HOME  HOME ExpoBrazil - Agaricus, herbs, propolis for health and beauty.  Nikkeybrasil  編集委員会  寄稿集目次  寄稿集目次  通信欄  通信欄  写真集  リンク集  準会員申込  em portugues




「ドニエプル」(その5)川越しゅくこ
楽しみに読みながら掲載して来た「ドニエープル」も最終回(その5)に来てしまいました。上柳教官不在中にドニが得意としない障害70センチが上手くクリアできるのを確認、80センチの平行バーをtryしようとしての事故で愛馬を死なしてしまう悲劇、その後関西に移り10年後にドニとそっくりの馬との再会、上手い話の運びに魅了される。馬との繋がりを上手く描く筆力に感動する。写真は、ドニそっくりの大事に飼われている白馬を見て「おうまちゃん、くさ―い」と云うチエの3歳の娘の後にあった挿絵を使わせて貰いました。また、しゅくこさんご自身の後書きを今回送って頂いたのでコメント集に収録して置きます。


7) 翌日から、クラブには初めて三日間休んでしまった。しめやかな雨の音が打っている。しつけの悪い犬や猫どもの、体にまとわりつくのを疎ましく感じる。部屋を締め切って彼らを追い出し、ベットで一人窓の外を眺めていた。わたしのドニはどうしているだろうか。誰か出して運動させてやっているだろうか。三日もパンを与えないで、きっとしょんぼりしているに違いない。ふと、上柳の帰国が明日という事実が不吉な予兆のように広がっていく。わたしはじっと外を見つめていた。もう雨は見ていなかった。うなりながら体を起こす。どうせまた、肋骨のどこかが折れているのだろう。丸首セ―タ―に腕をとおし、ジ―ンズとブ―ツで飛び出した。とちゅうハチミツ入りニンジンパンに小遣いのぜんぶをはたいた。
 馬場につくと、天空から乳濁色の靄(もや)が、湿った砂のすぐ上まで降りている。そのところどころにぬかるみが鈍く光っていた。
 第二馬場では、長靴までとどく丈長のカッパ姿で、同僚が数名の会員たちを教えていた。砂はふっくらと丸みを増して、馬たちの蹄をやさしく包む。けれども跳ね上がった泥が下腹にセメント状に張りついている。どの馬のまわりにも湯気がたっていた。厩舎の匂いを吸うと元気がでた。
 B厩舎に入っていくと、遠くの暗がりに白い馬。際立った黒い瞳が高くこちらを見つめている。たった三日のブランクなのにやつれてみえる。近づくにつれ、甘えた鼻声を出している。脚なんか踏みならして。バカなやつ。彼はハチミツ入りニンジンパンをたちまちたいらげてしまった。なかに入ってボロを手の平のなかで崩してみると、かすかすしている。馬丁さんが通りがかった。
「チエちゃんがこないと元気がなくてね、飼い葉がちっとも減らないんだ。まったく、なんだい、この変わり身の速さは」
 とあきれながら一輪車を押していった。ひとしきり遊んでから喫茶室への階段をはいのぼる。熱いココアで悪寒を吹き飛ばそう。それから乗れば、たいていのことは快復するのだ。いつだってそうしてきた。階段の途中、足を滑らして向こう脛を打った。これで意識がやっと目覚めた。ちょっとした快感だ。
「三日ぶりね、背中だいじょうぶ」
 カウンタ―の奥から亜希ちゃんが声をかけた。
「なんとかね、ありがとう電話。ペガサス、元気?」
「いつもどおり、こちらはマイペ―スよ。今日はドニを出してやれそう?」
 彼女は、ミ―ティングでの一部始終をわたしから聞いて知っていた。
「うん。無理して出てきた」
「蒼い顔して、大丈夫?」
「こいつがやったんだ」
 わたしはしゃがれ声で、壁の大きな絵を指す。そして二人でクスクスと笑った。額のなかには、輪郭のぼやけたヨ―ロッパの観衆を背景に、色彩豊かな障害に舞う桜王の横顔。その目がわたしを睨んだ気がしてドキッとする。湯気の熱いココアが少しづつお腹をあっためる。
「チエ、気になることがあるのよ」
 目だけ上げたわたしに
「前にもいつか言ったことあるけどさ、あんたのド二への執着、ほどほどにね、ちょっと危ないものがあるよ」
「うん、自分の馬ならともかくね」
 わたしは、言われる前に先手を打った。亜希ちゃんの瞳の中に、あからさまな非難の色があった。
「分かってんのかね、本当に」
「ドニをいい加減に扱われるとわたしは我慢ができないんだ」
 そう言ったとたん、ふいにこみあげてきて、わたしは亜希ちゃんに気づかれないように顔をそらせた。
「正気じゃなくなるんだもん、あんたは」
 彼女はそっと視線をはずしてため息をついた。
 わたしは亜希ちゃんとあとでお昼を食べる約束をしてロッカ―へ行った。指導員用のカッパを着ける。ボタンをかけるのに、妙に神経が昂ぶって手間どった。選定所の窓口に顔を出し
「ドニを出します。あの子の運動を教官に頼まれてるのよ」
 と係員に早口で言った。
 霧雨のなかを、ドニは尻尾を悠々と振ってついてきた。ドニは雨が好きなのだ。
 馬場の中央に連れていき、ひとっ飛びでまたがる。口からハミ、ハミから手綱、手綱から指、その微妙に引き合う力関係で、わたしたちは無言の会話を交わす。長い首はゆったり前方にくつろぎ、その耳は絶えずわたしの方に注意を払い、機嫌のいい規則正しい歩様をとる。わたしの腰はこの白い凹にぴったりはまるように神様に創られたのだ。ドニはこの三日の埋め合わせをするように、かつてなく能弁に喜びを伝達してくる。
 第三馬場で練習を終えた連中が、靄の奥から現われ、それぞれの馬に寄りそって静かに側を通りすぎていく。そして足音もなく消えていった。
 人馬が一体となった時、馬は何を思うだろう。わたしは四本脚をもったケンタウロス。心地良い軽さに目眩を感じる。広い馬場を何周かしているうちに、中央の障害を中心に回っている錯覚に陥っていく。ぬかるみの少ない位置に高さ七十センチの垂直バ―。バ―はわたしの心を捉えている。ドニの首を愛撫して
「行ってみるか」
 と声をかけた。ゆっくり速歩で向ける。ドニは独特の省エネタイプの飛び方で難なく飛ぶ。
「ほ―ら、できた」
 上柳教官の不在が残念に思えるほどだ。もう一つの障害へ押し進める気はない。けれども七十センチを三回こなしてみて、隣の平行バ―が目につきはじめた。ほんの十センチ高い八十センチ。平行バ―の幅、一・二メ―トル。ドニは障害の前でピタッと前肢を突っ張った。頑強な拒否だ。わたしはがっかりしたというより、正直なところほっとした。
「ほんの十センチの差だよ。もう一回だけ行ってみよう。駄目ならもともとだから」
 ドニは障害の手前三メ―トルまで行って脇へ逃れようと体を捻った。が、その前に、わたしの脚力は推進を命じていた。お前ならできるのよ。行ってごらん。ドニは急に意を決して、わたしの指示に応えようとする。まったく不自然な助走だった。馬体が突然重くなって斜め向きの体勢のまま、ぎこちなく前肢を浮かす。止めようと思った時はもう遅かった。馬体が大きく前方へよろめき、前肢がバ―にぶつかった。カ―ンと音がした。支柱の止め金から二本のバ―がはずれる。四肢がからんでもつれた。わたしは滑り台の上からまっさかさまに落とされていくようだった。馬は平行バ―の間へ崩れ、わたしは前方へ投げ出された。その時、ドニの片方の蹄鉄がわたしの太腿の上にきた。それは一瞬の間、ためらい、さまよい、そして踏むのを避けて脇へそれた。その不自然の一瞬に馬の脚がねじれて地面がとどろいた。
 横には小山ほどの白い塊がころがっている。大きく見開いた瞳と、半開きの口に霧雨が降り注いでいる。宙を泳ぐ肢が深紅に染まっていく。わたしは慌てて起き上がり、ドニの横腹を蹴って気合いを入れた。自分の顔がひび割れをおこしたように感じた。ドニは二、三度反動をつけ、咳に似た声を発して起き上がる。最初の一歩を注意して見ていると、傷はバ―に当てたものではなく、いずれかの蹄鉄が右前肢の内側を激打して起きたらしい。早く獣医を! 顔をあげると、赤松くんと同僚の指導員たちがこっちの方へ走ってくるところだった。だれかが、馬場に一番近い馬房から一頭を曳きだし、そこへドニを収容する手配にかかっていた。一人が馬運車をスタ―トさせ、たちまちドニの側へ横付けした。
「チエ、いったいどういうつもりなんだよ、先生のいない間にえらいことしちゃって」
 赤松くんは蒼ざめた顔で手綱を取り、気づかいながら、ドニを踏み板へ導いていく。ドニは左足にかかる体重の負担に耐えきれず、ひどいびっこをひいている。彼はふと止まり、への字の瞳でじっとわたしを見つめた。それから首を大きく振り、足の痛みをかばいながら踏み板を登っていった。戸が閉められ馬運車は慎重に動きだした。 
 突然、雨脚が激しくなった。雨の幕がドニとわたしの間に下りた。わたしはそれを押しのけようとする。けれども脚がもつれて、その場に座り込んでしまった。肩から背中へこまかい悪寒が走り続け、それがこめかみから唇まで押し寄せてくる。わたしはそれを止めようと、凍った十本の指で頬をつかみ爪をたてる。
 しばらくして、空白の時が訪れた。倒れた障害の側に、緋色の細かい生き物がピチピチ跳ねている。そこからドニの体臭が生温かくたちこめてわたしを包んでいた。

8)「遺体安置所を知りませんか」
 どこか荒涼とした冬の土地。会う人ごとに訊いてみる。といっても、そんな場所に行ったこともなければ、見たこともなかった。
ある日、荒れ果てた林のなかの祠(ほこら)の前にきた。馬頭観音と消えかかった古い文字が横にあった。
傘をさすように、その上に大木がそびえている。その根元の洞穴に導かれるように身をかがめて入っていくと、まもなく広い空間に遺体安置所に着く確信があった。黴臭い湿った匂いがこもり、気味悪い多足虫が壁をつたっていた。高さニメートルくらいの、床を支える太い柱があちこちで朽ちかけている。幅五メートルくらいの床下を恐る恐る奥へ進むと、なにかの動物の息遺いが空気を伝わってくる。行く手はどこかの村祭りのように、裸電球がぶらさがっている。その下に円陣を組んでいるのは、十数頭の黒馬だ。それぞれが、忙しげな動作をとめどなく繰り返している。わたしはふさがった行く手をよけながらその側を通りかかる。馬たちは円の中央に無造作に積み重ねた湯気のたつ布団を、前肢を高く振りあげて懸命に叩いているのだ。たおやかだが、力溢れる仕草のなかに蒸気が立ちこめ、サウナに入っているようだ。
さながら餅つきの情景だが、空気はそんな愉しいものではない。彼らはわたしに無関心で働いている。白い馬はいったいどこにいったのか。汗が下着と肌の間にネトネトとつたわっていく。道幅がもっと狭くなり、行く手は突き当たりだった。ロウソクのいっぱい灯った、天井の低い洞窟にも見える。いつの間にかさっきの蒸気は払われてしまい、しんとした中、正面に天井まで届く苔むした馬頭観世音像があった。それはどこかで見たことのある像だ。そしてその足元に青白い雪の塊が! 王のように静かに横たわり、顔だけこちらに向けている。黒い大きいへの字。
「ドニ!」
 次の瞬間、わたしの脚はなにかに絡まって倒された。手をのばすと触れそうなその塊はたちまち泡になって、じょじょに地面に吸い込まれ、ついに消えてしまった。ドニの座っていた輪郭だけがシミとなって残っている。そのシミも、やがてじわじわと地面に吸い取られ、もうなにも残っていなかった。呆気にとられて見ていると、次の瞬間、地面がかすかに動き、なにかが滲みでてきた。はっきりとしたへの字型の目だった。それは、独立した生きもので、生命力を帯びていて、わたしの心を容赦なく掴み、力強く喜びを伝えてくるのだった。
 同じ苦しい夢が毎晩現われた。

ある夜、チロルから帰ってくると、店の前で母が待ち構えていた。
「亜希ちゃんが来ていたよ」
「亜希ちゃんが?」
「しばらく話しこんでいったわ」
 亜紀ちゃんにはクラブをやめたことは言ってあった。
わたしは、あたらしい職場のチロルで働いて得たわずかな給料をクラブに振込んでいた。
「なにか言ってた?」
「さあ、あしたもう一度くるって、なんでも上柳先生の伝言で『ずっと前にチエと約束したことがあるけれど、どうなってるのかそれを伝えてくれ』って言われたんですって」
「約束?」
 母はそれ以上、本当に分からないらしく首を傾げた。彼は忘れていなかった。ドニの馬房の前で交わした初めての会話を。あのときの言葉を覚えていたことが意外だった。だからといって、上柳があれほど言った言葉、「ドニは中級者の障害にはむいていない。初心者用の看板馬である」を無視して上柳の留守にもう一段高い障害を強行してドニを死なせてしまった、そんなわたしを許しているとは考えられない。事の一部始終を話したとき彼の顔色がさっと変わった。見たこともない険しい表情だった。オーレ牧場乗馬クラブに戻ってもう一度馬に乗る資格も、ドニエプルのいない馬房を見る勇気もないことは承知の上だ。いつかあの女優の笠野友子に向けた怒りは、本当は自分に向けられなければならない。彼女よりずっと下劣な自分自身に。亜希ちゃんは時がすべてを解決してくれるなんて言ったそうだ。彼女はほんとうにそんな事信じているのだろうか。悪夢と一緒に一生暮らしている方がどれだけ楽だろう。  
 母は亜希ちゃんの話しで、なにか思い出し笑いをしながらまだ喋っている。わたしが黙りこくっていると母の口調も下降線をたどって消えた。ソフアで寝そべっていた犬たちが度の過ぎた歓迎ぶりで飛びついてくる。期待をはぐらかされた彼らは、階段を登るわたしの後ろ姿を未練がましく見上げている。
 二階の自室をあけると、ベットの真ん中に年寄の三毛が歯を剥出し、腹をみせていた。一瞬ゾッとしてそれをみつめた。抱き上げると偽りの死体は小さな声で文句を言う。その腹に鼻を埋めてみた。それはドニのものとは似ても似つかぬ頼りがいのないものだ。わたしは窓に走っていった。苦いものが胃のなかから噴き出した。

9) それから十年近くたった。馬はあれ以来触っていない。わたしは結婚して、夫の転勤で関西へ移っていた。阪急電車の仁川駅から川べりにそって数分の社宅生活を始めた。三歳の娘が一人いた。近くに競馬場のあることは知っていたが、馬は見たいと思わなかった。競馬場に群がる人々が、どうして馬を触らずして心騒ぐことなどできるのか、わたしには理解できない。
 ある日、川沿いを娘と散歩していると、愛馬の日、十月十日、というポスタ―が目についた。そういえば、子供連れの行楽客が駅前からたくさん一定の方向に流れている。暑い日差しの中、娘はわたしの手を強く引っ張って、その群れの方に促した。そちらに向かえば、なにか面白いことがあると察したのだろう。あるいは、お菓子やおもちゃを買ってもらえる直感が働いたのかもしれない。娘は、驚くほど強い力でぐんぐんわたしを引っ張っていく。わたしの気持ちは重かった。引き返そうと思えば引き返せたはずだ。けれども、ついつい足を向けていた。どこか自虐的な気分がそうさせていた。正面玄関への広い立橋にきた時、風のなかにまぎれもないあの懐かしい匂いがした。初めて入る競馬場は、ちょうど子供向けのアトラクションの最中だった。多勢の家族連れで賑わっている。前方に賑やかな人だかりがして、シャン、シャン、シャン、と鈴の音がする。娘はピョンピョン飛び跳ね、そのたびに赤い小さいバッグが回った。わたしは目を凝らした。そして顔がみるみる強ばっていくのを感じた。
前方に現われた真っ白い馬、それはまぎれもなくドニではないか! くっきりした漆黒のへの字型の目、その目頭に二本の皺、あまりにも似すぎている。金銀造りの鞍に五色の布を下げ、首にはたくさんの鈴をつけて、ゆっくりやってくる。それにつれて、人だかりも動いてきた。馬を曳いていた人の良さそうな陽に灼けた男が、わたしたちの前まできて止まった。馬は促されて器用な足さばきで踊り始めた。巨体が揺れるたびに軽やかな鈴の音が鳴る。見物人の歓声と拍手が終わったとき
「お嬢ちゃん撫でてごらん。恐くないから」 と、男はにこにこしながら娘に声をかけた。娘はわたしの脚にしがみつき
「おうまちゃん、くさ―い」
 と顔を背けた。男は馬の首を優しく撫でながら声をたてて笑った。馬はわたしの方に顔を差し出し、撫でてくれと言わんばかりに首を上下に振った。わたしは手が出せないでいた。その物怖じしないおっとりした馬の顔を、ただ見つめているだけで十分だった。目の前にいるのは、ドニの生まれ変わりではあるまいか。その物腰は、この馬がどんなに飼い主に大切にされているかをまざまざとわたしに示していた。
(ありがとう、ありがとう 大事にしてくれて)声にはならなかった。三度目にはっきりと男に言った。「ありがとう」彼はわたしの言葉の意味はわからなかっただろう。いや、声が届いたかどうかさえ定かではない。馬はこの男に愛されている。それだけで十分だった。その姿は、長い間、胸の中に棲んでいたひんやりした影を追い払い、温かいものをわたしのなかに送ってきた。
 わたしは娘を抱きあげた。娘は半ばはしゃぎながら、手を伸ばしてちょっと白馬の鼻づらを触った。そして、わたしの胸の中でころころと笑った。
             完

(コメント集)
しゅくこ:和田さ〜ん & みなさまへ 「ドニエプル」の終わりにあたって、なにか後書きらしきもの、ということで、・・・。まずは掲載をありがとうございました。
じつは昔々書いたものを、このコロナの時代にもういちど掘りおこすことになるとは、夢にも思っていませんでした。
マツエさんや村松さんからよく「農大」という言葉がでてくるうちに、あの周辺にあったパン工場や馬事公苑のことなどがよみがえり、その辺のことをヒントにして20年位前に物語「ドニエプル」が生まれたことも思い出しました。
舞台は山梨県にしましたが、パン工場はチロルという名前でかなりのスペースを与えて登場させました。
最近、芦屋川の近くに住んでいる13才の孫娘リンがコロナで退屈しているからといって、わたしが書いたものを読んだ、ととつぜん言われて驚きました。その中に若者向けと想っていたひとつ「ドニエプル」は彼女のお気に入りではなかったことが意外でした。
リンの一言から始まってその書き込みを目にされた馬好きの東海林さんが、読みたいとおっしゃってくださり、話しはつながっていき今回の展開となったのでした。
おもえば、このコロナ禍の時代、3月には18年間一緒だった猫のシロが亡くなり、英語やポ語関係のグループの3つがほぼ解散状態になり、いつ再開するかまだめどがたっていません。
その上、リンたちも昨日、東京の世田谷に帰っていきました。父親の関西転勤が終わったからです。世田谷は新宿についで二番目にコロナ感染者が多いところだと聞いています。
体温を分かち合ういつものハグもなく、もう会うことも少なくなるまま引っ越していきました。
「悲しい」より「寂しい」の方が心が痛むものなんですね。
気持ちがダウンしているそんなとき、こんな思いがけない面白い出来事も生まれたりするから、人生まだまだ捨てたもんではない、・・なんていったらおおげさでしょうか。
昔の物語が単なる古い昔話だったとレッテルを張られてお蔵入りするのではなく、今にもつながっていくという不思議な偶然。今回はペットにするにはなじみの薄い存在の「馬」というものを、少しは味わっていただければ嬉しいとおもいました。これをひらって下さった東海林さん、和田さんに感謝しつつ、 みなさまのご健康をお祈りもうしあげます。muito obrigada.

和田:しゅくこさん 後書き有難う。これで思い残すことなく終了できます。今日中に最終回をホームページにUPします。短いコメントならまだスペースが残っているのでコメント集に収録することにします。日本の秋は、花咲爺の会の花談義に収録させて貰いました。

村松:しゅくこ-さん、馬のことはよく知らないというか無知ですがこの作品を拝読して、馬を知る事で何だか馬が人に見えてきますね、少しですが馬を知ることができ素晴らしい作品に感謝いたします。
 1960年入学時この馬事公苑の桜並木の入り口から右手には農大の農場か広がり、農学部の近藤教授の研究室があり温室の中で育種の研究がなされていました、その隣に我々農業拓殖学科の圃場があった、この中に栗田研究室の区画がありそこで私は「食用カンナ」の栽培試験をしていた、この植物は通常は花の鑑賞を目的ですが、球根が里芋のように多量に収穫でき世界の飢餓を救えるのではと、これは我々農拓殖学科の使命である海外の発展途上国へ移住した後、その地域の農民と共存共栄を目指すために、まず充分な量の食料増産と換金作物を取り入れ、地域を豊かにするための各種作物友好な作物を目指していた、たしかに馬事公苑からの馬の嗎が畑まで聞こえてきた記憶がある。
 1964年アメリカから1ヵ年の農業実習を終えて帰国し4年生に復学した時、この馬事公苑に隣接していた農場の殆どは住宅地と化していた、そしてその販売代金で大学は厚木に広大な面積の山林を購入していた、我々の必修科目の農業実習はこの厚木の林を切り開き、道路を作る重労働に幾度も駆り出された、厚木までの往復にマラソン大会を決行したり若気の至りで馬鹿なことをしていた。一方東京では左翼系の学生運動が安保反対で騒いでいた、彼らは農大にまで手を広げようとやってきたが、右派の農大は応援団が先頭に立ち相撲部、柔道部、空手部、剣道部が正門や裏門で待ち構え、その輩分子達をボコボコに痛めつけ力で叩き返した、そのため農大は学生運動には無縁な大学となっていた。
 農大の創設者が「榎本武揚」であった為皇室とも縁があり、当時近藤育種研教授は皇居で昭和天皇の稲作やその他農作物の指導に当たっていた、現在も秋篠宮文仁親王も研究室に出入りしており現在は農大の特別講師を勤めて居られる。馬事公苑の名前が出た為に懐かしさの余り一筆記してみました。その馬事公苑の入り口には「食と農の博物館」が出来ており、農業・食品に関するあらゆる展示がなされている、醸造科卒業生の全国OB/OGの酒、ワイン展示や食品化学卒業生の加工食品会社の食品展示、海外在住OBから紹介の食品(アセロラの30倍のB -C、カムカムは珍しい)がずらりと並んでいる、また販売もされている、国内外の皆さんにも是非一度「馬事公苑」とこの「食と農の博物館」入場無料を訪れてみて頂きたい。  

マツエ:しゅくこさん  皆さん 楽しいお話、ありがとうございました、久しぶりに真剣に読ませていただきました。
私の感覚とは全く違う女性の視点で書かれていてとても新鮮で、楽しかったです。
私の場合、馬と言えば、出会いは、お話の最後に出てきた宝塚、仁川駅から歩いて5分の馬事公苑でした。(要するに阪神競馬場です)
そんな当時ことを少し書かせていただきます。
たしか中学の頃だったと思います。当時はシンザン(神賛)という偉い馬が走っていました。
私の父家系が、勝負事の鬼集団のような系譜だったこともありまして。馬とは、実際に手に触れなくても、お金の世界での厳しい交流になっていました。
父の兄は、祖父から預かった田んぼ畑を金に換えて一生博打(競輪競馬ボート)で、大半の土地を売ってしまったようです。父には相続(旧憲法)するものが何もなかった。
そんな中学頃の話。
父の姉は、明石のお風呂屋さんに嫁いだそうですが勝負事が好きで好きで、稼業も家族も放り出して、鉄火場出入りなのか、競馬場通いなのか、両方で一生を過ごした人だったようです。
中学の頃のある日、学校から帰ったら、いつも父が寝ている場所に、何か得体のしれないおばさんが横たわっていました。
そんな表現しかできない感じで。
母に 「なんやねん あのおばはん」 と聞いたら「お前の伯母さんや お父ちゃんの姉さんや」というので、アッ と驚きました。
「誰も面倒見てくれへんから、お父さんを頼ってきたらしいわ 病気らしいから、お父ちゃんが ちょっとの間面倒見てやってくれ 言うてたわ」という感じでした。、
それからしばらく,そのおばさんはうちで休んでいたようです。何回か父が、兄弟姉妹と話していたようですが、結局、誰も面倒を見ない、ということで、うちでゴロゴロしていたようです。
兄弟姉妹で話して、と言っても、毎回大声で怒鳴り合いでもの凄いマツエ一家でした。、
2週間たったくらいでしたか、突然伯母が 「具合が悪い」 と言い出したので病院に連れて行ったら、あっという間に死んでしまって。とうとう明石の家族は誰も来なかったようです。
誰にも何も言わなかったようですが、末期のガンだったようです。
何を感じたのか、誰も面倒見なかった姉のことを、兄弟姉妹葬式で、皆泣いていました。
それを見ながら、父が一言「それみー ようわかったやろ お前ら」 父の思いの一言だったようです。 
未だに、あの出来事は何だったのか、と思っています。
しゅくこさんの ドニエプル を読みながらそんな昔のことを思い出していました。
私は、競馬の方の話になってしまいますが。
しゅくこさん、これからも もっと書いてください。期待しています。 




アクセス数 7560725 Copyright 2002-2004 私たちの40年!! All rights reserved
Desenvolvido e mantido por AbraOn.
pagina gerada em 0.0136 segundos.