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≪伯国日本移民の草分け≫  鈴木貞次郎著作 (その8)
≪伯国日本移民の草分け≫(その8)は、二十一と二十二で6742字となる。貞次郎青年の故郷での想い出として曾祖父の思い出に耽ると同時に12歳の頃、「柿の実」を呉れた初恋の春さんについての思いを面々と語る。12歳の時に近くの郵便局で電信技士の見習いを始めた初期に「柿の実」を呉れた春さんに淡い恋心を抱き、春さんの結婚が決まった彼の20歳の時に故郷を捨て東京に出る。チリ経由、ブラジルに水野龍と一緒にブラジルに来て珈琲園での日本移民の代表としての実習生活に入る。これを書いた57歳の時まで初恋の春さんを慕いサンパウロの歓楽街での27歳での童貞喪失とその後も春さんえの思いを延々と綴る純真な鈴木青年の春さんへの思いは、移住者として1962年のあるぜんちな丸第12次航でブラジルに来て「愛の小箱」を大事に持ち歩き、2年間のブラジル生活でブラジル童貞を守った自分と重なり共感を抱く。写真は、出石さんが送って呉れた写真の珈琲精選工場を使わせてもらいます。


 二十一
 多少の資本を得た曾祖父は、それを持って南部に牛買いに行った。多くの牛の群れを追って名木沢と言う村外れ迄来た時は、丁度生き生きとしたさみどりの苗代田に朝露がしっとりとぬれ色を見せて居た。と見る一匹の牛が群れを離れてこの苗代田に入って行った。突然の闖入者に仰天した水を引いて居た若者は立ち上がって呆然とした。それを見た曾祖父はつかつかと若者の傍に進んで、その手を握ると同時にそれを自分の咽喉に当て畦に倒れてしまった。そうして、
「助けてくれ!助けてくれ!」
 と大声で叫んだ。曾祖父は稀代の大力であったので、抗争することの出来ない強引に逢った若者は何のことやら訳が解らず無我夢中で
「何をするんです?何をするんです?」
 手を引き抜こうとしたが、どうすることも出来なかった。その内村の人達がかけつけて来たが、曾祖父のトリックを理解するに由なく、
「何だ、お前牛が一寸苗代田を荒らした位で、そんな乱暴することあるか、馬鹿」
 口々に罵って若者の手を曾祖父の咽喉から引き離した。曾祖父は如何にも大儀そうに起き上がって
「いや大きに有難う御座いました。お蔭さまで生命拾いをしました」
 と言って立ち去ったと言うことである。どう言う訳で曾祖父がこんなことをしたかと言うに私の地方では若し他村の牛馬が農作物を荒らした様な場合は、若衆達がその牛馬を引き捕らえて離さない。これを受取る為には損害の大小に依って、五升なり一斗なりの酒に、ニシンなどを酒の肴として送り、さんざんわびをしなければならなかった。つまり村の若衆達の慰み者となって、散々油をしぼられなければならないのである。
 酒代はとにかくとしてその為に半日なり1日なり、事件を解決する迄、牛の群れをとどめてそこに滞留しなければならないのを、一寸した気転から一種の滑稽なトリックを思いついた曾祖父は鋭い頭の持ち主であった。
 曾祖父はそれから丹生川の沿岸に米田を開拓した。それがうまく当たってめきめきと産を起こし半里以上離れた開墾地迄行く間に他人の田地を踏む必要がなくなり、他郷他郡に迄田地を所有するに至った。
 こうした曾祖父は一人として自分の気に入る子を発見することが出来なかった。嫁をもらっては気に入らないと言って別家し、とうとう五人の子を皆別家してしまった。一代の内に五軒の新家を建てると言うのも異数であるが曾祖父は遂にその長男をさへも別家してしまった。若し浪人士などが来て何かゆすりがましいことを言うと大喝して追っ払ったと言うことである。曾祖父の死後には祖父が別家から戻って家をついだが、曾祖母、祖母達の柔和な血が混じって一族の性格をどれ丈緩和されたか知れない。ひたすらに仏を念じて止まない真宗信者である白鳥村の仁藤家より嫁いで来た母の血は一層私共を和らげ、寧ろ憶病に近い小心者としてしまった。
 私の一生を支配するに至った力……それは少年時代に感じた初恋であった。故郷の海谷から一里たらず離れた大石田町の高等小学校に通学し始めたのは十二才位であったと思う。
 この町の郵便電信局長をして居るN家は私の家とは血縁以上の近親な間柄であったが、その長女春さん(仮名)に対して、私は私の全精神を一生打ちこんでも到底表現することが出来ない尊い純な恋を感じたのである。
 十二才の恋!そんな筈がないと言う人があるかも知れない。人間の言葉はまだ不完全で色々に恋愛の発展に対する過程を言いあらわす言葉を持って居ない。恋と言うことが出来ないならば、見染めると言ってもよい。ビアトリスに恋したダンテは僅か五才であったと言うことを聞いた。ゲーテが、グレートヘンにほれ込んだのも、確か十四才の時であったと思う。私の恋はゲーテの様なはっきりしたものではなかったに違いない。只一心になつかしい、したわしいと言う様なものに過ぎなかったにせよ、お春さんにそそいだ心からの熱情は決してゲーテに劣らなかった。寝ても覚めてもグレートヘンの姿がゲーテの胸を去らなかった様にお春さんの姿は五十四才になった今日の私の胸に尚大きな力となって生きて居る。どうぞ十二才の少年の貧しい恋物語をここに許して下さい。
 晩秋の空は晴れ輝いて居た。何か買い物にでも出て来た私の母は町の近親なN家を訪問したまま病臥してしまった。私の母は子供を多く生んだため何処か弱々しい所があったので、ともすると突然こう言う風に寝てしまうことがあった。
 私は今でもありありとその光景を思い浮かべることが出来る。小学校の昼休みの時間に私はN家の一室に寝て居る母を見舞ったのであった。どう言う訳か私は座敷に上がらないで日光のさした縁側の外の庭石の上に立って居た。母の枕元には看護のため長姉しな子が座って居た。そこへN家の娘晴さんが入って来た。その手には大きな二つの柿を持って居たが、つかつかと縁側迄すすんで来てだまってその一つを私にくれた。アダムとイヴは禁断の果物を盗んだために罪に落ちたと言うが、私の一生は実にこの柿の実一つのために定まったと言ってよい。
 柿の実!柿の実!私はその柿の実が手に落ちると、何が何だか解らない一種名状することの出来ない感情に襲われて顔が…恐らく全身がその柿の実の様に真っ赤になってしまった。火の様な燃ゆる目でそっと見上げた少女の顔…高い鼻と紅を兆した頬…特にふさふさと耳の辺りに下がって居た柔らかな髪の毛は私を盲目的に引きつけてしまった。私がお春さんを見たのは決して初めてではなかったが、一生にあんな強烈な不思議な力を感じたことがない。私は全然少女の虜となってしまった。
 元来はにかみ屋ではあったが、それ以来私はこの少女と物を言うことが出来なかった。冬になって雪が降ると、少年の足で一里の道を踏破することが出来なくなるので、私はN家から通学する様になり、朝夕の食膳には何時もこの少女と向かい合うのであるが、それは実になつかしいそうして恐ろしい不思議なものであった。
 高等小学を終わっても、私の心は春さんの居る世界から絶対に外へ出ることを許さなかった。幸いにも春さんの家は郵便電信局であり、その頃初めて電信部が置かれたばかりなので、私は、何の顧慮する所もなく電信技手となりました。教育!とそんな問題は春さんを慕う私の前には何の価値もなかったのである。私は潔く全てのものを捨てて春さんの呼吸して居るスペースに膠着してしまったのである。 
 しかし只それ丈であった。私は春さんと話もしなければ、別に恋文をかくでもなかった。私は電信局へ通勤の往来に何時も私の先祖によって建てられた鎮守の社に立ちよって、
「どうぞ春さんと一緒にして下さい。」
と祈った。それが私のあらん限りの頼みであり方法でもあった。十二の歳から二十歳迄の間に春さんと私と物を言った数はどれ程あったろうか。数えるに足らない場面のうちに、今になっても忘れることの出来ない全てをここにかいて見たい。それがせめてもの私の慰めである。一生をかけた私の恋はほんとうに貧しい記録に過ぎなかったがその反比例に、私の切ない情がどんなに熱烈なものであったか、それは神様丈が知って居られるでしょう。
お春さんの父上が大病にかかって山形県立病院に入ったことがある。
それは春であった。奥羽地方の春!桜も桃も梨も、すももも、菜の花も一度にぱっと咲きほこる美しさは体験しないものには想像もつかない光景である。この爛漫たる真っ只中に山形市に四月八日のお薬師様の祭があります。私はそれを見物に行くと言う口実で旅立ったが実は久しく見ないお春さんの顔が見たかったのである。病院の寝床に横たわっているお春さんの父は案外上機嫌であった。私の顔を見るとにこにこして、
「お春や、貞サに何かうまいものを御馳走して上げなさい。」
「私何もできませんもの・・・・・」
 お春さんはこんなことを言ったが、それでもうれしそうに、いそいそと料理を始めました。
 会席膳の上に並べられた心づくしの料理に向かって座ると、父上は、
「貞サは酒を飲まないが、そうそうお春あの葡萄酒を上げて見なさい。」
「私は駄目です。」
 固くなって断った。しかしお春さんはきき入れなかった。
「葡萄酒ですもの、一杯位飲んだってどうにもならないのよ。さあ!お飲みなさい。」
 盃の上になみなみとついでくれました。私の心は只うれしい波にゆられる夢の世界の船酔人の如くであった。お春さんのついでくれたものなら私は毒だって飲むことを何で躊躇しましょう。一杯又一杯私はとうとう三杯のみました。顔を真っ赤にして病室を出ると、お春さんは長い長い廊下を見送ってくれました。
 誰も見ていないなかを、何も物を言わなかったが二人きりで歩いた記憶、それは一生に於いてまたとないなつかしいものであった。あの春の陽のさした廊下が何処まで行っても尽きないものであったなら、それはどんなにうれしいものであろうとさえ願ったことを今だに忘れることが出来ない。
 私はそれから毎日病院の入り口迄幾度となく往来しては、
「妙に取られまいか知ら?」
 こんな考えに襲われては、いつも悄然と立ち止まって悲しい目に涙をためて見上げた。
「あの病院の窓に、ひょっとしたらお春さんの顔があらわれるかも知れない」
 はかないこんな希望を抱いて十歩行ってはふり向き、ニ十歩歩いては立ち止まった。遂にそれが空しい願いに過ぎないことが解ると、涙をぽろぽろとこぼして泣いた。私は根気よく一週間それをくり返したが只の一度でもお春さんの姿を見ることが出来なかった。
 田舎町の明治28年頃のことですから、郵便電信局は何かの都合で誰も人の居ない折も少なくなかった。ある日二階の電信部に私一人、下の郵便部には局長であるお春さんの兄も雇人も欠勤で、お春さんが手伝いに来てくれたことがあった。
 春であったか、夏であったか、もう私の記憶には残って居ないが、森閑とした田舎町には只電信の打つ記号の音のみがかちかちと鳴って居た。私はお春さんと二人きりになるのが、名状することの出来ない恥ずかしさと、物恐ろしさがあった。
 私は電信機の前に前に腰かけて動かなかった。お春さんのみしりみしりと音をたてて二階に上がって来る音がする。私はそれを見まいとして一心に何か落書を始めた。
 お春さんは私の左方、電信機の方に寄りかかる様にして、
「これはどう言う働きをするの!」
 無心なお春さんの顔は笑っていた。私はどもりながら漸く説明したが、胸の動悸はどっどっと打って顔は火の様に熱くなるのをどうすることも出来なかった。唇を固くかんだまま首を垂れて落書をつづけて居た。何をかいて居るのか、どうすればよいのか、解らなかった。
 お春さんは尚私に寄り添ったままで、立ち去ろうとしなかった。このままで居たら私の胸ははり裂けてしまう様な気がした。私はつと立ち上がって下に降りて行った。そうして一番下の階子段の上に腰をかけると両手で頭をかかえて何かしらものを考え様とした。しかしそれは徒労であった。子供は五分間丈の記憶力しかないと言うことであるが、私は一分いや一秒過ぎたことが解らない様な気がした。高まる動悸、深い溜息、汗ばむ位な顔のほてり、私の身体はぶるぶるとふるえて居た。
 お春さんは静かな足取りで下へ降りて来た。その瞬間私は何かものに襲われた様に、あわただしく二階に駆け上がって行った。
 更に更に深い溜息、私は私の髪をむしって机の上に打ち伏して泣いた。
 こうして機会は二人の間を空しく逃げ去ったのである。
 それからもう一つ、お春さんが結婚すると言うことが決定されてからであった。私の心にはまだ何かしら心頼みがある様な気がして進退を決し兼ねて居た。
 夜になると何時もN家からお湯の使いがあった。私はそれを楽しみの一つにして居た。その日はもう秋の寒い晩であった。電信局を出てN家の茶の間に上がると黄色を帯びたランプの下でお春さんが結婚後の衣物らしいものを縫っていた。
「今晩は!」
 兄さんである局長夫婦も、父さん達も皆挨拶したが、お春さん丈は顔も上げず、うつむいたまま衣物を縫いつづけて、私をふり向こうともしなかった。
 私は煮える様につらかった。そうして怒った。波々とした湯壺のなかにひたりながら、泣いても泣いても止まらない涙を湯水にぬれた手拭いでふいた。
「いくら結婚すると言ったって、今晩は位は言ってくれてもよかろう。俺がお春さんと取り交わす言葉は只それ丈じゃないか。どうしてあんなにつらくしてくれるのだろう。よし、今夜は俺も立つ時には、お春さんに一言だって物を言わないぞ」
 これが私の悲しい唯一の復讐であった。私はお湯を出て、お茶の御馳走になり乍ら、折々お春さんに目をやったが、一度でも顔を上げなかった。私の心は益々暗く悲しくなって行った。
「よし、本当に挨拶なんかしないぞ」
 私は夢中になって立ち上がった。
意外!意外!それは全く予期しなかったうれしい驚きであった。
 お春さんはあわただしく縫物を押しやって、両手をつくと丁寧に頭を下げた。地味な田舎縞の羽織、銀杏返しの赤いかんざし、姿勢のよいなだらかに打ち伏した態度がランプに照らし出されたのを見ると、なつかしい感情がこみ上がって、私の目の瞳光は夢見る如くにぶった。そうして我ながらおかしい程慌てふためきながら座り直して挨拶した。
「矢張りお春さんは俺を忘れて居たんじゃない」
 私の心は露にぬれた花の様な平和な甘い慰めを感じて外へ出た。お春さんはどう言うつもりで、あんなことをしたのであろう。或いはほんの不用意に偶然にあゝ言うことになったものか、今日も尚私の胸にまざまざと刻みつけられた解き難い謎である。
 お春さんの結婚が愈々確定的なものになったことが解ると私は一日も…一時もと言った方がもっと私の心持を適切にあらわして居る。…この田舎町にじっとして居ることが出来なかった。
 東京へ!東京へ!!!
 運命は一回転して、お春さんの結婚すべき人も、期日も聞くことをせずに、私は東京の学堂に地織木綿の袴をつけた田舎者丸出しの姿をあらわして居た。

          二十二
 春さんを慕う切ない私の思いは、春さんに何の感応も与えなかったろうか?
 人間が命を賭けて念じた程のほとばしりが、果たして彼女に何の微動も起こさするに足らなかったろうか?
 五十を越した今日になっても私はつくづくとこうしたはかない愚かしい瞑想にふけることがある。
 よし、それは片恋に過ぎなかったにせよ、春さんに取ってはほんの只淡い幼友達に過ぎなかったにせよ、私はそこに何の後悔も持って居ない。
 異性の肉体からのみ発する一種名状すべからざる複雑なかおり、それは確かに男子の意志を亡ぼすに足る魔力の潜在を否むことが出来ない、私の歳がニ十を越え二十五に達するに従って異性を求めて止まない私の血が極度に沸騰するのをどうすることも出来なかった。
 私は懊悩して、これを道徳に依って救わんとした。神に念じて勝たんと試みた。
 徒労、徒労、人一倍健康な私の肉体の醜悪な獣性は私を戦慄せしむるに充分であった。私は只春さんを思うことに依ってのみ僅かに静かな平和を得た。春さんに対して童貞を保たんとする私の念願は絶対的なものであった。こうした私の態度は世間の誤解を招くに充分であった。私は何処へ行っても、おとなしい青年であった。甚だしいのは女嫌いな青年として通った。成る程私は女に対して笑うに値する程の臆病であった。はにかみ屋であった。私は確かに二十七才に達する迄女を知らなかった。寧ろ知るところの機会を持たなかったと言うことが適切であるかも知れない。
 しかし私の心はその反比例に醜悪そのものであった。異性!威勢の肉!!何と言う素晴らしい魅力であろう!?
 これが所謂おとなしい青年、真面目な青年、女嫌いな青年の真相であった。
 日本に「さよなら」する時私の心に堪え難い傷ましさを起こさせたのは決して肉親の父兄に離れると言うことでもなければ、親しい友達と決別すると言う事でもなかった。
 それは只一念
「二十七才になって、男性として完成された肉体の所有者である私が、若し此の航海中難破する様なことがあれば、女を知らずに死んでしまうであろう?」
 と言う児戯に等しい恐怖であった。冬の大洋の波は荒れがちであったし、明治38年頃の船旅の危険に対して、私は未だ化学や物理の万能を信ずることが出来なかった。
 グレンファーグ号がまさにヨコハマの埠頭を離れんとした時、海員の、
「荒れますぞ!?」
 大きな高声を聞いて、私の胸はドキンとした。降り出した、小糠雨にけぶるヨコハマ港頭の墨絵の様な光景よりも、私は防波堤に衝突して、はね上がる海波の白い泡沫を、何とも言えぬ悲しさを持って眺めた。
 それは全て私の異性を知らない哀愁から来る不満であった。はかない悲嘆であった。



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