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≪伯国日本移民の草分け≫  鈴木貞次郎著作 (その6)
伯国日本移民の草分け(その6)は、珈琲園生活の九から十六編までになるが、重労働に倒れ病臥するが2日で回復、部署替えされて火夫(ボイラマン)になり、その後事務所の下働きに昇格珈琲園の全般を見ることになる。日本人の特性を見るテストケースでもあり良く頑張る。特筆すべきは、既に「視察復命書」として笠戸丸移民募集中に朝日新聞に掲載された第3代ブラジル駐伯杉村公使について出石さんが送ってくれておりいつも「ブラジルの土となれ」と若者に云っていた杉村公使が夜中に卒倒し亡くなられたとの知らせを受けた貞次郎青年が自らブラジルの土となった杉村公使を伯国日本移民の父として讃えている部分に感銘する。写真は、出石さんが送ってくれた杉村公使の写真を使わせて貰いました。


          九
 二日間の病臥の後、起きて再び珈琲精選場に働いている私を見たベント氏は近く私を招いて
「お前はここで働くことを好みませんか?」
「好みません」
 私はきっぱりと答えた。ベント氏は、今度は私を珈琲脱皮場につれて行って、蒸気機関手の助手として働くことを命じた。
 ベント氏の意中は、移民の見本である私に色々な労働をさせて見ることは、日本人の労働者としての能力を試験する必要もあったろうし、日本移民到着の場合に於いて、珈琲園の労働に対する説明を私によってさせなければならないと言う様な事でもあったらしい。
 デスプロパドールの助手の仕事は私にとってこの上ない望ましいものであった。私は全く筋肉労働から解放されてしまった様な気がした。
 力を要するのは、軽鉄が積み下ろして行った薪木を運ぶ位なものであった。主なる私の役目は蒸気機関車に火を焚くことで、暇を見て機関の清拭と、デスプロパドールの珈琲の吐き口を見てやることであった。
 機関手と言う名を付けるのもおかしいが、つまり脱皮場全部の仕事を受持っている人は、少し黒い血を交えたブラジル人であった。私には何でもよく教えてくれた。お陰で私もデスプロパドールの仕事を知ることが出来、蒸気機関の実際的方面の知識を与えられた。運命と言うものは不思議なもので、二十年もたった後、この半黒に近い人のよい機関手がプロミッソンのシネマの前でお菓子を売っているのを見た。
「おれは、どっかで君を見たことがある?」
 と言って、つくづくとこのお菓子屋の顔を見つめると
「知っている、知っている。君はチビリサの会社でおれの助手であった。おれはとうからここにいる鈴木というのはあの人ではないかと疑っていたが、いよいよ君はあの鈴木であった。」
 彼の目は異常に輝いた。そうして二十年の長い流転の生活を語った。彼の不運と健康とは、もう昔の労働を許さなかった。私は固く手を握って、辺りの人々に
「この人はおれのシェフエ(監督)であった。」
 と言って紹介した。その頃の私は凋落の淵に落ちていたのでどうすることも出来なかったが、それでも彼の菓子を殆ど全部買い取ってやった。
 話は少し横へそれたが、移民地に於ける放浪生活の一断片として全く無用の挿話でもあるまい。

          十
 乾燥場は傾斜した地面を利用して築造しているので、大体に於いて平坦な二大区画に分かれていた。下方に位置する乾燥場の面積は三分の二アルケールス位で、主にデスプロパドールを通過した珈琲の乾燥に使用されていた。上方の方は、二アルケールス余もあって、その一部はまだ煉瓦が敷いてなかった。仮に珈琲一袋に対し二メートル平方坪が必要とすると、此の農場の年平均産額が十六万アロバス前後であろうから、一農期に於ける乾燥場の使用延べメートル坪数二十四万以上に達すべく、この年の如き未曽有の豊年には少なくとも四十万メートルス平方坪を必要とした訳である。
 事務所…主人宅…の方から見れば下方のテレーロがやや低くなっていて、デスプロパドールを中心に上方のテレーロが展開されていた。珈琲園から運搬して来た珈琲の配置に便するため軽鉄の引込み線が二本テレーロを貫いていた。機関工場と珈琲精選場とは最も低い所にあって停車場へ出るレールがその前を通っていた。
 組織的に、巧妙に配置された乾燥場のこれ等の諸機関を展望するに、デスプロパドールの位置が最も適していた。私は支配人のメネゴニがデスプロパドールの傍らに立って、声高に怒鳴っているのを度々聞いた。監督のアントニオも上下に乾燥場を往復する度に、私の傍を通って、何かしら物を言った。ドクトル・ベント氏も一日に二、三度は必ずここを通って脱皮された珈琲を検査したり、タンクにひたされて居る珈琲の発酵した度合いなどを見て、機関手と話し合った。私にも、
「コモ・ヴァイ・スズキ」
 きっと言葉をかけた。油が着物に染み、手や顔を汚すのは嫌であったが、勤勉なる火夫として心から働いた。ここでは誰も、
「オ・ジャポン」
等と、軽侮に似た言葉などで呼ぶものはなかった。労働が激烈でないので、私の空腹問題も五ミルの金がつきてバナナが食えなくなっても、左程苦痛でない様に習慣づけられて行った。
 窮すれば通ずるとはよく言ったものである。幸福なる火夫は暇さえあれば単語を聞き出して手帳に書きつけた。

          十一
 デスプロパドールの火夫となってからの日曜ほど、私にとって楽しいものはなかった。疲労のため身体の節々が痛む様なこともなく、洗濯物の済んだ後は自由に外に出て行った。寝台に横になって徒に白アリの労作を観察する憂鬱から解放された気分は恰も籠を出た小鳥の様な晴々としたものであった。水野さんと約定した珈琲園の実情を出来得るだけ詳細に知らなければならない私の義務も少しずつ遂げられて行った。
 私はよく乾燥場の日雇い人達の合宿所を訪問した。合宿所と言っても特別にそう言うものが建築されている訳でもなく、物置小屋を仮に使用しているのである。いつも五十人前後の日雇い人達がいたが、彼等の寝台と言うのは棒を立てて板をのせた上に唐黍殻をヅークの袋に詰めたものを敷き、薄っぺらな赤い毛布にくるまって寝るので、敷布など持っている者はただの一人も見当たらなかった。
 病気だと言って寝ているものも二、三人はきっといたが、その多くは合宿所の前に出て暖かい日当たりを楽しんでいた。縄煙草を小刀で削りながら、がやがや話している者もあったが、なかにはビオラを弾いて、ブラジルの俗謡モデンニャを数人で歌い合わせている者もあった。
 日雇い人の大部分は勿論ブラジル人でバイヤ州出のものが殆どその九割を占めている。彼等の多くは黒人で、白いと言っても多少黒い血を混じていないものはないと言ってよい。所謂バイヤノとして聖州の珈琲園には無くてはならない労働者でもあるが、喧嘩好きで血を流すことを意としない凶暴な性質は恐怖と嫌悪との念をもって迎えられた。彼等はサン・フランシスコ流域に近接したバイヤの内奥地の住民である。十人、二十人と一部落のものが団体を組んで、ジョアゼーロ、バーラ、デ・リオブランコ、アリニヤニヤなど言う港からサン・フランシスコ河を遡行して、ミナス州のピラポラに出て、そこから幾百里の道を徒歩で一ヶ月も或いはそれ以上もかかって聖州へ来るのである。通過する道筋はミナスでも余り開拓されていない地方なので、彼等は幾日も幾日も野宿して袋に入れて来たタピオカで僅かに露命をつながなければならない時も少なくないそうである。短いのは一乾燥期の終わる九月頃には、また団体を作って、その年のマンチメント(食料)を収穫する少々の唐黍とマンヂオカなどの植え付けに間に合う様に帰って行く、さながら渡り鳥の様である。その中にはもう少し金を貯蓄してからと言う様なことで、団体から遅れて戻る様な者もあると、旅行の途上強盗のために一命を落とす者も少なくなかった。当時にはバイヤへ戻る日雇い人達の懐中を目当てに、徘徊する獰猛な強盗団があったと言うことである。

          十二
 ペトロポリスの水野さんからは、しきりに手紙が来た。それは移民契約に関しドクトル・ベント・ブエノ氏から何の消息もないから、その点につき聞きただしてくれと言うことであった。私にそんな難しいことが話し得る筈はない。
 事務所の窓口からベント氏に向かって
「セニョール水野、ベーデ、レスポスタ、コントラト、イミグランテ、ジャポネース。」
 苦心惨憺の後に、これだけの単語を漸く言い終わった時は額に汗がにじんでいた。ベント氏は一寸眉をひそめたが、
「エスターボン、エウ・マンド、レスポースタ」(よろしい、私が返事を送ります)
 すぐ姿を消してしまった。呆然として立ちすくんだ私は、はっと思った。それは『移民契約が都合よく進行していない』と言うことに気がついたからである。
 それから二、三日たった。一句浮かびそうな空の澄み切った碧さは心にくい程であった。
 午後三時の夕飯の鐘が鳴った時にベント氏に召し使われている黒奴の小僧がデスプロパドールに来て、主人が私を呼んでいると言う。私は夕飯に行くのを中止して小僧と一緒に駆けて行った。
 ベント氏は事務所の下の道に立っていた。そこには鞍を置いた二疋の馬がつないであった。走って来た私を見ると、ベント氏は
「お前は馬に乗ることを知っているか?」
 元来私の家は農家であるし、いつも二頭ずつ馬を飼っていたが、子供の時分に裸馬に乗って振り落とされてから、一種の恐気が付いて馬に乗ることをしないので全くの素人であった。
「ノン、サーベ」
 セーなんと言う、そんな気のきいた言葉は持ち合わせていなかった。これを聞くとベント氏は自ら手綱を取って見せて、私を馬に乗せて、鐙の長さなど直してくれた。
 ベント氏の馬を先頭に、私共はシュンポラヅの移民部落から珈琲園の中へ入って行った。道々ベント氏は何くれとなく説明してくれたが、その十分の七迄はのみ込めなかった。
「コンプレンデ?」
 と聞かれる度に、恥ずかしい気がドキンと来た。余り解らないと言うのも気がとがめるのでたまには
「解ります」
 と答えて顔を赤くした。二頭の馬はとうとう珈琲園の最高所に達した。
 二百万本の珈琲樹海は眼界に展開され、その奥の低地には森林と原野とがはるばると連続してそれがうすもやの中に消えてしまう。ベント氏は私を顧みて
「ビスタ、アレグレ」(眺望絶景)
 とつぶやいて、感慨に耐えないものの如くやや暫く展望していたが、突然叫んだ。
「見える限りがおれのものだ!!!」
 右から左へさっと指さし示して眼前の万象悉くが、自分のものであると言う意味を示した。これを聞いた私の魂は白刃を浴びた様に踊った。何と言う壮快な一言であろう。『見える限りがおれのものだ』
と言ったベント氏の相貌は実に英雄の如く見えた。
「見える限りがおれのものだ」
 これは植民者にとって確かに無韻の詩である。この時ベント氏が私に与えた印象は一生に忘れられない深いものであった。私はもう一度繰り返して叫んで見たい。
『見える限りがおれのものだ!!!』

          十三
 ペトロポリスから驚くべき痛ましい報知が来た。それは杉村公使が卒倒して遂に他界したと言うことであった。
 杉村公使の一生は決して恵まれたものでなかった。公生涯から言っても、最も活動した朝鮮時代は、三浦公使の女房役をつとめ、陰の人として社会はその存在さえも認めるに吝嗇であった。ブラジル公使として日本移民契約に対する功労の第一人者は誰が何と言っても杉村公使その人でなければならない。あの膨大な聖州珈琲園報告は邪気のない彼自身の表象である。もしこの報告書が野田良治君辺りの筆と観察とより生まれたものであったならば非難なしには止まないであろう。私は一種の植民文学的気韻の縹渺たるものを感銘して恍惚たらざるを得なかった。この報告は確かに日本の官民にとって或る驚異であった。伯国と言う、解かなければならない謎が移民会社と外務省との前に砂漠のオアシスの如く展開された。伯国日本移民最初のページに杉村氏の如き人が公使として駐在していたと言うことは天祐に近い幸運であった。公使の遺言に依ったのか、或いは家族の希望より出でたものかは知らないが、その屍を祖国に運び去る様なことをせず、潔くリオ・デ・ジャネイロ市に埋葬したことは、賢明な手段と言わなければならない。杉村公使は私共に『ブラジルの土となれ』と言う例を死と言う大きな事実によって示したのである。彼は実に伯国日本移民の父である。しかも在留同胞の何人かこの深刻な彼の死と伯国の土となった意味とを了解し、よくこれを記念するものがあるだろうか。渡拍二十年記念に彼の名を想起する人さえなかったではないか。勿論彼はこう言う事を期待していなかったろうから、ただ黙々として巨木の如く、不幸な報いられないその一生を顧みて墓石の下に微苦笑をもらしているであろうが、彼の意志の如何に係わらず、私共自身の義務を怠ってはならない。どうぞ将来私共で日本移民の記念すべき様なことがあったならば、総代を選んで彼の墓参をさせたいものである。もし植民地に神社を建てる様な機会があったならば、先ず第一に
  杉 村 神 社
 を建築したいものである。これは公的に報いられること、余りに貧しかった彼に対するせめてもの私共の志であらねばならない。

          十四
 杉村公使の私的生活は更に一層いたましいものであった。私がペトロポリス日本公使館の短い滞留中に与えられた色々な印象と観察とが、若し幸いにして誤謬であったならば、それは杉村公使のために、この上ない喜びとする所である。
 杉村公使の若い頃はジョベンジャポンが再誕の苦難と希望とに満ち溢れた時代であった。彼は当時のモボの如く、酔うては枕す美人の膝、醒めては握る天下の権と豪語した幸福な青年杉村であった。しかし彼が人間として争うことの出来ない苦難に直面したのは家庭の人となってからである。彼が公生涯の不幸は家庭人として胸深く秘めなければならなかった傷ましい反影が、あの様に黙々たる冷たい性格を作ったのではあるまいか。
 令夫人は親切な好い人であった。脂肪質な肥え太った体格はその自然的な体質上の影響をどうすることも出来なかったらしい。
『日本公使館の人々』をよんだ人は、何か或る一種の嫌悪すべき暗示を感受せずに居られないであろう。杉村公使が卒倒するに至ったその原因は実に〇〇〇〇〇〇に起因するらしい。
 三浦、水野両氏の書面を総合して、卒倒した当夜の光景を想像に描くことは決して難事でない。便所に起きた杉村公使が、あの旧式な二階の廊下へ重たい足取りで踏み出した。ペトロポリスの山渓は死んだ様な静かさに落ちて水の音らしい幽かな音は反って物寂しい世界に導いて行く。公使は漢詩のあらわした寂寞な風物を頭に浮かべて、ふと目を上げると〇〇〇〇〇〇〇黄色な灯がもれて〇〇〇〇〇るのを見てはっとした。見まい見まいとした〇〇〇〇〇〇〇見てしまった。何という〇〇〇〇〇〇あろう。こんな念が頭に浮かんだ時は、もう冷たい板の上に公使は大きな音を立てて倒れていた。言うに忍びない而もどうすることも出来ない人生の大事実に逢着して、公使は朝鮮の王妃を屠ることの如何に容易なりしかを感ぜざるを得なかったであろう。
 公使は再びたたなかった。彼の死は実に劇そのものである。伊藤公の死の如く、原敬の死の如く政治的に華美ではないが、もっと人間味に富んだ平凡人のドラマチカルの死である。人間の真実の深さは寧ろこう言う平凡人の平凡事の上にあることを忘れてはいけない。
 杉村公使のこう言う私生涯を記す事は、彼の徳を傷つくるものであると言う人があるかも知れないが、それは頭の古い何でも彼でも死人を神聖化させなければ承知の出来ない人である。人間は生物である。生物としての種々相の開展にこそ人間としての尊い価値がある。
 杉村公使の最後は誠に傷ましい事実に相違ないが、人間としての彼に一層の深さと色彩とを添えるものである。
 杉村公使の死は水野さんの移民契約にも一頓挫を与えた。公使夫人が引き上げに当たって、水野さんに女中のお梅さんを鈴木がもらってくれまいかと言う様な話があったが、うすうす彼女のふしだらを聞いていた水野さんが
「鈴木は変人ですからね」
 と笑ってしまったと言う様なエピソードを残して、水野さんも再来を期し、とうとう日本へ帰ってしまった。
 私はデスパルパドールの機関に火を焚きながら、これ等の色々な出来事を走馬灯の如く頭に描きながら、切ないうたた寝の夢からさめた様に
「ああ、ああ」
 と長いため息をついては、太い薪を乱暴に機関の火中に投げ入れた。
「みんな、この薪の様に燃えてなくなるといいがなあ!」

          十五  
 珈琲の収穫が終わりに近づいて来た。もう黒色に成熟すると、デスプロパドールにかけることが出来なくなるので、機関に火を焚く労働もお仕舞いになった。私は再び乾燥場に働くより外なかった。又しても労働苦が始まった。しかし私の身体はもう不思議な位頑健に鍛え上げられていた。難儀ではあったが、最初に感じた様な苦痛を与えなかった。多くのカラマーダ並みに何でも手にかけて見るのが一種の楽しみとさえなって来た。
 八月の花とあだ名されているイペ(Bignoniaces に属しTecomaと呼ばれる)の花が珈琲園の小高い丘の上や、遠近の森林に美しいさつき色を見せて、強烈な太陽が照り輝いている九月初めの或る日曜日の午後であった。
 私は何か新しい単語でも聞き出そうと思って、事務所に出かけて行った。簿記係のコエリヨ、書記グレゴリオ、支配人メネゴニ、各部落監督等事務所前の日陰に集まってにぎやかに話していた。私はこれ等の人達の玩具の様になって、色々な話題を持ち出された。とんちんかんな返答をしてどっと笑われたり、日本人はインテリヂエンテだなどと、愛嬌を振りまかれたりしている所へ、主人ベント氏があらわれた。
「鈴木、お前はもう町に行って来たのか?」
 私が今朝、町へ郵便出しに行って来ることを知っていたからである。
「ジャ・ワイ」
 私の返事を聞くとベント氏の顔は見る見る苦味走って来た。そうして事務所の前の端れまで歩いて見せて、
「ワイ」
 それから又もとの所に戻って来ると、
「ホイ」
 とこう叫んだ。顔を赤くしてベント氏の挙動を注視していた私は『はは解った。ワイと言うことは行くと言うことで、ホイと言うのは、戻って来たと言うことだな、成程よくのみ込めた』
 こう心につぶやきながら、
「ジャ・ホイ」
 と言い直すと皆でハハハハハと笑った。私は穴あらば入りたい様な心で、首を縮めて小さくなった。
 ベント氏は何かしきりに喋ったが、面食らって狼狽加減の私には只しきりに『ノン、ノン』と言う声が鋭く耳を貫いた。要するに現在の状態では到底ポルトガル語を了解することが不可能であると言うにあるらしく、しまいに、
「お前は明日から乾燥場の労働を止めて事務所に来て働くがよい、万事コエリヨさんが命令をする」
 と言う事が解った。
「シ・セニョール」
 こう答えた私の顔は一層赤くなったが、しかしそれは恥ずかしさよりも嬉しさの興奮が勝っていた。

           十六
 事務所の仕事は朝早く掃除をする。それは殆どほのぼのと漸く明るさを感じる頃には、もうメネゴニ支配人は皮の鞭でボライナ(皮脚絆)を叩きながらあらわれる。私はよく支配人の灰色の目の鋭い時と鈍い時でその機嫌をさとった。間もなく書記のグレゴリオが赤い色の大きなハンカチで鼻をかみながら出て来る。この人は顔一面に髭が生えていたが、唇の可愛らしいどこか童顔の抜けきらない様な所があった。やがて簿記係のコエリヨはびっこを引きながら出勤する。この人は鼻の大きな長顔であったが、笑う時に鼻の膨らみの所にあらわれる深い大きな刻みが目立った。リューマチが永い持病なので、何時もうす黒い様に濁った色をしていた。私はききもらして判然とした記憶を持っていないが、あの文学者のコエリヨ、ネットの兄弟であった様に覚えている。主人のベント氏も見えて顔が揃うと、諸方へのコレスポンデスが出来る。私はそれを持って朝の汽車に間に合う様に馬を停車場に走らせる。随分差し迫った時間になってから遣られる時があって、不得手な馬をどんなに叩きつけて急がせたことであろう。駅から戻るともう朝飯の時間であった。
 それから午後三時の夕飯迄、計算の手伝い、デポジトから物品を交付すること、諸方への走り使いなど、つまり事務所のボーイの仕事をさせられた。夕飯が終わると又馬に乗って主人の食料品の買い物と郵便受け取りとの為に、クラビンニョス町へ行った。私の馬は白い年寄であったがおとなしい辛抱強い馬であった。雨の降りかかった時など、気をあせらせて、このいい馬の耳などを打った。こうした虐待の後に私は何時も限りない後悔の念に責められた。馬の首を軽くはたはたと叩きながら
「どうぞこらえてくれ。」
 私は人にものを言う様に謝った。しかし私はこうした美しい心を忘れて、幾度も幾度も人非人の行為をくり返した。私はこのなつかしい白馬のことを思うと、今でも感謝と自責の念に涙ぐましくなって来る。
 町から戻って事務所のランプを灯すと、そろそろ各部落の監督達や、各工場長達が一日の報告を持って集まって来る。それが九時頃には済むのが例であったが、ともすると主人のベント氏とコエリヨ氏、メネゴニ氏、工場長のポルトガル出身のホルテ氏などの間に話がはずんで、十二時を過ごす場合も少なくなかった。
 訳の解らない会話を耳にしながら、じっと暗い所に立ったり座ったりしている私の気苦労は筋肉労働以上のものがあった。こういう時に限って部屋に戻って寝床についても長い間眠り付く事が出来なかった。そうして五時には再び起きて事務所の戸を開けねばならなかった。



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