水野さんも車窓を開けて展望した。
 小さな流れを越えて小丘を背景とした、大きな建物は名も知らない樹木の間に見えた。乾燥場、珈琲園、あれが裸一貫から叩き上げたキング・オブ・コーヒーの農場であるかと思うと、私の心は踊る様に波打った。もし運命の神が幸いするならば私だって第二のシミットになれない事もあるまいと言う様な考えが、どこからとなし芽を吹いて来る。
 珈琲王フランシスコ・シミット氏は1850年レーノの左岸ロストロヘンに生まれ、八才にして父と共に渡伯し、最初に働いたのがサンカルロスのルイス・アントニオ・ソーザ・バーロスの珈琲園で後にピラスヌンガへ転じてここで結婚した。それからデスカルバードに移り小商いを始め1886年初めて農場を買う位の資本を得た。リベロンプレトに来て現在のモンテ・アレグレ農場を買ったのは1890年で、これには幾多のロマンチックなエピソードがある。
 珈琲王の最も盛んな時はその所有樹数1600万本、精選珈琲実に27万袋に及んだと言うことである。

          八
 こんな話をエルクラノから聞いているうちに汽車はヅーモン農場に着いた。秋らしい太陽が夕焼けて、中天に迄真紅な色を染めていた。停車場から竹林の並木道を登って総支配人とも会社長とも言うべき英国人ダビ氏の邸宅の前に出た時の快感を今でも覚えている。
 ヅーモン農場は聖州第一の広大な珈琲園で、樹数400万本と称していた。(その実300万本)珈琲樹を植えている面積をざっと計算すると日本の町歩にして6665町歩となる。一段歩や一畝歩を単位としていた日本人の頭に、一寸肝魂をドキンとさせるものがある。
 この農場はあの飛行機発明で有名なサントス・ヅーモンの父に当たるエンリケ・ヅーモンによって開拓されたものである。
 ジュンケーラ家の祖父たちが、狩人として、ウリヤ・ポンヒンの奥の森林地帯にアンタやケシャーダや鹿を打つ片手間に盆大の畑を開いて珈琲を植え付け、マルテンニョ・プラドが、モジガス河畔の蛮煙しょう雨と戦ってサンマルテンニョ・グワタパラ等の農場の経営に苦心したと同じ頃、マルテンニョ・ブラドとはバルト河を境に、ジュンケーラ一族とは山頂を隣りして、鬱然たる森林に斧を入れ始めたのである。
 あの十九世紀の珈琲黄金時代の波に幻惑された、カンビナス、リオ・クラーロ、デスカルバードなどの地方から
「リベロン・プレート!リベロン・プレート!」
燃える様な目で北方の雲影を仰望したアドベンチーアの群れの内には珈琲王フランシスコ・シミットなどもいた。しかしこの時には既に早くリベロン・プレトのパイオニア達は十頭二十頭というプーロを並べたトロッペーロの鈴の音や、キーキーと如何にも悠長な原始的な音響を起こす牛車の群れを追って鉄道の終点へ終点へと、プレシオーゾな彼の所謂「Ouro Brazileiro」を運搬しつつあったのである。

         九 
停車場のあるヅーモン農場の中央部には雑貨店、薬店、料理屋など軒を並べて、さながら小さな町をなしていた。
農場総支配人は如何にも英国人らしい鈍重な足取りで、私共一行に乾燥場、器械工場などを見せてから、日本移民が来た場合に収容すべき予定のコロニヤに案内した。
ここは乾燥場から少し奥へユーカリ樹などの植え付けている道を行きつくした所にあった。珈琲を受持っている移民も住んでいたが、工場に働いている人達なども雑居していた。窓框を台にして、ブリキ缶に植えたアベンカ(日本のしのぶの一種)や洋歯属の植物などの緑のうちに鳳仙花の紅深く咲いているのが目に立った。南欧人らしい色の白い女達は皆戸口に出て私達を物珍しそうに眺めていた。
「ボン・ジョルノ」
「ブエノス・デーヤス」
 走り出てこんな挨拶をする子供などもあった。
 総支配人は数人の大工、左官などが、建て増し工事や修繕などに働いている所に来ると
「ここです。これを皆新しくして収容したいと思っています」
 なるほどこの辺はヅーモン農場でも一番よく設備が行き届いている様に見えた。
 長屋建ての小屋には方四メートルス位の室が二箇に煮炊きに使用するコジンニャ(台所)が付属されて、そこからキンタール(屋後の空き地)へ出るようになっている。こう言う様式の室を持った二家族分を一軒とした長屋が列をなして何十となく並んでいるのが、いわゆる珈琲農場のコロニヤ(移民小屋)なるものである。飲料水は水道式になって十家族に向かって一個くらいの割合で共同水管が設備されているが、何所にも便所というものが見当たらない。
「そうすると、三浦さん、ちときたない話だが移民は何処に大小便をすることになるんですか?」
水野さんは如何にも他聞をはばかる様な様子をしながらけげんな顔をした。三浦さんは総支配人と二、三話し合うとカラカラと大笑いしながら
「それはね、皆裏の草むらの中にするんだそうな。穴を掘ってもよいがそれよりも野糞の方が衛生的だと言っていますよ」
「なぜですか、それは一寸困りましたな」
「野糞をすると、その後から豚がやって来て皆食べてしまうから、糞壺にためるよりキレイになって衛生的だと言うんだよ」
 こう言うと三浦さんは又笑った。
「つまり豚が消毒役をつとめる訳ですな」
 水野さんも笑った。
「若い女などが失敬している所へ豚がウーウーやって来るなどは、一寸滑稽な移民情緒ですな」
 私もこんなことを言って笑った。総支配人もエルクラノ氏も私共の会話を想像して笑った。
しばらくは皆笑った。



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