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≪伯国日本移民の草分け≫  鈴木貞次郎著作 (その7)
≪伯国日本移民の草分け≫その7は、十七から始まり二十までの4編5千字弱で少し少ないが区切りを大事にすることにした。初めての支払いが実施されたが月給80ミルレースの予定が50ミルレースしか払って貰えず落胆する。チビリサの駅長から倍の給料の新しい職場を提供されるが、我慢することに決め珈琲園の地図作りを思い付き作業を始める。農場主が驚きと喜びで馬とロバを提供して呉れる。10月初旬には珈琲の収穫が終了し大々的に収穫祭を祝い大豊作の1906年―7年の大収穫の歩合を貰った多くのイタリア移民(出稼ぎ)が祖国に戻って行った。パトロンがサンパウロに戻ってしまった大邸宅を預かり夜長に故郷での生活、曾祖父の思い出に耽るところで終わる。この続きはその8でお楽しみ下さい。写真は出石さんが送って呉れた珈琲園の乾燥場の写真をお借りしました。


 十七
 長い間の珈琲の下落は、珈琲園主を一日一日窮地に陥れて行った。この農場も可成り経済的に押しつまっていたと見えて、三か月毎の支払い規定が遅れて私が着いてから初めてメザーダの支払いが行われた。 
 簿記係の話によると私は月給八十ミルレースの様に聞こえていたが、いよいよ支払いを受けて見ると月五十ミルレースの割合であった。五十ミルの内から三十ミルの食費が差し引かれると二十ミルレース残る丈である。この二十ミルで洗濯シャボンを買ったり、たまには空腹を満たすバナナも買わねばならない。ペトロポリスの日本公使館から電報などが来て、その返事を打たねばならなかった。これではどうすることも出来ない。私は全く落胆してしまった。少なくとも普通の日雇い人並みの給料は貰えるものだと思っていた。私は幾日も幾日も鬱々として楽しまない日が続いた。この遣る瀬無い不平を簿記係のコエリヨに散々当り散らした。コエリヨは、何事にも我慢強い性質であったが、特に私には肉親に等しい忍耐を見せた。何の罪もないコエリヨの迷惑はどんなであったろう。私はこの人から種々言語に言い表すことが出来ない恩を受けたが、この人を苦しめる以外に何の報いる所がなかったことを思うと、今更慚愧の念に堪えないものがある。
 コエリヨの話によると、私には相当の月給を支払う予定であったが、主人ベント氏の考えでは私は日本政府から特別の高給を受けている珈琲園見学生と言う様な解釈から、そう言う僅少な手当てを支払ったものであると言う事である。
 成る程私は公使館の三浦さん達と一緒に旅行している。ベント氏への紹介も水野さんの面前で三浦さんによってせられている。これだけでなく領事館よりの電報や書面が来る。そう言う風に取られる形跡が多少ない訳ではないが、私にとってこの上ない辛い誤解と言わなければならない。
 私は迷った。杉村公使の報告書を読んで夢想した幻覚の破滅は覚悟していたがかほど迄傷ましい現実に逢着しようとは余りに意外であった。食料なし五十ミルの月給では、いくら物価の安い当時でもどうすることも出来なかった。
 チビリサの駅長モラエスはメソヂスト教信者で親切な三十代の男であった。私もプロテスタントであると言う事から親しい交際をしていたが、私の月給が五十ミルレースだと言うことを聞くと親身の様に憤慨した。そんな人を馬鹿にした取扱いに満足してはいけない。停車場に来い。月給百ミルを支給しよう、食事はほんの実費で自分達の家族と一緒に食べればよい。若し停車場の仕事が気に入らないなら、この辺の農場なら何処へでも世話しようと殆ど毎日のように勧めてくれた。私の心は可成り動いた。一時はモラエスの勧誘に応じ様かとさえ思ったが、しかし私は考えねばならなかった。
 私は移民の見本である。利欲にのみ専念であってはならない。この埋め合わせは移民会社にもあるだろう。若しなければ無いでも私は一つ日本移民契約の犠牲となったと思えば、それで満足である。一年位は夢とあきらめよう。五十ミルレースでも食っては行ける。辛抱、辛抱とこう決心がつくと心も自ずから軽くなった。駅長モラエスへは厚く好意を謝して断った。わだかまりのない私の顔を見ると、コエリヨも、
「ススキさん、ススキさん」
 と呼んでにこにこした。コエリヨは何時も日本語で私をこう呼んでいたのである。

          十八
 私は朝の停車場行きと、夕のクラビンニョス町通いとを利用して、ひそかに珈琲園の地図を作り始めた。それはこんなに大きな農場でありながら、完全な珈琲の畠から見た地図のないと言うことが解ったのと、各部落の監督達がコロノに渡しているタリヨンの珈琲樹数が各年度によってまちまちであると言うことを発見したからである。
 私が珈琲園内に切り残されている枯れ木や生木、農場内の大建築や煙突を目当てとして大体の方位を定め、珈琲のタリヨンは植付け樹数の間隔十八パルマスから計算を立て、珈琲園内に散在しているコロニヤの距離は、馬の歩数を注意して数え、それから出して行った。幸いに停車場とクラピンニヨス町との位置が南北に違った方角にあったから、シュンポラヅの農場本部を中心として珈琲園のマッパ(地図)が日に日に広がって行った。珈琲園を貫いている軽鉄の位置などは何枚目の畠の何本目から曲がって次の畠では何本目になっていると言う様な計算から記入して行ったので、少しも尺度を用いたものと変わりがなかった。
 段々興味が出て来て私は日曜なども、休まず乾燥場近くのタリヨンの珈琲樹数を数えた。
 地図としてやや輪郭が立って来るのを待って私はそれを主人の前に出した。ベント氏は非常に驚いて
「お前はエンジェネイロ?」
「ええ、そうじゃありません」
「そんなら、どうしてこう言うことを知っているのか?」
「教育のある日本人なら誰でもこれ位なことは出来ます」
 こう言う意味の返答をしたつもりであるが、それが完全な葡語になっていなかったに相違ないが、ベント氏が私の言う意味を充分了解したに違いない。それからベント氏は私に向かって一寸した計算の題を課してやらせたが、私は何の苦も無くそれに答えてやった。主人は悉く感心してしまった。
「鈴木、お前は明日から朝飯と夕飯との間をこの珈琲園の地図を作るために働いて差し支えない。馬は白ともう一頭ブーロ(騾馬)を代わり替わり使用する様に、コチエーロに命令して置くから都合のいい様にしたがよい。」
 これは異常の面目である。私は非常にうれしかった。一口に二百万本の珈琲園と言うと何でもないが、十八パルマスの距離に植え付けたとして一千三百アルケルス(日本の約三千二百五十町歩)の面積が必要である。それにカレアドールやコロニヤを加えれば一千五百アルケールスになる。私はそれを半箇のイントルスメント(器械)なしに出来るだけ完全に珈琲樹数を基本とした地図を作ろうとするのである。
 日に日に製図の方は順調に進行して行った。来客がある度に主人ベント氏も、簿記係コエリヨ氏も私のこの地図をきっと持ち出して話題の一つとした。

          十九
 珈琲の収穫を終わったのは十月初旬であったが、尚晴々とした天気がつづいた。
ベント氏は事務所の前の乾燥場で収穫祝いを挙げた。葡萄酒は余り多くはなかったが、ビンガは大きな樽を据えて飲むに任せた。小さな紙製の万国旗と提灯を吊った下でサンホーナ、ビオーラ等を主とした移民達のオーケストラが賑やかに合奏された。
コロノの若衆と娘達とは嬉々として踊った。剽軽なスペイン生まれの老爺が指でカスタニョーラの代わりをさせて踊るかと見れば黒奴は騒々しい原始的な蛮音をはりあげた。
  豊年じゃ、萬作じゃ!
  隣の娘に婿が来て
  おらが娘は子を生んだ。
   ヅング、ヅング、ヅング

  背戸の畑で
  唐黍かいて居たら
  ヒョットコ面の猿が出た!
   ヅング、ヅング、ヅング

  椰子の葉風は
  野づらをなでて
  なんと鳴いたかパパアイヨ!
   ヅング、ヅング、ヅング

  豊年じゃ、萬作じゃ
  隣の娘に婿が来て
  おらが娘は子を生んだ。
   ヅング、ヅング、ヅング

 板とブリキ缶とは珍妙な音をたてて黒奴の踊りの調子を取った。
 主人ベント夫婦を中心に支配人簿記係書記各監督達の夫婦子供等がバンコ(腰掛)や椅子を並べて見物して居たが、踊りが一くさり終わる度に拍手喝采した。
 最後に主人から懸賞として大きな美しいサンホーナ(手風琴)が持ち出された。それを若者達は代わる代わる主人夫婦の面前に出て弾奏した。選に当たった若者は幾度も群衆から拍手を以ってその弾奏を強要された。踊りの上手な娘達にも夫々懸賞があった。
散会した頃は、もう黄昏の月はこんもりとしたマンガ樹の梢をあざやかに照らして居た。露のしめりはコールタを塗った広場(乾燥場)の煉瓦をつやつやと水を打った様に見せたが、酔っ払った黒奴達はまだ手拍子を取って踊って居た。
   O’sarve as alma do trabaio!
O’sarve as alma do trabaio!

Zing, Zing, Zin, ua

Cascave pegou gallinha
Gallinha detrais do putero
Pae df Santo fez sorta
E, o mais veio! Alumia
この収穫祝いの祭はコロニア奴隷時代の遺風で、なかなか盛大な地方色の濃厚なもので、黒奴がアフリカの郷土をしのぶ面白い踊りもあったことは、記録に依って知ることが出来る。近代化した此の頃の聖州珈琲園には再びあゝ言うのんびりした気分を見る事が出来ないであろう。
      ×   ×   ×
 1906〜7年の大豊作は聖州全体を通じて、千本平均の産出量は八十八アローバスであったから、1927〜8年に比し樹数の関係から収穫総数が百六十万袋少ないが千本平均から見れば二十五アローバス多かった。1928年の最大量の産出を見た、ノロエステ線の千本百三十アローバスから推察しても1906〜7年のリベロン地方に於ける平均産出高が之より下がることはあり得ない。仮に千本百三十アローバ平均産出量とすると、チビリサ農場二百万本から二十六万アローバスの精選コーヒーの生産を見た訳である。珈琲の値段は1アローバ 三ミル五百前後であったから農場主の収入は少なかったが収穫手数料は一袋一ミル五百位であったので、コロノの収入はなかなか多かった。為替相場から言っても十五ペンス以上にして現在に比し、約三倍の好調にあった。こう言う訳で懐中の暖かくなったイタリア移民は総勘定が済むと、続々として帰国の途に就いた、農場からは特に軽鉄の客車が提供され、花火が勇ましい音響を挙げて、碧落の天に爆発した。

          二十
 収穫祭をすますと、まもなくベント、ブエノ氏は聖市へ引き上げて行った。主人なき後の大きな頑丈な邸宅の掃除役が私の仕事の一つとなったので、あの白蟻の巣窟であった書記グレゴリオ氏の一室から主人邸宅の後円にある小屋の一室に引き移った。
 そこには菜圃と庭園とを受持って居るスペイン生まれの若夫婦が住んで居た。この庭師の名はマノエルと言って、髭のこい青ざめた男であったが、妻マリアは白セキな長顔で、如何にも純なスペイン人らしい美しい女であった。果実類をちぎることは、私の自由で、別に庭師の苦情を受けることはなかったが、それでも朝飯時の一寸した休みの時間に部屋に戻ったり、事務所を閉めて引き上げた時など、いつも、
「ウステ、グエスタ、ラ、バナナ」(バナナお好きですか?)
「アキ、テイネ、ラ、バナナ」(バナナがあります)
 こんな事を言って、マリアさんは一日でも欠かさず芭蕉実を持って来てくれた。ほの暗いカンテラの灯を囲んで、不可通な葡語で、アンダルシアの美しいカルメンの話や、勇ましい闘牛の話など私の貧しいスペインの知識を傾けた会話に夜更かすこともあったが、この親切な若夫婦のむつましいささやきや、唐黍殻を入れた敷布団のがさがさという音響は独身者の神経に妙にむづかゆい感を与えて寝られない夜などがあった。
 私はこんな時に限って、いつも辞書と首引きで、いくら読んでも解りそうもない不得手な葡語の勉強を始めた。板壁一重の若夫婦の寝息の音がききとれる程静かな周囲の夜はしんしんと更けて行った。どこからとなしヒー、ヒー、ヒーと長く余韻を引いた鳥の音がして来る。
 窓外のマンガ樹の葉に暁近い西風が颯々と音を立てる頃、余儀なくもぐり込んだ寝床の上から愈々冴えた目を、天井に放って考えるともなし、色々なことが、それからそれへと思い出された。
 私の血管のうちには勇敢な開拓者の地が流れている筈だ。最上川の大洪水のために祖先に対する記録は全て流されて、何一つ残されて居ないが、出羽の先住民の一族であったらしい。鈴木与右ヱ門を別家した曾祖父五助は豪快な人傑であった。私は色々な逸話をよく老人達の口から聞かされたことを覚えて居る。
 曾祖父の別家した頃は、本家も零落の絶頂にあったので、何一つもらったものはなかったと言うことである。生活の資金を得る為に二里ばかり離れた村の庄屋の若衆(下男のこと)となったが、人一倍強健で大きな体格、男らしい相貌と勇気とは、いつか庄屋の娘に思われて、人知れず相許すなかとなってしまった。しかし零落して他家へ奉公しなければならない境遇にある次男坊と、庄屋の娘との結婚はそう容易に出来るべき筈がない、曾祖父は遂に辛抱しきれず娘をつれて遁走、郷家に戻った。それは申し分のない略奪結婚であった。曾祖父は何か利欲上のことからそうした暴挙をしたと言う様な中傷を快しとせず、産を起こす迄長い間娘の里とは出入りしなかったと言うことである。



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