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≪伯国日本移民の草分け≫  鈴木貞次郎著作 (その10=最終回)
≪伯国日本移民の草分け≫ その10=最終回は、9500語弱ありますが一挙に移民収容所時代八から一〇まで掲載します。一から七までは、「椰子の葉風」で紹介しているとのことで省略しているそうです。リオの公使館から来たサンパウロに出てこられた三浦通訳官の回想が移民前史として面白い。笠戸丸第一回移民を迎えるために送られてきた五人の通訳の到着と笠戸丸のサントス到着の様子も歴史的な出来事として細述されており、日本を出る前に皇国移民会社に預けたお金が受けとれずに途方に呉れる移民の話は、胸を打つ。その後どのようにして返却したのかも気になる。通訳の五人組も現地で着用する木綿服も買えないとの事で前金の支払いを要求しサンパウロ州政府から賦与された50ポンドをそれに充てる話も面白い。写真は、出石さんが送って呉れた写真を使わせてもらいます。


移民収容所時代
 (※一から十まであるが、「椰子の葉風」になかった部分を抜粋する)

          八
 ブラジル行移民募集が日本でなかなか思う様に行かないらしく、三浦荒次郎通訳官は時々サンパウロ市にやって来た。
 三浦さんは非常に開放的な人であった。外務省に打った電報のうつしなども、少しもかくす所なく見せてくれた。それは何月何日迄に移民を送らなければ契約を破棄すると言うサンパウロ州政府の意向を伝えたものであった。
「ホントウに予定通り移民が着かないと契約が無効になってしまうんですか?」
 心配そうな私は真顔であった。
「なーに賭けさ。こう言ってやらないと日本で一生懸命にならないからね。サンパウロ州政府では、どうしても日本移民を入れて見たい腹だから、案じることはないんだ。しかしいくら家族移民輸送と言う日本にとって初めての試みで、こっちの思う様に運ばない位の事は解っておっても、ここで一寸こうおどかして置かないと解決がつかんからね。……こんな電報を打つくらいは君ハハハハハハ…」
 三浦さんはそんなことは何でもないことだと言う風に、からからと笑った。
「それを聞いて安心しました。日本移民が来ないとなると私も考えなければならないからね。もう愈々来るものとしたら、三浦さん私に一つブラジルに日本移民を入れる様になった筋道について話してくれませんか。あなたは誰よりも一番よく知っている筈ですからね。」
 私もそれを知っている一人に相違ないが、三浦さんは当局者として、殆ど初めから終わり迄関係した人であるから、私の知っていないことも沢山あるに違いない。
「さあ!」
 三浦さんは余り多くもない髭をカイゼル式に上向きにくるッと巻き上げながら、暫く遠いことでも考え出す様に黙っていた。
「移民の最初の交渉は大越公使時代からの宿題であったのだが、実際問題として考究せられたのは杉村公使からですな」
 こう言って語りだした、三浦通訳官の話を要略すると、杉村公使が書記官時代に明治28年10月8日未明朝鮮の王妃を倒した、あの一大クーデターの責任者の一人として広島の監獄に八十余日間三浦公使とつぶさに苦痛をなめつくした。
 杉村公使の胸中に日本は亜細亜大陸に発展する丈ではいけない。何処か新しい世界に向かって延びなければならないと言う念の往来したのが実に此の牢獄の中に閑散な日を送っていた時であった。  
 証拠不十分で監獄から出て来た杉村さんは外務省通商局長になり、明治32年公使に任ぜられ、ブラジル駐在を仰せ付けられた。杉村公使は外国語が解らないので、何人か対外折衝の補佐役を務める人がなければならない。杉村公使は京城事件で三浦公使の歴史的ドラマに参加した仲のよい外国語を好くする堀口久萬一領事館補を思い浮かべたのである。彼は密かに当時の外務大臣青木周造にこれを要請して任に赴いたのである。
 賜暇帰朝で欧州から戻って、席の温まる暇もなく堀口書記官は、明治33年2月18日杉村公使の後を追ってリオデジャネイロに上陸、ブラジル移民問題の解決に没頭した。諸種の準備成ってミナス州をふり出しに、サンパウロ州へ実情視察旅行をした。それは明治34年即ち1901年であった。
 ミナス州首府ベーロ・オリゾンテでは異常な歓迎を受けた。至る所バイレ(舞踏会)が行われたが、やや紅いを兆した堀口書記官のなめらかな顔と、ヨーロッパ仕込みの典雅な態度とは、その巧妙なステップと相まって大評判であった。日清戦争後であったが、全く日本と言うものを知らなかったミナス人にとって、自由自在にフランス語と英語とを操る堀口書記官は驚異を通り越したヘノメナールな存在であった。
 踊りから疲れて椅子に腰を下ろした時、傍らの一紳士が堀口書記官の耳元に小さな声で
「怒ってはいけません。真実のことを白状すると私は日本人と言うものは、まああの軽業師の様に身体の軽い、不思議な芸をする人間ばかりだと思っていたのです。所が貴君のその自由なフランス語、軽快な踊り、而も礼儀を乱さない態度、いや全く恐れ入りました。」
 と言ったそうである。始終黙々として見物していた杉村公使は、こう言う話を堀口書記官が説明して聞かせると
「そうか、軽業師は面白い。」
 流石に赤銅で鋳造したような顔に微笑をたたえたと言うことである。
 ミナス政庁に農務局を訪問した時、杉村公使は官私両有の差別をあらわした地図を見せてもらいたいと言うことを要求したが、
「ブラジルは新しい国であるから、未だそう言う明細なことを書いたものはない。土地台帳もありません。」
 と平然として答えて、何の躊躇する所ない有様であった。
「日本ならば君、自分の土地に二、三寸入り込んだって黙っておらん。官有地も私有地も判然境が解らないと言うのは痛快ですな。流石ブラジルです。」
 と杉村公使は感嘆の声をもらしたと言うことである。サン・パウロ州でもミナス州より勝るとも劣らない歓迎で、シミット、ヅーモン、サン・マルテンニョ等有名な四、五の珈琲園を巡視し、或る農場などには、四、五日も滞留して、実情調査をした結果、日本移民輸入に関する意見書となり、外務省に提出したのが、あのサンパウロ州珈琲園調査報告書の名文章となったのである。これは漢学に通達した堀口書記官の筆力と、杉村公使の大所高所に着眼して小事に拘泥せざる透徹した心境との結成によるものである。 
 不幸にして日露戦争爆発し、せっかくの報告書も観られなかったが、堀口書記官は明治38年12月帰朝、その後を追って三浦荒次郎通訳官がペトロポリスの日本公使館に来たのは私たちが着伯する数ヶ月前であった。
 杉村公使が三浦通訳官を得て、日本移民輸入のために努力したことは本書を読む者には再説の必要を認めない。不幸にして明治39年5月19日悲劇的の死を遂げるに至り、待望した日本移民輸入の実現を見なかったのは心残りであったろうと思う。その後任となったのは内田定槌公使である。内田さんはニューヨーク総領事時代に加州の日本移民問題を親しく体験し、日本は北米以外の地に於いて移住地を得る外なしと言う結論に達し、帰朝後もこれを力説したが、小村外務大臣より『君の議論を実現するに好適の地』としてブラジル公使に赴任したのである。
 内村公使が着任と同時に直ちに決行したことは、三浦通訳官と同道サンパウロ州珈琲園地帯の巡視であった。私は「珈琲園生活」中の記述にこれを漏らしたが、三浦通訳官から、ブラジルに於ける唯一の珈琲園労働者として、公使が切に面会を求めていると言うことを通じて来たので、私はチビリサ駅から一行の臨時列車内に同乗、車内で珈琲園の実情に関し、つぶさに開陳したことは、今もなお記憶に新たなる所である。
 内田公使は北米加州に於ける日本移民の失敗の最大原因は単独者であったと言うことを知り、ブラジルに送るべき日本移民はどうしても、珈琲園主の要求する家族者でなければならないという点に同感し、外務省の注意を喚起することを怠らなかった。
 
 ここに一言して置きたいことは、当時サンパウロ州に於ける移民入国の状態である。1890年の珈琲黄金時代には殆ど無限の海外労働者を要求して止まなかった為、州政府が旅費を負担すると言うこととなり盛んなる伊、西、葡等の移民輸入となったのである。然るにイタリア政府が州政府に農場に於ける自国移民の賃金支払いの保証を要求して容れられなかったことから、断然契約移民の渡伯を厳禁するに至った。州政府は止むなく呼寄移民に渡航費を支給すると言う便法を設けたが、多数のイタリア移民を誘致すること能わず、更に手を南欧以外の国民に延ばして見たが、これ又思わしい結果を得ることが出来なかった。これを表にすると、最もよく当時の状態を察知することが出来る。
   年次          伊     西     葡    其他    合計
 自1886〜至1890  153,182   9,581   22,052   5,136   189,951
 自1891〜至1895  274,641   51,430   39,376   15,908   381,355 
 自1898〜至1900  142,971   32,744   14,325   10,764   200,804
 自1901〜至1906   17,175   38,915   24,157   24,085   104,332
        1907   13,556   4,709    6,900   3,735    28,900
        1908   9,704   9,891   11,855   5,828    37,278
       備考 伊(イタリア)、西(スペイン)、葡(ポルトガル)、
 イタリア移民の輸入が漸次減少し、スペイン、ポルトガルその他の外国移民が増加して居ることを観取することが出来る。而も尚サンパウロ州農園の需給関係を調和する能わず、余儀なく伯国北部諸州の住民を誘致するに至った。(勿論これは北部諸州旱魃の影響も関係して居る。)即ち、
  自1861〜至1890    463人
  自1891〜至1895     48
  自1896〜至1906     43
  自1901〜至1906  11,025
         1907   2,781
         1908   2,947
 こう言う風でイタリア移民旺盛時代には、殆ど言うに足らない程の入州者に過ぎなかった北部諸州の住民が、年々二千、三千と州政府の旅費支給に依って増加して来たが、彼等の凶暴性とルンペン性とは農場経営を確実なる基礎の上に置く事が出来ない。若しイタリア政府と契約移民の輸入に関し了解を得ることが出来なければ、どうしても他の外国人をつれて来るより外ないと言う風に聖州の傾向がなって居たと言うことも、日本移民輸入を容易ならしめた一大原因であると言うことを忘れてはいけない。単に日本が好きだと言って歓迎されたと思う如き、余りに小児らしい考えを持ってはいけない。
 
 かくして明治41年、愈々日本移民が渡伯することになったのである。
「まあ、ざっとこんなものですな。惜しいことには杉村公使を亡くしたことです。私などは外交官の渡り鳥みたいなもので、閥はなし、手引きはなし、漸くいい親分に親しんだと思って喜んでいたのに、あの通り杉村公使の急死に逢うなんて、まるで夢の様ですなァ‥」
 感慨に耐えないものの如く、私を見つめた三浦さんの目には涙があった。

          九
日本移民が何時来ると言う判然した日は解らないが、四月だ、五月だと空しい期待と、到着後に於ける結果を案じられる様な思いとの内に日一日過ぎて行った。
 四月に入ってから、水野龍氏から、三月中に五人の通訳をシベリヤ経由で先発させると言う様な通信があった。
 五月一日に五人の通訳がペルナンブコ州、レシヘ港から出した書面を受け取った。
「愈々来るぞ」
 胸をとどろかせて開封して見ると、それは実に吹き出す様な事が書いてあった。
「前略……実は私共五人は英国から三等に乗って来ている。レシヘ港から今手に取る様に音楽の音がひびいて来る。多分私共を歓迎するものであろうと思う。
 サントスに着くのは九日の予定であるが、どうぞ非公式に、こっそり君一人で迎えに来てもらいたい云々」
 と言うのである。いくらブラジルは新しい国で、日本人を歓迎していると言っても、日本から到着する無名の五人の通訳などに何の関心ある訳がない。
 九日の朝サントス港から電報が届いた。五人の通訳から直ぐ来てくれと言うのである。私はこの電報を移民収容所長に示して、サントス迄の往復パッスと時間とを与えてもらいたいと言った。
 意外にも所長の機嫌が甚だななめならずであった。
「ススキ暇はやるよ。しかしね。この電報は君に来たプライベートのものだぜ。公のものであったら勿論一等のパッスをやるが、これに対しては気の毒だが二等切符を上げるより外ないね。」
 私は不服であった。しかし聞いてみれば所長の言うことに理屈がある。二等なら貰う迄もないので
「解りました。では暇だけ下さい。」
 こう言ってサントスへ行った。楽隊で歓迎されることを恐れた、五人の通訳を迎えに行くたった一人の私に、移民収容所長は一等のパッスを支給することさえ拒むのである。私は心の内でおかしくってならなかった。
 サントスの停車場は今もその頃と何の変りもない。私は五人の通訳が何処に宿っているだろうと案じながらプラットホルマを歩いて行くと、居た、居た、何れも黒い背広を来て山高帽子を被っているのが一見エストランヂエーロであることが解った。ブラジルにいる私共の目には確かに振るった扮装(※いでたち)である。
「やあ!」
「いやあ!」
 私は珍しいものでも見る様に五人のエトランヂエを見守った。
 山椒のぴりっとした様な如何にも素早そうな小粒の男が、靴磨台の椅子の上に座って靴を磨かせていた。加藤順之介君である。のっそりとして、目の細い大男は大野基尚君である。右の方の肩をやや高目に身体をそらせているのが仁平嵩君である。嶺晶君は低い鼻柱に金縁の眼鏡をかけて、如何にも柔和な瞳光を見せていた。最も緊張した態度で小柄ではあるが、加藤君とは自ら違った純真な青年らしい頬の赤いのは平野運平君であった。
「君たちはどうして電報を農商務局か移民収容所長に打たなかったのかね」
 私はこんなことを言いながら停車場をぞろぞろ外へ出て行った。
 五月でもサントスはむし暑かった。ホテルの名はもう忘れてしまったが、何でも薄汚い二階の部屋で、寝台には南京虫がうようよしていた。
 楽隊で歓迎されるべく期待して来た五人の通訳の寝顔をうす暗い電灯の光ですかし見た時、首の辺りに襲って来る南京虫を追っ払いながら、私は誰にも語られない寂しい心をどうすることも出来なかった。
      ×   ×   ×
翌日サンパウロ市に着くと、五人の通訳は、靴を磨き、例の山高帽と黒い背広とをきちんと着て水野龍氏のアプレゼンタソン(紹介状)のはいった大きな状袋を持参して、州農商務局に出頭した。案内役を務める私は何だかドン・キホーテの物語を実演する様な気がして、独りでくすくす笑って居た。
州農商務局ではこの堂々たる五人の通訳を応接間に迎え入れようともせず、ホールに立たせたまま私一人が土地課長に呼び入れられた。
「君五人の通訳をつれて行って移民収容所長にこの公文を上げてくれたまえ。」
 と只それ丈である。私はちと気の毒に思ったがどうすることも出来なかった。
 五人の通訳はサンパウロ州に於ける珈琲園のインテルプレテの地位を全然理解しないのである。通訳なんと言うものは精々ヒスカル(監督)位の所で農場の書記にも及ばないのである。
 水野龍氏から、鈴木は州の通訳官でモーニングに高帽でも被って歩くんだ。と言う風に扇動されて来たのである。純な青年の心はうれしいが、それを真に受けて、恰も外交官が信任状でも提出する様な態度で…州農商務局に出頭した心持ちを思うと、私はいじらしくなって人知れず心で泣いた。そうして
「この調子で日本内地で移民募集をされたなら、一体どうなるだろう。これは油断がならない。」
 誰にも言わなかったが、私は心ひそかに不安な念をどうすることも出来なかった。

          十
 移民収容所に於ける五人の通訳の仕事は、私の手伝いと言う頗る閑散なものであった。五人の各々余りにも違った性格が目立った。加藤君は説明を半ば聞かないうちに『うむ解った。』と早合点するが、その実とんでもない間違いを平気でやってのけた。大野君はぽつりぽつり物事を呑み込んで焦らないことは加藤君と正反対であった。仁平君はどうでもよいと言う風であったし、嶺君は解っても解らないでも、ぐずぐずしている癖があった。平野君は物事をはっきりと掴む点に於いて鋭い頭を持っていた。

 二十日ばかり経ってから、通訳達は今日は二人、明日は三人と言う様に交代に出勤することになった。二度目に借りた部屋はスペイン人の家庭でドローレスと呼ぶ美しい十七、八の娘が居たので、彼等の退屈な生活の賑やかな話題となり、人知れぬ暗闘もあるらしかった。嶺君はこの道にかけては第一の通らしく、ドローレスとの交渉に優れた手腕を見せて居た。ドローレスが手を握った。ドローレスが花をくれたと無いこと迄数え上げて馬鹿にされても、あの目と口元とに妙な皺をよせてへゝゝゝ
ゝと薄笑いして肯定した。当時サン・パウロ市のエロの街区であったリベルバダロー街(現日本総領事館所在地)の春を売る店に、聖市に着いたその夜早くも姿をあらわしたのも嶺君であった。
 加藤君は通訳の地位が、日本で聞かされて来たこととは似ても似つかない程下級なので口癖に移民会社を罵った。水野龍を悪魔のごとく痛撃した。いつこくでこうと心で思うと左右を顧みる余裕がないらしく、見様に依っては、それ程純であったとも言い得るが、悪罵することに一種の興味を感ずる風にも取れた。実際加藤君のこうした話はただ聞いた丈でも笑わずに居られない程痛快味があった。現在の私であったならば同感せずに居られなかったろうが、当時の私は水野さんを徳とし、温情の人として崇敬して居ったので、加藤君の度々のこうした態度は私自身が侮辱された様な気がして黙って居ることが出来なかった。
「加藤君、僕の前で水野さんの悪口することはお断りするぜ」
 こう言って憤然としたことを、今日もありありと思い浮かべることが出来る。
 私と最も共鳴したのは平野君であった。二人はよくペンニャの方へ散歩したものである。キンタ・バラーダの下に展開して居る原野の草の上に寝そべって、秋の夕日を浴びた都市を指さしながら
「サンパウロは大きくなるぞ。」
「この辺を少し買う金があったらね。」
「何か一つ大きなことをやって見たいな」
「ブラジルは土地だ。土にしたしむことを忘れてはいけない。」
 こんな話の終わりに私は何時も辺りに咲いて居る名もしれない草花をちぎり取っては投げ、投げては又ちぎり取った。平野君は限りない青春の夢を追うが如く、じいっと私を見つめてだまって居た。
 カンタレーラの連山が青黒い色にくれて、ピラテニンガの渓谷の所々に煉瓦焼工場の灯がちらちらする頃は、二人は何か惜しい落とし物でもした様に楽しい空想をふり捨てて立ち上がるのであった。

 五人の監督が着いた翌月、即ち明治41年6月23日愈々待ちに待った笠戸丸が、七百九十二人の移民を乗せてサントス港に着いたのである。
 大野、仁平両君の夫人が乗船しているので港頭に出迎えたいと言ったが、移民収容所長は必要を認めないと言って許さず、私一人サントスへ出張することになった。
その時出迎えに行った同勢は、公使館から三浦通訳官、皇国移民会社代表としてモンテーロ、藤崎商店員後藤武夫、移民収容所から派遣された私の四人であった。サントス港の岸壁に立った時は午後七時を過ぎていたので、真っ暗な江海の上に幾十となき黄色な灯をうつしている船が二つ三つ、浮いていたが、どれが笠戸丸であるか解らなかった。七月の祭りが近づいたので、ドッンドッンと言う花火、ふわりふわりと昇って行く灯した風船玉、静かな海の上にはこれ等の美しい光景がうつって夢の様に美しかった。私共を乗せた艀船が笠戸丸に着いて梯子を登って行くと税関の役人は上船を許さなかった。
 三浦さんは公使館員だと言う名刺を出し、私は州移民収容所長から、サントス移民収容所出張所長に宛てた公信を示して、漸く船内に入ることを許された。モンテーロと後藤君は三浦さんの斡旋で、まもなく上船したと言うことを聞いた。
 船内はごった返していた。夢見ていた珈琲黄金の国、移民会社の宣伝で十年間に幾万と言う金儲けの出来る国、五十幾日の航海をして、漸くついた港、船の上から見るサントス港の壮観は、未だ築港設備の完成されていない日本の港から来た同胞諸君を驚かすには充分であった。
 一直線の長い、長い係船岸、そこには珈琲を積む外国汽船で一杯になっていた。余り高い建築物はないが、無数な灯が前面にちらちらとして、はっきりと掴むことの出来ないが、反って彼等の懇情と憧憬のこころをそそった。
 船内に同郷同窓の親友、高桑次平君が自由渡航者として乗っていた。それは私にとって限りない喜びであった。高桑君以外に自由渡航者として、香山六郎、矢崎節夫、鞍谷半三郎夫妻、片岡夫妻が乗っていた。皇国殖民会社長水野龍氏、サン・パウロ市代理人たるべき上塚周平君も同船していたことは勿論である。
 上陸の手続きは夜の内に無事終了し、翌朝港頭に連結された汽車で、移民諸君は嬉々としてサンパウロ市へ出発した。
 移民収容所に於ける各県人の寝室割り当てについては、例の日本式を発揮して苦情百発した。特に宮城県人目黒静君の如きはその旗頭であった。
 移民収容所は日本移民待遇については全能力を挙げて歓迎したと言ってよい。かって使用した事のない浴室に湯を沸かせて「日本人はお湯が好きだから」と欧州式に一人一回で湯水を捨てて入浴せしめた。市街を見物させよと言うことで嫌がる五人の通訳に案内させて外出させた。黒い喪服の様な西洋服を着た女が、赤い花をくっ付けた扁平な麦藁帽子を被って、芸妓と言うオペラに出て来る女のちょくちょくした歩行ぶりでついてくる一隊の同胞女人諸君には流石の通訳諸君も当惑して、僅かにブラス区を一巡して、ここはサンパウロ市だと称し、市のセンターである三角区(トリアングロ)に達したものはなかったと言うのも笑い話の一つであった。
 配耕さるべき農場は各受け持ちの通訳を、前もって特派して観察させておいたので、万事好都合に運んだが、困った問題は移民会社が神戸を出発する折に、預かった金を返すことが出来ないため、紛擾をかもしたことである。
 内情を聞いて見ると、移民会社が移民出国について外務省に納入すべき保証金を作ることがどうしても出来ない。そこで万策つきて、ブラジルに着いてから渡すと言う口実の下に八百人の持っている移民の金をかき集めて漸く義務を完了したが、二ヶ月の航海中に金策する様になっていた(現代議士土井権太氏等)のが、当てごとと何かは先方から外れると言った諺の通り日本からの送金がないのである。沖縄県人などは持参金の殆ど全部を預けていたので特にやかましく苦情を申し立てた。
 その方をどうにかなだめすかして耕地入りを承諾させると、今度は通訳諸君に苦情が起こった。それは五人の通訳が日本を出発する折には、ブラジルに行ったなら羅紗の服を着て懐手でもしておればよい、君等は通訳官だと言う様に煽て上げられて来たが、扨て、耕地を視察して見るとなかなかそんな気楽なものでない。第一木綿服の必要があるが、これを買う金がない。その支度金を前借することが出来なければ農場には入らんと言うのである。如何にも道理のある要求であるが、皇国移民会社長水野龍氏は大きなホテルに宿っているが、矢張り金がないのである。そこでやむなく水野さんは、私が州政府から受け取るべき五十ポンドの旅費をもって五人の通訳諸君に分配し、僅かに事なきを得た。こう言う訳で私は当然私のものであるべきこの五十ポンドを手に取って見ることは出来なかったが、どうせ私には必要な金ではなし、日本移民発展のためになることなら、この上ないことであると、念頭にも置かなかった。
  配耕された農場と通訳とを挙げると
  農場名      駅名         通訳
 ヅーモン     ヅーモン       加藤順之介
 カナン      カナン        嶺 晶
 フロレスタ    イツ         大野基尚
 ソブラード    トレーゼ・デ・マイヨ 仁平 嵩
 グッタバラ    グッタバラ      平野 運平
 サンマルケンニョ サンマルテンニョ   平野 運平
 こう言う風であったが、平野運平氏一人で二農場を掛け持ちすることは不可能だと言うことになり、サンマルケンニョ農場へは配耕後二十日位の後、私が行かなければならないことになったのである。移民収容所を出ることについては、私は可成りなやんだ。どうせ再び農場に入るならば、チビリサに配耕させて、アンナのいるシュンポラヅに行きたかった。しかし日本移民のためだと言う犠牲の精神は私共のあらゆる不平を鎮める一大重石であった。行け、行け、どうせ日本移民の下敷きになるんだと言う心は、恐らく五人の通訳も皆同じであったろうと確信する。
                                        終



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