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≪伯国日本移民の草分け≫  鈴木貞次郎著作 (その4)
≪伯国日本移民の草分け≫(その4)は、聖州巡視の続きで十以下十四までと聖市滞留を収録しています。珈琲園の巡視は、水野一行が大分慣れて飽きて来たのに合わせ面白味が減るが、聖市滞留は、古いサンパウロの中心街の細述が興味深い。時々サンパウロに出て歩くサンパウロの中心街の100年以上前の移住前史時代の情景描写には、感じ入る。最後に残している短歌、俳句にも心惹かれる。
写真は、出石さんが送って呉れた挿絵写真をお借りします。


          十
 ヅーモンからサン・マルテンニョ農場迄は馬車に乗った。それは『トロリ』と言って御者台の後ろに乗客の台があるのは普通の馬車に変わりはないが、無蓋で腰掛の手摺はほんの一尺位より外ない。木の株にでも衝突しようものなら天外に跳ね飛ばされるような粗末千万な構造なのである。自動車の発達した今日でも、まだあんな馬車が聖州の何処か片すみに動いているかも知れない。
 バルド河の水は秋の冷たさにも、混濁した気味悪い色をたたえていた。切り残された木立のなかにこんもりと繁ったパイネラの大木が初期の美術院派の絵そのものを見る様にヌーボー式な樹勢が面白かった。風もないのにそのうす桃色の大きな花片がはらはらとバルド河の淀みの水泡の上に散ってくるくると艶な色彩の渦を巻いた。
 河沿いの森は余り長くなかった。馬車は左右に限りなく開けた野をがたぴしと頓狂な音を立てて走った。女の髪の毛を緑にしたような細長いバルバ・デ・ボーデという草のなびきに風の渡るのが見える。余り離れない所から美しい鳥の鳴き声がして来る。
「あれは何という鳥です?」
 すこぶる怪しいポルトガル語で聞くと、
「ベルデースです」
 エルクラノ氏はこう言って、大きな声を立てた。突然バタバタと雉子の飛ぶような音を立てて鶏位な鳥が毬を投げたような形をしてその重たい身体を草の上一丈ばかりの高さで飛んで行った。
「やあ! 三浦さんペルデスとはなんのことですか?」
 こう言う内にも私は目を草の上はるかに放った。
「それは日本のウズラのことよ」
「あれがウズラ?余り大きすぎる様ですね」
 三浦さんはエルクラノ氏とその巧妙なスペイン語でしばらく話していたが、ブラジルのウズラは三種類あって日本にいる種類よりはベルデースもコドルニースも大きいこと。ただエンニャンブという種類だけが小さいと言うことである。尚この草原には首の長いエンマも居ると言う様なことを話してくれた。
 エンマや鹿は動物園にいるものより外見たことのない私は、そうした動物の野放しになっているのを何とかして見たいものだと、注視を怠らなかったが、道はいつしか黄色な花をつけた灌木の森の中へ入った。 
  
         十一
 サン・マルテンニョ農場は先頃他界したコンセレーロ・アントニオ・プラド氏の兄弟であるマルテンニョ・プラド・ジュニヨール氏によって開拓された農場である。マルテンニョ氏はアントニオ氏とは思想的にも、公生涯にも全然違った傾向のもとに生きた人である。
 アントニオ氏は後では民主党総裁になった程であったが、壮年時代は保守的なグループのなかに活動した人である。1865年州保守党からデプタードに選出されたのを振り出しに、セアラ州統領、聖市市長、農務大臣、外務大臣等に歴任し帝政時代の寵児たりしこともあったに反し、マルテンニョ氏は大学生時代から自由思想の宣伝者で一度代議士になったこともあったが、彼の華やかなページはむしろ開拓者としてのその尽きざるエネルギーであった。彼は三十三才にしてアララスに於ける父シルバ・プラードの三農場の経営に専念した。ノーブレなバンデランテ(※開拓者)の血を多量に受け継いだ彼はアララスに於けるモノトン(※単調)な農場生活に安んずることが出来なかった。
 マレタの父さんと言われるモヂグワス河の濁流が、時には群青色や黄色な花も咲く水草の叢生したパンタノと、うす暗い樹木のカポンとのなかに原始的なミュージックを奏していた。マレタの母さんと称するバルド河は水浴に、のそりのそりと下りて来るアンタやカピパリの巣窟として茫々とした広野の後にインド人の歌う様な幽寂なささやきをもらしていた。こうした一帯の地面の片隅にアリノ氏が感嘆の詩を作った、ジュキテバは天を魔して(※天高く)立っていた。ペロバはその巨幹をほしいままにしていた。春が来るとイペの鮮明な紫色、秋が立つとパイネーラのうす桃の花が、異性を知らないこの大処女林の美しい帽子ともなり、華やかなサーヤ(袴)ともなった。こうした長い、長いうたた寝の平和な夢は幾千年、幾万年過ぎた事であろう。エドアルド・プラード氏がパリの華奢な生活に浸りながら「A Cidade e as Serras」にセルトンを描写している時に、マルテンニョ・プラード氏はこのマレタの父母と唱えられるモジグワスとバルドとの両流域に挟まる地積に開拓の斧をふるっていた。そうしてかの所謂『リベロン・プルドヘ、リベロン・プレートへ』と言う、パイオニアの無韻の讃美歌は実に彼らによって富を追求するアベンツレーロの口より口へ伝え広められたものである。

           十二
 サン・マルテンニョ農場の土質は聖州人の誇りとする真のテーラ・ロッシャ(Terra rocha)であった。どこまで掘っても、掘っても底知れないような深さに紫黒色をふくんだ赤色の地層が、ある断崖や道路の掘割に露出されていた。
 農場本部の前面には形のよい小丘のうねりが一線を引いて珈琲を植えた正しい列が遠くから眺められた。
 馬に乗った総支配人ドクトル・バツセラル氏はトロリに乗った私共一行を新珈琲園に案内してくれた。それは今まで見たことのない珈琲の若木の間に植え付けられている農作物を実見したい一行の希望を容れてくれたのであった。
 サン・マルテンニョ農場の珈琲は今日まで巡視したいずれの珈琲園よりも豊作らしく見えた。トロリは赤玉、黄玉、青玉が累々として玉をつづったなかを通った。時として車輪が珈琲樹の枝垂れ枝にすれ合うと一と握り位の実はパラパラと飛んできた。それは如何にも快いいたずら者の様な興味を与えて車上の人の心を軽くした。
 新珈琲園のある所はマニソバと呼んでいた。(マニソバというのは大戟科の植物の名である)樹数は二十五万本と言うのであるから、日本の町歩にして凡そ三百二十町に渡る面積が二千八百町歩の古い珈琲園に続いて展開されていた。
 高さ二、三尺の大小の伐木の続々として立っている間に、あたかも鰐の潜伏するような形に、或るものは枝を横ざまに、或るものは大地に伏して切り倒された樹木が横たわっていた。こうした戦場の様ななかに珈琲はコーバと言って長さ、巾何れも七、八寸、深さ六寸位に掘った穴の底に、三本か四本の苗(リベロン・プレト地方のテーラ・ロッシャ地帯は苗木植えが多い)を植え、その穴の周りに手ごろに割った薪を一尺前後の高さに組み上げて新珈琲園の霜害、あるいは乾燥時等に対する予防に備えるのである。横に六十本縦に五十本即ち三千本を植えた畑(農場によって本数は一定せず)を一区画として、これをTalhaoと言い、その中間に道を通して運搬に便ずるのをカレアドールと称している。二十五万本の新珈琲樹であるから、一区画三千本の畑が丁度八十四並んでいるわけである。間作物のトウモロコシは大方畦に倒されていたが、その大きな太い実が一行の目を引いた。千本の珈琲樹のなかから五、六台(馬車)の収穫はある。その価格一台三十ミルレースより五十ミルレース位なそうである。豆はもう収穫後でその打ち殻の積み重なっているのが所々に見当たった。この収入も少なくないと言うので、乾燥した秋のほしいままなる太陽の放射を浴びながら、トロリから下り立った水野さんは、もう日本移民がこの豊かな農作物を自らのものとして喜ぶ様な気分で、この人が至極満足した時のみあらわす妙にとがらした口辺には柔らかな微笑がたたえられていた。
 
          十三
 翌朝まだ霧の晴れない間に例のトロリに乗った私共はサン・マルテンニョ農場の事務所から停車場へ向かって走らせた。
 日本里にして一里少し越えた位であろう、平坦な道が一直線に走っていた。カテンゲーロ・ロツヤという牧草の紫がかった微小な花に白露の玉を結んだのが、うそ寒い旅人の心をそそった。
 停車場に着くと早くも、太陽が濃霧を通して金粉をふり蒔いたような光線を見せた。川が近いのであろう、水鳥の音がして来る。
 プラット・ホームにおり立って立ち話をしていた水野さんは、落ち着かないような風で、しきりにポケットを探していたが、
「やあ!これはしまった。財布を忘れてきたよ。何でも昨夜寝る時に枕の下に置いたのだが、取り残して来たらしい。どうしましょうかナ、三浦君」
「さあ、それは困ったね」
 髭をひねりながら立っていた三浦さんもびっくりしたが、それを聞いたエルクラノ氏も目をみはった。まだトロリが戻っていなければ都合がよいがとエルクラノ氏は探し回ったが、もう影も見当たらなかった。しかも発車時間までには十分の時より外なかった。
 困った。本当に困った。
「鈴木君、ご苦労だが一走り農場迄駆けつけてくれんかね。そこで、もうとてもこの汽車には間に合うまいから、財布が見つかっても、見つからなくっても、君はこの次の汽車でビスコンデ・ド・ピニャール駅まで来るようにしたまえ。」
 三浦さんも、それより外にないと言うので、私はすぐ停車場から野道へ走り出た。言葉も解らず、金も持たず、一行と離れたらどんなになるかと言うことも考えずに私はただ一散に走った。霧はひとしきり流れる様に押した。
ト見る前面から何物か右手に高く差し上げながら馬を走らせて来る人がいる。驚いて立ち止まった私の目は異常に輝いた。
 それは馬上の人の手に水野さんの財布を発見したからである。馬はつづけさまに走り去った。私も身を返して後からつづいた。
 五分…十分、私は時を知る余裕などあるべき筈がない。息せき切って停車場に戻って来ると、もう汽車がプラット・ホームに横付けになっていた。機関車からは、朝寒の空にしゅうしゅうと白い湯気を吐いていた。水野さん達の招くままに私は大急ぎで汽車に乗った。
「よかった。よかった。」
 水野さんは本当に嬉しそうに微笑した。
「君、君のため特に五分間発車を遅らせたんだぜ、えらいもんだろう」
 三浦さんも満足そうな面持ちで私を見た。財布を枕の下に敷いて寝ると言う日本式な、人を疑う様な点のあるのは嫌な気を起させたが、それを発見してかくさなかった雇人の清廉な心は見上げたものであった。
 仮に今エルクラノ氏という州政府の案内者が付いているにせよ、急行列車を五分間も時間外停止させると言うのは日本人に対して、すばらしい好意の発現であると言う様なことを三浦さんは話した。君はこの次の汽車で来るように駅長に話していた所であったと水野さんは言った。賑やかな話がこの財布一件に付いてそれからそれへと暫くは止まなかった。

          十四
 ビスコンデ・ド・コニヤール駅(現在はイバテと改称)はピニヤール家の名を表象したものである。ドクトル・モラエス・バーロス氏(現民主党員と同名異人)のパルミタル農場は殆ど停車場とつづいていた。
 ゆるやかな小丘の半腹に、牧場を前にし、切り残された森林をバックとして、近代式な邸宅が建っていた。明るい鶏卵色に塗られた壁には日が一杯にさして、冬というのに、ベランダに這わせたバラの蔓には黄と淡紅のバラの花が点々と咲いて如何にも気持ちよい配合を見せていた。
 一行はもう珈琲園見物につかれていた。紅塵万丈という支那式の形容詞は真実聖州のロッシャ地帯にふさわしい形容詞である。砂利を敷いていなかった当時の鉄道の土ほこり、それは余り目出度くない名物の一つであった。汽車が疾走してくるとその車輪の音響を聞き取る前に、既に早く合図として濛々とした紅塵の渦巻きを高く空中に見せた。
 ホテルに着いた旅人は先ずやれやれとハンカチを取って土くさい鼻をかむとパットと染め出された赤い血のような気味悪い色にはっとする。顔を洗うと洗面器の底に沈殿する砂塵の分量はその濁った汚水の色よりも嫌な感じを与えた。一行は毎日毎日こうした獰猛な土ほこりの襲撃に対して、口癖のように
「どうだ、この砂ぼこりが!」
「肌に迄、しみ込んでしまうぞ!」
 ささやき合いながら刷毛をかける。シャツを取り換える。あわただしいこうした一ト時の嫌な気分を味わうことは耐えられない苦痛となって来た。珈琲園見学も、もう大体の見当が付いた様な気が先立って何人も一日も早い帰聖が待ち望まれた。
 それでも主人がほこり顔に案内してくれる乾燥場、ベニフィシオの見物につき合わない訳にはいかなかった。地続きのセーラ農場にはヒルミヤノ・ピント氏がチビリサ農場から先行して一行を待っていたので、そこにも顔を出した。
 明日はサンパウロ市に引き上げると言うので、夕飯の卓は賑やかな声にあふれた。苦い香り高いコーヒーの出た後に令夫人はピアノを奏した。落ち着きのある音声は静かな夜の空気に波打って、例え様のない感情の世界に導いた。弾奏が終わると人々は皆拍手した。誠に珈琲園巡視の最終にふさわしい夜であった。
   珈琲畠の 岡の彼方に 寺見えて 春のあしにの 鐘うち鳴らす
   サンホナを 弾くは誰が子ぞ 月更けて 珈琲の花の かほり流るる


聖市滞留
          一
 聖市に戻って来た一行は休養する暇もなかった。水野さん達は午後二時頃からフロックコートに着換えて州農商務局に日参した。
 珈琲の大下落は州財政にかなりの打撃を与えていた。十キロ三ミル内外の精選コーヒーの価格は千本の珈琲取扱い手数料百ミルレース内外の安い賃金も支払うことが出来ず、至る所に農場主とコロノとの間に紛擾を起こした。引いてイタリア政府が聖州政府にコロノの賃金支払いの保証を求める様なこととなり、両政府の間にかなり深刻な渠溝を生ずるに至った。
 従ってジョルヂ・チビリサ州統領の内閣にとっては珈琲調節と移民招致は二大中心政策たらざるを得なかった。しかも当時の州財政は今日の如く豊富でないので、積極的政策を立つることが出来ず、1902年、前州統領ベルナデス、カンボスの時代に発令した新珈琲樹の栽培禁止を厳に励行すると同時に、イタリア以外の色々な白人種を珈琲園契約移民として輸入した。
 スペイン人が聖州移民として目立って増加したのは、この時分からで、地中海沿岸から黒海沿岸の住民に迄移民の範囲を拡大したが、当時のリベロン・プレートにこれらの聖州にとって未知の国民が珈琲園労働に耐え得ず、老若の数十人が群をなして野宿をなし、市民にあわれみを乞うるに至るが如き悲惨なる光景を現出するに至った。もしイタリア移民を招致することが出来ず、他の南欧白人種の移民に失敗した聖州政府の当局者は勿論、農場主にとってもアジア移民輸入問題の胸中に往来すべきことは余りに当然すぎる帰着である。最も早くこの点に着眼したのはプラド一家である。既に人を北米加州、ペルー方面に派遣して日本移民の研究をなさしめていると言うことを聞いた。
 移民問題の果実はこういう風に成熟し、発酵しきっていた。

         二
 しかしながら、一度二百人ばかりの支那移民を中央線鉄道工事に輸入して、余り面白い結果を来さなかったことと、北米加州における日本移民問題の紛争は、移民を求める必要が急迫しているにも関わらず、容易に決することが出来なかった。
 度重なるドクトル・ベント・ブエノ氏との往復も、具体的立案に入ると、何時も明日(アマニヤナ)明日と言う風で長引いた。私はこの間を利用して、聖市を何の当てもなく隅から隅迄歩き回った。
 ドン・ペドロ公園になっている、商業区とブラスとの間はじめじめした湿地であった。タマンドワティ河に沿った長堤にはユーカリ樹の並木が続いて、ともすると騾馬のうろうろして草を食んでいるのが見えた。
 カンタレーラ行きの小汽車は時折り、けたたましい音を立てて、カルタなどをもてあそんでいるバガブンドの群れを驚かせた。
 うすきたない生魚のメルカードに接して、果物類のメルカードがあった。累々たる蜜柑の山、バナナの房などその美しい色彩が目についた。瓜のようなマモンの値などを片言交じりに聞いてみたりした。
 何だか化物小屋のような感じのするこのメルカードの片隅にパパガイヨや、色彩濃厚な羽根を持った小鳥類を見ては、これから労働する山林の風物のエキゾティックな光景を喜んだ。
 鼠?それは白い眉毛を持った黒い小さな可愛らしいサグイン(Saguin)という猿であった。焦げ茶色をしたひょろ長い猿はシェーロと言って、サグインにも劣らない小さなものであった。鎧の様な甲羅を着たタツ、恐ろしく尻尾の毛の長く沢山あるタマンヅア・バンデーラ(蟻食獣)それは単に毛皮と甲羅とだけに過ぎなかったが、早くもそうした珍獣の間に生活する自分を予想してひとかどの探検家らしい気分にひたった。

         三
 聖市のセントラルは昔も今も変わりなくかの所謂Celebre Trisngulo 即ちキンゼ、サンベント・デレットの三街を結び付けた三角の街区であった。
 当時の目ぼしい建物と言ってはプラザ・アントニオのつい先頃迄電気会社の事務所(目下ニューヨルク・シテー・バンクの建物として改修中)になっていたパラセテ・マルテニコと、コレオ・パウリスタのある建物とが、如何にも堂々として目をそばだたせた。プラザの真ん中に植えられた二列の落葉したプラタノの下には物好きな人が群れて新聞売り子が高い声で走り回っていた。
 現在建築中のパラセテ・マルテネリのサンベント街の角にはカッフェ・ブランドンがあって天井の低い、うす暗いサーラにはいつも電気が灯っていた。サン・ジョアン坂の両側には物を押し売りする田舎者相手の小さな店が並んでいた。リベロバダローは敷石の不揃いな埃立った街路であった。一階建ての小さな屋並みの窓には赤や緑のカーテンが垂れて人を人とも思わぬ様な勇敢な真っ白い人形達が喃々たる言葉を惜しげもなく道行く人々に浴びせかけた。この辺から貧弱ではあるが、十五燭光位のイルミネーションをしたポリテアマ座へかけて聖市に於ける夜のアトラツションの中心であった。私はこれらの夜の世界を逍遥するに、あたかも探検家がアフリカの蛮地に入る様な勇気を奮い起こした。それでも
「ハポネーズ!」
「ジャパニーズ!」
「チーナ!」
 などの声を聞くと、何かしら冷たいものにふれた様な気がして足早に暗い方へ行った。青白いガス灯の陰はよい隠れ場であった。二十七才になって、まだ女の肌を知らない私は情けない程気が小さかった。逃げるようにしてホテルに帰った私の顔はぽっぽっとほてっていた。水野さんは
「どうかね?」
 など、全てを見抜いたような顔をして微笑した。
        ×     ×    ×
 オンゼ・デ・アゴスト街の現在のサンタ・エレナ座の裏口の辺りに日本の名誉領事が住んでいた。姓名は忘れてしまったがスペイン人で余り丈の高くない黒い髭のある爺さんぶった男であった。真実のことは知らないが余り芳しくない人物のように聞いたが、とにかくこのスペイン人が当時のサンパウロ州に於ける唯一の日本人に関係ある人物であった。
 時々この名誉領事はホテルに顔を出した。私には解らないが何か移民契約の相談に与っているらしく見えた。州議会の協賛を得なければならないと言うことは、日本移民契約の一大難関らしく見えた。水野さん達はとうとうしびれを切らせて、一応ペトロポリスに引き上げてその解決を待つこととなった。打ち合わせにホテルに立ち寄ったドクトル・ベント・ブエノ氏の前に私は呼び出された。
「君はね、チビリサの農場に働く様になったからね」
 水野さんは私を顧みて、こんなことを言ってすぐ三浦さんに
「鈴木の一身上に関しては私が責任を負うから、その辺をどうぞドクトル・ベント氏へ話して下さい」
 と言って丈の高いベント氏を見上げた。三浦さんは、しきりにベラベラ喋っていたが、ドクトル・ベント氏は不動の姿勢に立っている私を見て合点、合点したその長い顔には柔らかな優しさがあふれていた。ポルトガル語を知らない私は、ただ黙って頭を下げた。
     ラルゴ、タ、セ
   小夜更けし 大都の広場 街灯も たたずむ人も 狭霧こめたり
   紙屑は 風にも飛ばず 白々と 広場の小夜は 静かにくだつ
     プラサ、レプブリカ
   ガスの灯の 青き暗さの この柳 仇めき通る 女こそあれ
     トリアングロ
   人の波 電車自動車 灯のともる この一瞬(ひととき)の 街のどよめき 




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