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「ドニエプル」(その2) 川越しゅくこ
しゅくこさんの「ドニエブル」(その2)は、念願がかなって乗馬クラブの会員になりアルバイトを兼ねて馬の世話をさせてもらえるようになり乗馬クラブでの活動が生き生きと描かれている。趣向を変えて馬好きの東海林さんのコメントをお借りすることにしました。『しゅくこさん 「ドニエプル」読ませていただきました。文章の生々しさから、フィクションとは思えず、少なからず、ご自身の体験が元になって綴られたストーリーのような印象を受けました。馬と親しんだ人にしか解らない、馬と人との心の交流の真実と、それに伴うチエの若さ故のリアクションが、良く表現されていると思います。ただ、ストーリーはあくまでも女性特有の感性によって描かれており「馬と女性」の関係と「馬と男性」のそれとは、かなり違うことが感じられ、それが私にとっては新鮮で、興味深く読ませていただきました。東海林』写真もしゅくこさんが送って呉れたものを使わせて貰っています。


3) 午後のクラブは小学生から八十才までの会員たちの笑い声がテラスにあふれていた。テラスから見下ろせる広い馬場は四つに分かれている。そして、一段低い丘陵の、桜の大樹に隠れた第五馬場は、自分の馬を持っている会員や、フリーで一人で乗りたい会員たちのためにあった。第一馬場では、指導員たちが特訓生を教えている。おもに、競技会にでる若手会員たちだ。色鮮やかな高い障害を、数頭がつぎつぎに飛び越えていく。隣りの第二馬場では初級障害班の七、八頭が、平行に並べた地上木を速歩でまたいでいく。第三馬場は馬場馬術班だ。指導員の号令で、一本の輪が直線になり、つぎにたちまち二本の線に別れた。号令がまたかかると、その線は十文字に交叉し、また元の輪になった。初心者専用の第四馬場に目を移すと、なかば居眠りの栗毛が、初老の婦人を乗せて、指導員に曳かれている。強力ボンドをくっつけたように手綱を握りしめているその拳は、どうやら今日が初めてらしい。
馬のいる風景を飽かずながめながら、わたしの目は無意識にドニエプルを探している。どうやら、馬房にいるらしい。馬場を囲む洗い場はにぎやかだ。蹄裏(ていり)の泥をかき落としてもらう馬、鞍を着けてもらう馬、陽気な叫び声、馬具のすれあう音、そして鉄を焼く焦げくさい匂い。真っ赤に焼けた蹄鉄(ていてつ)はプラスチックのオモチャに似ている。装蹄師がそれに金槌をふるう姿を見るのも好きだった。
わたしは顔見知りに会釈し、鼻歌を歌いながらカフェテラスへの階段を二段ずつかけのぼった。テラスもまた寛ぐ会員たちのさんざめきとコ―ヒ―の香りに充ちている。そのとき、一番手前のテ―ブルからわたしを呼び止める声があった。練習を終えて寛いでいる塾年チームの連中だ。全員が五十才以上という彼らは、クラブの創立時からの会員たちで、そのしゃんとした背筋に乗馬歴が刻まれている。色の白い顔など一つもない。
「元気ですか、ルンナは」
 声の主の元教師に、彼女の愛馬の具合を訊いてみる。それがわたしたちの挨拶なのだ。「肩痛めたからね、ハリを打ってもらったのよ。しばらく休ませてるわ」
「うちのは、指導員の調教が良すぎて、自分の馬なのに恐くて乗れなくなったよ」
 舌打ちする、同じテーブルの高石。彼らは五百万円以上の乗り心地のよい、しかもしつけのよくできた馬を持っていて、それをクラブに預け、毎日乗りにくる。汗を流したあとのお茶は、わたしたちヤングより格別らしく、互いの馬について語りあうその声には若やいだ活気がある。最後には、決まってどこかしら体の不調をもらしながら、おもむろに席を立ちおひらきになる。いつもの決まったパターンがわたしにはおかしかった。話しもそこそこにクラブハウスの奥にある着替え室へいそぐ。途中、喫茶室で客と話し込んでいる亜希ちゃんと目で合図をして。

 いったんキュロット(乗馬ズボン)にはきかえ、長靴が脚に吸いつくと、ヘルメットをつけるのももどかしくテラスからかけおりた。選定所の前を通りすぎた時、ふと足が止まった。窓口をのぞくと、なじみの係員が選定中だった。
「ドニはもう出たの?」
「いえ、今日はまだだけど」
「あいていたら、一度乗ってみたいな」
 思わぬ言葉が口から出ていた。係員はわたしとコンピューターを交互に見て
「いいんですか、あの子は初心者用で重いですよ。いまなら空いてますけど」
「ええ、無理にとは言わないけど、もしよかったら・・」
 その言葉が終わらぬ内に、わたしの心臓はドギマギしていた。

 ドニは他の馬と違う電波を送ってくる。わたしの感覚もそれに共鳴する。でも乗ったらどうなるのだろうか。みんなが言うように、本当に安全だが重いだけの馬なんだろうか。わたしは興奮を押さえられなくて、小走りにB厩舎に向かった。
 ドニはこちらに尻を向け、石の壁に鼻面をくっつけるように静かに立っていた。馬栓棒をはずしても、しらんぷりを装っている。
「ドーニャ」
 そっと呼んでみる。近づくにつれ、とたんに息苦しくなる。今、眠たいのに仕事をするの、とでも言いたげに体を回した。無口をつけてうながすと洗い場へのっそりついてくる。蹄裏の泥をかきおとし、体をブラッシングし、脚元にプロテクターもつけた。いよいよ 背中に重い鞍を押し上げたとき、わたしはいつもの平静さを取り戻していた。上の空で乗っていると、だらだらした騎乗になるか、大怪我をするかどちらかだ。それくらいの理性は身についていた。頭洛(とうらく)をつけて手綱(たづな)を軽くひくと、ドニはちょっと気の進まないふうに脚をふんばっていたが、わたしの足並みに合わせて第五馬場の方へ下りていった。こうして並んで歩いていると、まるでドニはわたしの馬のように思える。
 広い馬場の片隅で上柳教官と桜王の姿があった。桜王は馬体を丸く収縮し、ゆっくりした駈歩の小さな輪を描いている。その一角は、人馬が一つに溶け合った時にだけ醸し出し得る特別な舞台となっていた。人馬の間に無理強いされて起こる無駄な力のかけらもない。
 反対側の隅でわたしは一呼吸して飛び乗った。ところが、腰が鞍におさまる前に、ドニはわたしの指示を無視して勝手にぐいぐい歩きだしたのだ。すばやく腰をおさめ、鞍がずれないように、もう一度左指で腹帯をしめなおした。ドニは、尻尾に鉄の塊でもぶらさげているようにのろのろと動く。いかにもお義理に動いているといったぐあいだ。わたしはだんだん頭にきていた。馬体が温まったところで駈歩を命じた。けれども反応のさざなみが立ってこない。それどころか、首を前肢の間に巻き込み、右肩だけ突き出して走る。まさかとは思ったが、左右の手綱の長さ、頭絡やハミの着け方に問題がないかと調べてみる。そんなヘマをするわけがなかった。やっぱり会員たちの評判どおり、この程度のやつだったのか。騎乗時間が残り三十分。この背にいるかぎりしゃんとしていなければ、いつ叩き落とされて、母に迷惑をかけるかもしれない。馬体の動きに注意を払いながら、指先と両脚にはっきりした意志の指示を送ってみる。
それは初心者用に使われている間に長らく運動を忘れられていた筋肉が硬くなっていたのである。わたしはかれの筋肉をほぐすことに専念した。人間と同じことである。
 ようやくわたしの腰や太腿はかすかな変化をとらえはじめた。なめらかな波だ。よ―し、よ―し、と声をかける。それでも馬はすきがあれば、内方へ内方へとよじれ、できるだけ小さな円ですまそうとする。ドニはいまわたしを試そうとしている。(敗けはしないよ、あんたになんか。ほら、わたしは他の人とは違うんだからね)汗の玉を瞼の上に感じながら、内方の脚で馬体を外へ押し出す。五百キロの頑固な塊。馬場の時計が騎乗時間の三十分が過ぎたことを示している。一瞬脚がひきつって、わたしはうめき声をあげた。抜け目ない駆け引きの根比べだ。騎乗時間があと十分で切れようとしている。その時、馬の肩こりがすっと引いた瞬間があった。ドニは踊るようなフットワ―クで走り始めたのだ。わたしの指示通り、馬場にきれいな8の字やSの字模様を描いていく。その波に乗って、ゆるやかな速歩で中央の三十センチ高さのバ―に向ける。ドニは飛んだ。いや飛んだはずだ。飛越した瞬間、騎座の内側で柔らかな馬体が伸縮した。振り返るとたしかに障害は後ろにある。ドニはすれすれのところを飛んだのだ。急におかしさがこみあげてきて、体がくにゃくにゃしてしまいそうだった。するとドニの体もマシュマロのように柔らかくなった。そして驚いたことに、ハミを通してわたしの拳の中に絶えずコンタクトを求めてくる。ついには喜んで砂を蹴りはじめた。わたしの髪の毛はほとんど揺れていない。それは上体が安定して、人馬一体になったときに起こることだった。何周かしてドニを停止させた。上から首を抱きしめ、立髪みの中に鼻を埋めた。わたしの目が濡れていた。乾いた草の香りが肺にしみる。かれがどんなにいい子だったか伝えるためになんどもなんども愛撫した。
顔をあげると、誰かの視線に気づいた。となりの高い馬場から上柳教官が桜王をとめてこちらを見ていた。彼のいることをすっかり忘れていたのだ。わたしはなぜか恥ずかしくなって下馬した。とたん足が萎えたようになって、その場に尻もちをついてしまった。役目を終えてせいせいしたドニは洗い場へ急ぐ。わたしは手綱を持ったまま引きづられ、ころがされ、大声で笑いながらののしる。
 洗い場につながれたドニは、意外なほど荒い息を吐いていた。湯のシャワ―で丸洗いすると、馬体から白く濁った汗がとめどなくにじみでてくる。きっと初心者にていねいに洗われた試しがないのだろう。立髪の付け根に、フケも固まっている。口を開けさせて、サイコロ型の歯もタオルでこすってやる。歯はすこし黄色っぽくてすり減っていた。乗ることも、後の手入れも同じくらい好きだった。今日はいつも以上に触っていたかった。尻尾をつかみあげて肛門もていねいに洗う。かんな屑の匂いがする。よく使い込んだ革製品に似て滑らかだ。そんなところに顔を寄せていると、馬によっては嫌がったり、ハエをおったりする脚で一発見舞われることがある。けれどもなぜか今、その危険はまったく感じなかった。ドニは後肢をふんばって首をねじまげ、こちらを見た。そのしかめっ面の目と合った時、わたしはくすくすと笑った。すると彼は荒縄のような尻尾でぴしゃりと一発、わたしの頬をぶったのだ。
 さっぱりしたドニを厩舎にかえし、持参のハチミツ入りニンジンパンを差し出すと、温かいごむまりに似た唇がわたしの手の平をまさぐる。こんなにおいしそうに、ハチミツ入りニンジンパンを食べる馬は初めてだった。

わたしは喫茶室の亜希ちゃんのところに飛んでいった。途中階段を上がったところのテラスに、まだ高石たちのグループが楽しげにお茶を楽しんでいた。
 最古参の彼はセンタ―の設立に関係していることが自慢の種で、教官にたいしても、「上柳君、あの指導員は馬のとり扱い方がわかっちゃいない。一から教え直してやれ」などと、若い指導員を顎でしゃくったりする。けれども、教官はにこにこして、上客の話し相手をそつなくこなしている。
高石がわたしの方に手をあげた。わたしはかれが苦手だった。目を合わせたくなかったがすぐに呼び止められる。
「チエちゃん、なにに乗ってきたの?」
「ドニエプルです」
「ドニエプル? あのどてっとしたやつか、あいつは安全だが人を見やがる」     (あなたは笑うために、その頬の筋肉を一度でも使ったことあるの?)とわたしは内心で悪態をつきながら、それでもにこやかに応対する。でも鋭い目付きにひるんで、やっぱりおもわず目をそらせた。「あ―いうのはな、バシバシ鞭を入れりゃいいんだ。年を食ってずるくなってる」(ふん、あなただって・・)
「たしかに、あの子は評判どおりはじめは重かったですよ、でもわたしが乗ったら、不思議にがらっと変わったんです」
 わたしはいつのまにか、ムキになりながらドニの弁護にまわって不思議な印象について話した。高石は椅子にそっくりかえった。他の連中は、それはまれにあることだと口々にもらしていたが、かれは唇の端に皮肉な嗤いを浮かべてわたしを見上げている。わたしは口を閉じた。「しかし、あのドニエプルにねぇ」
 と、あらためて半信半疑のまなざしでわたしを見つめる。
「ドニの障害の飛びかたって、省エネタイプなんですよ」
「省エネタイプ?」
 そう言うと、元教師と医師が声をたてて笑った。自分の馬しか乗ったことのない彼らは、そんな話を面白い発見のように思うのだろうか。
「え、あまり無駄な力は使わないんです。乗り方しだいです」

そう言ってわたしも笑いながらテ―ブルを離れた。これ以上の説明は理解してもらえないだろろうと思った。その上、内心は自分の馬をけなされたようで穏やかでなかった。わたしは奥の喫茶室へ足を速めた。こんな時、亜希ちゃんとおしゃべりするに限る。背中のむこうで彼らのおしゃべりの声がまだ耳にはいってくる。
「でも、チエちゃんの技術はすごいって話しをよく聞くわよ。天性のものを持っているって、上柳さんが誉めてたわ・・」

 亜希ちゃんはカウンターのむこうでガラスコップを磨いていた。一歳しか違わないのにピアスをつけた横顔は、喫茶室の女主人といった風格すら備えている。Tシャツごしに揺れる胸はもう立派な大人の様だった。客のいないのを見計らって、わたしはカウンターに腰掛け、ドニとの間に起こった不思議な出来事や騎乗時の素晴らしさをひとしきり喋った。あまり夢中になっていたので、客がきて注文を聞いていることすら気づかないくらいだった。コーヒーを出した後、彼女は話題を最近のペガサス情報に変えてしまった。
「裏の農家のキャベツ畑に夜遊びに行くのがまだ続いてるのよ。かれはわたしよりも可愛がってくれてるかも・・」
「かれ? へえー、そのかれって、厩舎のおがくずをトラックで貰いにくる人よね」
 亜希ちゃんは口元をほころばせながら頷く。無農薬野菜を売り物とした農業を継いで、黙々と畑でトラクターを運転しているその青年の姿は、わたしもたまに目にしていた。かれはクラブにくると喫茶室でお茶を飲んで帰る。髪を後で束ね、切れ長の涼しい目をしたそのかれと、亜希ちゃんが話している時は、割り込めないものがある。
「ペガサスに、きちんと餌やってんの? 亜希ちゃん。しつけが悪いよ」
「もともと、食い意地がはってんのよ、あの子。口が暇なときは、濡れタオルをしゃぶってんだから・・それにね、チエ」
 亜紀ちゃんは笑いながらこっそり言った。
「キャベツ畑から、かれの手紙を、立髪に結びつけて持って帰ってくるのよ」
「ラブレター?」
「野菜のこととかいろいろね。パソコンなんかより面白いわよ。だからこっちからも息子がお世話になりますって返事をことずけるのよ」
 わたしたちがひとしきり笑ったあと、
「チエ、馬を持ちなさいよ、やっぱ、可愛いわよ、自分の馬は」
 と亜希ちゃんが真顔で言った。彼女は気楽で無邪気な馬愛好家である。犬やネコを飼うのと同じような感覚だ。腕をあげて、試合に出るなんてことはまったく興味がなかった。そんな彼女とわたしが馬の話しをする時、いつのまにか、どこかにずれのあるのを感じていた。うすうすは感じていたことだったが、それは最近、ますますはっきりしてくるのだった。
「そうね、いずれにしてもまだまだ先の話しよ」
 本気とも、でまかせともつかぬ言葉がもれる。その時、心の中にふとドニエプルがよぎったのだった。亜希ちゃんはすぐにそれを察したのか
「ドニは無理だよ、あれはクラブの初心者用の看板馬だから・・・、ちょうど桜王が競技用の看板馬であるようにね。上柳教官はどんなことがあっても、あの二頭を手放なすことはないよ」
「うん、分かってる」
「このクラブは、いい馬を世話してくれるから持ってみると好きになるもんよ」
「そんなもんかな」
 ココアがわたしの前にきた。甘い濃いチョコレ―トの香りが、陽のあふれる喫茶室に広がった。二人の間にしばらくの沈黙があった。わたしはじっとココアの中を見つめていた。亜希ちゃんはそんなわたしの上に視線を落としていた。それからおもむろに口を開いた。
「そんなに入れ込んでるんだったら、一度、上柳教官に頼んでみるのもいいかも」
「無理でしょう」消え入りそうな声がわたしの口からもれる。
「彼はチエを気に入っているようだから、意外な結果になるかもしれないわよ」
 気にいってる? そんなことは考えたこともなかった。
「ドニだっていつまでも若くて元気でいるわけじゃないもの。このままだと、死ぬまでとことん使われることになるわよ。どうせなら、可愛がってくれる人の持ち馬になる方が幸せかもしれないし」
「たとえそうでも、買えませんよ、そんな」
「だったら」と亜希ちゃんはちょっと眉をしかめ、意外に強い口調でさえぎった。
「そのフィ―バ―ぶりは少し控えて、選手になるために集中しなさい。特別の会有馬に強い思い入れなんかしちゃダメ」
「ハ―イ」
 亜希ちゃんはココアをおごってくれ、わたしは午後のアルバイトをするため席を立った。そしてなにかしら心にひっかかるものを抱きつつ、テラスから階段を下りていった。彼女の言った言葉が心をよぎる。
(上柳教官はどんなことがあっても、ドニを手放さない)
その日、帰る前に、ふともう一度B厩舎に足を向けた。  
帰り際、ドニをちょっと覗いてみるのも習慣になっていた。厩舎は、いつも弱い光を抱いてひっそりとしている。馴染みの小柄な馬丁が、一輪車に夕餌のヘイキューブを積んですれ違っていく。ドニの馬房に近づくにつれて、わたしの心臓は、条件反射を起こしたように平常なリズムを崩していた。目の前に巨大な尻があった。その向こうに隠れた瞳は、どうやらまどろんでいるらしい。鉄扉の柵に顔をおしつけて声をかけた。すると突然、ドニは意外な早さで体を回し、白目の目立つ目を三角に尖らせた。わたしはとっさに飛びのいた。なんという醜い顔!耳を倒し、歯をむきだし、わたしに脅しをかけているではないか。ドニはあっちへ行け!とばかりになんども顎でしゃくる。はっきりした拒絶だった。わたしは逃げるようにその場を離れた。これは一体なにを意味していたのだろうか。
外へ出ると、夕暮の深みのなかにポツンと置き去りにされたような気がした。めまいを覚えつつ、わたしの足は機械的に林道を下りていった。山々はもう夜にむけて、ひっそりとうずくまる。
振り仰ぐと厩舎の屋根に、針で突くと黄身の垂れそうな夕日がかかっていた。  
その夜、ベットにもぐりこんでも、その日の出来事がつぎつぎに浮かんできて頭が冴えるばりかだった。ドニの動きがまだ皮膚の隙間に残っていて、あの奇妙な交流が甦ってくるのだった。

4) 翌朝、まだ街灯のともる道路を、わたはオ―レ牧場に急いでいた。交差点の角までくると、チロルの明かりと湯気が見える。いつものようにハチミツ入りニンジンパンと、自分のためのクルミパンも買った。林道の中腹までくると、馬糞や乾草の匂いが鼻をかすめ、わたしの肺は一層活気づいてくる。  
その日の朝は、A厩舎の自馬会員の馬房掃除を三つ当てられていた。その前にわたしはニンジンパンを持ってドニのいるB厩舎に向かっていた。少しの戸惑いがわたしの足を鈍らせている。厩舎に近づくにつれ、きのう初めて曳きだした時のあの奇妙な緊張と、帰りぎわに示した悪魔のような顔のドニが、ふたたびわたしの心臓をしめつけてくる。ドニとはなんの関係もない、と努めて思おうとする気持ちに反して、足の方は不思議な力で引かれていく。白馬は珍しく横たわっていた。顔をおがくずの寝床に突き立て、いかにも疲れた感じだ。人間なら両手に顔を伏せ、うつらうつらしていることになる。昨夜もたくさんの会員を乗せて働いたに違いない。わたしはドニの邪魔をするつもりはなかった。そっと鉄扉の外に立って見ていた。すると、馬は顎をすこし上げた。
「ド―ニャ」
 驚くほどおどおどした声がわたしの唇から漏れる。馬の瞳はなんの警戒心もなく、かといってわたしに焦点を絞っているわけでもない。
「ドニヤン」
 馬ははじめてわたしに焦点を絞った。それから四肢をかいて立ち上がろうとする。
「いやいや、どうぞそのままで」
 わたしは恐縮して言った。かれは前肢をおもむろに伸ばし、反動をつけて立ち上がった。体を二、三度ゆすって脇腹のおがくずを払い落とし居ずまいを正した。それからのっそりと近づいてきた。鉄柵にからみついたわたしの指に温かい唇を押しつけてくる。ドニの息が魔法のようにかかって、かちかちの指が解けていく。息苦しい。こんどは頬を痛いほどこすりつけてくる。ドニがいつまでもそうしているので、わたしもそれにこたえて、手の甲を彼の頬に押しつける。きのうの朝と同じことがまた繰り返されている。こんなことってあるだろうか。わたしはしばらくドニのするにまかせ、それから彼の好きなハチミツ入りニンジンパンを与え、胸からこみあげてくるものを押さえるようにして厩舎を出た。生暖かい空気が頬をかすめていく。
 
その日の午後、選定所の窓口で、指導員のリーダー、赤松くんに乗馬の名をきくとカシュナットにあたった。亜希ちゃんの情報によると、なんでも鞍傷(あんしょう)ができ、おまけに馬房に入る時につまづいて転倒し、ひどい怪我をしたそうだ。カシュナットには災難が続いていた。「今日は久しぶりに出すんだ。体が張ってるから気をつけて」
 赤松くんはニヤリと笑う。年配の人に乗せるより、若いわたしに回ってきたのよね、とわたしは目で答える。会員に出す前の下乗りの意味も込められている。それをうまく乗りこなすことがまた指導員になるの条件でもあった。病み上がりのその鹿毛は、肋骨が浮き出ていた。わたしは常歩(なみあし)をほとんど取り入れて筋肉をほぐしていった。学校の机にまたがっている方がまだましで、下馬すると、もう少しのところで腰がはずれるそうだった。そんな馬になってしまったことに胸が痛む。 突然、馬は埒に沿った大鏡の中の鳩が飛び立ったのに驚いて、横っ飛びに体を捻った。わたしは一瞬の隙に地面にしたたかに叩きつけられた。が起き上がりこぼしの早わざで、一回転で立ち上がった。手綱は掌の中に残っている。馬は前肢を揃えて挙げ、後肢だけで立ち上がろうとした。わたしはその場で二、三歩ひきずられた。背中を強打したせいか、空気の抜けたような咳が出る。馬をなだめ、落ち着いたところでまた飛び乗った。一運動をして下馬すると、赤松くんがニヤニヤ笑いながら報告を待ちかまえていた。
「どうだった? あいつ。」
「あいつじゃなくて、あたしのこと、心配してよネ」
 と、気心の通じあえる者にだけ発する大声で返す。
「おまえは不死身だろう」
「円運動すらできなくなってるよ、あの子」
「やっぱ・・」
「あの子がもとに戻るまで、しばらく会員に出さない方がいいよ」
 十分な時間と愛情が必要だった。馬によってはどんな小さなことでも、アッという間に状態が変わってしまう。口で言えない心の傷の深さを、それを取り巻く人間たちが連帯して気遣ってやらなければならない。でも、騎乗のお礼にニンジンパンを差し出すと、貧相な顔を近づけ、わたしの手から乱暴にむしりとった。その唇の動かし方も実に見苦しい。わたしの心を惹くものは、この馬に対する同情以外何もなかった。この子を好きになって注目してくれる会員が出てくればいいけど・・。馬の運命もいろいろだ。



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