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「榎本武揚メキシコ植民地訪問」 村松 義夫 
カリフォルニアにお住みの東京農大OBの村松義夫さんが2001年7月に農大の「パナメリカ大会メキシコ」に参加のためにメキシコを訪問され、海外移住事業の先駆者である榎本武揚植民地を訪問された時の様子を解説されています。貴重な書き込みとして40年!!寄稿集の各国の移民の歴史欄に残して置くことにしました。1897年5月(笠戸丸移民の11年前)最初の日本移民35名の独身青年が数千キロ離れた移住地「アカコヤグア村」に徒歩で向かった。日本移民はこうして始まった。写真は、村松さんが送って呉れたアカコアグア村の榎本公園内に1966年3月20日周辺の日系人によって建造された「榎本武揚植民地慰霊記念碑」の写真を使わせて貰うことにしました。


東海林さん、皆さん、
 幸せに満ちた素敵な写真拝見しました。幾多の苦難を乗り越え、大和男の根性が現在の地位を気付いたと確信しています、移住先国の港に下船し「この国に骨を埋める」誓いと覚悟こそ真の移住者の真髄と感激しています。

 2001年7月私はメキシコシテーに飛んだ、農大の「パンアメリカ大会メキシコ」の開催に出席する為でした、ブラジルの交友がサンパウロで始めた大会が、その後アルゼンチンの交友に引き継がれ、第3回はパラグアイの交友主催で開催されて行った。
 メキシコの交友主催の大会は第4回目となり米国在住交友5名と共に出席した、大会主催者は大会目的を掲げて広く南北アメリカ在住の交友、農大本部教職員と学生、そして日本国内の交友の参加を呼びかけた。メキシコ大会の目的は「国立チャピンゴ大学と農大の提携調印式」「榎本武揚メキシコ植民地訪問」であった、参加者は総勢50名で本部からも理事長・学長・校友会長・交友が出席されていた。

 海外移住事業の先駆者である榎本武揚植民地について解説する。
 日本とメキシコとの国交は1891年10月に提携され、最初の日本国総領事館がメキシコ市に開設された、その後「外務大臣・榎本武揚」は最初の日本移民をメキシコ政府と企画し、チャパス州のガテマラ国との国境に近い地に移住地を購入し、日本から独身青年36名を募り「イギリス商船ゲーリック号」で横浜港からプエルト・マデロ港に送り、1897年5月10日船内で1名の病死を出したが35名が無事到着した、一行は港から馬車に荷物を積込み数千キロ奥地の移住地「アカコアグア村」に徒歩で向かった、これが日本人の最初の海外移住計画であった。
 地域は熱帯雨林のジャングルであり密林を切り倒し「焼畑農法」を始めたが大変な苦難の連続であった、村の住民は彼らを助け協力してくれたがマラリアや黄熱病で死者も出した、コーヒーの産地を目的としたが3年間で半数が移住地を後にし、周辺の町に出て労働者になったり商売を始めたりして生計を繋いだ。

 年月が経ち農業や食品加工や商売等で次第に自立でき、独身者は地元の女性と結婚して家庭を持ち二世の誕生を迎えて行った、村に学校・集会所・診療所を建て村民の子弟の教育と村民の医療を充実させていき日系人の地位は村民に認められて行った、太平洋戦争勃発で日本はメキシコにとっての敵国となり、周辺の日系人は首都の収容者に集められた、村民は首都に代表を送り大統領に直に嘆願した「日本人は敵国人ではない、村に多大なる貢献をした功労者であり、我々と同じメキシコ村民である、村に返して欲しい」と、大統領は村民の訴えを理解し全員に身柄保障証明書を持たせて帰村させたと言う。二世、三世は高等教育を受け一世の農業後継者、事業拡大、医師、歯科医、地区政治家、町長、公務員、会計士、弁護士等となって行った、コーヒーやカカオの産地となり、野菜や果樹の生産加工も繁栄している。日墨の混血二世、三世、そして四世、五世の時代がきている。1966年3月20日周辺の日系人によって「榎本武揚植民地慰霊記念碑」が建造された、場所はアカコアグア村の榎本公園内である。

 我々大会参加者全員はこの地を訪れ慰霊碑に黙祷した、そして町民達が歓迎祝賀会を開いて下さり村民と大いに歓談する事ができた、104年目の訪問であり三世、四世達はメキシコ人であり、容姿に日系人と認識する事は出来ないが、姓名に「スズキ、スギヤマ、ヤマダ、タカハシ」等の日本名が確認できた、そして日本人の文化・習慣も受け継がれ会場には「いなり寿司・巻寿司・天ぷら、赤飯」まで用意されていた、歓迎の頭を下げお辞儀し、おもてなしの習慣には一同日本人のDNAを見つける事ができた、一世、二世の墓は日本の墓と同じであった事にも感動した。

 「榎本武揚」はご承知のとおり最後まで幕府軍で函館の五稜郭で官軍に降伏する、しかし薩摩藩の黒田清隆にその博学を認められ生かされ、官軍の政府に協力し海軍大臣を始め要職に就いた。生海外駐留を始め各種要職に抜擢されて行った、北海道の開拓に貢献したり、東京農大の前身「三島農学校」を創設し富士の裾野の開拓に貢献した。「榎本武揚」が農大の創設者である事に農大生は誇りを持ち、また海外雄飛を最初に企画しメキシコで実行した移民政策の生みの親である事もあり、1960年代には多くの農大生が南米ばかりでなく、中米や北米へ移住者を送り出した事も受け継がれている、1970年代からは東南アジア、アフリカへの日本政府による青年協力隊員として農業支援活動で派遣されている。一部資料は「榎本植民地」から抜粋。  村さん-CA

 写真:@記念碑「夏草やつわ者共の夢の跡」A記念碑前撮影 Bメキシコシテーでの集合 Cブラジル先輩、アルゼンチン同期、私



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