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『女・博打・農業』の共通点 東海林 正和
神戸高校出身の東海林正和さんは、文筆家でWordpressにホームページを開設、10年前の2010年から折に触れ「ブラジル放談・男のエッセイ」を執筆しておられる。幾つか40年!!寄稿集にも掲載させて頂いていますが、最新の8月28日に投稿された掲題の「女・博打・農業」の共通点を送って呉れましたので40年!!HPに残して置くことにしました。セラード開発に自ら投資、倒産した苦い経験から農業の難しさを実感し女・博打との共通点を味わったと云う実体験に基づく笑えない話が面白い。写真は、ブラジルのセラード開発で偉力を発揮するシャワーを装備した500メートルのアームが時計の針のように回転するビヴォーの写真をお借りしました。


(108) 「女・博打・農業」の共通点
投稿日: 8月 28, 2020投稿者: mshoji
 出稼ぎブラジル人たちを対象に、ポルトガル語新聞を発行するために日本に滞在していた2000年、東京で、ブラジル農産物の展示会が催された。特に目的は無かったが、ブラジル関係のイベントということで会場を訪れた私は、たまたま農産物の大手仲介業者「サフラ社」のブースに立ち寄った。中年の社員が一人いて、手持ち無沙汰の様子だったので、腰を下ろして雑談になった。サフラ社に長年勤め、ブラジルの農業には精通しているという同氏は、問わず語りでブラジルの農業について話してくれた。今では近代化された超大型農場がひしめき、ブラジルの主要農産物の中心地になっているセラードは、当時は未開発の荒れ地で、コーヒーや穀物類は、ブラジル全土に散在する個人経営の農場で生産されていた。サフラ社は、それらの農場から農産物を買い集めて輸出しているという。同氏曰く、「ブラジルでは農業で金を残すことは不可能に近い。大きな農場も実情は借金まみれだ」。ひとたび借金をすると、インフレと高金利で、残高がたちまち膨れ上がり、豊作でも相場が下がれば利益は出ず、天候不順や霜などで不作にでもなろうものなら破産はまぬがれないというのが、ブラジル農業の現状だという。その反面で、農業に関わる産業、例えば農機具や肥料の製造業者、農産物仲介業者、農業コンサルタントなどは、それなりに利益をあげているが、農業そのものに携わる者は、女と博打にのめり込むのと同じように、一途に破産への道をたどるという。女と博打は、破産するまでの過程で、結構楽しめるが、こと農業に関しては苦しみの連続で、楽しむこともなく破綻に至るので、中でも最悪だという。女・博打による破産は納得できるが、農業も同じだというブラジル人独特のジョークを交えた説明を、私は半信半疑で聞いていていたが、その話が、間もなく身近で現実のものなろうとは、知る由もなかった。
私の義兄(家内の兄だが、私より12才年下)は、腕のいい眼科医で、ロンドリーナ市内で診療所を開業しており、結構繁盛していた。彼の妻は、パラナ州では名の知れた大農場主の息女であった。折から、田中角栄が来伯し、セラードに魅せられて、日伯共同によるセラード開発プロジェクトが立ち上がった。

広大なセラードと呼ばれる地域
その内容は、既存の農業経営者にセラードの土地を、格安且つ長期融資で提供するという好条件のものであった。そのプロジェクトに魅せられた義兄は、医者をやめて診療所を売却し、義兄(妻の兄)と共同出資でセラードの土地を購入して農業に転身することを決断した。購入した土地は、約280アルケール(1,600万平米)で、前後左右の地平線まで広がる膨大な土地であった。義兄はロンドリーナを引き払って、セラードの一角、バイア州の西に位置するミモーザにある農場に引っ越した。セラードには雨が降らない。土地には小川が横切っていたので、当初はその水を灌漑に活用できる範囲で、綿やトウモロコシを植え付けたが、それだけでは採算が取れない。そこで、銀行融資を受けて、「ピヴォー」と呼ばれる、灌漑設備を導入した。ピヴォーは軸を中心に、無数のシャワーをぶらさげた、長さ500メートルのアームが、時計の針の様にグルリと回転し、半径500mの円形(面積79ヘクタール・東京ドーム17個分)に散水することが出来る。当時は未だ電気がなかったので、小川から水を吸い上げる動力は、重油発電機を使用した。

シャワーを装備した500mのアームが、時計の針の様に回転するピヴォー
計画では、そのエリアにコーヒーを植えるというものだったが、苗木の購入に必要な資金が不足していた。銀行融資の枠は、ピヴォーの購入で使いきっていたので、土地を担保にして、投資家を募ることにした。私にも、家内を通じて投資の誘いがあり、その時初めて義兄の医者から農業への転身ストーリーを知った。何はともあれ、百聞は一見に如かず、私は家内と共にセラードの農場を見学に出かけた。ブラジリアから1時間のフライトで、バイア州の西端にあるバレットスに着く。そこからレンタカーで農場に向かった。農場のあるミモーザまでの200kmが、一つのカーブも無い一直線で(緩やかな起伏あり)約2時間、ハンドルを切る必要が全くなかった。セラードの、ほんの一部分を走行しただけだったが、その規模が、とてつもなく膨大であることを、何となく感じることができた。ミモーザに着くと、初めてわずかなカーブがあり、それから数分で農場に到着した。
そこには、燦燦と輝く太陽の下で、なだらかな起伏を伴った土地が果てしなく続いており、義兄ならずとも、男なら、誰もが壮大な夢を抱かずにはおられない光景であった。私は、開業医という恵まれた環境を捨ててまで、農業に転身した義兄の決断に納得し、彼を誇りに思っただけでなく羨望すら感じた。

地平線まで続くセラードの大地
私は、初めて見る灌漑設備「ピヴォー」のスケールの大きさに目を見張り、雨が降らなくても、年中太陽の恩恵にあずかり、霜の可能性がゼロのこの土地では、コーヒー栽培が成功する可能性は極めて高いと思った。義兄の作成したプロジェクトには、ピヴォー・エリアに少なくとも25万本のコーヒー植樹が可能とされ、当時のコーヒー相場価格と予想収穫量を掛け合わせた試算表と、収穫までに要する期間として3年が計上されていた。一基の「ピヴォー」がカバーする面積は、農場全体の5%に過ぎず、プランの成功に伴って、一基ずつ増やしていく計画とのことであった。それを見て、私は義兄に協力を約束した。そして企画書を手にして東京に戻り、何人かの友人に話をしたところ、2名が興味を示し、投資をOKしてくれた。
一年後、苗木が植えられた時点で、投資した友人二人を伴って、私は、再び農場を訪れた。今回は、ブラジリアからテコテコ(単発の小型機)で、農場に向かった。2時間のフライトで、テコテコはセラードの上空に差し掛かった。驚いたことに、あれからたったの一年しか経っていないにも関わらず、上空から見たセラードは大きく様変わりしていた。去年はピヴォーがポツンポツンと点在していたものが、今では一か所に10、20基がまとまって設置された農場が、あちこちに見られるようになっていた。義兄の農場の上空に差し掛かると、テコテコは大きく旋回し、農場内に造られた滑走路に砂埃を巻き上げて着陸した。

10数基のピヴォーを備えたセラードの大農場
テコテコから見た壮大なセラードのエリアと、群がる無数のピヴォーに感嘆して言葉を失っていた友人たちは、農場の滑走路でエンジンを止めたテコテコから降りて大地に足を踏みしめた時、セラードの限りなく大きな未来を確信したようであった。ピヴォー・エリアには、25万本の苗木が見渡す限りに整然と植えられ、順調に育っていた。それを見た友人たちは、安堵したように、表情をほころばせた。

実ったコーヒー
そして3年が経過し、コーヒーは豊かに実り、全て順調に収穫期を迎えた。唯一の誤算は、コーヒー価格の暴落だった。世界中が豊作で、相場価格は3年前の半分にも満たないものになっていたのだ。採算は3年間で費やした経費とトントンで、利益はゼロだった。コーヒーの相場はそれから3年経っても回復せず、長期融資で購入した土地の支払いは、インフレと利子で支払っても支払っても残高は減らず、3年後には、義兄はとうとう農場を手放すところまで追いつめられてしまった。折から、農場には待望の電気が導入されたが、ピヴォーの数を増やす余裕がなかったので、農場経営が好転することはなかった。農場を手放した義兄は、売却金から借金を清算し、手元に残ったわずかな資金で、鍼医になるべく、修業のために中国に渡った。修業を終え、プロの鍼医として帰国した義兄は、バイア州の州都、サルバドールで小さな診療所を開業した。元々医者だった彼は、鍼医としても有能さを発揮し、どんどん顧客も増えて、診療所経営は軌道にのっていると聞く。十数年に亘って農業に携わった義兄は苦労の連続で、サフラ社の社員が言っていたように、人生を楽しむこと無く破産に至ったが、元医者であったことで、かろうじて人生をたてなおすことが出来たことは、不幸中の幸いであった。(完)




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