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「ドニエプル」(その4) 川越しゅくこ
「ドニエブル」(その4)は、一番長い9884字の6)の9100字を掲載している。乗馬クラブのメンバーになり4年が経過、20才になったチエは、指導員として働きながら競技者としてもトロヒイが増えて行く中、大好きで特別のドニとの共感を持った会話、ハチミツ入りニンジンパンを毎日ドニに与える生活の中、尊敬する上柳教官と交わす時折の会話、クラブの上客、時代劇女優の笠野友子のドニの扱いを注意し口論をしてしまう。上柳教官の留守中に任された彼の馬、桜王とドニとの争いと色々起きる面白い展開が続き最終章に近づく読ませる物語の展開が続く。写真は、挿絵に使われているドニの写真を借りて貼り付けて置きます。


 ある朝、いつものようにドニとふざけていた。物陰に隠れてひょいと飛び出たとたん、入口のほうに人の影を見た。その細いのっぽのシルエットはまぎれもなく上柳教官だ。わたしの馬鹿げた遊びを見ていたのだろうか。長靴の音がゆっくり近づいてくる。なぜかわたしはうろたえていた。憧れの気持ちを持っているけれど、彼との一対一は苦手。けれども、目の前に現われた彼はいつものリラックスした教官だった。カ―ルした灰色の髪にハンティング帽をのっけ、垂れた目尻に笑いじわを何本も寄せ、唇がほぐれている。真っ白い歯が見えた。六十代か二十代か分からない雰囲気がこの人にある。
「チエ、ちょっとそこで待ってて」
 と声をかけてから、前方の一輪車を押しながら横切っていく馬丁さんを呼び止め、桜王の餌つけの量についてニ、三の質問をした。かれは細かい指示を与え、なんの用かと落ち着かないわたしの方に、剽軽な足どりで、わざと両手をすり合わせたりしながら戻ってきた。わたしはおもわず誘われて、口元がゆるむ。
「すごいなァ、チエの練習量は」
 彼はドニの馬房の鉄柵にもたれ、体をねじってちらっとドニを見た。
「乗り方もいいよ。デリケ―トだし、指示も明解で大胆なところもある。」
「ありがとうございます」 
「ここにくる前、どこかで乗ってた?」
「いいえ」
 前にも誰かにそんなことを聞かれたような気がする
「楽しいかい?」
「はい。この子が」
 と、わたしもドニを見上げた。彼は笑顔のしみこんだ顔でわたしの話を聞くともなく聞いている風だった。
「わたしが乗ると、気を入れかえて、若馬のように動きだすんです」
 彼は黙ってドニの鼻面を撫でていた。その数瞬の沈黙に、わたしの体のどこかがかすかに震えはじめた。
「だけど、あれだよ、:この子は障害が嫌いなんだ。調教してみてそれはわかる。残念ながら競技用としての将来性はないなァ」 
 彼はなぜわたしごとき者に、そんな話しをわざわざしかけてきたんだろう。ただの通りすがりのおしゃべりには思えなかった。
「でも、賢いんだよな、おまえは。初心者をぜったい落とさない。それが役目だと心得てるんだから」
 と、彼はドニに話しかけている。わたしは目立たないていどに首をかしげた。なぜなら、ドニの隠れた才能に関しては、誰よりも一番よく知っているからだ。ドニはわたしが調教すれば、立派な障害馬になれること間違いない。
「ぼくの言いたいことは、チエの持っている並はずれた乗馬のセンスだ。それも障害の。どうだい、オリンピックも夢じゃないよ」わたしは返事の代わりに少し頬をゆるめたかもしれない。
「ずっと、このクラブで続けてくれよ」
 彼の手がわたしの肩を叩いている。わたしはその言葉の真意を計りかねて、曖昧な返事をした。
「ほら、約束だ」
 指をさしだしながら、彼はわたしの目を確かめるように覗きこんだ。
 ひっそりした厩舎内にわたしと上柳教官はドニを真ん中にして見つめあった。もうふざける気分はどこかへ消えていた。

 その日の午後、クラブに着くなりテラスで寛いでいた高石がわたしを呼び止め
「恋人が、放牧場であんたを待ってるよ」
 と例の怒るような口調で言った。うすうす感じてはいたけれど、どうやらドニエプルとわたしの関係は誰の口にも評判になっているらしい。中には、わたしの馬だと思い込んでいる会員もかなりいる。高石の言葉のトゲがわたしの胸にひっかかった。彼の皮肉っぽい口調は、誰に対しても同じなので、なにも気にすることはないのかもしれない。馬を恋人だと言われて一体誰が傷つくというのだろう。誰の口にものぼる可愛らしいふざけ言葉なのに・・。けれどもいま、わたしはなんだかとても傷ついた気分なのだ。
 放牧場には褐色の十数頭が戯れていた。肩をそろえて駈ける三頭、たがいの首を交叉させて、相手の背中に歯をあてているカップル、すっかり元気になってふっくらしたカシュナッツ、隣の馬場では準備運動の調馬策(ちょうばさく)をしてもらっているブラックジョ―、ほかにも同じような体形の馬がたくさん、のんびりと草を食んだり、砂浴びしている。岩の前にひときわゴージャスな白い塊。それは、まさに太陽の光を斜めに受け、青みがかった光を放っていた。わたしは埒(らち)に腰かけ、足をぶらぶらさせながら、それにしばらく見とれていた。他馬とじゃれあう気配はない。一頭だけ離れて草を食む。近づく馬には耳をふせて追っ払う。いつものことだ。ドニはふと顔をねじり、白目の多いへの字型の瞳をゆったりとわたしの方へ向けた。それから立髪のベ―ルをふわふわさせながら斜面をゆっくり下りてきて、わたしの前で止まった。そして、いきなりあいさつがわりに、わたしの口をなめた。ハチミツ入りニンジンパンを一口ちぎって与える。
「ほら、みんなと遊んでおいで、君はねぇ、ウマなんだよ。そのことをお忘れなく」
ドニは頬を膨らませ、激しく首を振り、わたしの顔に唾液とも鼻水ともつかないしぶきをまき散らし抗議の声をあげる。(あんたはね、ニンゲンなんだよ、その事をお忘れなく)、ドニの口がもぐもぐと動く。わたしは暗い目眩を覚えた。首を愛撫して押してやるとしぶしぶ背をむけて離れていく。
「かわいいドニヤン」
 おもわず後姿に声をかける。ドニはのっそり引き返してくる。残りのパンをちぎってやる。すると、まだあるんだろうと言わんばかりに上着のポケットを唇でまさぐるので、危うく埒から落ちそうになって悲鳴をあげた。そんなわたしをチラリと見やって、ドニはあきらめて岩の近くまで行った。そこにきっとたくさんのクロ―バ―を見つけたのだろう。わたしはまた 
「かしこいド―ニャ」
 とそっと呼ぶ。すると、本当にパンをくれるの? と疑わしい目つきでじっとこちらを見ている。無駄骨を折るのはごめんだとばかりのふくれっ面だ。
「なんて子なのよォ、まったく。走ってこれないのかね〜、きみ」
 ドニはパンのかけらを口に含むと、ふらりと離れていく素振りを見せる。が、こんどはどうせまた呼ぶんでしょ?と言わんばかりに二、三歩先で立ち止まり、口元をゆるめてこちらをうかがっている。
「もうないよ、頭は使うが体は使わん。困った子だよ。ほんと」
 (困った子だよ、ドニを手なづけ、特別の執着心をもってしまったあんたは)誰かの声が頭をかすめる。わたしはこれからどうしたものかとふっと溜め息をついた。ドニは股間に太い長いものをピンと垂らしてわたしの顔を見つめている。その時突然、説明のつかない不安がわたしの心をえぐった。

 初めてドニに触れた日から、いつのまにか四年目にさしかかっていた。わたしは二十才、ドニは十四才になっていた。人間の年令にすると中年の働き盛りでもある。そしてわたしも指導員として、競技者としてパワー全開といったところだ。
家に帰るのは毎晩遅かった。それでも母の入れてくれたコーヒーを飲みながら、ひとしきりお喋りした後、犬やネコたちとじゃれあい、お風呂に入った後は二階の自室で、車に積み込んだ記録や走り書きをパソコンのデータに入力する。馬たちの健康状態、どの会員にどの馬が合うかなども、ほとんど把握していた。最後にメールを開くのも日課だった。
「チェ先生。今日は念願のドニエプルに乗れて最高でした。また乗せてくださーい」keiko
「六十才になっての初めての乗馬、安心して乗れました。今度はいつ行けるかもしれませんが、また先生の班に入りたいです。よろしく」Ikeda 
{スピリットは恐かった! 実をいうと、乗るより手入れの方が好きです。馬をいつか持ちたいな。そのためにもうしばらくOLしてお金貯めます kikuko
  毎日、受け持ちの班がいくつかあった。わたしの初心者クラスにはドニも使っていた。ドニはわたしの言葉を聞き分けて忠実に動いた。上手く乗れるなと思える人には、舌鼓を使い分けて、ドニの動きを調整できた。けれども困ったなと思う事も起こりつつあった。それはわたしから別の指導員のクラスに変わると、ドニは突然頑固な重い馬に変わってしまう。それでも、わたしは余り深刻に考えていなかった。毎日、ドニの吐く息を吸っていられる。その満足感の方に心が捉われていたからだ。
会員たちの顔を思い浮かべながらメールを読む。わたしの顔が知らない間にくずれていく。そのまま睡魔に吸い込まれ、パソコンをつけたまま眠っていることもよくあることだ。きっと口元の弛んだまま眠りこけているに違いない。

 亜希ちゃんは、すっかりクラブハウスの主のような顔でおさまっていた。たまにシャワールームで真っ裸のまま並んだ鏡の中の二人に呆気にとられてしまう。彼女は艶のいい茶色い長い髪を軽くアップで止め、顔はシミ一つない美白系で、ぽっちゃりした体型は出るところと引っ込むところがはっきり目立ってきた。キャベツ畑の青年とはうまくいっているらしい。わたしときたら相変わらず男の子のような体型に、真っ黒い髪はいつも首のところで、自分で無造作に切りそろえたままだった。けれども、とわたしは鏡のなかの自分をほほ笑みながらみつめる。日焼けのしみこんだソバカス顔。くっきりした眉毛と、硬そうな長い睫毛。白目は誰よりも瑞々しく澄んでいるし、鼻の頭がいつも艶よく光っているのも悪くはない。口紅などつけなくとも、艶やかなピンク色ではないか。チロルの主人に冷やかされる無意識の0型の脚の仕草についても、なにも気になどしていなかった。

ともあれ指導員の仕事で毎月小遣いが入ってきた。でも、それはドニを買い取るまでにはいたらず、すべて馬具や遠征費用に吸い取られていった。ロビ―の陳列棚に、大障害の公式戦をわたしとブラックジョ―で獲得したトロヒィが増えていく。
 けれども銀の置物はただの置物にすぎなかった。わたしの管轄下でない班に出ているドニは、初心者や観光客の乱暴な手綱さばきに耐えて黙々と働いている。もちろん、他の指導員たちも、馬への愛情ある扱いに気を使っていた。けれども、彼の微妙な心の襞まで読み取ることができない。その姿を見続けるわたしの心は生傷の痛む状態にあった。ドニは中級者の用の障害には向かない、あくまでも初心者用だ、と上柳教官は断言する。それは大きな勘違いというものだ。初心者受けがするからといって、いつまでも彼らの相手をさせられているドニは、虐待されていると言ってもいい。わたしは自分に間違いのないことを確信していた。なぜなら、ドニはわたしに応えてくれるからだ。わたしなら七、八十センチは飛ばせてみせるし、すこしは馬のことを理解できる中級者用に調教できる自信がある。
 それでも、わたしは教官にいつもくっついてなんでも見習おうとしていた。ごく単純な一言や乗馬下馬の仕方まで、なにか意味あるものとして注目していた。なんといっても彼の調教は乗馬界一の定評がある。彼の手にかかれば、それぞれの能力によって適材適所がきちんと見定められているからだ。だからどんな馬でも喜んで障害に向かえるようになる。しかし、傍目には易しく思われても、そうなるまでに彼は大腿骨を折り、つぎには肋骨をやった。何年もの地味で根気強い訓練の継続なのだ。その事を家に遊びにきていた亜希ちゃんは
「馬で死ぬつもりだよ、あの人」なんて、こともなげに言う。      
「だから、あんたたちは出来上がった馬に乗せてもらっているわけね」と母。彼女には、よけいな心配をかけたくなかったから、亜希ちゃんには内緒にしてもらっているが、実はわたしも傷が絶えなかった。たとえば、調教中の新馬に乳房の間を蹴られた蹄鉄(ていてつ)の痕、噛まれたあとの髪に隠れた小さなハゲの事などだ。
わたしとは対照的に、亜希ちゃんの方は相変わらず、のんびりと農家のかれとペガサスで青春を謳歌していた。けれどもわたしも悲惨なことばかりではない。夜の馬場はオレンジ色の照明灯がともって、まるで華麗な舞台だ。わたしは競技用の馬でおもいっきり舞台に舞う。教官の調教した馬に乗っていると、まったく精巧な機械を扱っている喜びがある。
 けれどもなによりも楽しいのは、一日の締めくくりをドニの馬房に立ち寄って、いっしょにパンをほおばることだった。
ドニのことをわざわざわたしに聞く人もいなくなった。わたしは以前ほど無邪気な気分で、ドニの頭の良さや茶目っ気や豊かな感情について語らなくなっていたからだ。

 その日は指導員の早朝練習がすんで月例のミ―ティングがあった。正面のビデオがもう切れていた。全日本総合馬術選手権大会のわたしとブラックジョ―による、大障害飛越優勝のひとこまも流れていたはずだ。華やかな競技場によく調教された何頭もの優駿が、空中に舞い上がり消えていく。いつもなら肩に力が入って画面に向かってなにやら叫んでしまうわたしだったが、その日は映像が切れてもぼんやりしていた。ビデオを見る前に交わした教官上柳とのやりとりが、まだ頭のなかに尾をひいていたからだ。それは、指導員たちがそれぞれの受け持ち会員の出席状態や個々のレベルについて、報告と質疑応答をする時間だった。わたしは受け持ちの女優、笠野友子が乗るだけ乗ってあとの手入れを絶対にやらないことを指摘した。時代劇の必要にせまられてしぶしぶやってきた彼女は、馬への思いやりなどまったくなかった。ある日、彼女は鞍を着けたままドニを馬房にほったらかしにして帰ってしまった。おまけに蹄裏には、かちかちの泥がつまっているし、蹄には油を塗った形跡すらみられない。ドニは見るからに汗でげんなりしていた。相手が年上といえども、馬場ではわたしは彼女の指導員であって、それは黙認するわけにはいかなかった。つぎの日、着替えをすませて馬場に下りてきた彼女に注意した。じぶんの声に不自然な力が加わったのを感じた。真っすぐ向きなおった彼女の顔色がさっと変わり
「あら、商売道具の爪が傷むのよ。」と白く長い指を私の目の前につきつけた。
「なんのための高い料金を払っているのよ、それはあなたのお仕事じゃないの」
 と反論し、わたしは言葉を失った。これがドニでなくて他の馬だったら苦笑いだけですんでいたのかもしれない。おもいがけないことに、彼女はわたしのことをフロントで不満をもらし、それ以来我々は気まずい間柄になっていた。それから数日後、クラブは一人の会員と会費を失った。役者は口コミの小回りのきく結構な客筋だったから、わたしはすっかり気が滅入っていたのだ。それで、今日、わたしの言い分が上柳教官の理解と慰めを得られるものだと信じていた。ところが、彼は「素人に馬の取り扱い方をていねいに教えてやるのが指導員の仕事、そんなことで怒ってちゃ、まだ一人前じゃないよ」
 と、わたしに反省を促したのだ。(それじゃ、ドニのことはどうなの、お客さんのほうが大事だっていうの、あまりじゃない)教官へのわだかまりがくすぶって目が充血してくる。彼が二重になってかすんだ。 
 ふと気づくと、スチ―ルパイプの組み立て椅子がガタガタと鳴り、席を立つ同僚の笑い声や、背中を突く者がいた。わたしは椅子に沈み込んだまま、それらをいっさい遮断した。なにか、しらけた敵愾心に似た炎がわたしを煽りたてている。彼が誰かと話しながら会議室を出ようとしている。わたしは思わず彼を呼び止めていた。声が少しうわずっている。   
「先生、お願いです」
振り向いた彼の方に進んで言った。
「初心者から、ドニを解放してやってください。手綱(たづな)さばきが荒くて口をいためるんです」 振り向いた彼の怪訝な面持ちが、咎めるような表情に変わった。
「初心者は扱い方が乱暴だし、手入れの仕方もこまかいところまで気がつかないんです」 
 同僚の視線がいっせいにわたしの上に集まった。
「わたしが責任を持ちますから」
「チエ、いつか君に言ったことあるだろ。ドニはスピ―ド感に乏しいし障害は嫌がるって。あの子は初心者向けの大事な馬なんだょ」 
わたしは自分の出すぎた行為に胸苦しくなった。四年前、わたしは初心者の一会員にすぎなかった。でもいまは違う。クラブを代表する若手と言われ、それだけの実績は証明してきた。教えた初心者は腕前をあげているではないか。わたしは心から叫んでいるのに、どうしてわかってくれないのか。熱いものが頬にこぼれた。彼はすでに次の用事に気を取られているらしく、背中を向けてドアの把手に手をかけていた。その頭がふと回って、事のついでにといった調子で言った。
「そうそう、最近のドニ、ちょいと重いなァ、久しぶりに肩凝りをほぐしてやってよ」

 翌朝、彼は隣町へ出かける調子の旅慣れた身軽さで、ヨ―ロッパへ馬の買い付けに行った。
 紫色の空、黒い山々。はじめてドニにあたった日の鼻にしみ込む大気の匂いや、長靴(ちょうか)の音、四年たってもわたしの肌はそれをはっきり覚えている。あの日は特別の日だった。 わたしは指をポキポキならし、ドニの馬房にまっすぐ向かう。走るのは大人げないような気がして、何気ない顔つきで足を速めた。 扉を引くわたしの手に、彼は熱い息を吹き掛ける。厩舎の外に曳きだし、顔を寄せあって同じ空気を吸いながら洗い場の方へ連れていく。
「チエ、桜王を出してくれ」
 頭上のテラスから赤松くんのいつもの声。「ハ―イ、しばしお待ちを」
 あわてた鳩が二、三羽、足元からテラスへ舞いあがった。
「大丈夫かョ、相性が悪いからな、きみと桜王は」
 彼はヒヒヒなんて笑って
「なめられんなよ」
 ととどめをさす。このところ、桜王に足を踏まれたり、噛まれたりのさんざんなわたしを笑っているのだ。
「まかしておいてくださいよ」
 わたしはまずドニを洗い場につないでから特別馬房に向かった。わたしの背に、早く戻ってこいと言わんばかりのドニのわざとらしい哀れっぽい声。
「お前は犬かい」
 と、わたしは言い置いて、さっさと特別馬房へ向かった。青毛の桜王は十畳くらいの馬房いっぱいに寛いでいた。九才の艶びかりする皮膚は触ると脂がつきそうだ。競争馬のようなしぼりきった線ではない。どっしりと豊かな体積、均整のとれた丸みのある線にいいしれぬパワ―がみなぎっている。平常の視点からすれば、並みの馬の尻あたりにくるはずの視点が、まだ桜王の背の凹だ。視界にはみだすその馬体は慣れない感覚を引き起こし、かすかな苛立ちさえかきたてる。頬は丸い鉄板をはめたようで、黒茶の瞳には白目の部分がほとんどなく、同色の顔の中に溶け込んでいる。(まるで恐竜だ)もう取り扱いになれているはずなのに、かすかな警戒心だけが骨身にしみついている。さりげなく近づき、鼻面に無口をつけ引き手綱をつけた。その時微妙な反抗にあった。その目はあらぬ方向を見定めていて、急になにかを思い出したように桜王はみずから馬房の外へのっそりと出た。途中、ふと立ち止まって考え事をするかと思えばさっさと歩く。背筋に一本のミミズが走った。手綱を曳く主導権はいま逆転していた。さて、これからどこへいって、どんな悪戯をしてやろうかといった薄気味悪い活気をみなぎらせ、あたりを睥睨(へいげい)しているではないか。桜王は、突然頭をふりあげた。わたしの手から邪険に引き手綱を振り切った。目の前に?型の太い尻尾、その付け根に固く締まった肛門が高々とある。彼はのったりと腰を揺すって洗い場に折れる。なんと、目のすみでチラチラと背後のわたしを窺っているではないか。どんな馬にも見たことのない不敵な面構え。脚がすくむ。あろうことか桜王は盛り上がった肩を揺すり、首を下げ、上目づかいにドニの方に向かっていく。わたしは叫び声をあげた。
「ドニが危ない、つかまえて!」
 二百メ―トルほど先の第一馬場で、同僚たちが馬を止め、事の成り行きを窺っている。その間にも、桜王はドニに鼻息荒く近づいていく。険悪な気配にドニはすさまじい蹄鉄の肘鉄砲を食らわせた。が、その前に桜王はのっそりと、しかし絶妙のタイミングで体をかわしたのだ。的をはずしたドニの蹄鉄が後ろの馬房に命中し破壊的な音をたてた。しかし、桜王はそんな騒ぎを物ともせず、耳を倒し目を吊り上げて近づいていく。二頭のかもしだす異様な空気に、わたしはすっかり度を失っていた。ドニを守らなければ、・・。頭のなかにはそれしかなかった。気がつくとわたしの拳が桜王の頬を殴りつけていた。桜王はわたしを睨みすえ、ゾッとする声を噴射した。馬特有の甲高いいななきではない。
「だれか!」
 洗い場の不穏な空気が、馬房の中にいる他の馬たちにも伝わった。馬たちは肌を震わせ、右往左往し床を烈しく叩きはじめた。ドニは歯を剥き出し、盛んに桜王に後肢を振りあげる。 赤松くんが近くにいた馬丁さんをともなってやってきた。その間、わたしは桜王の引き手綱に取りすがり、ドニから五センチでも十センチでも引き離そうとする。びくともしない。それどころか頭を激しく打ち振って、わたしを足元になぎ倒した。ころがった瞬間、とっさに身を縮め歯を食いしばった。衝撃は、ない。桜王は、邪魔だあっちへ行け、とばかりに蹄の先でわたしを押した。まさにそれは脇へやるという動作だった。それでも蹄鉄のあたった背中にしびれが走る。Tシャツが見事に裂けた。赤松くんたちが穏やかな表情でやってきた。これ以上人間が騒ぎたてると、より険悪な結果を生むことくらい百も承知している。それにしても彼らの足はなんてのろいんだ。
 馬丁さんがドニを宥めている間、赤松くんはなんでもなかったように桜王に甘い声をかけた。人を見たのか、ふと正気に戻ったのか、馬は一瞬穏やかな気配につられて力を抜く。引き手綱は赤松くんの手の中にあった。わたしときたら、ただなさけない状態でおろおろするばかりだった。彼はジャケットを脱いでわたしの背中に投げた。
「さすがのチエも、桜王はまだ無理だな。ドニを扱うようにはいかないんだぜ」
ようやく気を取りなおした時、桜王とドニはそれぞれ離れて洗い場につながれていた。彼は桜王に笑いかけながら慣れた手つきで鞍を置く。その腕の太さを見ていると、こんな事態に幾度も立ち合ったことのある男のごく自然に身につけた自信があった。数分間の狂暴な騒ぎが嘘のように、静かな朝が戻っていた。わたしも赤松君のジャケットを羽織り、痛みをこらえてドニに鞍を乗せ、馬場の中央に曳いていった。鐙(あぶみ)にかけた足が萎え震えが止まらない。久しぶりにドニに心ゆくまで乗れるというのに、人も馬も気持ちはバラバラで集中力に欠けていた。 
 その日はドニをはやめに馬房へ帰し、ハチミツ入りニンジンパンを与えた。ドニはすぐに横になった。わたしはそのままドニの腹のなかで丸くなって眠った。



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